蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

時代は変わる

2021-03-21 | 暮らし
梅が咲いていた。
100年は悠に経っている庭の古い苔むした梅の幹に真新しい枝が生えて伸びていた。
深い、、、。

さて、昨日は彼岸で墓参りをした。
姑の初彼岸お供えを親戚からいただいた。
19年前の、舅の初彼岸の時は17件お供えをいただいたが、今回は1件のみ。
時代の移り変わりを感じた。

というか、初彼岸お供えが少なかったのは、姑が晩年は自宅ではなく高齢者施設で過ごしたことも遠因としてあるだろう。
舅が亡くなった時は、姑は今思えばバリバリ健在。
姑が自宅で舅を看ていた。
舅、最期の瞬間も病院ではなく自宅。
その様子を親戚や近隣の人々もよくご存知で、労いの意味や、今後、未亡人になる姑への応援の気持ちもあったのでは、と想像する。
それから19年、姑は(優雅な)独居生活を送った。
優雅すぎて、随分前に姑が持ち出していた、我々との同居案もいつの間にか立ち消えになった。
その気持ち、とてもよくわかる。
自分の最期までの数年は除いたとして、姑は配偶者亡き後は黄金の時期だったと思う。
向かうところ敵なし。
今のわたしと同じだ。

わたしもあと15年ほどは黄金期?
いや、大事なことを忘れていた。
わたしは、まだ未亡人ではない。
未亡人としての黄金期はちょっと延期され、今は普通の、ただのリタイア時期。
黄金期の後にはお一人様プラチナ期があり、わあわあと人生の締めくくりを満喫するのも束の間、やがて終焉に向かう。

まあそれはそれとして、初彼岸お供えが激減したことに驚いたが、わたしはちっとも落胆せず、むしろ有り難い気持ちだった。
皆さん、生活などにお金も要るし、もう不祝儀関連の出費は卒業されたらよいと考える。
いただくほうも、(わたし個人の感想としては)全く嬉しくも有り難くもない。
時代錯誤だと感じる。
しかし、律儀な方々が大変多く、自分の親などの時にいただいた限りは、またお返ししようとする。
延々と繰り返されるわけだが、、、
繰り返さなくていいとわたしは思っている。
だが、地域に拠点を置いている限り慣習を無視するわけにはいかない。

ちなみに、白洲次郎は潔い。
戒名無用!

それはそうと、香典辞退します、と皆さんにお伝えしても、実際には別の形でなんやらかんやら弔意を表してきていただく。
そのお返しがまたまた手間がかかる。
が、そんなことを言うとバチが当たること間違いなし。
わたしは罰当たりの嫁である。

同じお墓に入りたくないという思いは、今はなくなった。
自分の遺骨を放置したら、生きている皆さんに迷惑かと思って。
遺族がやりやすいようにしてもらうとそれでよい。
わたしは反骨精神はあるものの、実行力が伴わないので、ただの文句垂れということになる。
ぐちぐち愚痴のクレーマー。
それはわたしの理想ではない。
真逆。
行動と精神は統一すべし。
何もしないなら、何も言うな!である。
口出し手出しにも通じるものがある。が、難しい。
船頭が多いと、航海は困難。
また、やったことが良かったかどうか、時代を経てから功績の評価がおりる。

しかしまあ、お一人様のプラチナ期を首を長くして待つより、プラチナは諦め、黄金期を充実させるほうが得策と考える。
プラチナ期はなんといっても自分も高齢になるし、出来ることや楽しめることが、狭まってくる。
それなら、黄金期に夫婦仲良く暮らしていくのが理想かも知れない。
今は医療も発達し、夫婦で長生きするかも知れないので、お一人様プラチナ期の期間はたぶん短い。
お二人様黄金期を良い時期とするためには、意味のない反骨精神は横に置いて、意味のある協力体制を築いたほうが自分のためになる。
決して人のため、とか、夫や家族のため、とか、そんな他人軸ではない。
あくまでも自分軸。
これが、自分を幸せにする、わたしの基本スタンスである。
他人を幸せにするために自分を犠牲にして自分が不幸になるのは、本末転倒。
自分を犠牲にして幸せを感じる人もいるかも知れないが、仮に自分がそうだからといって、他人にも強要するのはいかがなるものか、、、。

あまりにもワガママは受け入れられないが、ある程度のワガママは生きる上での必要不可欠な要素だと思う。
自分に厳しい人は他人にも厳しさを強要する傾向があると感じる。
が、人それぞれなんだから、自分のモノサシを無理やり通用させようとすると、軋みを生じる。
自分と他人、、、真ん中あたりまで歩み寄り、お互いを認めるようにしたいと願っている。
妥協と言ってしまえば、それまでだが。

他人を許容する優しさを求めている。