かつては晩に巡っていた阪本の狐の施行。
子供会が主催する村の行事は灯りが要る。
提灯で足元を照らして歩いていく。
提灯は長年に亘って使ってきた。
風合いを偲ばせる色具合である。
当時に集まっていた子供の人数分がある。
それには「いちごう」の文字がある。
「いちごう」は十津川郷の北端を示す「一郷」だ。
阪本は現在の行政区域でいえば五條市大塔阪本町。
平成17年の市町村合併によって旧大塔村と旧西吉野村は五條市に編入された。
五條市内から旧西吉野村を経て新天辻トンネルを下れば旧大塔村の阪本に入る。
その途中の天辻下辺りから阪本、簾、中原、小代は一郷組と呼ばれている。
現在は旧大塔村より南は十津川村を指すが、平安・鎌倉年代では十津川上流の地域を遠津川郷と呼んでいた。
遠津川郷はのちに十津川十八郷。
さらに最上流になる十二村荘と舟ノ川荘が加わった。
現在の野迫川村領域を含む区域である。
十二村荘は今西(北今西)、平、弓手原、桧股(檜股)、北俣(北股)、立利(立里)、池津川、紫園、中津川、上、中、柞原、今井、平川、天ノ川辻、中原、猿谷、簾、阪本、小代、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、清水、引土、宇井、閉君、唐笠である。
十二村荘はさらに区分けされて旧大塔村の天ノ川辻、阪本、簾、中原、小代、猿谷が一郷組、さらに南下した唐笠、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、閉君、引土、宇井、清水は野長瀬(のながせ)組となった。
東側に位置する中峯、中井傍示、惣谷、篠原は舟ノ川荘の括りであった。
荘村は今でも一郷、野長瀬郷、舟ノ郷と呼んでいると阪本住民のⅠ氏が話す。
運航する送迎バスの経路は今でも郷名で表示し、阪本の消防団建物には「一郷地区」で表記されている。
十津川村からみれば「一郷」は十津川上流の天ノ川へと遡る最奥の地であった。
「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ いちばのせんぎょ」と囃しながら公民館を出発した子供たちは中学2年生の男の子を先頭に歩きだした。
この年に集まった子供たちは6人。
かつては阪本の市場、索道(さくどう)、向井(むかい)阪本の3地区ごとの子供たちが行っていた。
当時は大勢の子供がそれぞれの地区で行っていたと云う阪本の狐の施行である。
その昔は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)の合同地区もしていた。
「施行」はそのまま読めば「せぎょう」であるが囃し詞は訛って「せんぎょ」である。
「せんぎょ」はキツネなどの山の獣に施す習わし。
地区を周回して施す御供を置いて巡る。
獣が食べる食物が少なくなる季節。
大寒のころに行われる寒施行は県内各地であったようだ。
寒施行は「かんせぎょう」或いは「かんせんぎょ」と呼ばれることが多かった。
いつしか廃れていった地域は少なくない。
平成19年に実施されたときは夜間の施行であった。
ローソクを灯して集落を巡っていたが、その後は昼間になった。
かつてはそれぞれの地区の子供たち。
村の子供が少なくなってからは子供会主催で一同が揃っての村行事。
この年は中学2年生の男の子に小学4年生、2年生に幼稚園の子たち6人。
宇井の崩落で住まいを仮設住宅に移した子供は参加したが、五條市内に移住を余儀なくされて今年が最後。
中学2年生の男の子も役目を終えて同様に今年が最後。
僅か3人になってしまう阪本の施行は今年が最後になるかも知れないと子供会の会長は話す。
これまで何度も危機感が迫っていた阪本の行事は毎年のように中止になるかもといいながら続けてきた。
そうした状況下にある施行をご自身のブログで案内されたⅠ氏も同行する緊急取材である。
「せーんぎょ せんぎょ 狐のせんぎょ せーんぎょ せんぎょ お稲荷さんも置いてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」の音頭をとるのは中学生だ。
路面は積もった雪も除雪されて走行可能だが両サイドは三日前に降った雪が残っている。
それより数日前に降った雪はドカ雪だった。
Ⅰ家の向いにあるガレージに突っ込んだ車はスリップ。
騒々しい雪の日々が残した積雪の日。
