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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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奈良坂の二月堂常夜燈

2012年05月05日 05時39分24秒 | 奈良市へ
翁舞で名高い奈良豆比古神社付近にやって来て目に入ったのは「二月堂」の刻印が見られる奈良坂の常夜燈。

神社の東側10mに信号がある傍だ。

常夜燈の刻印には「文政十一年(1828) 講元河州 杉澤作兵衛 世話人講中」とある。

もう一つが「三社燈籠 万人講寄(付)」である。

「河州」はいわゆる河内の国。

つまり現在の行政区分でいえば大阪府だ。

なかでも東大阪市の善根寺を思い起こす。

その地は生駒山の山中。

春日大社が枚岡神社の神さんを勧請したときに河内の信奉者が奈良に移住した。

その後、河内に戻り善根寺に住まいすることになった二十五人(その後宮座・春日座・春日講に)は春日大社の造営や屋根の葺き替えに従事した。

それは明治時代まで続いたという。

その関係があるのだろう、善根寺には春日神社が鎮座する。

そんなことを考えてみたが、近辺にはそれを知る人は見当たらない。

もしかとすれば、のことだが・・・。

本尊十一面観音悔過法要に祈る東大寺二月堂の修二会。

結願の15日の朝は韃靼帽の日。

その日は祈りを捧げた連行衆が三社の鎮守に満行を報告する。

そのことは奈良坂の常夜燈に見られる「三社燈籠」ではないだろうか。

気にかかる常夜燈である。

三社は興成社(こうじょうしゃ)、遠敷社(おにゅうしゃ)、飯道社(いいみちしゃ)だ。

今では瓦葺だが、かつては萱葺きであったろう。

檜皮大工集団が生業していた善根寺。

春日若宮お旅所の行宮の松葉屋根葺きに出仕していた。

河州-三社燈籠を結ぶ点と点は屋根であったら面白いと思ったがそうではなかった。

万(萬)人講は文政年間に社会奉仕活動をしていた講社であった。

春日、伊勢、八幡の三社に燈籠を献じ、太々神楽を奉納していた。

この三社の並びは三社託宣。

その始まりは、鎌倉時代後期の正応年中(1288~93)に、東大寺東南院の池の中に現れたといわれている(「三社託宣抄」)。

吉田神道信仰の対象として、室町時代中期から始まり中世から近世にかけて流行った「三社託宣信仰」は、それぞれ三社神の「お告げ文」や「神像」を記した掛軸を指す。

神道信仰の対象として広く民間に普及したとされる。

中央に伊勢の天照太神宮(正直)を配し、右が石清水八幡大菩薩(清浄)で左が春日大明神(慈悲)。

生き方に正直で、清き心であれ、慈悲を尊べと人々に対する誡めの言葉などが書かれたものでる。

それはともかく、講元は河内交野郡田口村(現在の枚方市田口)の杉澤作兵衛。同一人物だ。

残されている和本「三社燈籠万人講」には干時文政十丁亥年と記されている。

奈良坂(普請所坂の上)の常夜燈に刻印された時期とほぼ重なる。

講社は伊勢街道の松阪市上川町の三社燈籠も建立した。

それは天保七年とあるそうだ。

奈良から京都へと続く木津街道(木津宿南出口)にも講中が建てたとされる万人講の燈籠。

調べてみれば奈良坂通りには般若寺坂道にもあるようなので探してみるか。

(H24. 3.16 EOS40D撮影)