雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第百六十二回

2015-08-17 13:25:25 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十一 )

奈良に居を定められ、嘉元二年(1304)となり、姫さまは四十七歳となりました。 
都の方から伝わって参ります噂によりますと、正月の始めの頃でございましたでしょうか、御所さま(後深草院)の妃・東二条院殿がご病気だというのです。
どのようなご様子なのかと、姫さまもお気になされておられましたが、お尋ねする手立てがございません。僅かなご縁をたどってご様子を求められましたが、どうやら、もはやどうすることも出来ないご容態とのことで、すでに富小路の御所をお出になられて、伏見殿にお移りになったというのです。(御所が死の穢れを忌むため、死期が近付くとこのようなことが行われていたらしい。)

無常はこの世の習いと申しますが、いくら病が重篤とはいえ、住み慣れていらっしゃる御所をお出になられるとは、どういうご事情なのかと姫さまはご立腹のご様子でございました。姫さまにとりましては、東二条院殿は、何かと辛く当たられる御方でありました。姫さまが御所さまのもとを去ることになった直接の原因ともいえる御方なのです。
しかし、時を経た今となりましては、いかなるご事情があるとしましても、后として御門の玉座にお並びになられ、朝政さえも補佐され、夜も共にご一緒される御身でいらっしゃる御方なのですから、今は御臨終という場合でも変わることなく御所においてお世話申し上げるべきだと、姫さまは去りし日の東二条院殿の面影を思い浮かべつつ、ご同情申し上げ、昼も夜も懸命に御祈願に励まれたのでございます。その姫さまのお姿には、御所にお仕えしていた頃の恩讐などみじんも見受けられず、念仏に没頭されておられました。

しかし、姫さまの懸命の御祈願の効はなく、「はや、お亡くなりになられた」ということが伝わって参り、世間は大騒ぎとなりました。
ご薨去は、一月ニ十一日の事とか。七十三歳の御旅立ちでございました。

     ☆   ☆   ☆




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二条の姫君  第百六十三回

2015-08-17 13:24:38 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十二 )

東二条院殿の薨去は、七十三歳というご年齢からすれば世の常とも申せますが、姫さまはしばらく呆然とされておられました。

姫さまは、時々は都へもお出かけになり、そちらにも住居を用意されておりました。
やはり、東二条院殿が最期を迎えられました伏見殿のことを気になされ、そちらの住まいに移り様子を伺いに参りました。
すると、「まず、遊義門院殿が御幸なさいます」とて、北面の下臈二人ばかりが御車を寄せています。
今出川の右大臣殿も伺候されていまして、「右大臣殿がお出になられる」などと言い合っています。
遊義門院(後深草院の皇女、母は東二条院。この時三十五歳)殿の御幸がまず急がれるということで、その御車を寄せられようとしていると見ていますと、まだしばらくはお出にならないということで、また御車を退けているようです。

そのようなことが二度三度となるなど混乱している様子が窺えますが、これでは、御母君の最期のお姿にお目にかかるのが何時になることかと、遊義門院殿のお心の内を思い、姫さまはたいそう哀れに思われているご様子でございました。
御車の他にも大勢の人々が集まっていましたので、その混雑に紛れて、姫さまは御車の近くまで参り尋ねますと、御車に乗っているとか、降りられているとか、要領を得ない言葉ばかりが返ってくるのです。

やがて、どうやら遊義門院殿は御車に乗られた様子でしたが、つめかけている人々も互にお噂申し上げているうちに、袂は涙に濡れて、心ある者も心ない者も袂を絞らぬ人はおりません。
東二条院殿には、宮様がたくさんいらっしゃいましたが、皆様に先立たれ、遊義門院殿ただお一人となっていらっしゃったのですから、お互いの愛情の深さはさぞかしと察せられ、それだけにお悲しみは大きく深いものと思われます。
姫さまは、ご自分が御父上を亡くされた時と重ね合わせられているご様子で、その悲しみはいっそう深く重いもののようでございました。

