雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

道兼の薨去 ・ 望月の宴 ( 51 )

2024-03-13 20:21:23 | 望月の宴 ②

      『 道兼の薨去 ・ 望月の宴 ( 51 )  』


五月八日の早朝、聞くところによれば、六条の左大臣(源重信。宇多天皇の皇子である敦実親王の四男。享年七十四歳。)、桃園の源中納言(源保光。醍醐天皇の皇子である代明親王の次男。享年七十二歳。)、清胤僧都(セイインソウズ・天台僧。父は参議大江朝綱。享年五十三歳。)といった人々が亡くなったと騒いでいるので、「お静かに。こうした話は忌みはばからねばならない。殿(道兼)にお聞かせしてはなりませぬぞ」と、誰もが分別深そうに言い、そう思っていたが、その同じ日の未の時(ヒツジノトキ・午後二時頃)ばかりに、殿はお亡くなりになった。
何と忌まわしことか。御邸(二条第)内の有様は、推察願いたい。

左大将殿(道長)は悪い夢を見ているのだとご自分に言い聞かせ退出なさる時のお気持ちは、いっそうこれは夢なのだとのみ思われていらっしゃる。心からお慕い申し上げている間柄なれば、死を穢れとも思われることなくお世話なさるご様子は、しみじみと切ない限りである。
同じご兄弟とは思われないほどで、関白殿(道隆)が亡くなられた折には御弔問さえなさらなかったのに、この度は心を尽くして頼もしくお世話なさった甲斐もなく、殿のお亡くなりになったことを、かえすがえす殿方は嘆かれる。しかし、そうとはいえ、殿に長年お仕えしていた人々はともかく、最近仕えるようになった人々は、いつの間にか立ち去ってしまうのだった。
関白の宣旨をお受けになって、今日で七日になられるのであった。これまでの殿のご一族に、そのまま執政にならず終いの方々もおありではあるが、このように関白になられて七日目に薨去なさるといった儚い夢は、どなたも見たことがない。
何とも情けないことであった。


道長殿(左大将)は大変なお嘆きでございましたが、かの故関白道隆殿の嫡男(実際は三男)であられる伊周(コレチカ・内大臣)殿は、まことにみっともない形で政権の座を道兼殿に移りました時には、世間の物笑いとなり、ひどく恨めしげであられましただけに、道兼殿の御薨去は、全く違うお気持ちであられたことでしょう。
さすがに伊周殿とて、関白の地位が簡単にお手に入るなどとは思っておいでではなかったでしょうが、思いのほか早くに、好都合な世の中になったとお考えのご様子でございました。
二位の新発意(ニイノシンポチ・新発意は新たに仏門に入った者。)と申されるお方は、伊周殿の生母貴子さまの御父上である高階成忠殿のことでございますが、この度こそは伊周殿に執政の地位に就かせようと、ご祈祷に力はいっているとの噂でございます。新関白殿が七日にして薨去なされたことを、好機とばかりにお喜びだと聞こえて参りますのも、腹立たしい限りでございます。

道兼殿(粟田殿)には、兼隆殿と兼綱殿がいらっしゃいますが、兼隆殿でも十一歳でございますから、いかにもまだ幼く、とても然るべきお役云々といったお話にもならないことが、まことに哀れでございます。
道兼殿が亡くなられたその夜の内に、御亡骸を粟田殿(道兼の山荘)にお運びなさいました。そして、十一日には御葬送を執行なさいました。滞りなく進められましたが、返す返すも虚しく情けないことでございました。 

道兼殿が方違えでお移りになっていた、中川の家主である出雲前司藤原相如殿は、ご身分は高くはございませんが、道兼殿は大変信頼なさっておいででございました。それだけに、殿の御薨去は誰にも増して情けなく思われていて、御葬送の夜には真心の限りを尽くして夜通しお仕えなさっていましたが、気分が悪くなられ、家に帰り着くと、「たいそう辛く悲しかったためか、気分が悪くてならぬ」と言うので、家の女たちはまことに怖ろしいことだと思って、お嘆きになられました。
こうして、御忌みの間は、皆さま粟田殿にお籠もりになるのでしょう。相如殿に限らず、どなたもがこうした忌まわしいことに襲われるのですから、世情が不安に満ちていた頃でございました。

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道長に内覧の宣旨 ・ 望月の宴 ( 52 )

2024-03-13 20:20:56 | 望月の宴 ②

      『 道長に内覧の宣旨 ・ 望月の宴 ( 52 ) 』


故道兼殿が方違えで移っていた中川の家主である藤原相如殿は、体調もよろしくなさいませんのに粟田殿に宿直なさって、あれこれと亡き殿のことを思い続け、満足に眠ることも出来ないようでございました。
『 夢ならで またもあふべき 君ならば 寝られぬいをも 嘆かざらまし 』( 夢ではなく 現実の世界でお会いできる わが君であるならば 眠れなくても 嘆くことなどないものを )
と、お詠みになりましたが、五月十一日からご気分がたいそう悪くなられたので、その翌朝、女たちのいる家に行って、「とても気分が悪く、こうも苦しくなってきたからには、とても生きてはおれまい。それでやって来たのだ」と言って、先の和歌のことを話し、色紙に書き残して、中川の邸に帰ったそうでございます。

