雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

オリックス 交流戦優勝

2021-06-13 18:19:23 | 日々これ好日

      『 オリックス 交流戦優勝 』

    プロ野球 セパ交流戦
    オリックスが11年ぶりに優勝
    このところ 低迷が続いているだけに
    久しぶりの快挙に 拍手を送りたい
    そういえば 今年は セリーグのチームが善戦しているが
    これも久しぶりのことだ
    久しぶりついでに オリックスのリーグ優勝も あるかも
    同じく 久しぶりにあやかって タイガースも行きますか !!! 

                        ☆☆☆

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消えばわれこそ

2021-06-13 07:56:33 | 新古今和歌集を楽しむ

     露の身の 消えばわれこそ 先立ため
              後れんものか 森の下草

             作者  小馬命婦
 
( NO.1737  巻十八 雑歌下 )
       つゆのみの きえばわれこそ さきだため
                おくれんものか もりのしたくさ


☆ 作者は、平安中期の宮廷女房、歌人。生没年とも未詳。

☆ 歌意は、「 露のような身で あなたがお亡くなりになるのであれば わたしこそが先立ちましょう あなたに遅れることなどありましょうか ご愛顧を受けた『森の下草』のようなわたくしなのですから 」といった意味であろう。

☆ 作者 小馬命婦(コマノミョウブ)は、はじめは関白藤原兼通 ( 925 - 977 )に仕えていて、後に円融天皇皇后媓子( 947 - 979 、兼通の娘。)に女房として仕えている。
両親ともに不詳であるが、女房名から推定すれば、受領クラスの中下級の貴族の出自と推定される。
媓子が入内したのは、973 年のことであるが、おそらく、兼通は愛娘の入内に小馬命婦を女房として付けたのであろう。そうだとすれば、人格・教養共に高い評価を受けていたと推定できる。
また、これらのことから、作者が生きた時代がおおよそ推定できる。

☆ 掲題の和歌の前書き(詞書)は「返し」となっており、一つ前には贈歌が載せられている。
 「 長らへん としも思はぬ 露の身の さすがに消えん ことをこそ思へ 」
とあり、作者は「読人しらず」になっている。前書きも「わづらひける人のかく申し侍りける」となっているので、これは小馬命婦によって書かれた物となろう。
これらの二首は、「小馬命婦集」という歌集から採録されているが、それには、「堀川殿の阿闍梨の君いたくわづらひ給ふとて・・」とあるので、作者は堀川殿、つまり兼通の子息の一人であることが分かる。

☆ そこで、この二人の関係が気になるが、私などは、僧籍にある兼通の子息の死に臨んでの、激しい恋歌だと想像してしまうのだが、新古今和歌集の編者はこれらの和歌を「雑歌」に区分している。
ということは、二人の関係は私が想像するようなものではないということを知っていたのか、あるいは、高貴な出自の阿闍梨の絶唱を「恋歌」とするのを憚ったということも考えられる。
私は後者であって欲しいと願っている一人である。

☆ 小馬命婦の伝えられている消息は意外に少ない。時の関白や女御(後に皇后)に仕え、「小馬命婦集」という歌集を残しているほどであるから、歌人としても当時一流であったと考えられるだけに、今少し逸話があってもよいように思ってしまうのである。
側近く仕えた媓子は 979 年に三十三歳で逝去する。その後ほどなくして出家したとされる。
この時、小馬命婦は何歳くらいであったのだろうか。すでに兼通も世を去っており、内裏を退出した後、後見してくれる人物はいたのだろうか。藤原高遠や清原元輔(清少納言の父)など一流の歌人との交流はあったらしい。

☆ なお、清少納言の娘も小馬命婦という名前であり、和歌も残している。この人は一条天皇の中宮彰子、後の上東門院に仕えた女房であるが、全くの別人である。
この二人は、宮廷の女房であることや、活躍した時代も百年も離れていないこともあって、混同されることが少なくないようだ。母が清少納言という大看板であることや、仕えていたのが上東門院彰子という著名な中宮であることから、本歌の作者の存在が薄められている点があるような気がするのが残念である。

     ☆   ☆   ☆
        
    

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