嫁と姑
2024-11-20 | 家
毎日訪れるブログの一つに、シニア女性の悩み事の人生相談が紹介されていた。
同居する姑が口うるさく、日常、世話を焼いている嫁である自分(相談者)が感謝されない、と。
夫の弟や嫁には感謝の気持ちを持っているのに、と。
わたしの姑Aも、同じことで愚痴っていた。
同居しない、自分の夫の弟や嫁が、「姑の姑」Bに、なんやらかんやらモノを送ってきたり、目に見える親孝行をする。
姑が、「姑の姑」Bの日記をたまたま見たら、「次男が来た」、だの、「三男が◯◯を送ってくれた」だの、記してあって、気分を害したと、わたしに言っていた。
毎日、世話をしている長男(舅)の嫁(姑)Aには当たり前の日常として受け取り、感謝の気持ちは埋没している、と嘆いていた。
人の日記は読むべからず、という教訓を、姑Aとわたしは得た。
「姑の姑」Bは、出来た人であり、姑Aも出来た人だ。
出来た人、二人が一緒に暮らしていても、何らかの軋轢は起こる。
多少の経済的自立と、住居の自立は、お互い依存し合わず、保たれていたにも拘らず。
舅は長男だから、大変な面はあるが、次男、三男の嫁は競い合うように「姑の姑」Bのご機嫌を取っていた。
「姑の姑」Bには、子供に対して相性や好みがあり(誰にもあると思うが)、長男である舅とは相性が合わず、お互い歪みあっていたような雰囲気を感じた。
次男は、まるっきり無視に近い、放任感覚。結婚後は、家に寄りつかない。
三男は、末っ子ということもあってか、可愛がっていた。
当然、次男の嫁は冷遇、三男の嫁には優しい。
法事など一緒になると、女同志の縦、横のヒリヒリしたバトルが感じられた。
姑Aは、「姑の小姑」C(舅の妹)には気を使っていた。
「姑の小姑」Cは、85年?ぶりの女児誕生だとかで、たいそう喜ばれ愛され可愛がられたようだ。
アイドル。
かつて一族には女児は他にも誕生したが、夭折している。
姑Aと「姑の小姑」Cは、同じ歳ぐらいなのに、天と地の差。
何がかと言うと、、、
姑Aは、嫁。
当時は夫の両親、祖母、未婚のきょうだい3人と同居していた。
家業のため、下で働く人はいたが、嫁は家族では末端、末席、一番下。
お風呂も食事も最後。
「姑の小姑」Cのキラキラした蝶よ花よの娘時代を、末席から眺めていた。
「姑の小姑」Cが、結婚した相手が、これまた素敵な人。
上品で優しくカッコよく、知的でスマートな、おぼっちゃま。
まるで、映画のようだった。
(しかし、いつの時代も、モテモテは禍いのもと)
まあそれはよいとして。
(後にわたしは、遥か彼方、遠方まで、お葬式や法要に足を運ばなければならないことになるが、、、)
ちなみに。
話をちゃんと終えていないうちから、、、。
蛇足中の蛇足なのだが。
ある日、わたしの実家から送ってもらった超高品質、高級羽根布団を、姑Aが間違って、その「姑の小姑」C(夫のオバ)に送ってしまった。
それは、「他の別のモノと間違って送ってしまった」とは、姑Aは「姑の小姑」Cに言えず、Cもわたしのものだとは知らず、今日までわたしの不満は燻っている。
羽根布団、返してください。
あれ、わたしの、です。
あ、他にもある。
時代ものの漆塗り、蒔絵の衣紋(えもん)掛け、返してください。
こちらにあるものと、一対になっているので。
実家の気に入ったものを持って出てしまった一代前の「姑の小姑」C。ぷんぷん。
(そのくせ、お雛様など、不要になったものは送り返してくる。
お雛様が、いっぱい、大集合。まあいいですけど)
終活、しなければいけないのに、物欲の塊になってきた。
使わないくせに、取っておきたい、執着する、断捨離すべき、極め付け品だ。
しかも人の手に渡っているのに。
どんだけ、物欲が強いのだろう、わたし。
わたしにとって、
物欲は、生きるチカラ。
モノを手放した時に悟りを開き、自分の道が見えて自由になるが、生命からも自由になる。
一生、断捨離出来ないわたし。
生きている限り。
脳みそが正常に動かなくなったら、わたしが施設に入って知らないうちに、娘たちに強制断捨離されているだろう。
その時は、もうわたしは家には帰らないので、全部捨てられてもわからない。
家には魂も入っている。
家から出た時は、魂は抜けている。
まるで、仏壇や墓の魂抜きようだ。
それでいいと思う。
いや、娘たちには迷惑だ。
生きているうちに、断捨離しないと、、、。
義理のオバに、羽根布団、返せ、なんか言っている場合ではない。
とかなんとか言いつつ、、、
昨日、(わたしのブログによく登場する)ご近所さんの90歳超えの方から、古い古いセーターを3枚も、もらってしまった。
一応、やんわりお断りしたのだが、押し切られた。
13年前のクリーニングタグが付いていた年代物。
彼女の切羽詰まった断捨離のお手伝いをするのは良いが、わたしの家はどうなる???