雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

散らぬ間に行け ・ 小さな小さな物語 ( 1805 )

2024-09-15 07:59:15 | 小さな小さな物語 第三十一部

人間の目は、前方を見ることを第一とする構造になっているように思われます。
専門的な知識に基づいていませんので、その点はご承知いただきたいのですが、身体そのものを動かさなくても、頭を少し動かすだけで、左右上下の視野をかなり広めることが出来ますし、後方もかなりの部分を確認することが出来ます。
さらに身体そのものまで動かせば、視力そのものや障害物の有無といった条件が付くとしても、かなりの物を確認することが出来ます。
私たちの身体には幾つかの感覚器官があり、もしかすると第六感と呼ばれるようなものも大きな働きをしているのかもしれません。

その中で、目が前方を見ることを第一にしているのは、何か意味があるのでしょうか。獲物を見つけるためなのか、敵をいち早く確認する為なのか、それとも未来に向かって第一歩を踏み出すためなのでしょうか。
ただ、いずれの目的だとしても、あるいはそれらの全てのためであったとしても、前方だけでは不足であることを想定して、左も右も上も下も、そして後ろも見ることが出来るように身体を動かせるように造物主(そうした存在が居ればですが)が備えてくれていたのでしょう。
しかし、残念ながら、私たちは自分の背中を見ることが出来ません。とても柔軟な身体の持ち主や、鏡があるではないかという意見もあるでしょうが、ふつうは実体の自分の背中を見ることが出来ません。これは、造物主の手落ちなのか、あえてそうしたのか、ぜひ確認したいものです。

私たちは、少しでも前に進もうと懸命な毎日を過ごしています。まるで、今進んでいる一本の道しかないように、必死になって歩いているうちに、心ならずも、多くの人を傷つけ犠牲を強いているかもしれません。そうした澱(オリ)のようなものが背中にこびりついていても、私たちは見ることが出来ません。しかし、後ろに続いている人には、前の顔は見えなくても、背中は丸見えなのです。
好意を持ってくれている人や心ある人であれば、その澱の存在を教えてくれるかもしれません。その声は、後方からであっても聞こえるのですが、私たちの耳は、痛い言葉は聞き取りにくくなっているようです。

「人の行く裏に道あり花の山」という名句があります。
今日では、この句は相場(株式投資)の名言として知られています。「人と同じ手法では、大きな成果は得られない」といった意味で使われているようですが、実は、この句は、あの利休の句の一部なのです。
「人の行く裏に道あり花の山 いずれを行くも散らぬ間に行け」というものです。
全体としても相場の格言として立派なものですが、おそらく利休は、人生訓として後世に残してくれたものだと思うのです。
私たちは、今立っている場所にこだわりがあり、今歩いている道が唯一の道だと思いがちです。けれども、本当は裏道があり、そこには美しい花が咲いています。
私たちは、それも、指導的立場にある人ほど、背中の澱を伝えてくれる声を耳にした時には、立ち止まり、今歩いている自分の姿を冷静に見直すべきなのです。そして、場合によっては、勇気をもって別の道を模索すべきだと思うのです。ただし、そのチャンスはそうそうあるものではなく、「散らぬ間」に決断することが必要だと、利休は教えてくれています。
心したいと思います。


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