雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行 上りつめた先

2014-04-27 08:00:55 | 運命紀行
          運命紀行
              上りつめた先

平安時代、摂関政治と呼ばれる政治体制で宮廷の実権を握った藤原氏は、藤原道長という傑物が登場し、その子頼通は、藤原氏の最全盛期を生きた。
その絢爛華麗な平安王朝の栄華を欲しいままにした頼通が、最後に求めたものは何であったのだろうか。

藤原氏の祖は、中臣鎌足である。
大化の改新(乙巳の変)の功により、鎌足は天智天皇より藤原の性を賜った。ただ、それは、鎌足が死に臨んだ時のことで、彼が藤原の姓を名乗ることはなかった。
やがて、その子不比等が藤原氏を名乗ることが許され、わが国氏族に冠たる藤原氏が登場したのである。
朝廷内で辣腕をふるった不比等の四人の息子たちは、南家・北家・式家・京家の四家に分かれていくが、やがて平安時代中期には、他の氏族や同族との勢力争いを制した藤原北家は、不比等の時代を上回る基盤を固めていった。

清和天皇の外戚となった藤原良房は、人臣で初めての摂政となり、天皇家との婚姻をさらに進め、摂関政治という体制を整えていったのである。
朝廷内の権力争いは、藤原北家内の主導権争いとなっていくが、その中から藤原道長という摂関政治最大の人物が登場してくる。
道長の家が御堂関白家と呼ばれるのは、道長が晩年に法成寺という壮大な寺院を造営したことによるが、実は、道長は関白に就任したことはないのである。摂関政治というように、朝廷の権力を握るためには、関白に就くことは重要な条件であると考えられるが、道長はあえて関白職を避けたのである。
当時の公式な政府の最高機関である太政官会議には、摂政・関白は関与できない決まりになっていた。そのため、あえて太政官の首席である左大臣として公務執行にあたろうとしたと考えられる。

その道長は、朝廷の実権を掌握すると、一族による長期政権へに腐心したと思われる。そして、その最たるものは、長男頼通の教育であった。それも、徹底した実地教育ともいえるもので、自らの後継者に決めると次々と重責を譲っていったのである。
頼通が後一条天皇の摂政を父・道長から譲られたのは二十六歳のことで、道長は五十二歳で、まだまだ老け込む年代ではなかった。
道長が没するのは十年ほど先で、その間は道長が手厚く後見したことであろうが、その後頼通は道長の期待通りの政治家として辣腕を振るい、五十年にわたって関白職を務めるのである。

『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』
よく知られたこの和歌は、道長が詠んだものとされる。権力の絶頂期にあることを見事にまで表した和歌とはいえようが、いかにも傲慢で無神経な感がする。
この和歌が詠まれたのは、道長が頼通に摂政を譲った翌年のことで、三女が後一条天皇の中宮に上ったことを祝う道長邸での宴席で、即興に詠んだものと伝えられている。ただ、道長が書き残した「御堂関白記」にはこの和歌の記載はなく、祝宴に加わっていた藤原実資が書き残した「小右記」に記載されていることから後世に伝わったのである。
藤原実資は、従一位右大臣にまで上った貴族であるが、道長に対して批判的な人物だったようなので、この和歌を書き残したことに若干の悪意が感じられる。全く個人的な意見であるが。
あるいは、道長が書き残していないのは、さすがに少々調子に乗り過ぎたと考えたためかもしれない。

いずれにしても、当時道長が「欠けたるものがない」ほどの絶頂期にあったことは、決して過大な表現でなかったのである。
そして、その頃にはすでに摂政・内大臣になっていた頼通は、翌年関白に登り、以後五十年その地位を続けている。
月は満ちれば欠けるのが自然の摂理というものであるが、頼通は御堂関白家の絶頂期を保ったまま生涯のほぼすべてを貫き通しているのである。
その頼通が、欠けることのない絶頂期を続けている中で、その先に見据えているものがあったとすれば、それは何であったのだろう。


     ☆   ☆   ☆

藤原頼通は、正暦三年(992)、道長の長男として誕生した。
父の道長は二十七歳、すでに権大納言に上っていたが、同母の長兄である中関白家と呼ばれることになる藤原道隆の全盛期であった。道隆は一条天皇の中宮定子の父であり、後に道長は長女の彰子を入内させ後宮の中心人物にしていくのである。

長保五年(1003)、十二歳で元服し正五位下に叙される。
寛弘三年(1006)には、十五歳で従三位に叙されて公卿に列することになる。前年に道隆が没し、その後関白となった同母兄通兼(兼家の三男)は数日で死去、その後継をめぐっては道長と道隆の嫡男・伊周(コレチカ)と激しく争っていたが、すでに実権を握りつつあったことが窺える人事と考えられる。

長保五年(1016)、道長の圧力に屈するようにして三条天皇は後一条天皇に譲位した。後一条天皇は彰子が生んだ皇子である。
道長は天皇の外祖父という待望の地位を得て、摂政となる。名実ともに政権のトップに立ったのである。
しかし道長は、翌年には内大臣に進んだ頼通に摂政の地位を譲るのである。そればかりでなく、藤原氏長者の地位も頼通に与え、政権の最上位へと押し上げたのである。この時頼通は二十六歳、史上最年少の摂政であった。
もちろん、道長は頼通に対して手厚い後見を行い、実質的な最高権力者として君臨を続けている。ちょうど、次の時代に登場してくる上皇による院政の体制を一足先に敷いているかに見える。

道長の支援の下、頼通はさらに昇進を続けるが、先走っていた官職に実力も追いついて行く才気を示した。
頼通が藤原氏長者を譲られてからおよそ十年後に道長は世を去る。頼通は三十七歳になっていた。
この頃には、頼通は名実共に政権のトップに君臨していて、道長の期待に応えたわけである。そればかりでなく、頼通は八十三歳で亡くなっているが、関白職を五十年にわたって務めていることからも、長期政権を担っていたことがわかる。
ただ、晩年について言えば、入内させた娘に皇子が誕生しなかったこともあって、頼通とは疎遠な後三条天皇が即位したことや、刀伊の来寇(トイノライコウ・西暦1019年、満州民族の一派を中心とした海賊が、壱岐・対馬・筑前に侵攻した)や、平将門以来の大乱ともいえる平忠常の乱が房総半島で起こり、さらには前九年の役(東北)など政権を揺さぶるような事件も発生している。

藤原氏による摂関政治の頂点を極めた頼通であるが、結果としては、摂関政治の幕引き役を演じた形となり、時代は、上皇による院政や、武士の台頭を迎えることになるのである。
しかし、頼通自身の晩年について言えば、すでに政治的な野心は薄れていて、栄華の絶頂に上りつめた先に見えていたものは別の景色であったように思われる。もちろん、子孫への権力の移譲などの意欲は旺盛であったが、得られるものすべてを得て栄華の限りを尽くした先に見えたものは、別のものであったようである。

頼通が父・道長から受け継いだ広大な宇治殿を寺院に改めたのは、永承七年(1052)のことで、頼通が六十一歳の時である。
頼通が藤原氏長者を辞するのは七十三歳であり、関白を辞するのは七十五歳の時である。この事実からだけ見れば、政権の絶頂期での宇治院造営のように見えるが、当時の六十一歳は現在よりはるかに老境の域に入っていたと考えられる。実際に、父の道長が世を去ったのも六十三歳であった。
また、その当時は、いわゆる末法思想が貴族の間で広がっていて、有力者が大寺院を建立している。道長も巨大寺院を造営している。

宇治殿を寺院に改め、小野道風の孫にあたり園城寺の長吏を務めた明導を迎えて開山したが、これが平等院の始まりと伝えられている。
翌年には、極楽浄土をこの世に出現させようとしたかに見える荘厳な阿弥陀堂を建立した。現在に伝えられている鳳凰堂である。
平安後期、京都では皇族や有力貴族による巨大寺院の建立が相次いだが、災害や戦乱により、平等院も含めたすべての寺院は消失してしまっている。
その中にあって、唯一、千年の時を超えて奇跡的に現在にそのままの姿を残しているのが、平等院の中にあった鳳凰堂なのである。

貴族の頂点に立ち、栄華を欲しいままにした頼通が、最後に望んだものは、現世の中に極楽浄土を現出することであったのか。
あるいは、そのようなものを現出させることなど出来ないことを承知の上での夢の空間であったのか。
いずれにしても、頼通のその願いが、平安貴族の栄華の一端を現在に伝えてくれることになったのである。
現在、藤原頼通を知らない日本人は少なくないが、平等院の名前を知らない日本人は少ないと思われる。そう考えれば、頼通が上りつめた先に見ようとした光景は、無駄ではなかったような気がするのである。

                                                   ( 完 )



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運命紀行  才女の娘 

2014-04-15 08:00:03 | 運命紀行

          運命紀行
               才女の娘

小馬命婦(コマノミョウブ)について詳しく知りたいと思った。

平安時代には、現在に伝えられている小馬命婦は二人いる。
円融院の皇后に仕えた小馬命婦については、すでに『森の下草』という見出しを付けて本稿で紹介済みである。この女房は、当時一流の歌人として、勅撰和歌集に七首収録されていて、歌集も伝えられている。当時の宮廷女房の生涯を知ることは難しいが、ある程度推察するだけの資料はあった。
しかし、もう一人の小馬命婦については、私などが手にすることができる資料は極めて少ない。
そのような女性を本稿の主人公になぜ選んだのかとなれば、その理由はただ一つで、平安王朝文学における随一の才媛といっても過言でない清少納言の娘だからである。

小馬命婦の生没年は全く分からない。
父は、摂津守を務めた藤原棟世(ムネヨ)である。棟世は、藤原南家の出身であるが、当時絶大な権力を握っていた藤原道長との関係は悪くなかったらしい。最終官位は、正四位下左中弁というから、大国の国守より上位に至っている。やはり生没年は不詳であるが、清少納言より二十歳ほど年上であったらしい。
母は、清少納言である。清少納言の実家も受領層にあたる中級の貴族であるが、父の清原元輔・曽祖父の清原深養父は、名高い歌人であり知識人として功名な人物である。清少納言が当時男性の学問とされていた漢詩などの知識を身につけていたのには、恵まれた家庭環境があった。
紫式部などもそうであるが、当時の女流文学の担い手には受領層の娘が多い。その理由は、受領層は貴族としては中下級であるが、地方官の実入りは多く、特に国守ともなれば、経済的には相当うま味があったようで、「枕草子」などにも任官希望者が多かったことが描かれている。
その恵まれた経済力を背景として、幼い頃から教育され、摂関政治の興隆もあって、女房として教養を発揮させる場面が増えたことにあるようだ。

小馬命婦の誕生の年を探る唯一の方法は、清少納言の動向から推察することであった。
清少納言は、康保三年(966)に誕生したとするのがほぼ定説である。藤原道長、藤原公任などとほぼ同年である。
十六歳の頃、一歳年上の橘則光と結婚、翌年則長を生んでいる。則光も受領層の貴族で、後年には陸奥守になっている。則長もやはり越中守に昇っている。則光という人物は、誠実な人柄ではあるが無骨な人物らしく、漢学や和歌などに秀でていた清少納言とは合わない面があったらしく、十年ほど後に離婚したらしい。しかし、その後も兄と妹といわれるような親しい関係であったらしく、「枕草子」にも度々登場している。
正暦四年(993)の冬の頃に、一条天皇の中宮定子のもとに出仕した。清少納言二十八歳、中宮定子十八歳、一条天皇十四歳の頃のことである。
定子の実家・中関白家の絶頂期である。しかし、その僅か一年半ほど後に定子の父関白藤原道隆が没すると、その弟である道長が台頭してくるとともに、中関白家は没落の一途をたどり、定子も、道長の娘彰子にその地位を奪われていくのである。
失意の定子は、長保二年(1000)十二月、第三子出産の後没した。

清少納言は、定子崩御の翌年に宮中を離れたようだ。清少納言三十六歳の頃で、その前後の頃に藤原棟世と再婚しているが、その時期ははっきりしない。
結婚後には、棟世の任地先である摂津に下ったようであるが、夫は何年も経たないうちに亡くなっている。やはり正確な時期は分からない。
これらの断片的な情報から推定すれば、小馬命婦の誕生は、西暦1000年の前後数年の間と考えられる。個人的には、清少納言が宮仕えを辞すにあたっては、出産を控えていたことも理由だったのではないかと考えている。
全くの想像にすぎないが、当時道長の権力が日増しに強まっている時期であり、才能豊かな女房を集めていた道長が清少納言を簡単に退出させたとは思われないからである。亡き定子への貞節を通すということもあったとしても、道長とは宮仕えを通して面識があり、無下にはねつけることは難しかったように思われるからである。それに、その頃はまだ彰子には子供はなく、定子と彰子の対立はそれほど激しいものではなく、定子の遺児養育のためにも清少納言が道長あるいは彰子に仕えるという選択肢もあったように思われるのである。

