この日は大寒。
寒さが一番厳しい日だとされる。
その日に行われているのが寒施行。
大和郡山市の田中町で続けられてきた行事であるが平成24年が最後になった。
祀っていたお稲荷さんは今後もどうするのか。
甲斐神社へ移設するのか、それとも伏見のお稲荷さんに戻すのかである。
住民が出した結果は伏見であった。
そうして最後になった前年。Y婦人に聞いた話では、大寒の日の夕刻に区長家でキザミのアブラゲや三角ににぎったアズキメシを作っていた。
それを持って出かけた先は田中町の稲荷社。
それから田中町の田中池。
かつて甲斐神社が鎮座していた池地である。
南塚池を経て次に行ったのは隣村の池之内町の南池。
傍らには牛ノ宮塚がある。
5月の節句に牛の宮塚へ参る行事が行われている地である。
北へ戻って、隣村の小南町の南池となる寒施行のコース。
いずれも池の水門辺りだったそうだ。
それぞれの箇所に作った御供を供える。
すべてを巡った男性たちは区長家でお茶の接待受ける。
キツネさんや鳥獣に施行する田中町の行事であったカンセンギョ(寒施行)。
盆地部で行われていた貴重な行事は継続することができなくなった。
その件を聞いた大寒の日。
五條市内でもあると聞いてやってきたが、場所はまったく判らない。
講中9軒が行っているようだが、どの町内に存在するのか手がかりがない。
「センギョジャ、オイナリサンノセンギョジャ」と囃してアズキのオニギリや竹皮に包んだ2枚のアブラゲメシを講中の家、祠、辻などに御供して巡る稲荷センギョである。
もう一つの調査をしておきたかったのは正月初めに行われる寺行事。
オコナイと呼ばれる初祈祷である。
もしかと思い中之町の大善寺を尋ねてみたが結果はセンギョもオコナイ、八日講も存知しないという。
もしかとすればと教えてくださった草谷寺(そうこくじ)。
安寿さんがおられると聞いた道筋を探してみたが土地勘がなく彷徨う五條市の山間部。
ここであろうかと思って見上げた小高い丘。
あったお寺は金光寺(きんこうじ)。
どうやら無住寺のようである。
その下にある細い道をバイクで登っていく婦人の姿。
住む人に聞けば何かが掴めるかもしれないと尋ねたご主人。
そんな話は聞いたことがないが11日には行事があったという。
大澤寺(だいたくじ)から住職を迎えて行う正月行事は600巻の大般若経の転読法要。
斎壇には朱印を押した半紙に「牛玉」の文字。
それはごーさんのお札。
まさしくオコナイである。
ウルシの棒に挟むそうだ。
その場にはカヤと呼ぶ穂付きのススキを置くという。
3人の寺総代、区長、評議員に檀家総代ら役員が参るという。
尋ねた男性は寺総代の一人であったのだ。
M氏の話は続きがある。
金光寺がある地は上之町。
2年前までは大きなとんどを燃やしていた。
1月14日のことである。竹を組み込んだ三角錐のとんどの先は笹。
端っこに綱を掛けて地面へ一直線。
倒れないようにしているという。
西方に鎮座する八坂神社のオヒカリを授かって火を点けていたというとんどである。
とんどと云えば道案内をしてくださった大善寺下の広場に焼け跡があった。
それは14日の17時に点火したそうだ。
もしかとればだが、頂点には日ノ丸御幣があったのかどうか。聞きそびれた。
上之町のとんどに続きがある。
焼けたとんどの火は家に持ち帰る。
神棚や仏さんの灯明にする。
オクドさんがあったころはその火点けにした。
翌朝の朝食はアズキ粥。
食べる箸はオコナイで供えられたカヤ(ススキ)なのである。
堅い茎の部分で食べるのだが穂は付いたまま。
アズキ粥はビワの葉に乗せて供える。
それが儀式なのである。
我が家ではしなくなったが近所ではいている家もあるだろうと話す。
オコナイ、とんど、アズキ粥へと連動する民俗の風習である。
ご主人に道案内していただいた草谷寺はもっと山の上の方だという。
国道の方が行きやすいというから戻った道。
すぐ近くにあった神社は岡八幡宮。
岡町の鎮守社である。
掲げてあった看板によれば金剛山千早(ちはや)峠を下った天誅組が集結した神社とある。
神社の行事は聞く人もなく判らないが八幡講が存在しているようだ。
そうして到着した草谷寺は安寿さんが不在。
仕方なく村の人に尋ねてもセンギョ、オコナイは判らない。
国道を下って釜窪町を探してみた。
犬を連れて散歩する婦人。