そして、そのままに寝付いてしまい、家族の方々は心配されましたが、ご本人は亡き殿の御法事に立ち会えないことが無念だと繰り返しながら、同じ月の二十九日にお亡くなりになってしまったのです。
家の方々の悲しさは、如何だったでしょうか。ご身分の高貴に関わらず、同じのはずでございます。
数日経って、御娘が詠んだ歌が伝えられています。
『 夢見ずと 嘆きし君を ほどもなく またわが夢に 見ぬぞ悲しき 』( 亡き殿と夢の中でさえ会えないと 嘆いておられた父上のお姿を 幾日も経たないうちに 今度は私の夢の中でもお会いできないとは 何と悲しいことか ) 

道兼殿と相前後して亡くなられた方々の御法事は、それぞれに滞りなく執り行われたとのことでございます。


この粟田殿(道兼)の御薨去の後になって、五月十一日には、左大将(道長)に「左大将天下及び百官施行」という宣旨が下って、今は関白殿と申し上げて、他に並ぶ人とてない御有様である。
 ( 史実としては、道長は「内覧」となっただけで、関白になったわけではない。また、道長は、生涯にわたって、関白に任じられたことがない。『栄花物語』には、道長を「関白殿」と呼称している例が幾つかあるが、作者は、内覧と関白を同一と考えていたか、贔屓していたかのどちらかと思われる。)
女院(詮子。円融天皇の女御で、一条天皇の生母。道長の四歳上の同母の姉。また、東三条院と称したが、女院号の最初である。)も、昔から左大将には格別にお心を寄せていらっしゃったので、年来の願い通りだと思し召された。

あの内大臣殿(伊周 (コレチカ) )は、粟田殿の御有様と同じようになって、この度も何とかなるのではないかと思っているとは、愚かしいことである。このまま終ることなどあるまいと、先々をあてにして二位の新発意(伊周の外祖父高階成忠)のご祈祷はますます盛んである。
しかし、世の中はそのまま押し移っていった。内大臣殿は、世の中をたいそう嘆かれるので、御叔父ども(信順、明順ら母の兄弟たち)や二位などが、「何をくよくよしている。今はひたすら命を大切になさい。わずか七日、八日で終ってしまう人が他にいないわけではあるまい。長生きさえしていれば、何か良いことが必ずありましょう。何と気弱なことか。この老法師が世にある限りは、諦めなさるな」と、いかにも頼もしげに申し上げるのて、いかにもその通りだと内大臣もお思いなのであろう。

左大将殿は、六月十九日に右大臣におなりになった。

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疫病の猛威続く ・ 望月の宴 ( 53 )

2024-03-13 20:20:28 | 望月の宴 ②

      『 疫病の猛威続く ・ 望月の宴 ( 53 ) 』


何よりもおいたわしく大変な出来事は、山の井の大納言(道頼。伊周の異母兄。道隆の庶長子であるが、道隆には可愛がられず、祖父の兼家の養子になった。)が数日患っただけで、六月十一日に亡くなられたことである。御年二十五歳である。
誰からも褒められて、評判の良いお方であったので、今の関白殿(道長。史実は関白ではなかった。)も、この君を故殿(兼家)が養子にされていたのだからと、自分も格別に目をかけてあげようと思っていただけに、残念に思われた。
何もかも、嘆かわしく心憂きことの多い年の有様である。
この出来事も、内大臣殿(伊周)は、世の中の成り行きを恐ろしく思い、嘆かれている。

女院(東三条院 詮子。一条天皇生母。)におかれては、長年 法華経の御読経をなさっているが、改めて、また始められ、読誦なさる。疫病により亡くなる人が続いていて、世の中が騒がしいのを恐ろしいものと思し召しである。

粟田殿(道兼)の御法事は六月二十日頃である。粟田殿(粟田邸。道兼の山荘。)で執り行われる。北の方(藤原遠量の娘)はそのまま尼におなりになった。「ふつうの御身ではないのに」と人々は心配申し上げるるが、お考え通りなられたのも、ごもっともと思われる。
(なお、北の方の出家については、妊娠中であること。後に藤原顕光の室になっていることから、事実ではないと思われる。)


一条天皇の中宮定子さまは、父君道隆殿をお亡くしになられた後、世の中の風の変化をお感じになられたのでしょうか、胸を痛められて里邸ばかりに籠もる日々をお送りでございました。
とは申しましても、そうしてばかりしているわけにも参りませんし、周囲の方々のお声もあり参内なさいました。
帝は中宮の御身をたいそう心配なされていて、心からおいたわりのご様子でございます。
東宮(居貞親王)におかれましても、宣耀殿女御娍子(父は済時)さまも、淑景舎女御原子(父は道隆)さまも、ともに父君をお亡くしになっていますので、まことにお気の毒なことでございます。
淑景舎女御原子様が、御父君のご威光のもとに華々しく入内なさった時のことを思いますにつけ、まことにおいたわしくございます。
宣耀殿女御娍子さまの一の宮(敦明親王)も共に、お二方とも里邸に籠もられていらっしゃって、早く参内をとの仰せがあるようでございますが、疫病はなおおさまらず世の中が何かと騒がしく、参内は実現なさっていないようでございます。
そして、この間にも、大きなうねりは押えられることもなく、右大臣となられた道長殿の台頭が顕著になりつつあったのでございます。


