雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

北に向かう象の群れ

2021-06-01 18:36:01 | 日々これ好日

     『 北に向かう象の群れ 』

   中国南部の雲南省で 野生のアジアゾウ15頭が
   北に向かっている とのニュース
   保護区から脱出した群れは 移動距離がすでに500kmに及ぶとか
   保護区でのエサが十分で取れなくなり 新天地を求めての脱出らしい
   この群れ 最初は16頭いたのが 途中で酒に酔った2頭が外れてしまい
   その後に子供が一頭生まれて 15頭になったとか
   映像を見ていると 微笑ましくもあるが 悲しさの方がまさる
   棲みよい新天地を 早く見つけて欲しい

                      ☆☆☆

   

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なほ故郷を

2021-06-01 08:00:01 | 新古今和歌集を楽しむ

     道のべの 草の青葉に 駒とめて
            なほ故郷を かへりみるかな

             作者  民部卿成範

( NO.965  巻第十 羈旅歌 )
        みちのべの くさのあおばに こまとめて
                  なほふるさとを かへりみるかな


☆ 作者は、平安時代後期の公卿、歌人。 ( 1135 - 1187 ) 行年五十三歳。

☆ 歌意は、「 道の辺の 草の青葉に 乗っている馬をとめて 遠のくふるさとを 振り返って眺めてみる 」といったもので、ごく分かりやすいものと受け取ったが、この和歌が亡父に連座して、下野国に流される途中での詠歌であることを思うと、歌の持つ重さが変わってくる。

☆ 作者 民部卿成範(シゲノリ)は、平清盛が台頭してくる頃に、歴史の一端を担ったとさえいえる信西(シンゼイ・1106 - 1160 , 俗名は藤原通憲。)の三男にあたる。父・信西の政治的な立場や功績を安易に述べることは避けたいが、後白河法王と平清盛というあくの強い英雄の間で政治的な活躍を見せた人物である。
成範は、保元・平治の乱という激しい時代を、父の後見のもと順調に出世を続けた。若くして正四位下に昇り、遠江守、播磨守に就き、清盛の娘と婚約するなど、前途洋々であった。

☆ しかし、1160 年 ( 平治元年12月 ) に平治の乱において信西が殺害されると、状況は一転して、信西の子息たちは罪を受け、成範も上野国に配流となった。掲題の和歌は、配流となり京都を離れる粟田口の辺りで詠んだものである。

☆ ところが、1160 年 2 月には赦免されて京都に戻り、12 月には復位し大宰大弐に任じられている。後白河法王と平清盛の微妙な関係のさなかのことであるから、双方からかなりの信頼を得ていたものと推定できる。また、作者はこの頃までは「成憲」を名乗っていて、「成範」に改名したのはこの頃のことらしい。

☆ その後も順調に昇進し、1166 年には従三位となり公卿に列せられている。
1167 年には正三位・参議に、1180 年には従二位、1183 年には正二位・中納言に就いている。
この間、1179 年に起こった政変で、後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されたときにも、兄弟らと共に出入りが許されている。
1185 年に、源義経が頼朝から離反した際には、義経に同心した嫌疑をかけられている。その真否はよく分からないが、大難には至っていない。
1187 年、享年五十三歳で没しているが病気によるものであったと伝えられている。

☆ 作者 藤原成範を紹介する場合、本稿もそうであるが、公卿・歌人とされる場合が多いようである。しかし、歌人としては、確かに勅撰和歌集に十数首採録されているが、当時においても一流の歌人というほどの評価は得ていないと思われる。公卿としても、政治的な足跡はそれほど大きなものは無いと思われる。
そうした中で、中納言にまで昇り、この難しい時代を生き抜いたことを考えれば、非凡な人物であったことは確かであろう。

     ☆   ☆   ☆

 

 

  

 

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