今、このようにご葬送の御幸を拝見するにつけても、姫さまが昔のままのお立場であればどのような心境であったのか、などとお漏らしになりました。
この時お詠みになられました姫さまの御歌でございます。
『 さてもかく数ならぬ身は長らへて 今はと見つる夢ぞ悲しき 』
(それにしても、このように物の数でもないこの身が長らえて、東二条院のご葬送を夢かと思いながら拝するのは悲しい。)

     ☆   ☆   ☆

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二条の姫君  第百六十四回

2015-08-17 13:23:55 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十三 )

御葬送は伏見殿の御所で行われるということで、法皇の御方(後深草院)も、遊義門院殿もいらっしゃるということでございました。
姫さまは、お二方のお嘆きもさぞかしとご推量されておられましたが、姫さまのご消息を取り次いでくださるつても途絶えていて、ご参列は叶わず、空しくお心の内で悲しみを噛みしめられておりました。

そして、その年の六月の頃、法皇さま(後深草院)が御病気だという噂が伝わって参りました。一、二日おきに発熱される瘧(オコリ)という症状でお苦しみということでございました。
姫さまは、たいそうご心配なされ、早くご回復に向かっているとの報をお聞きしたいものと、あちらこちらにお尋ねされておりましたが、そのうちに、ご重態におなりになっているとの噂が伝わって参りました。
閻魔天供(エンマテング・閻魔天を供養する修法)とかいう祈祷を行っておられるとか伝わってきており、その後の様子などお聞きしたくて姫さま自ら御所のお近くまでお出ましになられましたが、誰にお尋ねすることも出来ず、空しく引き返すことになってしまいました。

その時の姫さまの御歌でございます。
『 夢ならでいかでか知らむかくばかり 我のみ袖にかくる涙を 』
(夢でご覧になるのでなければ、どうしてお知りになるでしょうか。このように、わたしだけが涙を袖にかけて、御所さまの御病を悲しんでいることを。)

「毎日高温を発せられるようになった。発作はたいへんひどい」などと伝えられ、「御大事に至るかもしれない」などと噂されるのを聞くにつけ、姫さまのご心配と悲しみは積もるばかりでございました。
せめて今一度この世での御面影を拝見したいと願われていましたが、それも難しいかの噂が伝わってくるのです。
姫さまは、七月一日より石清水八幡宮に参籠して、武内社のお千度詣でをなされ、この度の御所さまの御病が、お命に別状がないようにとお祈りなさいました。
そうしますと、五日に不思議な夢をみられました。日食といって、外へ出てはならない、というものだと申されるのです・・・

   ( この後、原文は切り取られていて、その内容や量は不明です。 次の行は、中断後のものです。)

また、ご病気のご様子など承るとが出来るかと思い、西園寺邸を訪れることになりました。

     ☆   ☆   ☆

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二条の姫君  第百六十五回

2015-08-17 13:23:08 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十四 )

姫さまは、何とか御所さま(後深草院)の御病状の様子を知りたくて、北山の西園寺邸をお訪ねになられました。
かつての想い人、西園寺実兼殿の御邸であります。

「昔、御所にお仕えした者でございます。入道殿(西園寺実兼)にほんの少々お会いしたいのでお取次ぎ願います」
と、辞を低くして案内を乞いましたが、墨染の姿であることを嫌ってか、すぐに申し出を受け付けようとする者さえいないのです。
あまりのことに悔しさに涙さえあふれて参りましたが、かようなこともあるかと用意しておりました姫さま直筆の御手紙を取り出して、「お目にかけていただきたい」と強く申し入れましたが、それさえもすぐに取り次いでくれる人がいないのです。

夜が更ける頃になって、春王という侍が一人出てきて、ようやく手紙を取り次いでくれました。
「ひどく年を取ったせいであろうか、すぐに思い出せない。明後日ころ、今一度必ず立ち寄るように」という返答が、取次の者を通して伝えられました。
西園寺実兼殿は、五十一歳で出家されたと聞いておりましたが、今は確か五十六歳になっている頃で、体調がすぐれなかったのかもしれません。
たとえそうであってもお会いいただけないのは残念な気持ちがするのですが、姫さまは、この返答に満足のご様子なので、この日は退散いたしました。