世の中の哀れで無情であることを、摂津守為頼朝臣という人が、
 『 世の中に あらましかばと 思ふ人 なきは多くも なりにけるかな 』
 ( この世の中に 生きていて欲しいと 思う人が 亡くなっていく数が多く なってしまったことだ )
と詠んだが、これを聞いて、東宮の女蔵人である小大君(コダイノキミ・歌人として著名。女蔵人は命婦に次ぐ女官。)が、返歌して、
 『 あるはなく なきは数そふ 世の中に あはれいつまで あらんとすらん 』
 ( 生きている人はなくなり 亡くなった人の数は増していく 世の中に ああ いつまで生きて いられるのでしょうか ) 
と詠んだ。

小野宮の実資(サネスケ)の中納言は、式部卿宮の御娘で花山院の女御になったお方(為平親王の娘、婉子女王)のもとに通っておいでだ、ということが起こったので、一条の道信の中将が、実資中納言に届けさせた歌は、
 『 うれしきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身にしむ 心地こそすれ 』
 ( 恋する人を得たあなたの嬉しさは どれほど大きいことでしょうと 思います この私は 情けなさが身にしむ 心地なのですよ )
どうやら、道信の中将も、女御に懸想していたのだろうか。

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有国の復権 ・ 望月の宴 ( 54 )

2024-03-13 20:20:05 | 望月の宴 ②

      『 有国の復権 ・ 望月の宴 ( 54 ) 』


ところで、かつては閉門まで命ぜられておりました藤原有国殿は、最近では宰相にまでお昇りになられたと評判でございます。
有国殿の蟄居と申しますと、当時は在国と申しておいででしたが、この御方は、かの藤原兼家殿の腹心として、厚い信頼を受けておられました。ところが、兼家殿が太政大臣に就任されました時のお祝いの宴席で、兼家殿の嫡男であられる内大臣道隆殿に杯を差し上げられたのでございます。ご承知のように、杯は目上の方が目下の方に差し上げるものでございますから、道隆殿の心中はお怒りに満ちていたことでございましょう。
さらに、兼家殿が病を得られまして、後継者について腹心の方々にご意見を求められたようでございますが、在国殿は、道隆殿の弟の道兼殿を推挙されましたようで、お二人の関係は険悪さを増したのでございます。

結局、後継者は道隆殿となりましたが、実権を握られました道隆殿は、他の事件への関与も疑われましたが、在国殿の全ての官職を剥奪なさいまして、官邸から追放なさったのでございます。
もっとも、この処置は、一年半ほどでもとの従三位に復位なさいましたが、これには、一条天皇の御乳母でいらっしゃる橘三位(橘徳子)さまが在国殿の室でいらっしゃったので、その方面からの働きかけがあったことは確かでございましょう。

そして、道隆殿がお亡くなりになり、伊周殿を抑える形で関白にお就きになった道兼殿も相次ぎ失せられましたが、道隆殿に冷遇されていた在国殿に取りましては、わが世の到来とのお気持ちではなかったでしょうか。道兼殿の薨去の後、弟君であられる道長殿と、道隆殿の嫡男伊周殿との後継争いを在国殿は早くから予想されていらっしゃったようですが、道長殿を支援なされたのは当然のことと言えましょう。
在国殿は、995 年 10 月に大宰大弐の後継者に指名されましたが、翌年正月に有国に改名され、8 月には正三位に昇られ、九州に下向されました。北の方であられる橘三位さま共々、鼻高々のご出立でございました。太宰府の長である大宰帥の敦道親王は遙任でございますから、太宰大弐は現地の最高指揮官という重職でございます。
なお、下向にあたっては道長殿が盛大なもてなしをなさったそうでございます。道長殿は、有国殿の能力を高く評価なさっていたのでございます。
そして、もうお一人、平惟仲殿と申されるお方でございますが、このお方も有国殿と同様に兼家殿の腹心として仕えておられましたが、後継者の推挙にあたっては道隆殿を推されましたので、その後も順調な昇進をなさっていましたが、道兼殿亡き後は、道長殿にお近い関係のようでございます。この惟仲殿は、ただ今は従三位左大弁でいらっしゃいます。


かくて、その年(995)も冬となったが、広幡の中納言(顕光)と申し上げる方は、堀河殿(兼通・兼家の兄。太政大臣。)の御太郎(嫡男)であるが、その年来の北の方は村上の帝の広幡の御息所(更衣の源計子)がお生みになった女五の宮(盛子内親王)を迎えていらっしゃった。その御腹に、女君お二人と、男君お一人がおいでだが、その女君を帝(一条天皇)と東宮(居貞親王)に入内させたいと長い間お考えであるが、世間が何かと騒がしく厄介なので(道隆の娘の中宮定子に遠慮した。)、帝へは断念なさった。
東宮には、淑景舎女御(シゲイサノニョウゴ・道隆の娘原子)が入内なさっていて、万事につけ遠慮なさっていたが、この隙(道隆の中関白家が衰えてきたこと。)にと決心なさって、この姉君(元子)を入内させなさった。

