我が国の茶の歴史は仏教伝来とともに喫茶の風習を受け入れた奈良時代に始まるそうだ。
大和奈良から始まった「茶」の文化。
奈良の「茶」をテーマに撮影巡拝した仏隆寺は大和茶の発祥の地。
空海が唐から持ち帰った最古のお茶を栽培したとされる。
村田珠光で名高い称名寺。
また、西大寺の大茶盛や生駒高山の茶筅に東山間における茶畑風景。
もちろん郷土料理である茶粥もある。
東大寺二月堂修二会を祈る連行衆の食事に出される茶飯も。
そういった大和と茶の関係を撮りたくて度々出かけたものだ。
千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』が著者から贈呈された。
利休と秀吉、それぞれの思いはどうだったのか。
秀吉の命を受けて天正十九年(1591)二月二十八日に切腹した利休。
その後の千家茶道は誰が引き継いだのか。
千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』。
著者である井ノ部康之(いのべやすゆき)氏から送られてきた寒中見舞いに、初の小説になる『千家再興』が中央公論社から文庫版で発刊することが記されていたのだった。
井ノ部氏との出会いは当時の勤め先の市民交流館であった。
小説を仕上げるために大和郡山を訪れていた氏と観光案内などで話したことを覚えている。
そのときはじめて知った時代小説作家の井ノ部氏。
その年の8月に贈られてきた著書をむさぼるように一気に読みあげた。
歴史を知らない私にとって大切な本になった『利休遺偈(ゆいげ)』。
行方不明になった利休の辞世の書の行方を探す表千家六代目家元の覚々斎に三人の息子たちの物語りに引き込まれる。
その後も贈ってくださった炎上シリーズの『琵琶湖炎上』に『大仏殿炎上』。
『大仏殿炎上』では、今井宗久、津田宗久、千利休(宗易)が登場する堺の納屋衆。
珠光流のわび茶を学ぶ三人だ。
松永弾正久秀の問いに対する三人三様の答えは生きざま。
その後の生涯がそこにある。
それはともかく千利休の後継者は長男の千道安ではなく、娘婿にあたる千少庵(後妻の連れ子で養子)だった。
2代目千少庵の長男の千宗旦(そうたん)が3代目を継いだ。
宗旦に息子たちがいた。
次男の千宗守、三男の千宗左、四男の千宗室は利休から続く四代目。
三人三様の三千家となった。
武者小路小川に官休庵(かんきゅうあん)を建てて始めたことから、次男の千宗守は「武者小路千家」を創設する。
父親の千宗旦から千宗左が継いだ不審庵(ふしんあん)。
裏にあった今日庵に対して表の位置にあることから、三男の千宗左は「表千家」を創設。
父親の千宗旦が家の裏庭に建てた今日庵(こんにちあん)。
それを千宗室が継いで始めたことから、四男の千宗室が「裏千家」を創設する。
話は遡って、贈呈されたことを機会に、そのお礼として平成21年10月に発刊した『奈良大和路の年中行事』を送らせていただいた。
出版社は京都の淡交社。
裏千家と深い繋がりがある出版社だ。
偶然とも思える井ノ部氏との出会いは「茶」をキーワードに縁が繋がったのであった。
そんなことを思い出しながらじわじわと味わいたい『千家再興』である。
(H24. 4. 9 SB932SH撮影)
大和奈良から始まった「茶」の文化。
奈良の「茶」をテーマに撮影巡拝した仏隆寺は大和茶の発祥の地。
空海が唐から持ち帰った最古のお茶を栽培したとされる。
村田珠光で名高い称名寺。
また、西大寺の大茶盛や生駒高山の茶筅に東山間における茶畑風景。
もちろん郷土料理である茶粥もある。
東大寺二月堂修二会を祈る連行衆の食事に出される茶飯も。
そういった大和と茶の関係を撮りたくて度々出かけたものだ。
千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』が著者から贈呈された。
利休と秀吉、それぞれの思いはどうだったのか。
秀吉の命を受けて天正十九年(1591)二月二十八日に切腹した利休。
その後の千家茶道は誰が引き継いだのか。
千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』。
著者である井ノ部康之(いのべやすゆき)氏から送られてきた寒中見舞いに、初の小説になる『千家再興』が中央公論社から文庫版で発刊することが記されていたのだった。
井ノ部氏との出会いは当時の勤め先の市民交流館であった。
小説を仕上げるために大和郡山を訪れていた氏と観光案内などで話したことを覚えている。
そのときはじめて知った時代小説作家の井ノ部氏。
その年の8月に贈られてきた著書をむさぼるように一気に読みあげた。
歴史を知らない私にとって大切な本になった『利休遺偈(ゆいげ)』。
行方不明になった利休の辞世の書の行方を探す表千家六代目家元の覚々斎に三人の息子たちの物語りに引き込まれる。
その後も贈ってくださった炎上シリーズの『琵琶湖炎上』に『大仏殿炎上』。
『大仏殿炎上』では、今井宗久、津田宗久、千利休(宗易)が登場する堺の納屋衆。
珠光流のわび茶を学ぶ三人だ。
松永弾正久秀の問いに対する三人三様の答えは生きざま。
その後の生涯がそこにある。
それはともかく千利休の後継者は長男の千道安ではなく、娘婿にあたる千少庵(後妻の連れ子で養子)だった。
2代目千少庵の長男の千宗旦(そうたん)が3代目を継いだ。
宗旦に息子たちがいた。
次男の千宗守、三男の千宗左、四男の千宗室は利休から続く四代目。
三人三様の三千家となった。
武者小路小川に官休庵(かんきゅうあん)を建てて始めたことから、次男の千宗守は「武者小路千家」を創設する。
父親の千宗旦から千宗左が継いだ不審庵(ふしんあん)。
裏にあった今日庵に対して表の位置にあることから、三男の千宗左は「表千家」を創設。
父親の千宗旦が家の裏庭に建てた今日庵(こんにちあん)。
それを千宗室が継いで始めたことから、四男の千宗室が「裏千家」を創設する。
話は遡って、贈呈されたことを機会に、そのお礼として平成21年10月に発刊した『奈良大和路の年中行事』を送らせていただいた。
出版社は京都の淡交社。
裏千家と深い繋がりがある出版社だ。
偶然とも思える井ノ部氏との出会いは「茶」をキーワードに縁が繋がったのであった。
そんなことを思い出しながらじわじわと味わいたい『千家再興』である。
(H24. 4. 9 SB932SH撮影)