雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

里にまかでたるに

2014-12-03 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第七十九段  里にまかでたるに

里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ、人々はいひなすなる。いと有心にひき入りるおぼえ、はたなければ、さいはむも憎かるまじ。
また、昼も夜も、来る人を、なにしにかは、「なし」とも、かがやき返さむ。まことにむつまじうなどあらぬも、さこそはめぐれ。
あまりうるさくもあれば、「このたび、いづく」と、なべてには知らせず、左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知りたまへる。
          (以下割愛)


里に退出している時に、殿上人などが訪れるのを、ただ事ではないと、女房たちはあらぬ噂を立てるようです。私の場合は、特に思慮深く隠し事をしている覚えはさらさらありませんので、そのようなことを言われても腹など立ちません。
そうは言っても、昼も夜も訪ねて来る人を、どうしてそうそう「不在です」などと、恥をかかせて帰らせることが出来ましょうか。それほど親しくない人でも、そんなふうに訪ねてくるようですからね。
あまりにも煩わしいので、「このたびは、どこそこにいる」と、一般には知らせないで、左中将経房の君、済政の君などだけが知っていらっしゃいます。

左衛門尉則光(実質的な夫。まわりの人は兄・妹と呼んでいた)が訪ねてきて、世間話などしているうちに、
「昨日、宰相の中将(斉信・七十七段の頭の中将と同一人物)が参内なさって、『妹(清少納言のこと)の居所を、いくらなんでも知らぬはずはあるまい。教えよ』と、しつこくお聞きになったので、まったく知りませんと申し上げたのに、無理にも白状させようとなさったのですよ」などと話し、
「身に覚えのあることは、それを隠しだてするのは、とても苦しいものですねぇ。危うく口を割りそうだったのに、左の中将は、全く無表情で、素知らぬ顔で座っておいでになったのですが、もしあの方と少しでも目を合わせれば笑い出してしまいそうで困ってしまい、食卓の上にわかめがあったのを取って、どんどん食べてごまかしたので、他の人は『食事時でもないのに、変な物を食べているなあ」と見ていたことだろうね。
それでも、そのお陰で、ありがたいことにあなたの居所を『どこそこ』とは申し上げずにすみましたよ。もし笑い出していたら、駄目だったでしょうね。
『本当に知らないらしいな』と宰相の中将が思われたのも、とても可笑しかったですなあ」などと話すので、
「絶対に、話さないで下さいよ」と念を押してから、数日が経ちました。

夜が大分更けてから、門をひどく乱暴に叩くので、『何者が、こんなに無遠慮に、遠くもない距離にある門を音高く叩いているのか』と、使用人に確かめさせると、それは滝口の武士だったのです。
「左衛門の尉のお使いです」と、滝口の武士は手紙を持って来ていました。
家人はみな寝ているので、灯火を取り寄せて手紙を見ますと、
「明日、御読経の結願の日ということで、宰相の中将が、御物忌に籠っていらっしゃいます。『妹の居る場所を教えろ、教えろ』とお責めになるので、もう、どうしようもありません。もはや、隠し通せません。『こうこうです』とお教えしましょうか。どうしましょう。あなたの言われるようにします」と書いてある。
その返事は書かずに、わかめを一寸くらい紙に包んで持って行かせました。

その後、則光がやって来て、
「先夜は宰相の中将に責めたてられて、あちらこちらと適当な所にお連れして歩き回ったのですがね。もう、むきになって責められるので、まったくやり切れません。
ところで、どうして、私の手紙に全く答えもしないで、つまらぬわかめの切れ端など包んで下さったのか。変な包み物だねぇ。そんな物を包んで送るということもあるのですか。何か行き違いがあったのかな」などと言う。
「全然分かっちゃいなかったんだ」と思うと、気に入らないので、物も言わないで、硯箱にある紙の端に、

『かづきする あまのすみかを そことだに
     ゆめいふなとや めを食わせけむ』
 (海に潜る海女のように隠れている私の住処を、そこ(底)とさえ絶対
  に言うなと、目配せをするという意味を込めて、芽を食わせたのでしょう)

と書いて御簾の外に差し出したところ、
「歌をお詠みになったのですか。絶対に拝見いたしますまい」
と言って、扇で紙をあおぎ返して逃げ去ってしまったのです。

このように親しくつき合ったり、互いに後ろ盾になったりしているうちに、何というわけでもないのですが、少し仲が悪くなってきていた頃、手紙を寄こしてきました。
「たとい不都合なことなどありましても、やはり兄妹と固い約束をした気持ちは忘れないで、はた目には『兄妹の仲が続いている』ように扱って欲しいと思っています」と書いてありました。
則光がいつも言うことには、
「私を思って下さる女性は、歌なんか詠んで寄こしてはならない。そんな人はすべて、仇敵だと思います。『いよいよ、これが最後で、別れよう』と思う時にこそ、歌なんかを読めばいい」などと言っていたので、この手紙の返事として、

『くづれよる 妹兄の山の 中なれば
     さらに吉野の 川とだに見じ』
 (吉野川の両岸に相対している妹山と兄山が、互いに崩れて近付けば、吉野川は川(彼は)には見えない。つまり、崩れかけた二人の仲ですから、もう仲良しのあなたという扱いは出来ない、といった意)
   
と書いて送っておいたのですが、、本当に見ずじまいだったのでしょうか、返事もないまま終わってしまいました。

その後、則光は五位に叙爵されて、遠江の介となりましたが、腹立たしい気持ちがおさまらず、それきり縁切りとなってしまいました。



左衛門尉則光は、橘氏の氏の長者の長男であり、名門の御曹司ともいうべき人物です。
この人が少納言さまの最初の結婚相手で、少納言さまが十六歳、則光は十七際の頃と推定されています。
少納言さまの生家、清原氏も名門であり、官位などもほぼ似通った家同士と思われます。ただ、時代は藤原氏の全盛期であり、いくら名門といっても両家にとっては恵まれないことの多い時代だったことでしょう。

この章段では、この二人の別離の経緯が描かれています。
二人の間には男の子が一人おりましたが、結婚生活は二、三年で破たんに至ったようです。淡々と描かれていますが、少納言さまはまだ十代であったと思われ、その心情は決して平安なものではなかったことでしょう。

なお、本段では則光を左衛門尉と書かれていますが、この頃はまだその役に就いておらず、記述時の官位を用いているようで、そのような表記は他にもいくつも見られるようです。

また、最後の部分ですが、則光の昇進がお気にいらないようですが、どうやら少納言さまは、六位の蔵人があまり熱心に仕事をせず、実入りの良い地方の役人である受領を望む風潮がお気に召さなかったようです。

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