今日明日の内にもとお思いになっておられるうちに、また、ただ今の侍従中納言と申すのは、九条殿(師輔。兼家らの父)の十一郎である公季(キンスエ・正しくは、この時は権大納言で侍従ではなかった。)と申し上げるお方だが、この人も宮腹の娘(有明親王の娘)を北の方として、姫君一人、男君二人を大切に養育なさっていたが、世間ではどなたもが遠慮されていたのを、今の関白殿の御娘はたくさんいらっしゃるが(道長を指しているが、正しくは道長は関白には就いておらず、娘もこの時点では二人。)、まだたいそう幼くて、あちこち走り回っている年頃なので、その方たちに遠慮することはないと、この姫君(義子)も帝のもとにと思い立たれたのである。
東宮には、淑景舎女御と尚侍(ナイシノカミ・綏子)が伺候されていらっしゃるし、宣耀殿女御(娍子)は一宮の御母女御として格別の御寵愛であられるので、同じ事なら帝のもとへと決心なさったのも、いかにもその通りだと思われる。

さて、広幡の姫君は、参内なさって承香殿(ショウキョウデン)にお住まいになる。世間の噂では、「まあ、どうということはあるまい。何と古めかしい考えだ」などと取り沙汰されているようだが、相応の御寵愛をお受けなので、入内の甲斐があったというものである。
公季の中納言は、どうして広幡の中納言に負けてなどいられようかとばかりに、続けて姫君(義子)を参内させなさって、弘徽殿(コキデン)にお住まいになった。こちらは、何事につけ一段と華やかにお支度なさったことは言うまでもない。ただ、「弘徽殿女御への帝の御寵愛はそれほどでもなく、承香殿女御の方は意外に御寵愛が厚いようでいらっしゃる」と世間の人は申しているようである。
宮中は、当世風に華やかになった。女院(詮子・一条天皇生母。道長らと同母の兄弟。)は、「どなたであれ、御子をお生みになるお方を、わたしは大切にさせていただきましょう」と仰せである。女御の御寵愛は、承香殿女御(元子)が勝っているご様子で、これということもなく月日は過ぎていく。

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中宮定子の悲哀 ・ 望月の宴 ( 55 )

2024-03-13 20:19:28 | 望月の宴 ②

      『 中宮定子の悲哀 ・ 望月の宴 ( 55 ) 』


承香殿女御(ショウキョウデンノニョウゴ・元子)さま、弘徽殿女御(コキデンノニョウゴ・義子)さまと、相次ぐ入内によりまして、一条帝の後宮は華やかさを増しておりました。
しかし、その陰では、中宮定子さまは深い悲しみに御身をゆだねられているのでしょうか。帝の御寵愛を一身に受けられて、一条帝の後宮で圧倒的な存在でいらっしゃいましただけに、お悲しみと戸惑いにお苦しみと拝察申し上げるのでございます。
帝が定子さまを大切にお思いの様子に、少しの変わりはないのですが、後宮内の微妙な変化は否定することは出来ないことでございます。
定子さまの御父上、道隆殿が存命であれば、このような状況は想像することも出来なかったでしょうから、世の流れの無情を感じないわけには参らないのでございます。
そして、その微妙な変化は、激しい流れとなって、全盛を極めていた中関白家の方々の衰退への始まりだったのでございます。


さて、一条殿(イチジョウドノ・一条邸)は、今は女院(詮子・一条天皇の生母)が領有なさっていて、かの殿(為光。兼家らの弟。)の女君たちは鷹司(一条殿を手放してこの地にあった邸に移っていた。)という所にお住まいになっているが、そこへ内大臣殿(伊周)が密かにお通いであった。
寝殿の上と呼ばれているのは三の君のことであるが、御容姿も心ばえもたいそう優れていらっしゃるということで、父大臣(為光)がたいそう大切に養育なさっていた。女子は容姿が第一だと大切に養育なさっていたのだが、その寝殿の御方のもとに内大臣が通っていらっしゃったというわけである。

こうしているうちに、花山院がこの四の君の御もとに、御文など差し上げなさって、お気持ちをほのめかせられたが、とんでもないことに、聞き入れようとなさらなかったので、たびたび御みずからお訪ねになられては、華々しく振る舞っていらっしゃるのを、内大臣殿は、お相手はまさか四の君ではあるまい、この三の君がお相手であろうと推量なさって、弟の中納言(隆家)に、「この事は、穏やかなこととは思われぬ。どうしたものか」と相談なさると、「なに、私にお任せなさい。簡単なことです」と言って、然るべき従者を二、三人お連れになって、この花山院が、鷹司殿(邸)から月がたいそう明るい中を御馬でお帰りになられるのを、脅してやろうというおつもりで、弓矢を用いて何やらしようと思われたのであろうが、その矢が、院のお召し物の袖を貫いてしまったのである。
日頃はたいそう雄々しくいらっしゃる院であられるが、物事には限度というものがあり、どうして恐ろしく思われないことがありますまい。まったく為す術も無く、情けなさに打ちひしがれて、院の御所にお帰りになったが、何もお考えになることも出来ない状態になっていらっしゃったのである。

この出来事を、朝廷にも、殿(実権者である道長)にも、十分に訴えなさることも出来たが、事の次第がもともとよろしくないことから起きているので、院は恥ずかしく思われて、この事は世間に知られないように、後々の世までの恥にならぬようにとひた隠しになさったが、殿のもとにも帝におかれてもお聞きつけになり、このところの世間の話題は、この事件で持ちきりになったのである。
「太上天皇と申されるのは、世に崇められる立派なお方でいらっしゃるが、この院の御心の掟はまことに軽はずみでいらっしゃるから、このようなことになってしまったのだ。とは言え、たいそうもったいなく恐ろしいことなので、この事件は、不問のままでは終るまい」と世間の人は取沙汰している。