この推定に立てば、小馬命婦の誕生は、長保三年(1001)かその翌年ということになる。
清少納言にすれば、敬愛してやまない定子の生まれ変わりのように感じられる、珠玉の姫であったことだろう。
幸い、先に述べたように、国守を歴任する家は、経済的には恵まれていた。おそらく小馬命婦は、平安期最高の才女である母の選んだ人物の指導を受け、あるいはその母自らの教育を受けて、教養豊かな女性に育ったものと思いたい。

しかし、その後の小馬命婦の消息については、上東門院(中宮彰子)に女房として仕えたということ以外は分からないのである。


     ☆  ☆  ☆

平安時代の才女を二人挙げるとすれば、清少納言と紫式部を挙げる人が多いのではないだろうか。
もちろん、王朝文学全盛の時代なので、好みや選考の視点によって候補となる人物は少なくないとも考えられる。しかし、やはり、現代まで伝えられている「枕草子」と「源氏物語」の著名度は圧倒的といえる。
さらに、清少納言と紫式部が対立関係にあったらしいといった話もあって、その興味からも二人の存在が際立ってくる。

確かに、一条天皇の御代、ともに中宮となる定子と彰子をめぐる権力闘争は激しいものであった。( 正しくは、彰子が中宮になった時には、定子は皇后となっている。)
清少納言が仕えた定子の実家は、関白道隆の中関白家。紫式部が仕えた彰子の父は道長で、後に御堂関白家と呼ばれることになる。道隆と道長は兄弟であるが、道隆が没した後、その子らと道長は激しい権力闘争のあと中関白家は没していく。
定子は、一条天皇の第一皇子を儲けているが、九歳年下の彰子の生んだ皇子に後継者の地位を奪われている。中宮(皇后と同位)が生んだ第一皇子が後継から外されるのは極めて異例なことで、道長の権力のすさまじさが窺える。
そして何よりも、定子は第三子の出産のため、二十五歳の若さで世を去っているが、彰子は八十七歳までの長寿に恵まれ、二人の天皇の母となっている。
当然、定子・彰子に仕えた二人にも、激しい対抗意識があったと考えてしまいがちであるが、実際は少し違う。

まず第一に、清少納言と紫式部は一度でも顔を合わせたことがあったのだろうか。少なくとも、交流というほどの出会いはなかったと考えられる。
紫式部の生没年も確定しがたいので、年齢等も推定になるが、清少納言の方が七歳ほど年上である。(四歳あるいは十二歳という説もある)
紫式部も受領の家柄であるが、若い頃の消息は定かでないが、母親とは早くに死別している。学問は父親の薫陶を受けて和歌ばかりでなく漢学もよく学んだというから、清少納言とよく似ている。二十代の半ば頃には父の任国である越前に同行していたようで、長徳四年(998)に帰京してやはり受領層の藤原宣孝と結婚、二十六歳の頃である。二十九歳であったという説もあるが、いずれにしても当時としてはかなり晩婚であった。
翌年には一女(後の大弐三位)を儲けたが、三年後には夫を亡くしている。
長保三年(1001)のことで、この頃から「源氏物語」を書き始めたとされ、二年ほどで完成したらしい。

紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは寛弘二年(1005)末のことで、(次の年という説もある)すでに「源氏物語」が話題になっていて、それにより道長に勧誘されたものであろう。
「源氏物語」を書き上げるからには、宮廷との直接あるいは間接の接点があったと考えられるが、正式な宮廷デビューはこの時なのである。清少納言は、すでに四年ほども前に出仕を辞しているのである。
「枕草子」の完成は、一応長保三年(1001)頃には完成し、さらにその後も若干書き加えられているが、最初に宮廷に知られるようになったのは、長徳二年(996)に源経房が持ち出したことが切っ掛けとされており、「源氏物語」が書き始められる頃には、すでに作品として認知を受けていたと思われる。

二人の仲が悪い云々の一番の根拠は、「紫式部日記」の中で、清少納言について「深くもない漢詩文の知見をひけらかす」と酷評していることにある。
しかし、清少納言は紫式部について書いている部分は全くない。「枕草子」の中で、紫式部の夫となった宣孝について、その奇抜さを皮肉っている一文があるが、大分前のことで紫式部を意識してのものではない。ただ、紫式部はその一文を見ている可能性は高い。
したがって仲が悪い云々は、紫式部が一方的に感じていたことで、清少納言がその一文を書く段階では、紫式部も「源氏物語」も全く意識していなかったはずである。

紫式部は長和三年(1014)始め頃までは宮仕えをしていたと思われるが、その後消息が絶えている。この頃に死去したとも、寛仁三年(1014)頃に死去したとも言われている。
清少納言は、宮仕えを辞した後、再婚した夫とともに国守夫人として摂津に赴いたらしい。ただ、夫の棟世はほどなく他界したようである。晩年は、亡父清原元輔の山荘のあった京都東山辺りに住んだらしい。そして、かねてから交流のあった藤原公任や、彰子付きの女房である和泉式部や赤染衛門らとも交流があったとされるが、紫式部の名前は出てこない。
また、清少納言が晩年零落したという説もあるようだが、清原家は健在であり、息子の橘則光も国守となっていることなどから、宮廷時の華やかさを失った生活ということであって、著しい零落などは考えにくい。
いずれにしても、悲劇的な最期を迎えた中宮定子に仕えた清少納言の作風は「陽」といえるのに対して、栄華をほしいままにした中宮彰子に仕えた紫式部の作風はそれに比べれば遥かに「陰」であることも、二人を対比させたい要因になっているようである。

そして、この二人の才女の娘たちであるが、紫式部の娘は、母の跡を継ぎ彰子の女房として出仕している。母と違って社交的な女性であったらしく、多くの浮名を残したようであり、歌人としても優れ、その和歌は小倉百人一首にも採用され今に伝えられている。さらに、万寿二年(1025)には、のちの後冷泉天皇の誕生とともにその乳母に任ぜられ、即位後従三位が与えられている。大弐三位という女房名は、夫の官職とともに付けられたものと思われるが、従三位といえば男性なら公卿と呼ばれる身分なのである。
大弐三位は、八十三歳の頃まで長寿を保ち、母を超える栄華を手にしたようである。

一方の清少納言の娘である小馬命婦も、彰子のもとに仕えている。
清少納言をよく知っている道長がその代わりのように出仕を求めたのか、あるいは清少納言が宮中に出向いて娘の出仕を願い出たものかもしれない。
ただ、その後の小馬命婦の消息は、残念ながら全く探ることができない。歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに、穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。
勅撰和歌集に伝えられている小馬命婦の和歌は、「後拾遺和歌集」に載る一首のみである。

『 その色の草とも見えず枯れにしを いかに言ひてか今日はかくべき 』

                                                ( 完 )


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運命紀行 平安王朝の全盛期

2014-04-03 08:00:53 | 運命紀行
          運命紀行
               平安王朝の全盛期

平安時代とは、当然のことではあるが、京都平安京に都にあった期間を指す。
その始まりの時は、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都した西暦794年であり、鎌倉時代の始まりを以ってその終わりとなるが、その時期については二つの考え方がある。かつては、源頼朝が征夷大将軍に就任した西暦1192年というのが一般的であったが、最近では、平家が壇ノ浦で滅び去った1185年とする意見も有力である。
いずれを取るとしても、平安時代の期間は三百九十年を超え、江戸時代より百二十年以上も長いのである。

この期間の天皇は、平安京を開いた第五十代桓武天皇から、壇ノ浦で平家一族と悲劇を共にした第八十一代安徳幼帝、あるいは波乱の生涯を送った第八十二代後鳥羽天皇までということになる。
この間に在位された天皇は、三十二人、あるいは三十三人となり、今上天皇が第百二十五代であることを考えれば、歴史上に占める平安時代の重さが感じられる。

さて、平安時代に在位された天皇のうち、もっとも繁栄の時を治められたのはどの天皇であったのか。
在位期間の長さからいえば、第六十代醍醐天皇の三十三年間というのが最長であり、第六十六代一条天皇の二十五年間が続く。在位期間の長さがその御代が繁栄したということとは必ずしもつながらないし、特に平安中期以降は上皇による天皇家支配が濃厚になっていくので、その関連性は薄いと考えられる。しかし、そうとはいえ、在位期間が長いということは、その時代が比較的平安であったということは言えよう。

また、繁栄ということをどのような視点から捉えるかということによってその判断が大きく変わってくることも確かである。
天皇親政による繁栄期という視点に立ては、最長の在位期間を誇る醍醐天皇と考えられる。在位期間が二十一年に及ぶ第六十二代村上天皇の御代も優れた親政が行われたとされるので、この頃が、天皇政治の頂点であったのかもしれない。
後に、何かと騒乱の中心となることの多かった後醍醐天皇は、醍醐天皇の御代にあこがれた面が多々あったらしい。
それでは、いわれるところの絢爛豪華な王朝文化の全盛期はいつであったのかということになると、一条天皇の御代ということになるのではないだろうか。

一条天皇の在位期間は二十五年にも及ぶが、即位したのが七歳の時であり、時代は藤原氏の全盛期にあたることからも、天皇政治としては親政と呼ばれるほどの活動は見せていないように思われる。
しかし、平安時代の中で、絢爛と咲き誇る王朝文化の頂点がいつであったのかと考えてみれば、どうやら一条天皇の御代であったように思われるのである。その時代は、道長を中心とした藤原氏の全盛期でもあるので、ややもすると藤原氏の時代であったと考えられがちであるが、それも少し違う気がする。
そもそも、天皇親政ということが、社会秩序や国家の繁栄にとってそれほど重要なことであるのかは意見が分かれるところであろうが、天下を治めるにあたっては、国家の範囲が大きくなればなるほど一人や二人の偉人だけで統率することなど困難なことである。やはり補佐すべき人物、あるいはその集団が有能であることが重要なように思われる。

少なくとも歴史の流れをみる限り、天皇であれ、取って代わるほどの存在感を示した人物であれ、一人の権力が拡大しすぎた後には崩壊していくのが自然の流れとしてあるように思われる。
例えば、江戸時代、すなわち徳川氏による幕府政治があれほどの長期政権を保つことが出来たのは、組織の頂点にある徳川将軍に政治の全権を与えなかったことにあるように思われるのである。
一条天皇の御代は、藤原道長という傑物が政治の頂点に立った時代であり、天皇の存在など摂関政治の為の道具立ての一つのように言われることもあるが、宮廷を中心とした王朝文化の繁栄は、そのような単純な図式ではなかったはずである。


     ☆   ☆   ☆

一条天皇は、天元三年(980)六月、第六十四代円融天皇の第一皇子として誕生した。
円融天皇の父は村上天皇であり、醍醐天皇は祖父にあたる。醍醐天皇、村上天皇といえば、先に述べたように、平安時代のうちでは天皇政権が最も強固な御代であったと考えられる。従って、一条天皇が誕生した時代は、皇位をめぐる争いはし烈であったが、天皇政権全体としては安定した時期であったと考えられる。
さらに言えば、円融天皇の皇子・皇女は、一条天皇ただ一人であったことも、一条天皇の御代が長く続いた一因なのかもしれない。

生母は、藤原兼家の次女詮子(センシ/アキコ)である。兼家の長女超子(チョウシ/トオコ)も冷泉天皇の女御として入内していて、後の三条天皇を儲けている。
兼家は、藤原北家の嫡流であり、次兄の兼通との壮絶な出世争いを演じており、兼通生存中は不遇の時代もあったが、ついに氏の長者となり摂政・関白・太政大臣を務めて、藤原氏全盛時代を開いた人物なのである。
兼家の子供には、上記の通り二人の娘は内裏に入り、長男道隆は兼家の跡を継いで絢爛たる王朝文化を花咲かせ、五男の道長はその絶頂期を作り上げていったのである。

一条天皇は、七歳の時に即位した。
突然の即位であったが、花山天皇がまだ十九歳の身でありながら突然出家し退位したことから、幼い一条天皇が誕生したのであるが、それには激しい政権争いが絡んでいたとされる。自分の娘出自の天皇誕生を待ちきれなかった兼家の陰謀により、花山天皇は出家することになってしまったとされるが、詳細は割愛する。
ただ、花山天皇はわずか二年足らずで退位しているが、その人物については何かの問題もあったとする記録もある。
いずれにしても、激しい政争の結果として誕生した一条天皇であるが、何分まだ幼く、天皇にとっては遠い所での出来事であったといえる。
兼家の跡は長男の道隆が継ぎ、絶大な権力基盤を確固たるものとしていった。

