上りつめた先
平安時代、摂関政治と呼ばれる政治体制で宮廷の実権を握った藤原氏は、藤原道長という傑物が登場し、その子頼通は、藤原氏の最全盛期を生きた。
その絢爛華麗な平安王朝の栄華を欲しいままにした頼通が、最後に求めたものは何であったのだろうか。
藤原氏の祖は、中臣鎌足である。
大化の改新(乙巳の変)の功により、鎌足は天智天皇より藤原の性を賜った。ただ、それは、鎌足が死に臨んだ時のことで、彼が藤原の姓を名乗ることはなかった。
やがて、その子不比等が藤原氏を名乗ることが許され、わが国氏族に冠たる藤原氏が登場したのである。
朝廷内で辣腕をふるった不比等の四人の息子たちは、南家・北家・式家・京家の四家に分かれていくが、やがて平安時代中期には、他の氏族や同族との勢力争いを制した藤原北家は、不比等の時代を上回る基盤を固めていった。
清和天皇の外戚となった藤原良房は、人臣で初めての摂政となり、天皇家との婚姻をさらに進め、摂関政治という体制を整えていったのである。
朝廷内の権力争いは、藤原北家内の主導権争いとなっていくが、その中から藤原道長という摂関政治最大の人物が登場してくる。
道長の家が御堂関白家と呼ばれるのは、道長が晩年に法成寺という壮大な寺院を造営したことによるが、実は、道長は関白に就任したことはないのである。摂関政治というように、朝廷の権力を握るためには、関白に就くことは重要な条件であると考えられるが、道長はあえて関白職を避けたのである。
当時の公式な政府の最高機関である太政官会議には、摂政・関白は関与できない決まりになっていた。そのため、あえて太政官の首席である左大臣として公務執行にあたろうとしたと考えられる。
その道長は、朝廷の実権を掌握すると、一族による長期政権へに腐心したと思われる。そして、その最たるものは、長男頼通の教育であった。それも、徹底した実地教育ともいえるもので、自らの後継者に決めると次々と重責を譲っていったのである。
頼通が後一条天皇の摂政を父・道長から譲られたのは二十六歳のことで、道長は五十二歳で、まだまだ老け込む年代ではなかった。
道長が没するのは十年ほど先で、その間は道長が手厚く後見したことであろうが、その後頼通は道長の期待通りの政治家として辣腕を振るい、五十年にわたって関白職を務めるのである。
『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』
よく知られたこの和歌は、道長が詠んだものとされる。権力の絶頂期にあることを見事にまで表した和歌とはいえようが、いかにも傲慢で無神経な感がする。
この和歌が詠まれたのは、道長が頼通に摂政を譲った翌年のことで、三女が後一条天皇の中宮に上ったことを祝う道長邸での宴席で、即興に詠んだものと伝えられている。ただ、道長が書き残した「御堂関白記」にはこの和歌の記載はなく、祝宴に加わっていた藤原実資が書き残した「小右記」に記載されていることから後世に伝わったのである。
藤原実資は、従一位右大臣にまで上った貴族であるが、道長に対して批判的な人物だったようなので、この和歌を書き残したことに若干の悪意が感じられる。全く個人的な意見であるが。
あるいは、道長が書き残していないのは、さすがに少々調子に乗り過ぎたと考えたためかもしれない。
いずれにしても、当時道長が「欠けたるものがない」ほどの絶頂期にあったことは、決して過大な表現でなかったのである。
そして、その頃にはすでに摂政・内大臣になっていた頼通は、翌年関白に登り、以後五十年その地位を続けている。
月は満ちれば欠けるのが自然の摂理というものであるが、頼通は御堂関白家の絶頂期を保ったまま生涯のほぼすべてを貫き通しているのである。
その頼通が、欠けることのない絶頂期を続けている中で、その先に見据えているものがあったとすれば、それは何であったのだろう。
☆ ☆ ☆
藤原頼通は、正暦三年(992)、道長の長男として誕生した。
父の道長は二十七歳、すでに権大納言に上っていたが、同母の長兄である中関白家と呼ばれることになる藤原道隆の全盛期であった。道隆は一条天皇の中宮定子の父であり、後に道長は長女の彰子を入内させ後宮の中心人物にしていくのである。
長保五年(1003)、十二歳で元服し正五位下に叙される。