また、大元師法(ダイゲンノホウ・法会の一つ。本来は、外的に対する秘法であったが、国家鎮護を目的とするようになった。)ということは、専ら朝廷だけで昔より行われてきた秘法であり、臣下の者はどれほどの大事であっても執り行われることはなかった。それを、この内大臣殿(伊周)が密かにここ数年行っていらっしゃるということが最近噂になっていて、これが不届きな行為の中に加えられているとのことである。
また、女院(詮子)が御病になられ、時々重くなられるのはどういうことなのかと思し召しになり、御物の怪の仕業だとなどといったことも起こり、この内大臣殿を、やはり御心の掟が幼く無分別なので、何をするか分からないと不審を抱き、どう対処すれば良いのか悩まれている人が大勢いるのであろう。

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揺れ動く中関白家 ・ 望月の宴 ( 56 )

2024-03-13 20:19:05 | 望月の宴 ②

      『 揺れ動く中関白家 ・ 望月の宴 ( 56 ) 』


こうしているうちに、長徳二年( 996 )になった。
二、三月頃になると、昨年、悲しくも世を去った人の家々の法事が、ある所では同じ日に、ある所では次の日になどとうち続いて、ここかしこで営まれた。たいそう悲しいことである。
家々によっては、喪服を脱ぎ、あるいは、まだ薄鈍色などでいらっしゃるのも、しみじみと胸に迫ってくる。

来月は賀茂祭だとわきたっているにつけても、世間の人の口はやかましく、「祭が過ぎてから、花山院の御事などに始末がつけられるだろう」などと噂しているようだ。
「ああ、何とばかげたことか。盗人捜しが行われるに違いないなどと言っているようだ」などと、さまざまに噂しあっているのも、いかがなものかと、内大臣殿(伊周)らのためにもお気の毒なことだと思われる。
朝廷がどのように処断なさるのかと、胸の痛むことである。

近頃、宮中では、藤三位(トウサンミ・師輔の娘、繁子)という人の腹に、粟田殿(道兼)の御娘(尊子)がお生まれですが、殿(道兼)は女君がおありでないことをたいそう嘆いていらっしゃったのに、この御娘のことはあまりお目にかけていらっしゃらなかったが、いつしかすっかり成長なさったので、藤三位は決心なさって、帝のお側に参らせ申された。
藤三位は九条殿(師輔。道長らの祖父にあたる。)の御娘と言われているいるようなので、一族の殿方も特別の人と思っていらっしゃっていて、このように決心して、参内おさせになるのも悪いことではないと思われ、それなりのお支度も左大臣殿(道長)がご用意申し上げられた。

こうして、藤三位の御娘は参内なさって、暗部屋(クラベヤ・清涼殿の近くにあった局とされるが、よく分からない。)の女御と申し上げることになる。
藤三位は帝からお気にいられ、華やかな日々をお過ごしであるが、年来、惟仲の弁(兼家の腹心であり、道長とも関係は良い。)が通ってきていたので、その惟仲が女御入内の御事もあれこれ支度なさったのである。

このようにして、大勢の女御たちが入内なさったが、今まで、皇子がお生まれでないことを女院(詮子)はたいそう嘆いていらっしゃった。
中宮(定子)がご懐妊なさっているのを、女院は、きっと皇子をお生みであろうと頼りになさっているのを、「どうにもおなりではあるまい」と、世間の人は頼りなげに取沙汰している。
さて、どうであろうか、それも疫病が猛威を振るっている今のことあるから、まことに御命を全うされるともされぬとも知りがたいことである。
内大臣殿こそは、あれやこれやといろいろとご祈祷なさって騒ぎ立てているが、怪しく難しいことが世の中に出てきているのを、女院は、まったく困ったことだと御胸を痛めていらっしゃる。

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窮地に立つ中関白家 ・ 望月の宴 ( 57 )

2024-03-13 20:18:29 | 望月の宴 ②

      『 窮地に立つ中関白家 ・ 望月の宴 ( 57 ) 』


かくて、賀茂の祭も終ったので、世間で騒ぎ立てられていた事などが、きっと行われるだろうと、すでに決定されていることのように人々は噂し合うので、内大臣殿(中関白家の伊周)も中納言殿(伊周の弟隆家)も恐ろしく難しいことになったとお嘆きになる。
お邸(二条第)では、御門を閉ざして、外出も来訪者との応対も控え、謹慎なさっている。中宮(定子・伊周の妹にあたる。)もふつうのお体でいらっしゃらないので(懐妊中)、およそご気分が悩ましく苦しいご様子なので、伏せがちの日々をお過ごしである。

内大臣殿などへの処分の噂などは、自然に漏れ聞こえてくるので、「ああ、何と情けないことか。そのような悪夢を見ることになれば、自分はどうすればよいのか、何とかして今日明日にでもこの身を消し去る術はないものか」とお嘆きになるが、どうすることが出来るのだろうか。当の殿方(伊周・隆家を指す)は、「それにしても、これからどういうことになるのだろう。幾ら罪に問われるからと言って、いますぐ身を投げたり、出家入道するとしても、たいそう恐ろしい処分を免れるはずもなく、ただ仏や神だけは何とかお助け下さるに違いないと、数珠を放さず、まったく食事もなさらず、嘆き明かし思い悩む日々を暮らしている。