二人目に出合った人はわざわざ知人に電話をしてくださった。
結果はこれもノーグッドであったが、よもやま話のなかで口にでた天誅組。
亡くなられたご主人は「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の一員だったと話すF婦人は下之町。
サラリーマン家庭であったがアズキ粥は食べていたという。
ちなみに釜窪は釜ノ窪と呼ぶそうだ。
ご主人はNPO法人の「うちのの館」も勤めていたという。
藤岡家住宅は割合に近い。
2年ほど前からはときおり伺う施設。
昨年は「ひなあらし」の取材にも伺った。
そんな話で盛り上がる散歩道。
夕刻時間が迫ってきた。
上之町でもそうであったが、出合いというものは出かけてみないと判らないものだと思った一日であるが、もう一か所。
東山間に向かう途中でのことだ。
ときおり通過する大和郡山市八条町から天理市南六条を東進すれば中ツ道に到達する。
その直前にある集落は喜殿町。
地蔵尊の祠が真新しい。
ここには八阪神社が鎮座する。
何年か前にも立ち寄ったが歩いている住民に遭遇しなかった。
地蔵尊の前に地区の掲示板がある。
たしか正月初めの集会が書かれてあった。
初集会の寄り合いである。
この日も目についた掲示板。
神社の年中行事が記されている。
それを眺めていたときに出合った男性は素明講中。
同神社で祭祀する講は素明講以外に八阪講、天皇講(テンノウ講)がある。
それぞれに祭祀する行事が分かれている。
一つは素明講の祈年祭。
二つ目に八阪講の例祭。
三つ目が当家で営まれる素明講の新嘗祭である。
八阪神社はかつて牛頭天王社と呼ばれていた。
そういうことから天王講が天皇講となったのであろう。
そういうことから例祭は八阪講と天皇講の祭祀であると思われた。
掲示板は忘れないように村の人に伝える伝言。
私も見ていますと伝えれば喜んでおられた。
夕暮れで立ち話を続けるわけにはいかない。
行事の際には取材したいと申しでれば了承をいただいた喜殿町の行事。
できうる限り都合をつけたいものだ。
ちなみに14日に行われる予定だったとんどは雨天のためこの日の朝であった。
(H25. 1.20 SB932SH撮影)
寒さが一番厳しい日だとされる。
その日に行われているのが寒施行。
大和郡山市の田中町で続けられてきた行事であるが平成24年が最後になった。
祀っていたお稲荷さんは今後もどうするのか。
甲斐神社へ移設するのか、それとも伏見のお稲荷さんに戻すのかである。
住民が出した結果は伏見であった。
そうして最後になった前年。Y婦人に聞いた話では、大寒の日の夕刻に区長家でキザミのアブラゲや三角ににぎったアズキメシを作っていた。
それを持って出かけた先は田中町の稲荷社。
それから田中町の田中池。
かつて甲斐神社が鎮座していた池地である。
南塚池を経て次に行ったのは隣村の池之内町の南池。
傍らには牛ノ宮塚がある。
5月の節句に牛の宮塚へ参る行事が行われている地である。
北へ戻って、隣村の小南町の南池となる寒施行のコース。
いずれも池の水門辺りだったそうだ。
それぞれの箇所に作った御供を供える。
すべてを巡った男性たちは区長家でお茶の接待受ける。
キツネさんや鳥獣に施行する田中町の行事であったカンセンギョ(寒施行)。
盆地部で行われていた貴重な行事は継続することができなくなった。
その件を聞いた大寒の日。
五條市内でもあると聞いてやってきたが、場所はまったく判らない。
講中9軒が行っているようだが、どの町内に存在するのか手がかりがない。
「センギョジャ、オイナリサンノセンギョジャ」と囃してアズキのオニギリや竹皮に包んだ2枚のアブラゲメシを講中の家、祠、辻などに御供して巡る稲荷センギョである。
もう一つの調査をしておきたかったのは正月初めに行われる寺行事。
オコナイと呼ばれる初祈祷である。
もしかと思い中之町の大善寺を尋ねてみたが結果はセンギョもオコナイ、八日講も存知しないという。
もしかとすればと教えてくださった草谷寺(そうこくじ)。
安寿さんがおられると聞いた道筋を探してみたが土地勘がなく彷徨う五條市の山間部。
ここであろうかと思って見上げた小高い丘。
あったお寺は金光寺(きんこうじ)。
どうやら無住寺のようである。
その下にある細い道をバイクで登っていく婦人の姿。
住む人に聞けば何かが掴めるかもしれないと尋ねたご主人。
