『 源信僧都の母 ・ 今昔物語 ( 15 - 39 ) 』
今は昔、
横川(ヨカワ・東塔、西塔とともに比叡山三塔の一つ。)の源信僧都(942 - 1017)は、大和国葛下郡の人である。
幼い頃に比叡山に登り、学問を学び優れた学僧になったので、三条大后宮(サンジョウノオオキサイノミヤ・朱雀天皇の第一皇女、昌子内親王。)主催の御八講(法華八講)に召された。八講が終った後、賜った数々の引き出物のうち、一部を取り分けて、大和国にいる母の許に、「これは后宮様の御八講に参って賜った物です。はじめて頂いた物ですから、まずはお見せ奉ります」と送ったところ、母は返事に、「送ってくださった品々を喜んで頂戴いたしました。このような立派な学僧になられましたことは、この上なく喜び申し上げます。しかし、このような御八講に参られるなどあちらこちらへ行かれるなどは、あなたを法師にして差し上げたわたしの本意ではありません。この母の願いとは違っています。この母が思っていたことは、『わたしには女の子はたくさんいますが、男の子はあなた一人です。それを元服もさせずに比叡の山に上らせましたうえは、学問をして知識を身につけ、多武の峰の聖人(増賀聖人を指す。名利名聞を捨てた高徳の僧として尊敬されていたらしい。)のようにこの母の後世を救って欲しい』と思ったからです。それが、このように名声の高い僧として華やかにあちらこちらへ行かれるのは、この母の本意と違うものです。わたしも年を取りました。『生きているうちに、あなたが聖人になられるのをこの目で見てから、安心してから死にたいものだ』と思っていたのです」と書かれていた。
僧都はこの返事を見て涙を流したが、泣く泣くまた返事を書き送った。「この源信は、決して高名な僧になりたいという心などありません。ただ、母尼君の存命中に、このように高貴な宮様方の御八講に参りましたことを、お聞かせしたいと思って急いでお手紙しましたが、このように仰せになられるのを承り、深い感銘を受け、大変嬉しく思います。それゆえ、仰せに従いまして、これから山籠もりをはじめ、『聖人になられたので、お会いしましょう』と仰せくださるまで、山を離れることは致しません。母上とは申せ、まことに立派な指導者であられます」と。
その返事には、「これで安堵いたしました。冥土へも安心して参れます。返す返す嬉しく思います。決して修行怠ってはなりません」と書かれていた。
僧都はこれを見て、この二度の母からの手紙を法文の中に巻き込んでおき、時々取り出して見ては泣いていた。
このように山に籠もって六年が過ぎた。
七年目の春に、母の許に手紙を送った。「六年がすでに山籠もりで過ぎてしまいましたが、久しくお目にかかっておりませんので、恋しく思っておられるのではないでしょうか。そこで、ほんの少しだけお訪ねいたしましょう」と。
すると、その返事には、「まことに恋しく思っておりますが、お会いしたからといって、罪が消滅するものでしょうか。なお山に籠もっておられると言うことをお聞きしただけで嬉しいのです。わたしから申し出さない限り、山からお出になってはなりません」と書かれていた。
僧都はこの返事を見て、「わが母尼君は、ただの人ではない。世間の普通の母は、このように言えるものではあるまい」と思って過ごしているうちに、九年になった。
「わたしから申し出さない限り来てはならない」と母から言ってきていたが、どういうわけか不安が募り、にわかに母が恋しく思われたので、「もしかすると、母尼君が亡くなられる時が近くなったのか、あるいは、自分が死ぬのだろうか」と哀れを感じて、「かくなるうえは、『来てはならぬ』と仰せられたが、訪ねてみよう」と思って、出掛けていった。
大和国に入ったところで、手紙を持った男と出会った。僧都が、「どちらへ行かれるのですか」と尋ねると、男は、「これこれの尼君が、横川にいらっしゃるお子の御坊のもとに差し上げる手紙です」と答えた。
僧都は、「その相手というのは私です」と言って、手紙を受け取り馬に乗って行きながら開いてみると、母尼君の筆跡ではなく、拙い文字が書かれていた。胸が詰まり、「何が起こったのか」と思いながら読むと、「この数日、何となく風邪でもひいたのかと思っていましたが、年を取ったからでしょうか、この二、三日弱ってしまい気力がなくなったように思われます。『わたしが申し出さない限り、山から出てはならない』と気強く申しましたが、最期の時となりますと、『もう一度お会いすることなく終るのではないか』と思いますと、限りなく恋しくなり、この手紙を書きました。急いでおいでください」と書かれていた。
「何とはなく気がかりに思われたのは、こういうことがあったからなのだ。親子の契りは哀れなものと言いながら、わたしを仏の道に強く勧めて入れてくださった母なので、このように思いが伝わったに違いない」と、いろいろと思い続けているうちに、涙が雨のように落ちた。弟子の学僧を二、三人ばかり連れていたが、それらにも、「このようなことがあったので、伝わってきたのであろう」と言って、馬を早めていくと、日暮れに家に行き着いた。
急いで母の枕元に寄って見ると、たいそう弱っていて、重病のようだ。
僧都は、「ただ今、やって参りました」と大声で言うと、母尼君は、「どうしてこんなに早くおいでになれたのですか。今朝早くに使いを出したばかりですのに」と言う。僧都は、「このようなご容態だったからでしょうか、最近とても恋しく思われましたので、やって参りましたが、その途中で使いの人に会ったのです」と答えた。
母尼君はこれを聞くと、「何と嬉しいこと。死ぬ時にはお会いしたいものだと口にしたりしていましたが、このようにおいでいただきお会いできましたことは、前世からの契りが深いということで有り難いことでございます」と息も絶え絶えに言う。僧都が「念仏を申しておいてですか」と尋ねると、母尼君は、「心の内では申そうと思っているのですが、気力が弱ってきています上に、勧めてくださる人もいないのです」と答えたので、僧都は尊いことなどを話して聞かせつつ念仏を勧めると、母尼君は深く道心を起こして、念仏を一、二百遍ほど唱えているうちに、明け方になって消え入るように息絶えた。
僧都は、「わたしが来なかったならば、母尼君の臨終はこのようにならなかっただろう。わたしは親子の機縁が深くして、お会いできて念仏を勧めたので、道心を起こして念仏を唱えて亡くなられたからには、往生は疑いない。まして、私を聖の道に進め入れられた志によって、このように尊い最期を遂げられたのだ。それゆえ、親は子にとって、子は親にとって掛け替えのない導き手であったのだ」と言って、涙を流し横川に返っていった。
横川の聖人たちも、これを聞いて、心打たれる親子の契りだと言って、涙を流して尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
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