正暦元年(990)一月、一条天皇は十一歳で元服し、道隆の長女定子を女御として迎えた。
定子はこの時十五歳。この年のうちに中宮となる。なお、中宮というのは皇后と同一の地位である。
絶大な権力を有していた兼家はこの年に没するが、道隆はその権力を引き継ぎ、天皇外戚として藤原氏の全盛を築いていった。
そして、まだ少年といえる天皇のもとに嫁いだ定子こそが、平安王朝文学の興隆に大きなインパクトを与えた女性ということができるのである。
定子は、才色兼備の実に魅力的な女性であったことは、「枕草子」の随所にみられるとおりであるが、一条天皇も文芸や管弦に秀でていたとされるのには、定子の影響も少なくなかったと考えられるのである。
平安王朝文学を代表する一人である清少納言が定子のもとに出仕したのは、定子が中宮となった三年ほど後のことであるが、定子を取り巻く女房たちには教養豊かで文芸に優れた人たちが集められたらしい。その結果として、文芸に秀でた公卿や殿上人たちの出入りも多くなっていったはずである。

やがて、長徳元年(995)に道隆が死去すると、定子を取り巻く繁栄は陰りを見せ始める。
そして、道隆の嫡男伊周らとの政争を制した道隆の弟道長は、栄華の絶頂へと向かう。
一条天皇の後宮においても、その繁栄の中心は道長の長女彰子へと移っていった。やがて定子は皇后宮を号し、彰子は中宮となり二人の皇后が誕生するのである。
道長は、一条天皇の寵愛を定子から彰子に向かわせる手段の一つとして、彰子の周りにも教養豊かな女房を集めていったのである。
和泉式部・赤染衛門・紫式部・伊勢大輔など今日までその名が伝えられるほどの人たちを彰子のもとに出仕させ、この二人の皇后を取り巻く女房たちの競い合いと、藤原氏全盛という経済的な基盤も加わって、絢爛豪華な王朝文学が花開いたのである。

なお、彰子にその栄華の地位を奪われた形の定子は、長保二年(1000)十二月、三人目の御子を出産ののち亡くなっている。享年二十五歳であった。
彰子は、後一条天皇・後朱雀天皇の母となり、八十七歳で没している。
一条天皇は、寛弘八年(1011)六月、冷泉天皇の皇子である皇太子(三条天皇)に譲位した数日後に崩御した。二十五年にわたる在位であったが、享年はまだ三十二歳であった。
一条天皇は、もっと早い時期での譲位を望んでいたが、外戚の地位を失いかねない道長の反対にあって、死の直前まで実現しなかったといわれている。
また、晩年には、天皇親政を目指す意向もあったらしく、彰子・道長らとは、必ずしも盤石な関係ではなかったという説もある。

現在私たちがこの時代のことを紐解くとき、一つは女流文学の全盛期としてであり、いま一つは道長を中心とした藤原氏による摂関政治であることが多い。
しかし、この時代に花開いた絢爛豪華な文化を考えるとき、女房たちの教養や、道長らの政治力だけにその源泉を求めても、満足できる答えは得られないはずである。
一条天皇という人物の、それも単なる第六十六代天皇としての存在感だけではない人間味を、今少し詳しく学ぶ必要があるように思うのである。

                                                        ( 完 )


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運命紀行  森の下草

2014-03-16 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               森の下草

「新古今和歌集」に小馬命婦(コマノミョウブ)の歌が一首のみ採録されている。

『 露の身の消えばわれこそ先立ため 後れんものか森の下草 』

歌意は、「露のような身であなたが亡くなられるのであれば、わたしが先立ちましょう。あなたに後れることなど決してございません、たとえ森の下草のようなこの身であっても」といった、実に激しく切ないものである。
この歌は、「返し」となっていて、その前には、小馬命婦に贈った歌が載せられている。

「わずらひける人のかく申し侍りける」
『 長らへんとしも思はぬ露の身の さすがに消えんことをこそ思へ 』
歌意は、「生き長らえるとは思っていない露のような身だが、やはり、露のように消えていくことを悲しく思う」と、うったえているものである。

この二首は、「小馬命婦集」に載せられていたものをそのまま「新古今和歌集」が採録したものなので、他にもこのような例は多い。
従って、後の和歌の添え書きがこのような形になっているのは、小馬命婦が書き添えたものをそのまま採録されたためである。
この歌の贈り主は、「新古今和歌集」では「読み人知らず」とされているが、小馬命婦集から、藤原兼通の子である阿闍梨からだということがわかっている。
当時の阿闍梨は、女性との交際が禁断の世界ではなかったような例がたくさん見受けられるが、それにしても、たった二首の和歌が、二人の関係を様々に思い描かせてくれるもののように思われる。

小馬命婦は、次のような歌も残している。
『 数ならぬ身は箸鷹の鈴鹿山 とはぬに何の音をかなせむ 』
歌意は、「物の数にもあたらないこの身は、箸鷹(ハシタカ・小型のタカの一種)の足に付けた鈴のように、鈴鹿山を越えるあなたから便りがないのに、わたしがどんな音信をすればよいのでしょうか」と、恨み言のような内容の一首である。
この歌は、「伊勢に下った男性から、「鈴鹿山を越えるというのに、あなたから何の音信もないのは悲しいことだ」と言ってきたことに対する「返し」の歌と添え書きがある。
この相手が、先の阿闍梨と同一人物なのかどうかは分からない。また、この歌には、「鈴鹿と鈴と音信」「箸鷹と はした(身分が低いこと)」などの縁語といった技巧がなされているようであるが、それはともかく、先の歌とともに、自分をずいぶん卑下しているように感じられてならないのである。
当時の歌や物語などによく見られるような、単なる言葉の綾なのか、実際にそのような環境にあったのか、あるいは必要以上にそのようなことを感じる女性であったのか、それを知りたいと思ったのである。

しかし、小馬命婦の残されている消息は極めて少ない。
「小馬命婦集」という家集があり、勅撰和歌集には全部で七首採録されている一流の歌人なのにである。また、「何々命婦」という呼び名は、当時の文献にたくさん登場してくるが、平安時代の頃になると、「従五位下以上の位階を有する女性、あるいは官人の妻」が付けることが多く、内侍司に仕える女性だったようである。但し、命婦は官職ではなく、ある程度身分を表す称号のようなものであったようだ。
従五位下以上ということは、概ね殿上人に当たる位で、命婦と呼ばれる女房は、いわゆる中臈クラスだったと考えられる。
摂関家や、公卿階級とは明らかな差はあるとしても、天皇や中宮の側近くに仕える身分に不足はなかったはずと考えられる。
さらに言えば、元良親王(陽成天皇第二皇子)・藤原高遠(正三位太宰大弐)・清原元輔(肥後守、清少納言の父)といった身分のある歌人と贈答歌を交わしているのである。

しかし、小馬命婦は、自らを「森の下草」とたとえているのである。


     ☆   ☆   ☆

小馬命婦の生没年、両親の名前は不詳である。
当時の女性の名前や生没年が詳らかでないことは珍しいことではない。しかし、歌集に名を残したり政権の側近くにあった人の、血縁について全く分からないという人はあまりない。

実は、本稿を書くにあたって、主人公として考えた「小馬命婦」は、清少納言の娘のことだったのである。
清少納言の娘については、「上棟門院小馬命婦」として、本稿の小馬命婦と区別されていることが多いが、現在でもこの二人が混同されている文書もある。さらに言えば、小倉百人一首にも採録されている歌人である周防内侍の母親も、「小馬内侍」と呼ばれた女性らしいので、少々ややこしい。
「加賀」とか「伊勢」といった名前であれば、紛らわしい人物が登場してきても不思議でないが、「小馬」という名前も、当時としてはありふれていたのだろうか。

それはともかく、明らかになっている足跡を追ってみよう。
小馬命婦が最初は藤原兼通に仕え、後に円融天皇のもとに入内した媓子(コウシ)に仕えた女房であったことは確かとされる。
藤原兼通は、西暦925年から977年まで生きた人物で、藤原北家九条流を率いて関白・太政大臣を務めている。妹の安子は、第六十二代村上天皇の中宮となり、第六十三代冷泉天皇・第六十四代円融天皇を儲けている。
天皇家とのつながりを背景に、兼通は絶大な権力を握り、関白に就任するとその翌年、天禄四年(973)二月に娘の媓子を円融天皇のもとに入内させた。
この時、媓子は二十七歳になっていた。当時の公卿の姫としては異例なほど遅い結婚で、何らかの事情があったと考えられるが、媓子は大変優れた人柄であったとも伝えられているので、兼通が皇室に入れる機会を待ち続けていたというのがその理由のように思われる。

二十七歳の媓子に対して、円融天皇は十二歳下で、満年齢でいえば十四歳になる直前にあたり、まだ少年の面影を残していたかもしれない。二人は、いとこにあたる関係でもあるが、入内の年の七月には媓子は中宮となり、その仲はとても睦まじかったとされる。
しかし、入内後六年にして媓子は世を去った。享年三十三歳である。
その死にあたって、円融天皇の悲しみはとても大きく、その時詠んだ歌が残されている。
『 思ひかね眺めしかども鳥辺山 果てはけぶりも見えずなりにき 』 (鳥辺山は葬送の地)

さて、小馬命婦であるが、何歳の頃、どういう経緯で藤原兼通の女房として出仕したのか分からない。
たとえ宮中でなくても、摂関家への出仕であるから、その素性などは当然問われたはずである。おそらくは、藤原氏か妻女などと何らかの縁故があったと考える方が自然と思われる。さらに、命婦と名付けられるからには、実家は中級貴族、例えば地方長官を務めるほどの家柄であったと考えられる。例に挙げるのが適切か否か分からないが、清少納言や紫式部の実家というのがその階級にあたる。

やがて媓子が入内するにあたって、小馬命婦は宮中に移り媓子に仕えることになったと思われる。もちろん官職としての出仕ではなく、女御(後に中宮)媓子に仕える女房としてであり、その際多くの女房が集められたと思われるが、実家から送り込まれた女房たちの役割は重視されていたと考えられる。
また、小馬命婦の年齢であるが、全く勝手な想像であるが、媓子といくつも違わない年齢であったと思われるのである。
小馬命婦が兼通・媓子以外に仕えたという記録が見当たらないので、媓子没後間もなく、宮中を去ったのではないか。
その頃には兼通も世を去っているので、藤原家に戻って出仕したという可能性も低い気がする。結局小馬命婦は、媓子と同じように、六年ばかりだけ華やかな宮中生活をしただけで、その後は、再びいずれかの家に出仕したのか、結婚生活に入ったのかは分からないが、歴史の光が届く場所からは消えてしまったのではないだろうか。

しかし、そのごく限られた中で、冒頭に挙げたような激しい恋をし、それでいながら「森の下草」と自らをたとえるような控え目な人柄が、今日その姿を謎めかせることになってしまったように思うのである。
残念ながら、小馬命婦については、ごく一般的な情報源にある以上の事実も、推定も手にすることができなかったが、冒頭の二首を味わうだけでも、魅力あふれる平安王朝の女房のように思われてならないのである。

                                                  ( 完 )





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運命紀行  夢のうちにありながら

2014-03-10 08:00:50 | 運命紀行
          運命紀行
               夢のうちにありながら

『 旅の世にまた旅寝して草枕 夢のうちにも夢をみるかな 』

これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて大僧正までも昇り詰めた僧・慈円の和歌で「千載和歌集」に採録されているものである。

「新古今和歌集」は、八代集とも呼ばれる勅撰和歌集の最後のもので、後鳥羽院の下命により藤原定家ら六名が撰者に選ばれているが、この和歌集編纂にあたっては、後鳥羽院自らや和歌所に属した多くの歌人などが加わったとされている。慈円もその一人である。
「新古今和歌集」には、1978首の和歌が採録されているが、採録されている数の多い順に歌人を挙げてみると、
第一位・西行 94首。 第二位・慈円 92首。 第三位・藤原良経 七十九首。 第四位・藤原俊成 72首。 第五位・式子内親王 49首。 となる。
西行、慈円という僧籍にある人物が上位二人になっているのである。当時、和歌の世界では西行の存在は極めて大きかったとされるが、「新古今和歌集」の採録数でみる限り、慈円は西行に肩を並べるほどの評価を受けていたことになる。

歌人としての慈円は、「新古今和歌集」ばかりでなく、勅撰和歌集に採録されている数は269首といわれており、そのほかに歌集もあり伝えられている和歌の数は極めて多い。その中から代表的なものを選び出すのは至難の事であり、ここでは、「新古今和歌集」の中から何首か選んでみる。