宮中においては、陣(ジン・武士の詰所)に、陸奧国前守維叙(ミチノクニノ サキノカミ コレノブ・藤原済時の子で、平貞盛の養子となる。)、左衛門尉維時(サエモンノジョウ コレトキ・平維将の子で祖父の平貞盛の養子となる。)、備前前司頼光(ビゼンノゼンジ ヨリミツ・源満仲の子。)、周防前司頼親(スホウノゼンジ ヨリチカ・源満仲の子。)などという人々、これらは満仲、貞盛の子孫であるが、それぞれが配下の武士たち大勢を引き連れて詰めており、東宮の帯刀(タチハキ・東宮の警備に当たる武士。)や、滝口(タキグチ・滝口の武士。蔵人所に属し宮中の警護にあたる。)と夜昼すきなく控えていて、関所を固めるなど、実に異様で不気味である。
世間では盗人の捜索だと喧伝されていることも、大変忌まわしいことである。この数年、天変などが起きていて、占わせたところ、兵乱の前兆ありなどと占い申していたのは、実はこの事件のことであったのだと、すべての殿方や宮たちは、然るべき用心をなさっている。
下々の、人の数にも入らないような里人さえも、何かの騒ぎをを避けようとて、山に逃げ込もうと準備をしているのも、不気味な今日この頃の有様である。

北の方(故関白道隆の妻貴子)の御兄の明順、道順の弁などという人々は、「ああ、情けない事よ。さては、こうなるのが我等の定めであったか。これからどうなされるのだろうか」などと申し騒いでいるが、まったくどうなるわけでもない。
この御邸に長年部屋をいただいて仕えてきた人々は、どのような事態になろうとも、主君と共にどこまでとは思わないようで、いろいろの物を取り壊して運び、がたがた音を立てて大騒ぎしながら運び出すのを見るにつけても、たいそう心細い。されど、「待て」と止めることも出来るものではない。


伊周(コレチカ)殿・隆家殿は大変苦しい状況に追い込まれてしまったのでございます。
もともとは、恋のさや当て、それも誤解によるというまことにお粗末な事件が発端でございますが、ご兄弟による花山法皇に矢を射かけるという暴挙は、大変な窮地を招いてしまったのでございます。
故関白道隆殿が築かれた中関白家の栄光は、この事件により大きく崩れようとしておりますが、この事件の持つ意味は大きいといたしましても、やはり、これも世の流れというものなのでございましょう。

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流罪の宣命 ・ 望月の宴 ( 58 )

2024-03-13 20:18:01 | 望月の宴 ②

       『 流罪の宣命 ・ 望月の宴 ( 58 ) 』


世間の人々がどのように見、どのように思っていることかと恥ずかしくてたまらないと思っているうちに、かの名高い検非違使のすべてが、この邸(二条第・伊周らの邸。)の四方を取り囲んだ。どれもこれも、言いようもないほど恐ろしげな者ども(検非違使の配下には、「放免」と呼ばれる処刑を免除された罪人が、罪人の逮捕や移送や拷問にあたる者が多く、粗暴な振る舞いが多かった。)が立ちひしめいている様子に、小路大路の四、五町ばかりが人の行き来も出来ない状態である。
まことに気味悪い邸内の様子は、言うまでもなくざわめいているが、寝殿のうちにいらっしゃる人々は大勢ではあるが、ひっそりとしていて人の気配さえ感じられないほどで、悲哀に包まれている。
そのお邸を、このような卑しい者どもが取り囲んで、ここかしこから覗き込んでは騒いでいる気配が、何ともまがまがしい感じなのを、その様子を物の隙間から見いだしては、寝殿内にいる人々は皆、恐ろしさに胸が詰まり、堪え難い心地である。

殿(内大臣伊周)は、「もうとても逃れることは出来まい。何とかこの邸を抜け出して木幡(コハタ・宇治にある藤原氏代々の墓所。)に詣って、近くであれ遠くであれ、遣わされる所に行くことにしよう」とおっしゃられるが、この検非違使どもがひしめいている状態なので、尋常ではない鳥か獣にでもない限りは抜け出ることなど出来るものではない。
「夜中なりとも、亡き父上(道隆)の御霊に今一度参って、最後の別れにお目通りしたい」と言い続け、仰せられるままに、とても大きな水晶の珠ほどの御涙が次々とこぼれる有様は、これを見奉る人々の心中が穏やかで居られるはずがありますまい。
母の北の方(貴子)、宮の御前(中宮定子)、御おじの人々は、並の涙ではない血の御涙があふれ出てくるが、あの不気味な者どもが邸内に乱入しているので、検非違使どもがその者どもを厳しく制止してはいるが、とても乱暴を阻止できそうもない。

こうしているうちに、この乱暴な者どもが群がっている中をかき分けて、さすがにきちんと正装した者が、南面(ミナミオモテ・寝殿の正面)に真っ直ぐに参上して、これは一体何事か、と思っているうちに、宣命(センミョウ)というものを読み上げるのであった。
聞けば、「太上天皇(花山院)を殺し奉ろうとした罪が一つ、帝の御母后(東三条院詮子)を呪い奉った罪が一つ、朝廷以外の人が未だ行っていない大元帥法を私事として密かに行わせた罪により、内大臣を筑紫の師(太宰権師)として配流する。また中納言をば、出雲権守として配流する」ということを大声で読み上げるので、邸内の上の者も下の者も、あたりに響くほどの声で泣き出す有様に、この宣命を読み上げる人も慌てまごついている。
検非違使どもも涙をぬぐいつつ、哀れに悲しさが胸に迫る。その近辺の人々は誰もがこれを聞いて、門を閉ざしてはいるが、漏れ聞こえてくる泣き声に誘われて、涙を止めることなど出来るはずもない。

