今日もソプラノ歌手。
お隣からの歌声。
あれは、お隣の奥さんではない、という、根拠&確証のない確信みたいなものが湧いてきた。
あんなプロみたいな歌が、隣の奥さんに歌えるはずかない。
奥さんの顔を思い浮かべながら、ただ、そう思っただけだ。
(悪い意味ではない。ただ、ソプラノ歌手と、タイプが、ちょっと違う。
逆の立場であっても、お隣の奥さんは、わたしが絶対にソプラノ歌手ではないと思うだろう)
今日は、台風なんてデマではないかと思われるぐらいの快晴。
暑すぎる。
こんなに暑いのに、なにを思ってか、スイカを食べた後に(こちらは、季節感、正解)、ホットコーヒーを飲んだら、
汗が、だらだら、だくだくだく。
もう、残りの人生のほうが明らかに短いので、エアコンをつけることにした。
我慢しないことにした。
それにしても、暑すぎる。
・・・
とある、別SNSで、わたしは時々、日記を書く。
ひとさまの日記にコメントも寄せる。
そこで、ある人の日記に、なにげなくいつものように感想を書いたら、
なんと、「作家のような○○さんにお褒めいただいて嬉しいです」とコメント返しがあった。
これは、皮肉か???
わたしは、とっさにそう思った。
わたしが、斜めに構えすぎているからだろうか。
いい年して、みなさん、キャピキャピやっておられるのを、なかばヤッカミ半分に見ている、わたし。
クールである。
いや、温度上昇できない、欠陥品。
なかには、ほんとうに、「あなた、何歳?」みたいな人がいて、のけぞる。
その人物A女史に関して感じることを書いたら、自分でも自己嫌悪を感じるぐらい、わたしは嫌いなのだが。
ご自分でのご自慢は、声が甘いことだそうだが、いやはや、隣で聞いていると、うんざり、砂糖がききすぎ、
甘ったるすぎて、声もさることながら、そのノリに問題がある。
話されるその内容が、自己陶酔ヒロイン物語すぎて、わたしにとっては、耳障りこのうえない。
Dカップもご自慢らしいけれど、50歳を過ぎて自慢できるDカップの内容が知りたい。
叶姉妹は、もっと大きいかも知れないが、
あれは、人造怪物、人工怪獣なので、この際、比較、参考の対象にはならない。
ある程度、大きな胸は、若くても、物理的に「ニュートンの法則」に悩まされる。
ぜんぜん落下しない、ぱちぱちに水平に張った胸は、赤ちゃんに母乳をあげている時期、そういう形状になることがある。
が、ぴちぴちの最盛期は別として、50を過ぎて、「(ぴちぴちが維持できている)Dカップの胸」とやらいうもの、
その実態を知りたい。
人に自慢できるぐらいなんだから、そうとう美形であるに違いない。
50歳を超えた美形のDカップの胸、ぜひ、アップしていただきたいものである。
なかには、同じく50を超えて、
ご自分のミニスカート姿や、胸の谷間の写真を堂々とアップされている女性がおられる。
どう考えても私には理解できない。
世の中には、いろんな方がおられるということだ。
美の基準というものは、人によってこんなに違うものかと思い知らされる。
わたしにとっての美は、引退する前後、結婚時のグレース・ケリー。
ローマの休日の頃のオードリー・ヘップバーン。
若き日のマリリン・モンロー、カトリーヌ・ドヌーブ。
日本人なら・・・?
大昔の、今とはまるで別人、天と地がひっくり返っても同一人物とは思えない、浅丘ルリ子。
名も知らぬ無名人では、
20年ぐらい?前、昔の富士銀行・淀屋橋支店の窓口右から二番目にいた30歳ぐらいの女性。
あっけにとられるぐらい、美しかった。
少なくとも、ご自分をアピールしまくっておられる、わたしの大の苦手のA女史は、
わたしの目から見ると、なんであんなに自信をもっておられるのか、さっぱりわからない。
性格や頭脳、能力なら、見た目では判断つきにくいが、「見た目」評価をアピールされているA女史、
その基準は、ユニバーサル基準? 宇宙基準?
おそらく、彼女の中の小宇宙基準なのだろう。
わたしのように、人のことをボロカスにけなす、けしからん人間が世の中はウヨウヨいるので、
なるべく、そういう人の目につきにくいように、
ひっそり、こっそり、自己顕示欲を満たされるとよいのではないだろうか。
(自己顕示欲と、ひっそりこっそりは、相反するから同時には難しいが。
だが、愉快犯のような犯罪は許されない)
わたしは、A女史のことが、不細工だとは言っていない。
ただ、ご自分で自慢されている内容と、実際のお姿との間にある、
私が感じるギャップに、わたしは言いようの無いストレスを感じる。
なので、この世で一番、あるいは、古今東西、一の絶世の美女であっても、自薦は避けたほうが無難かと思われる。
出る杭は打たれる。叩かれるのである。
しかも、自己申告の出る杭。
実際は出てないのに、「出ている」と自己アピール。
これは、非常にわたしは、他人事ながら赤面する。
わたしにとっては、もっとも恥ずかしいことである。
単なる、感性、価値観、性格の違いである。
皆、それぞれが、それぞれに正しい。