蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

子どもエネルギー熱風、あちちち

2015-09-05 | 子育て

平日の午後。
とある市営体育館。
幼児体操教室のような、(たぶん)参加費無料の定期的な催しがある。

小さな、幼稚園に行く前後ぐらいの子ども達と、保護者でごった返している。
子どもの体育系の、お遊びテイストの運動を、体育教師みたいな若い人が、広い体育館で指導している。
それを体育館の観客席?応援席?みたいなところで、保護者が見守る。

子ども達が、運動を日常生活の中に自然に取り入れられたらいいと思う。
と、それはいいとして・・・
平日の午後1時、・・・・保護者たちは、仕事はないのか?
休みをとってまで、わざわざ?
それとも、育児休業中?
あるいは、無職ママ?

まあ、なんでもいいのだが。
子どもの元気な声とは別に、ママたちの元気?な声。
高い大きな声。大勢になると、そうとうな音量になる、
共通の会話は、子ども。
子どものことだけで、つながっている。

帰りに、お茶に寄るママ友・親子達も、いそうだ。
が・・・、子ども達の、運動機能や、成長に一喜一憂。
他の子どもとの比較もあるだろう。
おそらく、子どものことしか見えてない、という、熱の入れようのママもちらほら。
ほんとうに、ごくろうさん、である。

一生懸命、子どもを育てることは、いい。
ネグレクトより、ずっといい。
が、大変だ・・・・・。子どもを頑張らせるママ達。
やさしい、時には怖い、飴と鞭を持った調教師のいる動物園が、わたしの脳の別のスクリーンに映った。

わたしにも、ああいう時期はあったのだが、
子どもが小学校に入って、親がべったりついていかなくなると、
やがて、ママ友たちとのお付き合いも、自然解散。
仕事に出る人が多くなることだろう。
収入を得るための活動をしない人もいるだろう。


能力開発など、本来、子どものためにやっていることが、他の子どもとの比較することによって、
優越感や劣等感を感じることも少なくない。
それは、自分を軸にしていない、そして、自分の子どもを軸にしていない。
他人との比較に振り回されることに、終始している。
子どもを圧迫したり、追い詰めたり、
せっかく発育にプラスになる良いことをしているのに、考え方ひとつで、マイナスにも転じる。

子どもは、自分の分身ではなく、別個の人格を持っている。
自分の思い通りにしてよい、というものではないと思う。(あくまでも、個人的見解であるが)
子どもの出来、不出来は、親の出来、不出来ではない。(身体能力や学力の場合)
常識の習得や価値観は、親の生き様や、習慣、躾、教育に大きく左右されるだろうけれど、
「子どもの能力」は、親の力を判定するものではない。

あの、大勢の子ども達や、ママたちに呑まれて、渦に巻き込まれ、
本来の目的を見失ってほしくないなあ、と感じた。
闘鶏のシャモに競わせるかのごとく、親のプライドを満たすために、子どもを操ってはいけない。
イマドキの親は、わたしとは世代が違うので、考え方も大いに違うだろうけれど。

ママたちの、各自それぞれの、自分の子供に対する掛け声や、振る舞いを見ていると、
なんだか、社会に対して自己表現の出口がない人が、
子どもを使って自分を表現しているような気がしてしまうのは、わたしが、そうとうヒネくれているからだろうか。

自分の子供を応援したいのは親として当たり前であり、
少しでも子どもに良かれと思い、頑張っているのかも知れないのに。
しかしながら、もしわたしなら、自分を見失ってしまいそうな、あの熱狂的なママと子どもの集団に、いささか慄いた。

今は、もう干物時期にさしかかっているわたしだが、
子育て時代は、子どものエネルギーをどう扱い、導いてきたのだろう。
自分の成長と、子どもの成長が同時進行で、混乱して、めちゃめちゃ、ぐちゃぐちゃになっていたと思われる。
にもかかわらず、
ずいぶん前に終わってしまって、ああ、よかったと安堵のため息である。

子どもは、今は、ママとなり、自分の子ども達と闘っている。
ごくろうさま。
どんどん、子どもエネルギーに巻き込まれていくことだろう。

 

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