『 みな人の知り顔にして知らぬかな かならず死ぬるならひあるとは 』
歌意は、「だれも皆、知っているような顔をしているが、何と知らないことか、必ず死ぬという、定められた習わしがあるということを」

『 昨日見し人はいかにと驚けど なほ長き夜の夢にぞありける 』
歌意は、「昨日会ったばかりの人が、どうして儚くなってしまったのかと驚くばかりだが、やはり、『長き夜の夢』とたとえられるような、無常のなかをさまよっているのだなあ 」

『 なにゆゑにこの世を深くいとふぞと 人の問へかしやすく答へん 』   
歌意は、「 どういうわけで、この世をそれほど嫌うのかと、どなたか訊ねてください。即座にお答えしましょう」

『 思ふべきわが後の世はあるかなきか なければこそはこの世には住め 』
歌意は、「思い慕うような後の世(極楽浄土)は、あるのかないのか、ないからこそ、この世に住んでいるんだよ」

『 極楽へまだわが心ゆき着かず 羊の歩みしばしとどまれ 』
歌意は、「修業が足らず、わたしの心は極楽浄土へ行き着くまでになっていない。羊が屠所に向かうように、死に近づいている命の歩みよ、しばらくとどまっていてくれ」

恋の歌も一首加えておく。
『 わが恋は松を時雨の染めかねて 真葛が原に風騒ぐなり 』
歌意は、「わたしの恋は、時雨が松を紅葉させることができないように、想う人をなびかすことができず、真葛が原に風が葛の葉の白い裏を見せているように、恨みの心が騒いでいます。(裏見と恨みを結んでいる)」

以上は、いずれも「新古今和歌集」に載っているもので、特別にこのような性格のものを選んだわけではないが、いかにも僧侶を連想させるような内容ばかりのような気がする。恋の歌とされるものでさえ、説法ではないとしても理屈っぽい気がしてならない。
これらの歌が、当時の人々に、特に宮中や著名な歌人たちから高い評価を受けたらしいというのは、少々不思議に思う。
ただ、現代の私たちから見ると、ほとんどの歌が、そのまま大体の意味を理解できる内容のような気もする。
そして、何よりも、慈円という人物を、新古今時代を代表する歌人という切口だけで見てしまうと、人物像を見誤る気がするのである。


     ☆   ☆   ☆

慈円は、久寿二年(1155)の誕生である。保元の乱勃発の前年のことである。
保元の乱は、天皇家、摂関家、そして次第に力をつけてきていた武家が、それそれれの勢力拡大のために入り乱れた動乱である。
天皇家は後白河天皇と崇徳上皇、摂関家は藤原忠通と藤原頼長、武家は源義朝・平清盛らと源為義・平忠正らが互いの思惑を秘めて激突した戦いであった。結局、後白河・忠道・義朝・清盛らの連合体が勝利し、敗れた側は散っていったが、四年後には、今度はむしろ武家が中心ともいえる平治の乱が起こった。この二つの戦乱は、武家が大きく飛躍するきっかけとなったと言える。
その後、平清盛の全盛の時代となり、やがて源平合戦を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになる、武士が激しく戦った時代であるが、同時に、政権の中心が公家勢力から武士階級へと移っていく時代でもあった。
慈円が生きた時代は、まさにそのような時代であった。

慈円の父は藤原忠通。摂政・関白・太政大臣を務め、公家社会の頂点にあった。
しかし、母の加賀局は二歳で他界し、父も十歳の時に亡くなっている。
慈円は、幼い頃に青蓮院に入寺しているので、まだ父が健在な時であったと思われる。
僧籍に入った理由などは伝えられていないが、慈円は忠通の十一男にあたることや、当時天皇家や摂関家から有力寺院に入ることは珍しいことではなかったので、特別異例なことではなかったようだ。

仁安二年(1167)、天台座主・明雲について受戒、十三歳の頃のことである。
以後、当然ながら相当の修養を積んだと考えられるが、摂関家の子息らしい順調な立身を続けたようである。仏教界においても、公家社会と同様の家柄による身分制度は濃厚に守られていたからである。そのうえ、慈円の場合は、若くして学問の非凡さを示していたようであるが、その一方で、紛争の絶えない当時の延暦寺に嫌気をさし、隠居を同母兄である藤原兼実に申し出たりしていて、苦労も小さくなかったようだ。

文治二年(1186)、平家が滅亡し源家の時代が到来すると、源頼朝の支持を得て兄・兼実が摂政に就くと、その後は、平等院執印、法成院執印など大寺の管理を委ねられ、文治五年には後白河院により宮中に招かれるなど、慈円は仏教界で存在感を高めていった。
そして、建久三年(1192)に三十八歳で天台座主に就任し、権僧正に叙されている。
この天台座主の地位は、建久七年(1196)に兼実が失脚し、慈円もその地位を辞している。
しかし、建仁元年(1201)に再び天台座主に復帰し、和歌所寄人にもなっているが、翌年には座主を辞している。その翌年には、大僧正に任じられているので、この時の辞任は失脚ではなかったらしい。
大僧正も三か月ほどで辞しているが、この後は、前大僧正と呼ばれることが多かったようだ。

さらに、建暦二年(1212)には、後鳥羽院の要請で三度目の天台座主となり、翌年三月には辞任するも、同年十一月には四度目の天台座主となり、健保二年(1214)まで在任している。
結局慈円は、第六十二代・六十五代・六十九代・七十一代と、実に四代の座主を務めているが、これは初めてのことであった。
後世、土御門天皇の皇子である尊助法親王が八十二代・八十五代・九十一代・九十五代の四代を務め、伏見天皇の皇子である尊園法親王が百二十一代・百二十六代・百三十一代・百三十三代と四代務めている。
天台宗の長い歴史の中で、四代座主を務めたのはこの三人であるが、後の二人が法親王であることを考えれば、慈円の存在の大きさが浮かび上がってくる。

そして、慈円という人物の足跡を見てみると、歌人としての偉大さ、僧籍における存在感だけではないのである。実は、政界に対する影響力も、見過ごせない実績を残しているのである。
慈円がそのような立場になりえた一番の理由は、父・藤原忠通の存在であった。
保元の乱で勝利し公家の頂点に立った忠通は、また、多くの子供に恵まれていて、一族の基盤を強固なものにしていた。
忠道の実質的な後継者である慈円の同母兄・六男兼実は摂政・関白・太政大臣となり、九条家始祖とされる人物である。慈円の、仏教界あるいは政治の世界での活躍に最も寄与が大きかった人物と考えられる。
同じく同母兄の十男兼房も太政大臣に就いている。
あとは異母の兄弟姉妹であるが主な人物を挙げれば、四男基実は近衛家の始祖であり、五男基房は松殿家の始祖である。
また、長女聖子は崇徳天皇の中宮であり、次女育子は二条天皇の中宮である。(異説もある)
このような一族を背景に持ち、しかも慈円自身が再三天台座主に就任する実力者であり、和歌所の有力者となれば、節目節目に政治的な尽力を求められるというのも、当然といえば当然と言える。

政治的な面で最も大きな働きといえば、兼実の孫の道家の後見役を務め、摂政・関白・太政大臣の地位を務められる人物にしたことであろうが、鎌倉政権とのつながりも強く、京都朝廷と鎌倉幕府の協調を理想として尽力し、後鳥羽上皇の挙兵に反対したとされる。
道家の子・藤原頼経が頼朝直系の途絶えた鎌倉将軍の後継者として鎌倉に下向するのにも少なからぬ影響を与えたと考えられる。

これは、政治面とは少し違うが、当時異端視されていた専修念仏を唱えていた法然の教義を厳しく批判する一方で、その弾圧には反対し、法然やその弟子である親鸞を庇護したとされている。なお、親鸞は、九歳の時に慈円について得度している。慈円が仏教界全体に影響力を持っていたことが窺える話である。
また、藤原俊成・定家・為家と続く御子左家は、当時の歌壇の中心を担う家柄であるが、父や祖父の名声に押しつぶされそうになったのか、為家が出家を決意したことがあり、慈円が出家を思いとどまらせて、無事名門の跡を継がせたとも伝えられている。

このように、ごく断片的な資料を求めただけでも、慈円という人物が、単なる歌人とか、単なる僧侶とかという観点からではその偉大さを知ることができないことがわかる。
しかし、同時に、それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづくと感じさせられてしまう。
最後に、「捨玉集」にある歌を紹介しておく。

『 わが心奥までわれがしるべせよ わが行く道はわれのみぞ知る 』

                                                     ( 完 )




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運命紀行  大輪の花

2014-03-04 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行
               大輪の花

平安王朝における女性ナンバーワンは誰なのか。
これは、なかなか難しい課題である。政治面、文化面、あるいは容姿などのどの面に重点を置くかによって変わってこようが、伝えられるところの容姿や、知性・教養などを中心として、最も魅力的な女性を選ぶとすれば、どのような女性が上位に名を連ねるのであろうか。
文学という面から見れば、清少納言や紫式部が上位に位置するように思われるが、彼女たちが容姿端麗面で抜きんでていたという記録は、どうやら無いらしい。

個人的には、容姿端麗、文学面で優れ、華やかな話題性を兼ね備えた和泉式部がナンバーワンだと考えているのであるが、これは個人的な思い込みが強いことも認めざるを得ない。このようなことを考えること自体にどれほどの意味があるかはともかく、この時代の歴史や文学などに興味がある人なら、数人の候補者を挙げるのは簡単だと思われる。
さて、その中に、「馬内侍」という女性を加える人はどれほどいるのだろうか。
「馬内侍」は、当時一流の人たちに仕えた女房であり、一流の人物たちと数多くの浮名を流したとされる女性であり、和歌に関しても一流の足跡を残しているのだが、現代の私たちには、馴染みが薄い人物といえる。

梨壺の五歌仙と称せられる女房たちがいる。
これは、平安王朝絵巻の頂点ともいえる一条天皇の御代、藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房たちのうち特に優れた五人を選んだものである。
一条天皇には、先に定子という美貌・教養共に特に優れた中宮がいて、そこには清少納言など多くの才媛が集められていた。道長は、政務の実権を握ると長女である彰子を入内させ、仕える女房たちには定子の女房に負けない才媛たちを数多く集めていったのである。
梨壺の五歌仙とは、その女房たちの中から選ばれた女房たちのことである。
さて、その五人とは、赤染衛門、和泉式部、紫式部、伊勢大輔、そして、馬内侍なのである。
いずれも当時一流の歌人であり、教養豊かな女房として、宮廷内に知れ渡った人物であり、馬内侍も、その中に加わって何の遜色もない女房だったはずであるが、なぜか、現代の私たちには正当な評価がなされていないように思われる。
今回は、この大輪の花ともいえる女房の生涯の一端を覗いてみる。

馬内侍(ウマノナイシ)の生没年は未詳である。
一部の説や、交際相手の年齢などから推定すれば、西暦950年頃の誕生で、没年は1011年頃と推定される。正しくはなくとも、そう大きな差異のない推定と考えられる。
名前の由来であるが、内侍というのは、天皇に近似する内侍司の女官の総称で、この時代の女房には「何々の内侍」という名前が多く登場する。内侍には、内侍司に仕えている女官のほかにも、斎宮寮や齋院司などにもいたが、大半は官職に就いていたと考えられる。「何々納言」とか「何々式部」と呼ばれる女房たちは、父親などの官職から付けられたものがほとんどで、官職ではなく、女院や中宮など身分の高い人物に私的に雇われていることになる。
ただ、「馬」というのはよく分からない。ウマ年生まれということも考えられるが、その場合は「午」の字が使われるはずである。命名には、個別な理由によるものが多いので、由来を求めるのに意味がなさそうである。

西暦950年は、第六十二代村上天皇の御代で、平安王朝が比較的落ち着いており、武士の台頭は今少し先で、公家政治が絶大な力を持っていた。
馬内侍は、文徳源氏の家柄に生まれた。父は、源時明であるが実父は時明の兄・致明(ムネアキ)といわれている。
第五十五代文徳天皇の皇子能有が源氏の姓を賜り臣籍降下したが、時明はその玄孫にあたる。暦とした天皇家の血筋であるが、すでに時明の時代には、皇室とは遠い存在で中流貴族の家柄ぐらいであったようだ。

馬内侍がこの時代の超一流の女房であったことを、いくつかの切り口から見てみよう。
まず、当人の家柄については上記したように、天皇直系からは遠くなっており、摂関家でもないことから、超一流というわけではない。
しかし、馬内侍は次々と出仕先を変えているが、いずれも一流人物ばかりなのである。
出仕したと伝えられている人物を列記してみると、
斎宮女御徽子女王(村上天皇女御) ・ 円融天皇中宮媓子(別名 堀川中宮) ・ 賀茂斎宮院選子内親王(村上天皇皇女) ・ 東三条院詮子(円融天皇女御・一条天皇生母) ・ 一条天皇皇后定子(清少納言も仕えていた) ・ 一条天皇中宮彰子(藤原道長娘。後一条・後朱雀天皇生母)
という人たちである。