そして、十日の夜に再び訪れましたところ、「法皇(後深草院)の御病状が、すでに御臨終近くでいらっしゃるということで、京にお出向きになられた」という知らせが待っていたのです。
姫さまの衝撃はとても大きなものでございました。御所さまのご様子をお聞きすることもさることながら、久方ぶりの実兼殿との再会も、複雑な御気持ちながらも楽しみにされていたはずでございます。それが、不在というばかりでなく、御所さまがすでに御臨終の御様子だという知らせはあまりにも辛いものであったことでございましょう。

西園寺邸を出て、右近衛の馬場を過ぎて行くときも、北野、平野の御社を伏し拝んで、「わたしの命に代えても御所さまの御命をお助け下さい」と声に出して祈祷されていたのです。
「この願いが成就して、たとえわが命が露と消えても、御所さまの御命ゆえにそうなったとはお知りになることなどありませんでしょうねぇ」
と、姫さまがお話になられました。このような事をお言葉にされるとは、よほどお辛いご心境だったのでございましょう。
その時の御歌でございます。
 『 君ゆゑに我先立たばおのづから 夢には見えよ跡の白露 』
( わが君をお救いするためにわたしが先立ったならば、何としてもわが君の夢に現れてほしい、儚く散った跡の白露として。 )

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二条の姫君  第百六十六回

2015-08-17 13:22:15 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十五 )

昼は日暮し思い暮らし、夜は夜もすがら嘆き明かして過ごされる姫さまのご様子は、側に仕える者さえも身が細るほどでございました。

七月十四日の夜、再び北山の西園寺邸を訪れました。
そうしますと、幸い入道殿(西園寺実兼)が在宅しており、この夜はすぐに取り次いでもらえることができました。
実に久方ぶりのご対面でございましたが、深い情愛で結ばれ、お子まで成された関係でございますから、お会いするとたちまちに空白の時は埋められたかのように、昔のことやそのあとのことなどお話は尽きることがございませんでした。

そして、やがて、御所さま(後深草院)のことに話題が移りますと、
「御病気の有様は、もう、全く望みがない様子でいらっしゃる」
と申されるのです。
姫さまは、御所さまの御病状のただならぬことは承知されていましたが、御見舞いされてきたばかりの入道殿のお言葉は、大きな衝撃となりました。
「今一度、何とかしてお目にかかりたい」
と思われながらも、姫さまがお願い出来ずにいますと、入道殿は、
「私が申したと言って、御所をお訪ねなさい」
と、おっしゃって下さったのです。

時を経ても変わらぬ入道殿のご配慮に感謝しながら西園寺邸をご退出されましたが、姫さまの袖にかかる涙は人目にも怪しまれるほどで、ようやく歩くことが出来るといった状態でございました。
折から、鳥辺野(葬送の地であった)の空しき跡を訪ねる人が、内野(一条と二条の間あたり)には所もないほどに行き交っている様子が、ことさら無常を感じさせるのです。
「いつかは、わが身も・・」
と、姫さまは小さくつぶやかれ、御歌を詠まれました。
『 あだし野の草葉の露の跡とふと ふと行き交う人もあはれいつまで 』
( あだし野の草葉の露と消えた亡き跡を、弔おうと行きかっている人も、あわれかな、いつまで長らえることが出来るのであろうか。 )

十五日の夜、二条京極より入道殿をお尋ね申し上げて、姫さまは、まるで夢の中のようなお気持ちで御所さまの御姿を拝見されたのでございます。

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二条の姫君  第百六十七回

2015-08-17 11:27:41 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十六 )

十六日の昼ごろのことでございました。
「もはや御隠れになられた」という噂が伝わって参りました。
お覚悟されていたことではありますが、崩御が事実だということがはっきりしますと、やはり姫さまの落胆は大きく、泣き言を申される力さえ消え失せたかに感じられました。

哀しさも憐れさもまるで感じ取れないような、虚脱してしまったかのようなご様子でしたが、姫さまは気強く御所に向かわれました。
御所では、効験を示すことができなかった御修法の壇を壊して退出する僧の姿がありました。
あちらへこちらへと人が行き来していますが、しめやかに物音などはほとんどなく、南殿の灯篭も消されてしまっておりました。