こうして、「宣命が下った今は、邸を出ていただきたい。日も暮れますので」と大声で催促するも、内からは誰も何かの返答もする人がいない。
帝の御もとにも、このように応答する人さえいない由を奏上させると、「どういう事だ。そのまま済むことではない。厳しく督促せよ」とのみ、何度も宣旨が下るが、こうしているうちに日も暮れてしまったので、内大臣殿は、「今夜こそ私を連れ出して下さい」と父殿(道隆)の御霊に念じられた効験があったのか、大騒ぎしていた人たちは、夜中頃にはすっかり寝入ったので、御おじの明順だけが一緒に供人二、三人ばかりと、こっそり案内されて抜け出された。
お心の内で、多くの大願をお立てになったその験(シルシ)であろうか、無事に脱出なさったのである。


太上天皇に矢を射かけるという、まことに前代未聞の大事を興したゆえの悲劇でございますが、まことに厳しい宣命が下されました。
そこには、朝廷内の激しい権力闘争が影響していることも、否定することは出来ない事件でございました。

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伊周 木幡に詣でる ・ 望月の宴 ( 59 )

2024-03-13 20:17:34 | 望月の宴 ②

     『 伊周 木幡に詣でる ・ 望月の宴 ( 59 ) 』


さて、包囲されている二条邸を無事脱出なさった伊周(コレチカ・藤原道隆の嫡男)殿は、そこから木幡(コハタ・藤原氏代々の墓所) に参上なさった。
月は明るいが、このあたりはたいそう木が繁っていて暗いので、確かこのあたりと見当をつけていらっしゃって、木幡山の近くで馬から下りられ、暗い沈んだお気持ちで繁みを分け入って行かれるが、木の間から漏れ出る月の明かりを頼りにされると、卒塔婆や釘貫(クギヌキ・墓所の柵)などがたくさん立っている。
その中に、これは去年の今頃に立てた物らしく、少し新しく見えるが、その頃から疫病で藤原氏の者が多く亡くなっているので、父殿(道隆)のお墓はどれかと探して、ようやく墓前に詣られた。

その墓前では、あれこれと訴え続けられて、身を投げ出してお泣きになられる気配に驚いて、山の中の鳥も獣も声を合わせて鳴き騒ぐ。
「もののあはれも・・・(引歌と思われるが不詳。)」などと胸に迫る悲しみを堪え難い気持ちなので、「父殿がご在世中には、誰よりも立派に出世する
ようにと、この私に配慮下さいましたのに、この身の宿世果報(スクセカホウ・宿命といった意味か)が拙いものですから、今はこのように都を離れて知らぬ土地に配流されて、ふたたびこのように御影にお目にかからせていただくことはございますまい。私自身としましては、過失があるとは思っておりませんが、前世の因縁でこのように情けない目に遭いましたので、何とかこのまま邸にも帰らず、今宵のうちに身を隠したいと思っています。亡き御影に対しても、名誉を汚し、後の世にまで汚名を流しますことは、まことに悲しいことでございます。どうぞ、この身をお護り下さい。

また、中納言(弟の隆家)も、同じように配流されることになりましたが、同じ方角でさえなく、別々の地に赴くことになり、悲しいことでございます。また、まがまがしいこの身はともかくも、宮の御前(妹である中宮定子)は、この数か月、懐妊中の身でありますのに、このような一大事にお遭いなさったので、まったく御薬湯さえもお召し上がらず、涙に暮れていらっしゃるのを、たいそう忌まわしく畏れ多いことと思っております。宮の御前を護衛する陣の前は、笠などは脱いで通るものですが、あのような無礼な者どもが御座所の周りにひしめいていて、御簾までも引き剥がすなどして、あまりにも非道で、畏れ多く悲しい有様でございますが、もし運良く御無事でいらっしゃることが出来ましても、御産の時にはどうなさるのでしょうか。頼りにならぬ私であってもお世話できれば良いのですが、行く末どうなるか分からぬ身となりましては、ぜひとも父殿の御霊が宮の御身からお離れにならず、なにとぞ安産なさるように、ご守護下さいますように。
また、申すも畏れ多いことではございますが、帝の御心にも、また女院(詮子・帝の生母。定子の叔母にあたる。)の御夢などにもお姿を現わして、今度の事で私に咎がないことが伝わるようお訴え下さいませ」などと、泣く泣くお訴えになり、涙に溺れていらっしゃる。
聞く人さえ居ない所なので、明順も声も惜しまず泣いていた。

やがて、その場所から取って返し、北野(北野神社。菅原道真が祀られていて、やはり政争に敗れ太宰権師として配流されている。)に詣られたが、その道のりはまことに遠く、辰巳の方より戌亥(東南から西北)の方角へと向かって進まれる。
北野に到着なさると、夜明けを告げる鶏の声が聞こえた。
そこにおいても、また泣く泣く身に降りかかる大事を訴え続けられ、この天神に御誓いをお立てになられたが、伊周殿は学才に優れたお方なので、申し上げられる内容はまことに立派である。
「神官に気付かれてはならない」と、急いで神社をお立ち退きになられる間に、すっかり夜が明けた。