寛弘三年(1006)には、十五歳で従三位に叙されて公卿に列することになる。前年に道隆が没し、その後関白となった同母兄通兼(兼家の三男)は数日で死去、その後継をめぐっては道長と道隆の嫡男・伊周(コレチカ)と激しく争っていたが、すでに実権を握りつつあったことが窺える人事と考えられる。
長保五年(1016)、道長の圧力に屈するようにして三条天皇は後一条天皇に譲位した。後一条天皇は彰子が生んだ皇子である。
道長は天皇の外祖父という待望の地位を得て、摂政となる。名実ともに政権のトップに立ったのである。
しかし道長は、翌年には内大臣に進んだ頼通に摂政の地位を譲るのである。そればかりでなく、藤原氏長者の地位も頼通に与え、政権の最上位へと押し上げたのである。この時頼通は二十六歳、史上最年少の摂政であった。
もちろん、道長は頼通に対して手厚い後見を行い、実質的な最高権力者として君臨を続けている。ちょうど、次の時代に登場してくる上皇による院政の体制を一足先に敷いているかに見える。
道長の支援の下、頼通はさらに昇進を続けるが、先走っていた官職に実力も追いついて行く才気を示した。
頼通が藤原氏長者を譲られてからおよそ十年後に道長は世を去る。頼通は三十七歳になっていた。
この頃には、頼通は名実共に政権のトップに君臨していて、道長の期待に応えたわけである。そればかりでなく、頼通は八十三歳で亡くなっているが、関白職を五十年にわたって務めていることからも、長期政権を担っていたことがわかる。
ただ、晩年について言えば、入内させた娘に皇子が誕生しなかったこともあって、頼通とは疎遠な後三条天皇が即位したことや、刀伊の来寇(トイノライコウ・西暦1019年、満州民族の一派を中心とした海賊が、壱岐・対馬・筑前に侵攻した)や、平将門以来の大乱ともいえる平忠常の乱が房総半島で起こり、さらには前九年の役(東北)など政権を揺さぶるような事件も発生している。
藤原氏による摂関政治の頂点を極めた頼通であるが、結果としては、摂関政治の幕引き役を演じた形となり、時代は、上皇による院政や、武士の台頭を迎えることになるのである。
しかし、頼通自身の晩年について言えば、すでに政治的な野心は薄れていて、栄華の絶頂に上りつめた先に見えていたものは別の景色であったように思われる。もちろん、子孫への権力の移譲などの意欲は旺盛であったが、得られるものすべてを得て栄華の限りを尽くした先に見えたものは、別のものであったようである。
頼通が父・道長から受け継いだ広大な宇治殿を寺院に改めたのは、永承七年(1052)のことで、頼通が六十一歳の時である。
頼通が藤原氏長者を辞するのは七十三歳であり、関白を辞するのは七十五歳の時である。この事実からだけ見れば、政権の絶頂期での宇治院造営のように見えるが、当時の六十一歳は現在よりはるかに老境の域に入っていたと考えられる。実際に、父の道長が世を去ったのも六十三歳であった。
また、その当時は、いわゆる末法思想が貴族の間で広がっていて、有力者が大寺院を建立している。道長も巨大寺院を造営している。
宇治殿を寺院に改め、小野道風の孫にあたり園城寺の長吏を務めた明導を迎えて開山したが、これが平等院の始まりと伝えられている。
翌年には、極楽浄土をこの世に出現させようとしたかに見える荘厳な阿弥陀堂を建立した。現在に伝えられている鳳凰堂である。
平安後期、京都では皇族や有力貴族による巨大寺院の建立が相次いだが、災害や戦乱により、平等院も含めたすべての寺院は消失してしまっている。
その中にあって、唯一、千年の時を超えて奇跡的に現在にそのままの姿を残しているのが、平等院の中にあった鳳凰堂なのである。
貴族の頂点に立ち、栄華を欲しいままにした頼通が、最後に望んだものは、現世の中に極楽浄土を現出することであったのか。
あるいは、そのようなものを現出させることなど出来ないことを承知の上での夢の空間であったのか。
いずれにしても、頼通のその願いが、平安貴族の栄華の一端を現在に伝えてくれることになったのである。
現在、藤原頼通を知らない日本人は少なくないが、平等院の名前を知らない日本人は少ないと思われる。そう考えれば、頼通が上りつめた先に見ようとした光景は、無駄ではなかったような気がするのである。
( 完 )