また、定子に仕えていた頃、掌侍に昇進している。内侍司の三等官で暦とした役職に就いているのである。
因みに、内侍司は、四等官までの役職があり、一等官である長官を尚侍(ナイシノカミ/ショウジ)といい定員二名。二等官である次官を典侍(ナイシノスケ/テンジ)といい定員四名。三等官の判官を掌侍(ナイシノジョウ/ショウジ)といい定員四名。四等官は主典(サカン)というが、実際には設置されなかったらしい。
内侍司の女官は、天皇ばかりでなく皇后・中宮・女御など後宮の女性に仕える人も加えれば相当の数と思われ、さらに私的に抱える女房の数はそれ以上とも考えられる。
その中で、掌侍となれば、上位十人に入るわけであるから、馬内侍は女官としても相応の能力があったと考えられる。


     ☆   ☆   ☆

馬内侍が梨壺の五歌仙に加えられていることはすでに述べたが、中古三十六歌仙にも女房三十六歌仙にも加えられている。つまり、多くの場面で一流の歌人として認められているのである。
勅撰和歌集には三十八首採録されているが、そのほかにも「馬内侍集」などの歌集にも多くの和歌を残している。
そのうち「新古今和歌集」には八首採録されているので、見てみよう。

「斎宮女御のもとにて、先代の書かせ給へりける草子を見侍りて」
『 尋ねても跡はかくてもみづぐきの ゆくへも知らぬ昔なりけり 』
歌意は、「お探しして、先帝の御筆跡はこのように拝見いたしましたが、その御代の行方も分からない昔になってしまいました」
なお、先代とは村上天皇のこと。
この歌に対する「返し」として、女御徽子女王の和歌が載せられている。
『 いにしへのなきにながるる水茎の 跡こそ袖のうらに寄りけれ 』
歌意は、「昔の帝はいなくなったので、残されている御筆跡に泣いて流れる(亡くなって流れる)涙の跡は、御筆跡と共に私の袖の奥に残ることでしょう」

「五月五日、馬内侍に遣はしける」として、前大納言公任の歌が載せられている。
『 時鳥(ホトトギス)いつかと待ちしあやめ草 今日はいかなる音(ネ)にか鳴くべき 』
歌意は、「ほととぎすよ、いつ来てくれるのかと待っているうちに五月の節句となってしまった。待ちわびた今日は、どのような声で鳴いてくれるのだろう」
これに対する「返し」の馬内侍の歌は、
『 五月雨は空おぼれする郭公(ホトトギス) 時に鳴く音は人もとがめず 』
歌意は、「五月雨の季節には、そらとぼけて鳴くほととぎすですから、どうかすると、その鳴く声を誰も気にしてくださらないのですよ」

「兵衛佐(ヒョウエノスケ・兵衛府の次官)に侍りける時、五月ばかりに、よそながらもの申し初めて、遣はしける」 法成寺入道前摂政太政大臣(藤原道長)
『 ほととぎす声をば聞けど花の枝(エ)に まだふみなれぬものをこそ思へ 』
歌意は、「ほととぎすのように、あなたの声は聞きましたが、ほととぎすが花の枝にまだとまり慣れていないように、わたしもまた手紙を差し上げるのに慣れていませんので、一人思い悩んでいます」
これに対する馬内侍の「返し」の歌は、
『 郭公忍ぶるものを柏木の もりても声の聞えけるかな 』
歌意は、「忍び音で鳴くほととぎすのように、密やかな声で話しておりましたのに、ほととぎすの声が柏木の森から漏れて聞こえるように、私の声が聞こえてしまったのでしょうか」
なお、柏木は、皇居守衛の兵衛・衛門の異称である。

「『時鳥の鳴きつるは聞きつや』と申しける人に 馬内侍
『 心のみ空(ソラ)になりつつ時鳥 人頼めなる音(ネ)こそ泣かるれ 』
歌意は、「わたしの心は、うわの空になり続けていて、お尋ねになったほととぎすのように、頼みがいのないあなたが恨めしくて、声を出して泣いてしまいました」

「人にもの言ひはじめて」 馬内侍
『 忘れても人に語るなうたた寝の 夢見てのちも長からじ世を 』
歌意は、「わたしのことを忘れてしまっても、決して人には話さないでください。うたた寝のような儚い一夜を過ごした後も、長くはないと思われる命なのですから」
 
「左大将朝光(アサテル)、久しうおとづれ侍(ハベ)らで、旅なる所に来あひて、枕のなければ、草を結びてしたるに」 馬内侍
『 逢ふことはこれや限りの旅ならん 草の枕も霜枯れにけり 』
歌意は、「あなたと逢うことは、これが最後となる旅なのでしょうか。草の枕も、それを予言するように、霜枯れてしまっています」

「男の久しくおとづれざりけるが、『忘れてや』と申し侍りければよめる」 馬内侍
『 つらからば恋しきことは忘れなで 添へてはなどかしづ心なき 』
歌意は、「もしあなたが薄情であるのなら、わたしがこのように、恋しいことを忘れることなく、それどころか落ち着いた心でさえいられないのはなぜなのでしょうか」

「昔見ける人、『賀茂祭りの次第司(シダイシ・道の往来や行列などを取り仕切る役)に出で立ちてなんまかりわたる』と言ひて侍りけれは」 馬内侍
『 君しまれ道の往き来を定むらん 過ぎにし人をかつ忘れつつ 』
歌意は、「何とまあ、あなたが道の往き来を取り締まっているのですか。めぐり逢った人を片っ端から忘れてしまうあなたが・・」

以上が「新古今和歌集」にある馬内侍の歌であるが、最初の一首を除き残りは「恋歌」として載せられている。馬内侍の面目躍如と言える。
このうちの、藤原道長との贈答歌は、その職掌から道長二十歳の頃と判断できる。馬内侍の年齢は不詳であるが、おそらく三十五歳前後であったと考えられる。
当時の貴族層の姫の結婚適齢期は、十五歳前後と推定されるので、三十五歳というの全盛を過ぎつつある頃と考えられるが、時代を背負って立つことになる若き藤原道長を惹きつけてやまない容色を保っていたことが窺えると思うのである。

真偽のほど程度のほどはともかく、馬内侍との恋の噂が伝えられている人物は多く、しかもその身分の高さに驚く。
名前と最高位を列挙してみよう。
藤原朝光、大納言。
藤原伊尹(コレタダ/コレマサ)、摂政・太政大臣。
藤原道隆、摂政・関白・内大臣。
藤原通兼、関白・右大臣。
藤原実方、左近中将・陸奥守。
藤原道長、摂政・関白・太政大臣。
藤原公任(キントウ)、和歌の大家。大納言。
と、いった具合である。

さらに加えるならば、これはいささか江戸時代の春本を見るようではあるが、第六十五代花山天皇が即位の時、高御座(タカミクラ)の帳を掲げる役についていた馬内侍を、高御座の内に引き込んで事に至ったというのである。
何とも信じがたくきわどい話ではあるが、当時の文献の中から「天皇高御座の内に引き入れしめ給ひて忽ち以って配偶す」という一文を見つけ出すのは簡単にできるのである。
花山天皇の即位は、永観二年(984)のことで、天皇十七歳。馬内侍はすでに三十五歳前後になっていて、上記の道長との贈答歌の時と二年ほどの差なので、いかに馬内侍と言えども忙しすぎる感じはする。
伝承にも、馬内侍は二人いたとして、花山天皇の行動は否定していないが、本稿主人公の馬内侍とは別人としているものもある。

馬内侍は、女房生活の後半、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に仕えていて掌侍に昇進したことはすでに述べた。その時期は分からないが、定子を敬愛してやまない枕草子の著者清少納言と一緒であった時期があったと考えられる。
定子は、父の死と道長の台頭により、次第に道長の娘である彰子にその座を奪われ、二十五歳の若さで世を去っている。長保二年(1000)のことである。
その後、馬内侍は彰子に仕え梨壺の五歌仙と称される存在にいたっている。
激しいライバル関係にあった定子から彰子に出仕を変えたのが何時のことなのか興味深いが未詳である。
定子没後のことなのか、それ以前に権力の潮目を見て移ったのであれば残念な気もするが、若き道長があこがれた馬内侍を、今度はわが娘のためにと懸命に口説いた可能性も極めて高いような気もする。

馬内侍は、ほどなく宮中を去っている。
「この世をば我が世とぞ思ふ・・」とまで歌われた道長の絶頂期の頃である。
その後は出家して宇治院に住んだと伝えられている。
没年は不詳であるが、寛弘八年(1011)の頃とも伝えられている。享年は、六十余歳と思われる。
平安王朝の絶世期の大輪の花・馬内侍の生涯を伝えられることが余りにも少ないのが、重ね重ねも残念である。
最後に、馬内侍歌集から一首挙げておきたい。

『 飛ぶ蛍まことの恋にあらねども 光ゆゆしき夕闇の空 』

                                            ( 完 )

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運命紀行  道半ばにして

2014-02-26 08:00:45 | 運命紀行
          運命紀行
               道半ばにして

後鳥羽上皇が「上古以来の和歌を撰進せよ」との院宣を下したのは、建仁元年(1201)十一月のこととされる。
この年の七月に和歌所を設置し、時の和歌の上手たちを集めていたが、その寄人の中から、源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮法師の六名に対して和歌の選定作業を命じた。このうち寂蓮法師は翌年に没しているので、実質的には五人の選考委員により進められたということになる。
和歌集の完成は、仮名序によれば、「時に元久二年(1205)三月二十六日、なんしるしをはりぬる」とあるので、この頃に完成したことになる。
「新古今和歌集」の誕生である。

しかし、「新古今和歌集」は、完成ののちにも後鳥羽院を中心として、さらに切り継ぎ(加除改訂)が行われている。
そもそも、選定作業当初から、撰者は下命されてはいたが、後鳥羽院自らが選定に加わっていたようであるし、和歌所の寄人たちの意見も少なからぬ影響を与えたらしい。つまり、下命を受けた撰者だけではなく、かなりの人数が選定作業に加わっていた可能性が推測されるのである。
さらに、後鳥羽院は、承久の変に敗れ隠岐に流されているが、その地においても、「新古今和歌集」から三百四首を削除したものを仕上げているので、この和歌集に対する後鳥羽院の思いは、並々ならぬものが感じられる。

「新古今和歌集」は、その名の通り、当初から「古今和歌集」を強く意識して編纂されたようである。
わが国の和歌集は、私家集を別にすれば、「万葉集」に始まり、「古今和歌集」以下「新古今和歌集」まで続く八代集とも呼ばれる勅撰和歌集によってその伝統が伝えられているともいえる。
「新古今和歌集」は、その区切りともいえる和歌集で、わが国歴史上、短歌に関しては、八代集に見られるような伝統は、これ以降極めて弱くなっているように思われるのである。
「新古今和歌集」に関しては、近代になってその文学的価値に難癖をつける人たちも登場しているようであるが、「万葉調」「古今調」と並んで、「新古今調」と称される優雅な一区分を築いていることは否定できまい。

それでは、「新古今和歌集」に採録されている歌数の多い歌人を見てみよう。
一番多いのは、西行の九十四首、以下、慈円九十二首、藤原良経七十九首、藤原俊成七十二首、式子(ショクシ)内親王四十九首、藤原定家四十六首、藤原家隆四十三首、寂蓮三十五首、後鳥羽院三十四首と続く。
西行・慈円と僧籍にある二人が断然上位にあることは興味深いが、第三位の藤原良経という人物にそれ以上の興味が感じられる。
藤原俊成・定家については当時の歌壇の中心人物として知られているが、その二人より遥かに多くの和歌が採録されており、異常なまでにこの歌集に注力したと思われる後鳥羽院の倍以上の歌が載せられているのである。
もちろん、一部の人たちからは、この藤原良経こそが当時の最高の歌人であり文化人であったと評価する人もいるが、それにしては、現在の私たちにはそれほど馴染み深い人物だとは思えないのである。

この、当時の最高の文化人ということについては、「新古今和歌集」の仮名序を担当していることからして、必ずしも過大評価ではないのかもしれない。それに、院宣が下された撰者には入っていないが、和歌所の寄人の筆頭であることから、その編集にも相応の関わりがあったと考えられる。それと、撰者については、当時良経は、左大臣の地位にあり、いくら歌人としての評価が高くとも、撰者となる立場ではなかったと考えるのが穏当であろう。
そう考えれば、「新古今和歌集」の仮名序を担当し、採録歌数が第三位の多さというのも、納得できるような気がする。