そんな話は聞いたことがないが11日には行事があったという。
大澤寺(だいたくじ)から住職を迎えて行う正月行事は600巻の大般若経の転読法要。
斎壇には朱印を押した半紙に「牛玉」の文字。
それはごーさんのお札。
まさしくオコナイである。
ウルシの棒に挟むそうだ。
その場にはカヤと呼ぶ穂付きのススキを置くという。
3人の寺総代、区長、評議員に檀家総代ら役員が参るという。
尋ねた男性は寺総代の一人であったのだ。
M氏の話は続きがある。
金光寺がある地は上之町。
2年前までは大きなとんどを燃やしていた。
1月14日のことである。竹を組み込んだ三角錐のとんどの先は笹。
端っこに綱を掛けて地面へ一直線。
倒れないようにしているという。
西方に鎮座する八坂神社のオヒカリを授かって火を点けていたというとんどである。
とんどと云えば道案内をしてくださった大善寺下の広場に焼け跡があった。
それは14日の17時に点火したそうだ。
もしかとればだが、頂点には日ノ丸御幣があったのかどうか。聞きそびれた。
上之町のとんどに続きがある。
焼けたとんどの火は家に持ち帰る。
神棚や仏さんの灯明にする。
オクドさんがあったころはその火点けにした。
翌朝の朝食はアズキ粥。
食べる箸はオコナイで供えられたカヤ(ススキ)なのである。
堅い茎の部分で食べるのだが穂は付いたまま。
アズキ粥はビワの葉に乗せて供える。
それが儀式なのである。
我が家ではしなくなったが近所ではいている家もあるだろうと話す。
オコナイ、とんど、アズキ粥へと連動する民俗の風習である。
ご主人に道案内していただいた草谷寺はもっと山の上の方だという。
国道の方が行きやすいというから戻った道。
すぐ近くにあった神社は岡八幡宮。
岡町の鎮守社である。
掲げてあった看板によれば金剛山千早(ちはや)峠を下った天誅組が集結した神社とある。
神社の行事は聞く人もなく判らないが八幡講が存在しているようだ。
そうして到着した草谷寺は安寿さんが不在。
仕方なく村の人に尋ねてもセンギョ、オコナイは判らない。
国道を下って釜窪町を探してみた。
犬を連れて散歩する婦人。
二人目に出合った人はわざわざ知人に電話をしてくださった。
結果はこれもノーグッドであったが、よもやま話のなかで口にでた天誅組。
亡くなられたご主人は「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の一員だったと話すF婦人は下之町。
サラリーマン家庭であったがアズキ粥は食べていたという。
ちなみに釜窪は釜ノ窪と呼ぶそうだ。
ご主人はNPO法人の「うちのの館」も勤めていたという。
藤岡家住宅は割合に近い。
2年ほど前からはときおり伺う施設。
昨年は「ひなあらし」の取材にも伺った。
そんな話で盛り上がる散歩道。
夕刻時間が迫ってきた。
上之町でもそうであったが、出合いというものは出かけてみないと判らないものだと思った一日であるが、もう一か所。
東山間に向かう途中でのことだ。
ときおり通過する大和郡山市八条町から天理市南六条を東進すれば中ツ道に到達する。
その直前にある集落は喜殿町。
地蔵尊の祠が真新しい。
ここには八阪神社が鎮座する。
何年か前にも立ち寄ったが歩いている住民に遭遇しなかった。
地蔵尊の前に地区の掲示板がある。
たしか正月初めの集会が書かれてあった。
初集会の寄り合いである。
この日も目についた掲示板。
神社の年中行事が記されている。
それを眺めていたときに出合った男性は素明講中。
同神社で祭祀する講は素明講以外に八阪講、天皇講(テンノウ講)がある。
それぞれに祭祀する行事が分かれている。
一つは素明講の祈年祭。
二つ目に八阪講の例祭。
三つ目が当家で営まれる素明講の新嘗祭である。
八阪神社はかつて牛頭天王社と呼ばれていた。
そういうことから天王講が天皇講となったのであろう。
そういうことから例祭は八阪講と天皇講の祭祀であると思われた。
掲示板は忘れないように村の人に伝える伝言。
私も見ていますと伝えれば喜んでおられた。
夕暮れで立ち話を続けるわけにはいかない。
行事の際には取材したいと申しでれば了承をいただいた喜殿町の行事。
できうる限り都合をつけたいものだ。
ちなみに14日に行われる予定だったとんどは雨天のためこの日の朝であった。
(H25. 1.20 SB932SH撮影)