東宮の行啓は、まだ明るい時分に二条富小路殿においでになられたので、しだいに人の気配が少なくなって行きましたが、初夜の時分(午後八時から九時ごろ)を過ぎる頃に、六波羅探題(鎌倉幕府の職名。南方・北方の二名いた)が弔問に参上されました。北方の探題(北条時範)は、富小路面に、人の家に松明をともさせて、並んでいます。南方の探題(北条貞顕)は、京極面のかがり火の前に、床几に腰を掛けて手勢の者が二列に並んでいる有様は、いかにも物々しい感じでございました。

夜もしだいに更けて参りましたが、姫さまは帰ろうとなさいません。
がらんとして一段と寂しさが感じられる御庭にお一人で立たれ、昔の思い出に浸られているご様子でございました。
さまざまな出来事や、その折々の御所さまの御姿を偲ばれ、それらの一つ一つがただ今のことのように思い浮かべられているご様子で、静かにお二人だけの会話を交わされていたのではないでしょうか。
悲しみに耐えかねたように仰ぎ見られた空には、さやかに澄んだ月が昇っておりました。

『 隈もなき月さへつらき今宵かな 曇らばいかにうれしからまし 』
( 少しのかげりもない月さえつらく感じられる今宵です。せめて、曇っていたら、どんなにうれしかったでしょうか。 )

釈尊が入滅なされた昔は、日月も光を失い、心のない鳥や獣までも憂い悲しみに沈んでいたのに、一体どういうことなのかと澄み渡った月を恨めし気に、姫さまはいつまでも眺めておられました。

     ☆   ☆   ☆

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二条の姫君  第百六十八回

2015-08-17 11:26:51 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十七 )

夜が明けた頃、姫さまはようやくお帰りになられました。しかし、なお平静な御気持ちを取り戻せないご様子でございました。
御葬送奉行には平中納言仲兼殿にゆかりのある人がお就きだとお聞きになられますと、仲兼殿にゆかりのある女房を知っておられるということで、早速にそのお方をお尋ねして「御棺を遠くからでも、今一度拝ませてください」とお願いされましたが、「とてもそれは出来ない」とのご返事でございました。

姫さまとて、御大役を仰せつかったお方が、そうそう簡単に便宜を図ることなど出来ないことは承知されておりましたが、なかなか諦めることが出来ないご様子で、なお御縁故を求められたりなさいましたが、望みを叶えられることはできませんでした。
それでもなお御心を鎮められぬご様子で、女房の御衣を被られて、一日中御所に佇んでおられましたが、やはりその機会はございませんでした。
すでに御格子を下ろす時分になった頃、御棺がお入りになったご様子が感じられ、姫さまは御簾の隙間に近寄られましたが、灯の光が見えるばかりで、それと思われる辺りは暗くなっており、姫さまのお心の乱れようは、見守っているだけでも憐れなものでございました。

やがて、「用意が整った」ということで、御車をお寄せして、すでにお出になられるという時、持明院殿の御所様(伏見院。第九十二代天皇で、後深草院の第一皇子)が門まで御見送りになられ、帰ってお入りになられる時に御直衣の御袖で涙をお払いになられましたのは、悲しみの深さが伝わって参りました。
姫さまは京極表より退出なされ、そのまま御車の後ろについて参られましたが、一日中御所に身をひそめるようにして佇んでいましたうえ、「用意が整った」というお声と共に御出棺となられたものですから、姫さまは大慌てとなり、いつの間にか御履物もいずこかへ失くされてしまい、裸足で御車の後を追われていたのです。

御車は、五条京極を西の方へと走らせていくうちに、大路に立て掛けていた竹に御車が引っ掛かって、御車の簾の片方が落ちそうになりました。御車副(ミクルマゾイ・牛車の両側に付き従っている従者)が登って直しているうちに、姫さまは御車近くまで追いつかれました。
そして、簾を直す様子を見てみますと、その側に山科の中将入道殿(藤原資行か)が立っておられました。お役として付かれているのでしょうが、墨染の袖も絞るばかりのご様子が、ひときわ悲しさを引き立てておりました。