良経の代表歌を何にすればよいか意見が分かれようが、数多い採録和歌の中から小倉百人一首にも入っている歌を挙げてみた。
『 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかもねん 』
小倉百人一首では、作者は後京極摂政前太政大臣となっているが、藤原良経のことである。
歌の巧拙については、私には論じる能力はないが、百人一首を経験した人の中には、この札を贔屓にする人も少なくないはずである。
政治の世界では最高の地位に上り、和歌や書は当代随一といわれながら、何とも切ない歌のように思われる。


     ☆   ☆   ☆

藤原良経は、嘉応元年(1169)に誕生した。平清盛が太政大臣になった二年後にあたり、平氏全盛の時代であり、同時にやがて源平合戦を経て鎌倉政権が成立していく時代に生きた人物といえる。
良経の父兼実は、摂政・関白・太政大臣に就いており、九条家の祖とされる人物である。従って、良経も九条良経と記録されているものも多い。
当時兼実は公家社会の頂点にあったが、彼の父忠道も摂政・関白・太政大臣を務めている藤原北家嫡流の家柄であった。

良経は次男であったが、公家社会屈指の家柄の御曹司は、順調に昇進していった。
治承三年(1179)、十一歳で元服すると、従五位上に叙せられる。
元暦二年(1185)には従三位に昇進し、十七歳にして公卿の列に加わっている。この昇進は、当然家柄と父の実力がなせることであるが、次男ということを考えれば、良経が早くからその才能を示していたことも加味されていたと思われる。
文治四年(1188)、同母兄の良通が死去したため、兼実の嫡男となり、朝廷政治の中核での活躍が始まる。
その後も、権中納言、正二位、権大納言と昇進を続け、建久六年(1195)には内大臣になった。

父兼実は健在で、朝廷政治の頂点に君臨していたが、翌建久七年十一月、反兼実派の丹後局(高階栄子)・源義親・土御門通親らの反撃にあい、父ともども朝廷を追われる事態となった。(建久七年の政変) 
しかし、正治元年(1199)には、左大臣として政権復帰を果たし、建仁二年(1203)十二月、土御門天皇の摂政となり、建仁四年には太政大臣となり、父や祖父と同様朝廷政治の頂点に立った。三十六歳の頃のことである。

良経は、生まれながらの公卿の家柄であり、順調な昇進は当然ともいえるが、幼くして才能を認められるほどの逸材でもあったようだ。
文化面においても、和歌・漢詩・書道に並々ならぬ才能を示している。
書は、後に「後京極流」と称されることになる達人であったし、和歌については、この時代の歌壇に大きな影響と足跡を残している。
二十歳の頃には、叔父の慈円を後援し、歌道の中核にある御子左家の藤原俊成・定家親子に師事し、あるいは協力し合って、後鳥羽院歌壇を形成していった。
この御子左家というのは、やはり藤原北家の流れで、藤原道長の六男長家を祖とする歌道を家職とする家柄である。因みに、御子左家と呼ばれるのは、長家が醍醐天皇の皇子・兼明親王の御子左第を伝領し、御子左民部卿と呼ばれたことに由来する。
また、良経と俊成の関係は和歌に関しての師弟関係であったと思われるが、その子の定家との関係は、年齢は定家の方が七歳年長であるが、九条家に仕えているので一時は主従関係であったと考えられる。
良経と御子左家を中心とした後鳥羽院歌壇は、「新古今和歌集」という大事を成し遂げ、歌壇は隆盛を誇った。
しかし、その一方で、政治の世界は激しい動きを見せていた。
鎌倉政権の誕生と権力の増大は、後鳥羽院にとって面白くなく、公卿たちもその中で家運をかけた権謀術策が展開されていた。

そして、良経もまた、その波乱の波に巻き込まれたかのように急死している。
太政大臣となった翌々年の、元久三年(1206)三月七日の深夜のことで、享年三十八歳であった。
良経は、中御門京極の自邸で、久しく絶えていた曲水の宴の再興の準備を進めていた最中のことで、あまりにも突然の死去であることや三十八歳という年齢を考えると、暗殺された可能性が極めて高いと考えられるが、死因について詳しく記録されているものは残されていないらしい。
権力構造の頂点に立つということは、それだけ政敵は多くその身が危険であることは当然であるが、良経の場合鎌倉政権と近い関係にあったことに原因している可能性が高いように思われる。

良経の妻が一条能保の娘で、義母が源頼朝の同母姉(妹とも)である坊門姫ということもあり、頼朝とは親しい関係にあった。この関係は良経死去後も続いており、鎌倉三代将軍源実朝が暗殺され直系が絶えた後の四代将軍は、良経の孫にあたる頼経が迎えられているのである。
このように、鎌倉政権と親しい良経に反感を抱く勢力は少なくなかったと考えられるが、その勢力の最上位にいるのは間違いなく後鳥羽院であったはずである。和歌所や「新古今和歌集」の編纂を通じての親しい協力関係は、それほど強いものではなかったのか。
そう考えると、気にかかることがある。

「新古今和歌集」の仮名序は良経が担当したことはすでに述べたが、実は一番歌も良経の和歌が採られているのである。
『 み吉野は山もかすみて白雪の ふりにし里に春は来にけり 』
そして、二番歌は、
『 ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天の香久山霞たなびく 』
こちらは、後鳥羽院の和歌である。

この配置を、どう考えればよいのだろうか。
政治の世界での動向を見る限り、後鳥羽院という人物が人に先を譲ることなど考えにくい。
「新古今和歌集」は、「古今和歌集」に倣って編纂することが目的であったようなので、「古今和歌集」の一番歌も、天皇や上皇の御製ではなく、在原元方の和歌が採られているのに従ったのかもしれない。
しかし、もし、この二つの和歌が撰者たちによって評価され、圧倒的に良経の和歌が一番歌にふさわしいとされた経緯があったとすれば、良経と後鳥羽院との人間関係は、身分の差にかかわらず、拘りのあるものではないかと考えてしまうのである。
全く個人的な、低俗な推測ではあるが。

いずれにしても、藤原良経は、三十八歳にして世を去った。
「新古今和歌集」には確固たる足跡を残しているとはいえ、文化面でも、そして政治面でも、道半ばにしての逝去ではなかったのか。
今しばらくの活動を見てみたい人物ではある。

                                                 ( 完 )


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運命紀行  業平の母

2014-02-14 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行
               業平の母

古今和歌集は、醍醐天皇の詔により編纂された和歌集で、最初の勅撰和歌集である。
これに先立つ歌集としては、万葉集という大きな存在があるが、古今和歌集も、この後に、八代集ともいわれる勅撰和歌集を次々と誕生させているのに影響を与えていることは確かであるし、枕草子や源氏物語などにも示されているように、後世の文学や教養に大きな影響を与えてきたことは確かであろう。
古今和歌集に対して、その文学的な価値について、とかくの評価がなされることもあるが、その大きな原因の一つは、近世のある歌人の古今和歌集に対する罵詈雑言と言いたくなるような発言が影響しているらしい。その歌人が、どれほどの人物かよく知らないが、そのような人物程度の発言で確固たる古典に汚点が付けられているとすれば誠に残念である。

もちろん、時の天皇の命により、近臣の公卿や歌人たちが中心として編纂された歌集であるから、その選定や編纂に偏りがあることは否めない。
例えば、数え方にもよるが、古今和歌集に収められている和歌の数は1111首とされている。
それを作者別にみてみると、その偏り方は相当にひどい。もっともそれは、古今和歌集に限ったことではなく、他の勅撰和歌集や万葉集にも言えることではある。

入集されている和歌の数が多い順に並べてみると、
  紀貫之 102首   凡河内躬恒 60首  紀友則 46首  壬生忠岑 36首
  素性法師 36首   在原業平  30首  伊勢  22首
が、上位七人である。
このうち上位の四人は古今和歌集の撰者であるが、この四人だけで全体の二割以上を占めているのである。古今和歌集には、読み人知らずとなっている和歌が四割ほどを占めていることも考え合わせれば、都に知られた著名な歌人は採録されているとしても、広く優れた歌人を求めたかどうかについては疑問が残る。
編纂にかかわった人物の和歌が多く採録されていることは、当然とも、依怙贔屓ともいえるが、それはともかく、それ以外の人物で多くの和歌が採録されているのは、当時としては著名であり、歌の上手として知られていたということにはなろう。選歌数で七番目に多い伊勢は、おそらく当時の女流歌人の第一人者だったと考えられる。

反対に、ただ一首のみ採録されている人物についても、とても気になる。
どういう経緯でその一首が選ばれたのか、特別のはからいで選ばれたのか、実力はあるのに一首にとどめられてしまったのか、などについてである。
本稿の主人公である、伊都内親王もその一人である。
伊都内親王の場合は、古今和歌集ばかりでなく、それ以降の勅撰和歌集すべてを含めても、一首のみなのである。

その和歌とは、
『 老いぬればさらぬ別れもありといえば いよいよ見まくほしき君かな 』
添え書きには、
「業平の朝臣の母の親王(ミコ)、長岡にすみ侍りける時に、業平宮仕へすとて、時々も得まかりとぶらはず侍りければ、しはすばかりに、母の親王のもとより、とみの事とて、文をもてまうできたり、あけてみれば、詞はなくて、ありける歌」とある。
歌意は、「年老いてしまったので、やがて避けられない別れがあると思えば、ますますあなたに会いたくなるのです」

これに対する業平の返歌は、
『 世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もとなげく人の子のため 』
歌意は、「この世に、避けられない別れなどというものがなければよいのにと思う。千年も長生きしてほしいと嘆く人の子のために」
である。

このあたりのことは、業平集や伊勢物語に記されているので、古今和歌集の伊都内親王の和歌も、それらから見いだされたものらしい。
つまり、在原業平という歴史上特異な部分で名高い人物がいたなればこそ、伊都内親王の貴重な一首が古今和歌集を通じて私たちに伝えられたともいえるのである。
古今和歌集のこの一首は、勅撰和歌集には、これ以外の和歌は一首もなく、桓武天皇の内親王として生まれながら、日の当たる場所に立つことのなかった伊都内親王という女性の消息を、微かながら後世に伝える役割の一端を担ってくれているのである。

     ☆   ☆   ☆


伊都内親王は、第五十代桓武天皇の第八皇女として誕生した。
生年は不詳であるが、資料などから推定すれば、西暦800年ないし810年の間と考えられる。
第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇、第五十三代淳和天皇は異母兄にあたる。

母は、藤原平子。平子の父藤原乙叡(タカトシ)は、藤原南家の創始者藤原武智麻呂のひ孫にあたる人物で、三十四歳にして参議になっており、娘を入内させるほどの力を有していたと考えられる。
しかし、大同二年(807)に発生した伊予親王の変に連座して、中納言になっていたが解官されてしまった。その後許されたが、翌年に四十八歳で没している。
おそらく、伊都内親王の誕生まもない頃のことと考えられるが、これにより平子の後ろ盾がなくなり、伊都内親王の内裏における立場は弱いものになったと考えられる。

伊都内親王の名前は、「イズ」と読まれることが多いようで、「伊豆」と書かれることもある。
その名前は、乳母が伊豆氏の女性であったことに由来するという説がある。
乳母が伊豆と呼ばれていた女性であったかどうかについては何とも言えないが、伊豆氏の女性というのには、いささか疑問がある。
伊豆氏は、現在の伊豆半島あたりに勢力を持つ一族のことと考えられるが、藤原南家の後裔とされ工藤氏や伊藤氏などの祖となった一族は、伊都内親王より少し時代が下るので、乳母がそこそこの勢力を有した伊豆氏の出自というのは考えにくい。
他には、桓武天皇が、伊豆国に対する強い思い入れがあったので、皇女にその名を付けたという説もあるようだが、これは何とも判断のしようがない。

天長元年(824)の頃、阿保親王の妃となり、翌年業平を生む。
この時の伊都内親王の年齢は、二十歳前後だったのではないだろうか。伊都内親王は貞観三年(861)に亡くなるが、享年は六十歳くらいだったという説があり、それに従えば二十五歳くらいとなるが、内親王の結婚年齢としては少々遅すぎる気がする。もしこの年齢が正しいとすれば、すでに淳和天皇の御代になっており、桓武天皇の内親王とはいえ忘れられたような存在だったのかもしれない。

