平日の午後。
とある市営体育館。
幼児体操教室のような、(たぶん)参加費無料の定期的な催しがある。
小さな、幼稚園に行く前後ぐらいの子ども達と、保護者でごった返している。
子どもの体育系の、お遊びテイストの運動を、体育教師みたいな若い人が、広い体育館で指導している。
それを体育館の観客席?応援席?みたいなところで、保護者が見守る。
子ども達が、運動を日常生活の中に自然に取り入れられたらいいと思う。
と、それはいいとして・・・
平日の午後1時、・・・・保護者たちは、仕事はないのか?
休みをとってまで、わざわざ?
それとも、育児休業中?
あるいは、無職ママ?
まあ、なんでもいいのだが。
子どもの元気な声とは別に、ママたちの元気?な声。
高い大きな声。大勢になると、そうとうな音量になる、
共通の会話は、子ども。
子どものことだけで、つながっている。
帰りに、お茶に寄るママ友・親子達も、いそうだ。
が・・・、子ども達の、運動機能や、成長に一喜一憂。
他の子どもとの比較もあるだろう。
おそらく、子どものことしか見えてない、という、熱の入れようのママもちらほら。
ほんとうに、ごくろうさん、である。
一生懸命、子どもを育てることは、いい。
ネグレクトより、ずっといい。
が、大変だ・・・・・。子どもを頑張らせるママ達。
やさしい、時には怖い、飴と鞭を持った調教師のいる動物園が、わたしの脳の別のスクリーンに映った。
わたしにも、ああいう時期はあったのだが、
子どもが小学校に入って、親がべったりついていかなくなると、
やがて、ママ友たちとのお付き合いも、自然解散。
仕事に出る人が多くなることだろう。
収入を得るための活動をしない人もいるだろう。
能力開発など、本来、子どものためにやっていることが、他の子どもとの比較することによって、
優越感や劣等感を感じることも少なくない。
それは、自分を軸にしていない、そして、自分の子どもを軸にしていない。
他人との比較に振り回されることに、終始している。
子どもを圧迫したり、追い詰めたり、
せっかく発育にプラスになる良いことをしているのに、考え方ひとつで、マイナスにも転じる。
子どもは、自分の分身ではなく、別個の人格を持っている。
自分の思い通りにしてよい、というものではないと思う。(あくまでも、個人的見解であるが)
子どもの出来、不出来は、親の出来、不出来ではない。(身体能力や学力の場合)
常識の習得や価値観は、親の生き様や、習慣、躾、教育に大きく左右されるだろうけれど、
「子どもの能力」は、親の力を判定するものではない。
あの、大勢の子ども達や、ママたちに呑まれて、渦に巻き込まれ、
本来の目的を見失ってほしくないなあ、と感じた。
闘鶏のシャモに競わせるかのごとく、親のプライドを満たすために、子どもを操ってはいけない。
イマドキの親は、わたしとは世代が違うので、考え方も大いに違うだろうけれど。
ママたちの、各自それぞれの、自分の子供に対する掛け声や、振る舞いを見ていると、
なんだか、社会に対して自己表現の出口がない人が、
子どもを使って自分を表現しているような気がしてしまうのは、わたしが、そうとうヒネくれているからだろうか。
自分の子供を応援したいのは親として当たり前であり、
少しでも子どもに良かれと思い、頑張っているのかも知れないのに。
しかしながら、もしわたしなら、自分を見失ってしまいそうな、あの熱狂的なママと子どもの集団に、いささか慄いた。
今は、もう干物時期にさしかかっているわたしだが、
子育て時代は、子どものエネルギーをどう扱い、導いてきたのだろう。
自分の成長と、子どもの成長が同時進行で、混乱して、めちゃめちゃ、ぐちゃぐちゃになっていたと思われる。
にもかかわらず、
ずいぶん前に終わってしまって、ああ、よかったと安堵のため息である。
子どもは、今は、ママとなり、自分の子ども達と闘っている。
ごくろうさま。
どんどん、子どもエネルギーに巻き込まれていくことだろう。