もうこの辺りでお送りし引き返すよう姫さまに申し上げましたが、うなずかれながらも引き返そうとはされず、大勢の人波に後れながらも御車の後を追われようとなさるのです。
姫さまは裸足であり、付き添う身もいつか裸足になっていたため差し上げる履物はなく、足の痛みのため姫さまの歩みは遅くなり、御車や後を追う人並みから離されてしまいました。
藤の森という辺りだと思うのですが、一人の男性に会いましたので、御車の行方を尋ねますと、
「稲荷大社の御前をお通りになれないので、いずれの方かへ回られました。この先辺りには人はおりません。夜も、もはや寅の刻(午前三時過ぎ)になりました。どうしてこの先へ行くことなど出来ましょうか。危ないですよ。お送りいたしましょう」
という。

しかし、姫さまはこのまま帰ること出来ず、こちらと思われる方向に痛む足を進められるのです。
夜が明けかけた頃でございました。御葬儀の事が終わって、荼毘(ダビ・火葬)の煙が空に消えてゆくさまを、姫さまは、茫然と眺めておられました。
流す涙もすでに絶え果てて、血がにじむ御足の痛みも消え果たかのように、ただ、ただ立ち尽くしておられました。

     ☆   ☆   ☆


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二条の姫君  百六十九回

2015-08-17 11:25:48 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十八 )

伏見殿の御所のご様子を気になされ、姫さまはお尋ねになられました。
この春、女院であられる東二条院様がお亡くなりになった時には、後深草院様と遊義門院(後深草院皇女、母は東二条院)様の御二人がお渡りになっていましたが、この度は遊義門院様お一人でのお渡りですので、その心中はいかがなものかと姫さまはお悲しみになられました。

『 露消えし後(ノチ)のみゆきの悲しさに 昔のかへるわが袂(タモト)かな 』
(露と消えられた御葬送の御幸の悲しさに、悲しさのあまりの紅の涙で、私の袂は紅に染まり、墨染の衣が昔に立ち帰ってしまった)
姫さまが、この時の悲しみを詠まれたものでございます。

姫さまは、遊義門院様を一言でもお慰め申し上げるおつもりでこの御所に参られたのですが、語らうにも、戸口は固く閉じられていて、そのすべさえございませんでした。
何とかお会いしたいというお気持ちのようでございましたが、そういつまでも御所に留まるわけにも参らず、夕方にはお帰りになられました。

その後、遊義門院様が御素服(ソフク・喪服)を召されるとのことが伝わって参りました。
姫さまは、昔のままの御身であられましたなら、どれほど色濃く染めた喪服を着ることでしょう、と寂しくつぶやかれました。後嵯峨院崩御の折には、御所に奉公されていた頃でありましたし、故御父上の大納言殿が、「思うことがある」と申されて、姫さまを御素服を賜る人数の中に加えるよう申し出されましたが、「いまだ幼きに、普通の派手でない色でいるように」などと御所さま(後深草院)はおっしゃられたとのことですが、その年の八月には、御父上を亡くされるという大事にあわれ、ご自分の不幸で喪服を着ることになってしまったことなどを、思い出されておいででした。
姫さまが十五歳の頃の思い出でございます。

『 墨染の袖は染むべき色ぞなき 思ひは一つ思ひなれども 』
(墨染の袖は、これ以上染める色がありません。悲しみの思いは同じ思いなのですが)

大切な御方を亡くされながら、お側近く御奉仕することさえ叶わぬ姫さまの御歌でございます。

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二条の姫君  百七十回

2015-08-17 11:23:00 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 十九 )