夫となった阿保親王は、波乱の生涯を送った人物である。
飛鳥・奈良に都があった頃も含め、悲劇的な生涯を強いられた皇子や皇女は多いが、阿保親王もまたその一人といえる。
阿保親王は、延暦十一年(792)、第五十一代平城天皇の第一皇子として誕生した。桓武天皇の孫であるから、血縁的には伊都内親王の甥ということになる。但し年齢は、阿保親王の方が、十歳ほどは年上であったと考えられる。
大同四年(809)に四品に叙せられるなど、皇族の一員として穏当な処遇を受けていたが、翌弘仁元年、同母の兄弟である平城上皇と嵯峨天皇の争いともいえる薬子の乱が発生、これに連座して太宰権帥に左遷された。
当時皇族が、太宰府の帥や、上野国などの太守に任命されても、現地に赴くようなことはなかった。しかし、阿保親王は九州に赴いているから、左遷というより流罪に等しいものであったと考えられる。

阿保親王は、太宰府で十四年程もの年月を過ごすことになり、この間入京は許されなかった。
阿保親王には、数人の子供が確認されているが、生母はいずれも不詳のようで、太宰府時代の女性であったようだ。
天長元年(824)七月、父である平城上皇が没する。
その直後に阿保親王は許される形で、都に戻った。都を平城京に戻そうとするなどの画策をしたとされる平城上皇に対する嵯峨天皇の憎しみと警戒心は、兄である平城上皇の死去まで解くことがなかったのである。
実際は、この前年に異母弟の淳和天皇に譲位していて嵯峨上皇となっていたが、依然実権は握っていたと思われ、阿保親王の赦免も、帰京後間もなくの伊都内親王との結婚も、嵯峨天皇の命によると考えられる。

伊都内親王は、阿保親王の妃となった翌年、天長二年(825)に男子を設けた。後の在原業平である。
阿保親王という人は、性格は謙譲で控えめであったと伝えられており、文武ともに優れた人物であったようだ。帰京後、淳和・仁明両朝においては、皇族の一員として重職に就いている。おそらく伊都内親王にとっても、穏やかで満たされた日々を送れた時期であったと思われる。
しかし、阿保親王は桓武天皇の孫であり、嵯峨上皇やその子である仁明天皇にとっては宿敵ともいえる平城上皇の子供であった。そして、その人物が凡庸であればともかく、優れた人物であったため、朝廷からは警戒され、反対勢力からは味方にすべき誘惑が絶えなかったようだ。
そのことを承知している阿保親王は、桓武の皇女である伊都内親王に男子が出生したこともあって、天長三年(826)には、後継者となるべき行平や業平に、「在原」の姓を賜って、臣籍に降下させ、皇位争いに無縁であることを明らかにしていたのである。

そのこともあって、朝廷内で重職を得ることができていたが、それでもなお、とかくの噂は絶えなかったらしい。
そして、皇位争いに藤原氏の勢力争いも絡んだ承和の変では、阿保親王はその乱の拡大を未然に防いだとされるが、その三か月後の承和九年(842)十月に急死している。死因は不詳であるが、疑問の残る急逝ではある。享年五十一歳であった。

この時、伊都内親王は何歳の頃の事であったのか。
結婚して十八年が経っており、四十歳前後であったのか。息子の業平も十八歳になっていた。
阿保親王の息子としては、在原行平と在原業平が著名である。
行平の生母は不詳であるが、業平より七歳ほど年長であるので、太宰府での誕生と考えられる。行平は歌人としても名高く、小倉百人一首にもその名を残している。また、官職においても、難しい血筋であり、藤原氏全盛に向かう時代の中にあって、比較的順調に昇進を重ね、正三位中納言にまで上っている。有能な人物であったようだ。

一方、伊都内親王の珠玉ともいえる業平は、義兄行平とは少し違う人生を歩んだようだ。
文学の才能は行平を越えていると思われ、官職にもそれなりに勤めたようであるが、与えられた環境の中だけで生きていこうという殊勝さはなかったようである。
在原業平という名前が、歴史上燦然として輝いているのは、文芸における豊かな足跡もさることながら、その奔放な女性遍歴にあると思われる。
業平との恋の噂が伝えられる女性には、清和天皇の后で陽成天皇の母となった二条后藤原高子、文徳天皇の皇女で伊勢斎宮であった恬子内親王、清和天皇后で姪にあたる在原文子、仁明天皇の皇后で文徳天皇の母である藤原順子など、きわどい熱愛も伝えられているのである。

伊都内親王は、夫の阿保親王が亡くなった後は、三条坊門の後に在原業平の屋敷になる所に住んでいたが、やがて長岡の山荘に移り住んでいる。
桓武天皇の皇女でありながら、伊都内親王は無品であったようで官からの経済的支援はなかったらしい。
しかし、阿保親王の遺産は小さなものではなかったであろうし、行平は公卿に上り、業平も大した出世はしなかったとはいえ貴族の身分であり、伊都内親王が生活に窮するようなことはなかったはずである。

長岡に隠棲した後は、静かな余生送り、たまに訪れてくる愛してやまない業平の顔を見るのを楽しみにした日々であったようだ。
前段で紹介した伊都内親王と業平の歌の交換は、息子に会いたい老いた母と、それに応えようとしている息子の姿が描かれているのだとすれば、伊都内親王という女性は、激しい歴史の流れに接しながらも、実に人間らしい生涯を送ったのではないかと思うのである。
伊都内親王は、貞観三年(861)九月、穏やかに生涯を終えた。一説によれば、六十歳の頃であったという。

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運命紀行  たきぎを負える山人

2014-02-08 08:00:49 | 運命紀行
          運命紀行
               たきぎを負える山人

歴史上の人物について、その足跡が定かでない人物は少なくない。
その人が、天皇を中心とした皇族関係や有力貴族などは、真偽のほどはともかくとして、それなりの記録が残されていることが多い。
しかし、それ以外の人物の場合、和歌や伝承などに様々な記録が残されている人物であっても、その経歴などが不明なことは珍しくなく、複数の人物の足跡が混同したり、時には、架空の人物が生き生きと行動していることもある。

本稿の主人公、大友黒主も、やはり経歴の分かりにくい人物である。
黒主は、古今和歌集に和歌が四首採録されるなど、勅撰和歌集に全部で十一首残されている歌人として知られている。
八代和歌集とも呼ばれる勅撰和歌集は、平安時代から鎌倉時代にかけて、天皇の命により編纂された八つの歌集を言う。
因みに、時代順に列記してみると、「古今・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今」である。
その八つの歌集に採録されている和歌の数は、重複分も含めてであるが、一万首を超える。歌人の数が何人になるかは調べていないが、詠み人知らずとされる和歌の数も少なくないので、正しい調査は不可能であろう。
いずれにしても、その一万余首の中に十一首採録されているということが、歌人としてどの程度の位置にいることになるのか知らないが、当時の歌人として大友黒主の名は著名である。

後に述べるが、大友黒主という人物の足跡をたどるのは極めて困難である。小野小町なども同様に、正確な足跡をたどるのは難しいが、その代わり満ち溢れるほどの伝承がある。真実とは思えないものが大半であるが、歴史上の人物としては、生き生きと息づいて見える。
しかし、黒主にはそれほどの伝承も、史実らしい足跡も乏しい。それでいて歌人として著名な理由は、間違いなく「六歌仙」の一人に挙げられているからと考えられる。
「六歌仙」とされるのは、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、そして、大友黒主の六人である。
「歌仙」という言葉が、正しくはいつ誕生したのかは分からないが、普通に考えれば、「歌の上手」それも相当の名人にあたる人という感じを受けるのは自然だと思われる。後世、「三十六歌仙」「中古三十六歌仙」「女房三十六歌仙」などの選定がなされているのも、いずれも和歌の上手という位置付けを表現したものであることからも分かる。
しかし、上記の六人が「六歌仙」と呼ばれるようになったのには、いささか誤解が入っているように思われる。

そもそも、「六歌仙」というものが登場することになるのは、古今和歌集の仮名序において、柿本人麻呂と山部赤人の二人を別格の「歌聖」とし、「近き世に、その名聞こえたる人は」として、六人の名前を挙げ、その後には、「このほかの人々、その名聞こゆる野辺に生うるかつらの這ひ広ごり林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」と記している。
つまり、六人に対する評価を書きならべた後で、その他の人は評価にも当たらない、と述べているものだから、六人はそれより上、すなわち、その他大勢より上で、歌聖よりは下という位置付けのように勘違いしてしまった後世の人たちが、「歌仙」などというとんでもない称号を付けてしまったのである。
仮名序は、紀貫之が書いたものであるが、彼は六人のことを「歌仙」などとは全く表現していないのである。

仮名序をもう少し広げてみてみると、六人を挙げる前に、紀貫之はこう述べている。
「つかさ位高き人をば、たやすきやうなれば、入れず」と。
つまり、六人を挙げる前に、官位の高い人から歌の上手を選ぶのは簡単なので入れないとして、それ以外として挙げているのである。
しかも、紀貫之の六人の評価を見ると、どうして「六歌仙」などと表現がなされ、定着してしまったのか不思議に思う。
因みに、評価の部分を記してみよう。

僧正遍照は、歌の様に得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平は、その心余りて言葉足らず、しほめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし。
文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。
喜撰法師は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
小野小町は、古のそとほり姫の流れなり。あはれなるようにして強からず。言わば、良き女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし。
大友黒主は、そのさまいやし。言わば、たきぎ負える山人の花のかげに休めるがごとし。

いずれも、どう贔屓目に見ても、優れた六人を選び出した評論とは思えない。
特に、大友黒主にいたっては、紀貫之に対して「お前は、どれほどの者なのだ」と言いたい気持ちになってしまう。


     ☆   ☆   ☆

「そのさまいやし」と酷評された大友黒主の和歌を見てみよう。

『 春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ 』
歌意は、「春雨の降るのは、涙だろうか桜花だろうか。桜の花が散るのを、惜しまぬ人はいないのだから」

『 思ひいでて恋しきときは初雁の 鳴きて渡ると人知るらめや 』
歌意は、「あなたを思いだして恋しい時には、初雁が鳴きながら空を渡っていくように、私があなたの家の周りを泣きながらさまよっていることを、あなたは知っているのでしょうか」
また、この歌には題として、「ある女性とひそかに愛し合ったが、なかなか逢えなかったので女の家の周囲を歩き回っていた時に、雁が鳴くのを聞いて、女に詠んで贈った歌」とある。

『 鏡山いざ立ち寄りて見てゆかむ 年へぬる身は老いやしぬると 』
歌意は、「さあ、鏡山に立ち寄って、鏡に映して見てみよう。年を重ねた我が身は、老いただろうかと」
なお、鏡山は、近江国にある小さな山で、近江国の歌枕にもなっている。

『 近江のや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君がちとせは 』
歌意は、「近江の国に名高い鏡山には鏡が立ててあるので、ずっと先まで見えますよ、大君の千年に及ぶ長寿が」
なおこの歌には添え書きがあり、「これは今上(醍醐天皇)の御べの近江の歌」とある。
寛平九年(897)醍醐天皇の大嘗祭において、「神あそびの歌」として、歌舞に用いられた歌らしい。

以上の四首の和歌は、古今和歌集に収録されている大友黒主の作とされるものである。
これらの歌から、黒主という人物の人品骨柄を推し測るのは乱暴な話ではあるが、紀貫之をして、「そのさまいやし」とまで論評されなければならないほどの作品なのかと同情してしまう。それとも、貫之は実際に黒主にあっていて、その様子や人柄が卑しいと言っているのだろうか。
もしそうだとして、歌論の中でそのようなことを評価対象としているのなら、紀貫之という人物の底が見えてしまった気がしてしまう。

それはともかく、四首について個人的な感想を述べさせていただくと、最初の歌は、その歌の調子が、現代の演歌を髣髴させるような気がするのである。まさか黒主が現代演歌の模倣をしているわけはないから、現代演歌が少なからぬ影響を受けているのではないかと思ってしまう。
二首目は、恋の歌である。おそらく若い頃の作品だと思うが、その巧拙を私は判断できないが、黒主も血の通った普通の人物だと思わせてくれる歌である。
三番目と四番目の歌には、鏡山が登場している。それも誇らしげに感じられる。このことから、黒主が近江国と縁のある人物であることは間違いあるまい。また、伝えられている足跡のうち、官職にあった時期があるらしいこと、神職あるいはそれに関与するような立場であった可能性も想像できる。

大友黒主の生没年は不明である。
醍醐天皇の大嘗祭で黒主の歌が歌われていること、紀貫之の生没年(868~946)などがら推定すれば、平安初期、おそらく九世紀中・後半を中心に活躍した人物らしい。
一説によれば、貞観八年(866)の大政管諜に大友村主黒主という人物が記載されており、同人物ではないかと言われている。
そうだとすれば、近江国滋賀郡大友郷に本拠を持つ一族で、地方官であったらしい。
官位は、従八位上といわれ、一般庶民の中では指導的立場にあったとも考えられるが、中央の貴族などとは雲泥の差である。

