蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

考えてみたら、なにも考えてないということがわかった

2017-11-02 | わたし
老人ホームへの勧誘DMが、ちょいちょい入る。
親の入所先を検討するにあたり、情報を求めた時の個人情報からだろう。
親を入れるのではなく、自分が入るイメージで、DMを見ている。
夫は、冗談で、(本気で?)、「私が入るところ」と思っている。

わたしの子供たちも、子供や孫にお金を使ったり残したりしないで、自分の老後に備えよ、と言う。
自立心は結構だが、つまり、親子、孫、世話する側、される側が立場が逆になっても、最低限度しか支えないよ、と釘を刺されている。
アリとキリギリスはやめてね、と。
現役世代と同じような生活をしていると、収入が減った時はどうするの?と。

なるほど、ご無理ごもっともで。
べったり寄りかかるのではなく、持ちつ持たれつ、距離感を保って、ということだ。
子供(孫)が小さい時だけ、いいように親を便利に使っておいて、あとは知らないよ、ではないわけだ。
親は便利に使われる代償として、貴重な、2度と来ない幼い時代の孫と接し合える。
こんなありがたい、幸せなことはない。

お互い、少しだけ寄りかかり、少しだけ接点を持ち、でも、自分たちの道を歩く。
それは、わたしの理想である。

いつの間にか、自分の理想スタンスを歩きはじめている。
老人ホーム入所の終焉が、現生に思い残すことのない、わたしのハッピーエンドかも知れない。

ありがとう、楽しかったよ、と、老人ホームに入り、その日からあとはもう記憶にないのだろう。
終焉の楽園では、自分がいつこの世を去ったのかもわからないのかも知れないが、自分の意思で生きる寿命が尽きた時が、区切りだろう。
こころと、脳は生きても、身体が思うように行かない時は、意思はあるが、自分を動かせない。
その時は観念するしかない。
さてさて、諦め切れるだろうか。

たぶん、わたしは、どう考えても先にアタマからダメになっていくと思うので、取り越し苦労になると思う。

楽しく毎日を暮らせば、それでよし。
あまり先のことを考えても、よくわからない。
きっと今のまま、楽しい時間が続くだろうと楽観的に考えよう。
というか、なにも考えてない。

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