これからどうしたものかと思案したが、二条邸に戻るのもそちらは不穏であるし、何とかこのあたりで時間を過ごし夕方になってからとお考えになるが、二条邸の御有様が思いやられ心配であるが、やはり、しばらくの間休息しようと思われて、右近の馬場(北野神社の東南に位置する。)のあたりでぐずぐずしていらっしゃった。
一方、二条邸の方には、「昨夜そのまま暮れてしまったことさえもっての外である。今日は早々に出立させよ」との宣旨が、度々下されていた。

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哀れなり 伊周 ・ 望月の宴 ( 60 )

2024-03-13 20:17:09 | 望月の宴 ②

       『 哀れなり 伊周 ・ 望月の宴 ( 60 ) 』


さて、二条邸においては、中納言(隆家)は在邸している様子であるが、師(ソチ・伊周のこと。すでに、内大臣から太宰権師に変わっている。)の方はどこにもおられないようだと奏上させると、「あってはならないことだ。中宮を然るべきお部屋でお守り申し上げた上で、塗籠(ヌリゴメ・主に納戸などに用いられるが、出入り口が一つで壁を厚くしており、建物の中で一番堅牢な部屋。)を開けて、天井の上まで探索せよ」とある宣旨が度々ある。
「御塗籠をお開け下さい。宮はお立ち退き下さい」と検非違使が申すので、今となってはどうすることも出来まいということで、然るべき几帳などを立てて中宮をお移し申し上げたが、そこがあまりに近い間なので、この検非違使どもだけでなく、何者とも知れぬような下人を使って、この塗籠を壊し騒ぐ音が、実にまがまがしく情けない状況である。

それにしても、世間というものはこれほど非情なものであったのかと、目もくらみ心もうつろで、涙さえ流れず、中納言殿は、茫然自失の状態で、薄鈍色(ウスニビイロ・喪服の色。父道隆の喪はすでに終っているが、なお喪に服していた。)の御直衣と指貫(袴)を着ていらっしゃって、茫然としておいでなので、人々は遠慮して近寄ることも出来ないでいたが、あの下賤の者どもが室内に踏み込み、してやったりという様子なのも嘆かわしい限りである。
さて、塗籠は開けさせたものの、内大臣(伊周。このあたり、身分はまだ徹底されていない。)はそこにはいない旨奏上させた。
「出家したのか。そうだとしても、ただ都の内を離れてはいるまい。よくよく捜索せよ」と、宣旨がしきりに下される。
検非違使どもは、涙ながらに同情しながらも、宣旨に従って捜索を続けたが、どこにもいらっしゃらないので、まったく驚き入ったことで、為す術も無くそのあたりを捜している。
さらに、夜昼絶えず見張るべし、との宣旨も次々とある。こうして、この日も暮れていった。

実に驚くべきことである。どうして内大臣の行方が分からないのであろうか。検非違使どもの失策で取り逃がしたということになれば、全員が罪に問われよう、などという声も聞こえてくるので、その夜は、一晩中寝ずに捜索しようと思って立ち騒いでいた。
すると、酉の時(午後六時頃)の頃、正体不明の網代車(アジログルマ・大臣などの略儀遠行用の牛車。)が、あたりの人々を怖れるふうもなく、供人二、三人を従えて、この宮(二条邸のこと。中宮定子がいるので「宮」と表現。)をさしてまっしぐらにやって来る。
不審に思って、この検非違使どもの配下の赤衣などを着た者ども(赤衣は牢獄の看守の制服であるが、追捕にもあたった。)が、さっと駆け寄っていって、「今頃、このような所にやって来るのは、どういう車だ」と言って、車の轅(ナガエ・車から前に長く出た二本の棒。)にさっと取り付くと、「誰でもない。殿が木幡に詣られていたが、ただ今お帰りになられたのだ」と言うのを聞いて、取り付いた者どもは皆引き下がった。

御車は、御門のもとに止めて、内大臣殿はお降りになった。検非違使どもは皆、階上から降りて地上に並んでいた。
見奉ると、御年は二十二、三歳で、御容姿は整い、ふっくらとして清らかで、肌の色がまことに白くご立派な方である。かの光源氏もこうであったかと、見上げ申し上げる。
(この時点では、源氏物語はまだ成立していないので、作者の誤表現と考えられます。)
薄鈍色の御衣の薄く綿を入れた物を三枚ばかりと、同じ色の御単衣の衣、御直衣、指貫も同じ色である。
御身の学才も御容姿も、この世の上達部(カンダチメ・上級貴族)とは遙かに優れていると世間では言われていた惜しむべきお方なのに、おいたわしく悲しいことかなと見奉るにつけ、涙をおさえがたく皆泣いた。

内大臣殿が、車に乗ったまま門をお入りにならず、中宮がおいでになるのを、ご自分だけでも敬意を表そうとなさっているのも、誠に心打たれるお姿である。
こうして、内大臣殿が帰邸なさったので、「師が木幡に詣っておられたが、ただ今お帰りになられた」と奏上させると、「すっかり夜も更けてしまったので、今夜は十分見張って、明日の卯の時(午前六時頃)に出立させよ」という宣旨が下ったので、夜通し寝ることなく立番して夜を明かした。
中宮、母北の方(貴子)、師殿(伊周。内大臣と師とが混在している。)は、手を取り合って為す術も無く困惑なさっている。

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