また、大友は「大伴」とも表記されていることがあり、古代豪族である大伴氏の流れとされる意見もあったようだが、この時代、大伴氏は「伴氏」に改名されているので、この説は支持されていない。
さらには、壬申の乱において、大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れた天智天皇の皇子、大友皇子の末裔だとして、それらしい系図もあるらしいが、時代が合わず、天皇末裔が「村主」の姓を名乗るのは考えられず、信憑性に欠ける。
結論としては、近江地方の豪族で、低いながらも地方官としての官位を有していた人物で、都に歌人としてその名が伝えられるような教養人でもあったと想像したい。

「六歌仙」というものが、誤解から生まれた産物であると先に述べた。
それは事実であるが、やがてそれは、歌人として優れた六人として定着していっている。誤解からであれ、官命によるものであれ、「六歌仙」とされる人たちが評価に耐えないような歌人たちであれば、やがて消滅していったはずである。卓越した和歌の名手ばかりであったかどうかはともかく、歴史上に燦然として残る「六歌仙」は、やはりその存在感を認めるべきだとも思う。

その中の一人である大友黒主は、六歌仙として挙げられている歌人の中で、ただ一人「小倉百人一首」に加えられていない。
単なる撰者の好みからなのか、やはり人物として問題があったのか、まさかそのようなことはないと思うが、「そのさまいやし。言はば、たきぎ負う山人の・・」という仮名序の評価が影響していないかと、ついつい勘ぐってしまうのである。
もし、「小倉百人一首」に加えられていたら、大友黒主が現代の私たちに今少し馴染み深い人物になっていたのではないかと、その点が少々残念なのである。

                                             ( 完 )



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運命紀行  一族の切り札

2014-02-02 08:00:58 | 運命紀行
、          運命紀行
               一族の切り札

飛鳥時代末期から奈良時代・平安時代の歴史を紐解くとき、藤原氏の動静を無視して理解することは困難である。
藤原不比等を祖とする一族は、他の氏族と、あるいは天皇家を中心とした皇族とも激しく対立し時には絶妙の関係を保ちながら繁栄を続け、道長・頼通という絶頂期を現出させるのである。
しかし、その歴史は、藤原氏という氏族内での激しい権力争いの歴史でもある。

聖武天皇の御代、不比等の四人の息子たちは、偉大な父を亡くした後の苦難の時期を切磋琢磨しながら勢力の挽回を図っていた。
四人の息子とは、南家の武智麻呂、北家の房前(フササキ)、式家の宇合(ウマカイ)、京家の麻呂であるが、長屋王と政権を争ったのは、長男の武智麻呂と次男の房前が中心であった。
因みに、南家・北家というのは、二人の屋敷の位置関係から称せられるようになったものであり、式家は、宇合が式部卿であったことに由来し、京家は、麻呂が京職太夫であったことに由来する。

長屋王が謀反の疑いから滅亡すると、武智麻呂と房前は弟たちを順次朝廷の要職に引き上げ、四兄弟が朝廷を完全に牛耳るまでに至った。
しかし、天平九年(737)、蔓延していた天然痘により、四兄弟全員が順次没してしまったのである。
再び苦境期を迎えた藤原各家であったが、光仁天皇の御代では、北家房前の子の永手・魚名が左大臣に上り復権を見せたが、永手の嫡男は夭折し、魚名は乱に連座して失脚、北家は南家・式家に押されていった。
だが、その両家も、大同二年(807)に南家が伊予親王の変で没落し、弘仁元年(810)に式家が薬子の乱で勢力を失っていった。
すると、それまで雌伏の時を送っていた北家の冬嗣は、嵯峨天皇の信任を得て急速に勢力を伸ばし、藤原四家の中心になっていったのである。

冬嗣には多くの妻がいるが、その中に藤原美都子という注目すべき女性がいる。
美都子は武智麻呂を祖とする南家の人であるが、祖父は仲麻呂の乱で処刑された巨勢麻呂である。その前に亡くなっていたという説もあるが、美都子の父真作は無事であったようであるが、貴族とはいえ最終の官職が阿波守であることを考えれば、あまり恵まれた境遇ではなかったらしい。当然美都子も幼年期は恵まれなかったと想像されるが、冬嗣の妻となったことで一族の重要な役割を担うことになる。

美都子は四人の子供を儲けた。
男子は、上から長良・良房・良相の三人で、女子は一人で順子である。
順子は嵯峨天皇の皇子である仁明天皇のもとに入内、後に文徳天皇となる皇子を生む。これにより、冬嗣の朝廷内での地位は確固たるものとなっていった。
長良は、人柄高潔にして、官職において弟たちに後れを取っても拘ることなく付き合ったといわれるが、いわゆる総領の甚六的な人物だったのかもしれない。しかし長良は子供に恵まれ、特に高子と基経という重要な人物を得ている。ただ、出世争いにおいては、公卿とされる参議になるのは、二歳年下の良房に十年遅れ、四十三歳の時であった。さらには、権中納言になるのも、九歳ほど下の弟良相に先んじられ、亡くなる二年前に良相が権大納言に昇った後釜として就いており、それが最高位であった。

良房は、実質的な冬嗣の後継者として着々と地位を固めていったが、それは、もちろん当人の器量によるところもあるが、何よりも嵯峨天皇の皇女潔姫を妻に迎えたことが大きかった。
その代わりというわけではないが、二人の間には姫が一人誕生しただけで、嫡男を設けることができなかった。記録として残っているものを見る限り、他に妻妾を娶らなかったようなのである。そのため、兄の三男である基経を養子に迎えることになったが、この人物は父には似ず、むしろ養父となった叔父良房を上回るほどの政治力を発揮して、藤原北家の勢力を万全のものへと導いていくのである。

しかし、そこへ至るにはいくつかの難関もあった。
良房と潔姫の間に生まれた明子は、文徳天皇に入内させることができたが、すでに惟喬皇子という嫡男というべき立場の皇子がいた。明子は、待望の男子を設けるが、惟喬親王はすでに七歳になっていた。良房は、惟喬親王の生母が紀氏という勢力の弱い一族であることと、明子が皇女を母としていることなどを武器に、生まれたばかりの惟仁皇子を立太子させた。
さらに、惟仁皇子が成長するまでの繋ぎとして惟喬皇子を即位させたい意向を文徳天皇は抱いていたが、それも強引に押さえつけることに成功した。
そして、文徳天皇が三十二歳で崩御すると、ただちに九歳の惟仁皇子を後継者として践祚、即位させたのである。天安二年(858)のことで、清和天皇の誕生である。
ここに、藤原北家による天皇外戚としての基盤は固まったかに見えた。

だが、清和天皇がいざ即位してみると、重大な問題が持ち上がってきたのである。
次期天皇を設けるべき妃の選定であった。皇族関係や他の有力貴族にはその候補者となるべき姫は数多いたが、肝心の藤原北家には嫁がせるべき適当な姫がいなかったのである。
清和天皇はまだ九歳とはいえ、天皇家にとっては後継者を一日も早く儲けることは何よりも優先されることであった。むざむざと時間を送っているわけにはいかなかった。すでに他の勢力からは入内させようとする動きが表面化してきていた。
摂政として政治の実権を握っていた良房と、その後継者として頭角を現しつつあった基経は、藤原北家の最後の切り札ともいうべき苦肉の手段に出たのである。
それは、基経の妹である高子の入内であった。

この時、清和天皇は九歳、高子十七歳、天皇はようやく少年の面影を宿し始めた頃であるが、高子は、当時としてはむしろ婚期としては遅いほどの年齢であった。
しかし、この決断により、これからほぼ十年後に高子は皇子を誕生させ、藤原北家の繁栄を盤石のものとしたのである。


     ☆   ☆   ☆

藤原高子は、永和九年(842)に誕生した。父は藤原北家冬嗣の長男長良、母は藤原乙春である。
高子が誕生した時には、冬嗣はすでに没していて、仁明天皇の御代となっていた。父の妹である順子は、仁明天皇の女御として入内しており、やがて文徳天皇となる皇子を設けていた。
父の出世は遅れていたが、叔父にあたる良房は冬嗣の後を引き継ぐ形で政権の主導権を握っていた。従って、高子の生活は、上流公卿らしい華やかなものであったと考えられる。

やがて高子は、順子のもとに出仕している。詳しい時期は分からないが、清和天皇がまだ東宮時代のことと思われる。
高子が藤原北家の頼みの綱として、清和天皇の女御として入内したのは、貞観八年(866)とされるが、この時には、清和天皇は十七歳、高子は二十五歳になっている。本当にこの時が入内であれば、いささか年齢差はあるとしても、夫婦として自然な年齢である。
しかし、一族以外からの入内を恐れている良房や基経が、天皇がこの年齢になるまで高子を入内させなかったなどとはとても考えられない。さらに高子はすでに二十五歳で、当時の公卿の姫としてはそれまで独り身であることは極めて不自然といえる。
おそらく、高子が順子のもとに出仕したというのは、清和天皇の東宮時代か、あるいは即位間もない頃から実質的な入内を果たしていたと考えられる。
高子はすでに結婚適齢期に達していたが、清和天皇はまだ十歳になるかならぬかの頃からと考えられるので、高子にとっては何とも切ない新婚時代であったかもしれない。

貞観十年(868)、高子は一族待望の皇子を出産する。貞明皇子、後の陽成天皇である。翌年には、貞明皇子は立太子し、貞観十九年(877)には父の跡を継いで即位する。
一方で、高子の夫でもある清和天皇は、波乱の生涯を送っている。
母の出自の威光によって、義兄である惟喬皇子を追い払うようにして立太子し、九歳にして即位した清和天皇であるが、決して満たされたものではなかったようだ。
まず、幼くしての即位は父文徳天皇の崩御のためであるが、まだ三十二歳の若さであり、急病死であることから、とかくの噂もあったらしく、暗殺の可能性も捨てきれない。
また、当然のことながら良房・基経らに政権は委ねられており、やがて自身の成長と、良房没後は基経の剛腕ぶりも目立ってきて、鬱々たる皇位であったようだ。
清和天皇は、二十七歳の時、突然退位を決意し、まだ九歳の陽成天皇に譲位してしまう。
しばらくは、上皇として、基経や高子らと共に政権に関与したようであるが、意のままにならず出家してしまい、寺社をめぐる巡拝の旅に出た。それは、断食を含む厳しい修業を伴ったものらしく、やがて、三十一歳で崩御する。退位して四年後のことである。

高子には、在原業平との激しい恋の物語が残されている。
皇族の一員でもある業平は、惟喬親王と親交があり、互いに恵まれぬ境遇からかなり親しかったようである。そのような関係から高子とも接する機会があったようで、業平は真剣に高子を愛したらしい。
高子は大変な美貌とも伝えられているが、実際に五節の舞姫を務めているので容姿端麗であったことは事実らしい。
高子と業平との恋は、伊勢物語などでその一端を知ることができるが、高子が順子のもとに出仕していた頃と思われ、何とも微妙な時期ではある。

また、清和天皇が崩御した時、高子は三十九歳になっていたが、在原業平もその頃に没している。
後は皇太后として晩年を送っていたが、寛平八年(896)、自身が建立した東光寺の座主善祐との密通を疑われて、皇太后の位を廃されている。
高子が五十五歳の頃のことであるが、どこまでが事実か分からないが、情熱的な女性であったことは確からしい。
皇太后の位を廃されることは、名誉的なこともあるが経済的な痛手も大きかったと思われる。しかし、息子の陽成天皇は上皇として健在であったから、生活に支障をきたすようなことはなかったはずである。

その陽成天皇も、九歳で践祚を受けたが、十七歳で廃位に追い込まれている。暴虐な振る舞いが多かったためとも言われているが、満年齢で言えばまだ十五歳の頃のことで、いくら粗暴だったとしても退位するほどのものであったとは考え難い。おそらく政略がらみと考えられる。
その跡は、仁明天皇の皇子で基経とは従兄弟にあたる光孝天皇が五十五歳で即位し、その皇子も次の宇多天皇となる。
そのいずれの御代でも、藤原北家は天皇の外戚の地位を占め、藤原北家全盛の時代を迎えるのである。
結果として、何人かの天皇や取り巻く人々が、藤原氏の政権争いの犠牲になったともいえるし、高子もまたその一人なのかもしれないが、もし高子という女性がいなければ、藤原北家のあれ程の全盛期は実現しなかったように思われるのである。

『 雪のうちに春は来にけり鶯の こほれる涙今やとくらむ 』

これは古今和歌集に収められている藤原高子の作品である。
おそらく、晩年の作と思われる。
高子は、延喜十年(910)春三月、世を去った。享年六十九歳であった。
なお、それから三十三年後の、天慶六年(943)、皇太后の位に復されている。

                                                    ( 完 )







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