ルッキズムという概念があるらしい。
外見至上主義。
外見的な差別。
外見が良い人を高評価し、外見が悪い人を低評価する、ステレオタイプの考え方。
若い人が陥りやすいようだ。
人生経験が少ないと、そう思い込むのは理解できる。
視野も狭いし、生きてきた年月が浅いし、色んなことに出会う機会も少ない。
うわべで物事を見がち。
しかし、、、
例えば、病院に入院して手術台に乗ったら、外側よりも、皮膚の内側。内臓、骨、肉。
だが、病院を一歩離れたら、見かけが人に与える影響は大きい。
さらに例えば、、、
今回、わたしが参加したミニ・ジャーニー。
服装は何にしようかと迷った。
わたしは、旅はカジュアルな軽装と決めている。
つまり服の状態(シワや汚れ、磨耗)が気になるような上等な服も、おしゃれな服も着ない。
ある時、同じ海外旅行ツアーに参加していた男性は、「僕は旅は1000円のTシャツと決めています」とおっしゃっていた。
経済背景や社会背景などの個人背景には関係がない、このスタンスには強いメッセージ性を感じた。
ではあるが、、、わたしはそこまで割り切れない。
見た目も気にするし、快適性重視ではあるものの、ちょっとだけ洒落っ気も欲しい。
自分なりの微々たるこだわりである。
とは言え、平日、新幹線に乗り込むわたしは、ビジネススーツに身を包む人々にはどう映るか?
なんて、(誰も見ていないのに)そう考えてしまう。
まあ誰も見てない。
が、しかし。
毛玉が出来たカットソー。
実はこれは次女が着古したお下がり、お古なのだが、わたしは愛用している。
旅に欠かせないのは、暑さ寒さの調整が出来るもの、そして、(これは長女からのキツイ指導だが)、荷物量を最小限にすること。
これらを考慮すると、高級度、オシャレ度がガタっと落ちる、というか、実質本意で足が地に着く。
で、ツアーでご一緒の女性がステキな服を着ておられると、ちょっと怯(ひる)む。
ステキと言っても意味が何通りもある。
●(1)服そのものがステキである。(品質、デザイン)
●(2)ステキに服を着こなしている。(組み合わせ、個性)
この2つは違う。(両方兼ね備えている場合もあるが)
わたしの場合は明らかに前者(1)ではない。
なので、無理矢理、後者(2)を狙う。
ルッキズムから大いに離れている。
外見と言っても、自分で自在に変えられる外見ならいざ知らず、変えられない外見に対して、人は満足できないで劣等感を抱くのだろう。
「人からどう見えようが、自分が満足する」というのは結構なことで理想なのだろうけれど、見方によっては、負け惜しみだったり、勘違いだったり、裸の王様だったりする。
あくまでも、見方によれば、であり、「それがどうした!」と、開き直り逆ギレするのも、ひとつの強硬的自己肯定。
クヨクヨ卑屈になるよりは、元気があってマシかも知れない。
痛々しい、とも取れる。
で。
新幹線の中のわたしがどう見えようが、ビジネスで頭がいっぱいの乗客たちには無関心。
席が空いているかどうかの、人間が座っているか、いないか、のチェックしかないだろう。
仮にわたしがすごいオーラを放つ絶世の美女なら話は別。
残念ながら、空席チェック要員。
しかも「残念!」と思わなくなったのは、年の功。(言葉の使い方、わざと間違えてます)
今さら、すごい国の王子様(古い)や、IT社長(ちょっと古い)が現れても、また次の人生街道をどうしようかなんて迷い悩むのも疲れる。
(究極の、取らぬ狸の皮算用)
今なら、把握できないぐらいの財産があったとしても、「世界中を飛び回ったり、お好きな別荘で優雅に過ごしたりしましょう」なんてことになっても、しんどい。
(究極、とら狸を通り越して、もはや、たんなる妄想)
というわけで、我が家が一番。
いろんな破天荒な楽しい夢を見て、目が覚めるとうちの布団のなかだった、なんてかんじか。
わたしの実年齢より20年ぐらい歳上発想だが。
見た目は自分で無意識で作られる。
実は意識して、無意識の自分を作り上げている。
なりたい自分を目指して努力する。
雰囲気、オーラというものは、見た目の一種かも知れないが、カタチではない。
ちなみに、話は戻るが、今回のツアーでご一緒の女性で、すごく洗練された(前述の)オシャレさんがいた。
思わず後退りして、少し離れたところからチラ見して、ファッションをチェックしてみたら、、、
いわゆるオシャレ上級者の見本みたいな人がやっている、ヘアスタイル、服、靴、メガネだったりする。
スタイリストさんが俳優に服装を選ぶような。
完璧さがプロっぽい。
で、わたしは思った。
オシャレだけれど、すべてオシャレな手本で既にお見かけしたようなかんじで、かえって個性がない。
それなら、時代がかった、昔の少し丈の短めの窮屈そうなワンピースを着ている女性のほうが、個性を感じた。
その人の歩みを感じた。
オシャレな人は、その時その時のトレンドをうまく取り入れているに過ぎない。
「オシャレな人」という特徴から、個性が見えない。
隙がなくて苦手だなあ、と思っていたが、別に敬遠する必要はない。
毛玉があるお下がりであろうが、選択肢のある中からわざわざ選んでそれを着ているわたしは、どっしり堂々と構えていればよい。
どう見えようが、自分が選択した道は、例え分野がファッションであろうが、揺るぎない。
(ファッションには無頓着、という選択肢もある)
人相や着るものは、見ず知らずの全く知らない赤の他人を想像する手がかりとなる。
ルッキズムは、容姿そのものを含めた、全部を判定するのだろうか。
容姿だけを取り出しても、成長するにつれて変化を生じる。
ちなみに、わたしは割と人の中身を見透かしてしまう傾向があり、見え過ぎる弊害も感じる。
外ばかりにこだわっても、「この人は外ばかりこだわる人」などと評価されたら、嫌だろう。
何ごとも自然体が良い。
(と、いつも同じことを言っている)
長くなり過ぎて、眠い。
自然体すぎる。