姫さまは、鬱々としたお気持ちで日を過ごされておりましたが、そのお気持ちを打ち払うためと思われたのでしょうか、天王寺への参詣を思い立たれました。

摂津国の天王寺(四天王寺)は、聖徳太子の創建になる寺院ですが、釈迦如来が説法なされる場所だとか伝えられていて、姫さまは、ひときわ心惹かれるご様子でございました。
あわただしい日々が続きましたこともあり、ゆっくりと読経三昧の時間を過ごすうちに、姫さまは少し落ち着きを取り戻されたようでございました。しばらくは、何もかも忘れて参籠を続けられるおつもりでしたが、少し落ち着いてきますと、やはり御所さまのことが様々に思い出され、深い悲しみに襲われるようでございました。

そして同時に、御父上を亡くされた遊義門院様のご心境に思いを馳せられて涙されるのです。
『 春着てし霞の袖に秋霧の たち重ぬらむ色ぞ悲しき 』
( 春には、霞のようにお亡くなられた御母上・東二条院様のために喪服を召されたばかりなのに、秋には、霧のようにお亡くなりになられた御父上・後深草院様のためにさらに重ねられる喪服の色は、ひときわ悲しく思われます。 )
遊義門院様の重なる不幸を思いやられた姫さまの御歌でございます。

     ☆   ☆   ☆

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二条の姫君  第百七十一回

2015-08-17 11:16:19 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 二十 )

しばらくは天王寺で参籠を続けられるご予定でしたが、御所さま(後深草院)の御四十九日が近くなったので、姫さまは都に戻られることになりました。
その日は、伏見の御所に参られましたが、すでに御仏事が始まっていて、大勢の人々が聴聞されておられましたが、姫さまほど深く心を痛められている人はいないのではないかと思われるご様子でございました。

御仏事が終わりますと、それぞれに御布施をされるご様子も、今日が最後だという感じがして寂しさが増すようでございます。
折しも九月の初めの頃ですので、露も涙もさぞかし競い合うように零れ落ちるものと御簾の内の悲しさが伝わって参りますが、持明院(伏見院。後深草院の第一皇子で第九十二代天皇)様がこの度は亡き御所さまと同じ冷泉富小路殿にお住いになられると伺いますと、春宮(東宮)にお立ちになられて角(スミ)の御所にお移りになられるまでは、姫さまとお会いすることもよくあり、ついその頃のことを思いだされ感慨深げでございました。
「秋は、とけわけ悲しいものねぇ・・」
と、姫さまは古歌などを引用されたりしてつぶやかれるのです。

「公私共に一方ならずご厚情を賜ったわたくしなのに、たとえ物の数にも入らぬような身とは申せ、あれほどまで思い定めていたこともかなわず、今まで憂き世に生きとどまってしまい、御所さまの御四十九日にお遭いするのは、我ながらとてもつれない命だと思う。
三井寺の常住院の不動明王は、智興内供と申される御方が重い病にあった時、弟子の証空阿闍梨と申される御方が、『受法の恩は重い。数ならぬ身ではあるが、私が師に代わりたい』と言われ、阿倍晴明にわが命に代えるよう祈祷してもらったところ、不動明王は、『そなたは師に代わろうとしている。我は行者に代わろう』と申されて、智興内供の病も治り、証空阿闍梨の命も延びたという。
わが君の御恩は、受法の恩よりも深いものです。それなのに、わたくしの命に代えて御所さまの御命をお延ばし下さいとお祈りいたしたものを、どうして叶えてくださらなかったのか。『苦の衆生に代わるために、御名を八幡大菩薩と号す』と申し伝えられているのだから、わたくしが数にも入らぬ身だからではないはずだ。
八幡大菩薩の御志がいい加減なはずはなく、まことに御所さまの御寿命がどうあっても叶わぬものであったのだろうか・・」
などと申され、姫さまは重い足取りで御所を去られました。

戻られました後も、夜更けてもなお寝付けられないご様子でございました。
『 悲しさのたぐひとぞ聞く虫の音も 老いの寝覚めの長月の頃 』
( 悲しさの仲間と聞く虫の音も、老いの寝覚めには夜が長く感じられる、長月の頃よ。)

姫さまもいつか御年四十七歳になっておりました。
とは申せ、それを歌に詠まれますと、そのご心境が察せられ、ひときわ侘しい長月の夜でございました。

     ☆   ☆   ☆





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