橋の袂とか、辻々にお供えをするアズキのオニギリと2枚のアブラゲ。
狐にせんぎょ(施行)をする御供である。
かつてはセキハンにアブラゲメシだった。
狐の施行は阪本で商売をしているお店にも捧げる市場の施行だ。
猿谷ダム湖に架かる朱色に塗られた大塔橋を渡って向う先は大塔コスモ地下観測所。
宇宙の謎である見えないニュートリノ素粒子や暗黒粒子を検出している実験施設はトンネル内だ。
不審者が侵入しないように鉄柵を設けている。
内側からは生暖かい風が吹きぬける。
和歌山新宮と五條市を結ぶ旧国鉄の五新線(ごしんせん)となるはずだったトンネルの傍らにも施行する。
来た道を戻って市場に向かう。
豆腐屋の辻政商店や旅館昭和館の家人にも捧げて歩く。
ありがたく受け取るご主人の顔は笑顔だ。
市場を通り抜ける国道は168号線。
絶え間なく車が通過する。
通り抜けるまで待つ。
危険を避けてのせんぎょは子供たちを誘導しながら巡行する。
天神社下のトンネルを抜けてぐるりと旋回。
索道(さくどう)に入った。
囃す台詞は「市場」から「索道」に替って「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 索道のせんぎょ」となる。
索道にもお店があるが不在であった。
その場合はポストに入れておくことになっていると話す。
かつて索道の鉄塔が建ってあった地を通り抜ける。
物資をロープウエイのように運ぶ索道で思い起こしたのが大和高原の索道だ。
奈良市京終から山越えの東金坊、矢田原・南田原(天満駅)の田原の里、天理市の山田を経て旧都祁村の針・小倉間であった。
総延長16.9kmは大正6年からの架設で平坦と高原を結んだ「奈良安全索道」。
木材および、主には高原で生産された凍り豆腐を運んでいた。
戦後は製氷会社によって大量に生産されることや道路の整備とともに自動車による陸送普及が進んで衰退した。
昭和27年にはすべてが廃止された。
旧大塔村阪本にあった索道は天辻峠、阪本、野迫川村を結んでいたと云う。
採掘された鉱物や生活物資を運んでいたようだ。
Ⅰさんが子供の頃に見ていた索道は稼働していたそうだ。
野迫川村は樽の生産地。
「樽材も運んでいたのでは」と話す。
当時の阪本の索道は映画館が2軒もあって賑わいをみせていたと回顧される。
五條市の市史および野迫川村の村史によれば明治45年に五條市二見の川端貨物駅から樫辻(かたつじ)を経由する和歌山県富貴(ふき)間に開通した「大和索道」であった。
その後の大正6年に延長されて富貴辻(天辻西側付近)、阪本間の16kmとなった。
二見からは燃料、食料、大豆、苦塩水、肥料、雑貨などに日用物資が。
逆に木材や凍り豆腐を五條市に運んでいた。
その後においては天辻トンネルの開通とともに陸路のトラック輸送が盛んになって索道の利用は衰退するものの、野迫川村の立里(たてり)鉱山(昭和13年に金屋淵鉱業が創業)から採掘された鉱石を運ぶ必要性が生じたことから昭和19年に野迫川村の紫園まで延長された。
鉱石はトラック輸送に切り替わり、新天辻トンネルも開通されて本格的な陸路輸送の影響も受けて鉱山は昭和37年に閉山され索道も消えた。
阪本の索道は物資の集積地として発展したことからその地を「索道」と名付けたようだ。
映画館があったというだけにかなり栄えた索道であった。
かつてあった索道の地も雪が積もっている。
索道のせんぎょを囃しながら急坂を登っていく。
行程は長い距離。
始めのころは子供たちが揃って提灯を持っていたがいつの間にか親の手に移った子もいる。
今では「いちごう子供会」の提灯であるが、かつては家の紋や名が記された提灯だった。
天神社の前のくさがみさんの祠にもせんぎょをした。
ここからはさらに急坂の向井阪本の地。
車も登れないほどの雪道はアイスバーン。
小さな子供たちだけに危険は避けたいとUターンする。
天神社辺りからは下の市場が見える。
市場の子供たちを発見すれば「ガッソ ガッソ」と云い合った。
索道と市場の子供どうしの言いあいだ。
「ガッソ」の言葉は対抗する言い回し。
「こっちの方が提灯の数が多いぞ」と自慢する言葉だったと話す会長。
地域ごとに子供がしていた時代のせんぎょのガッソは競い合いであったようだ。
集落を抜けて再び国道を行く。
緑色に染まった猿谷ダム湖を見下ろしながら雪が溶けた歩道を行く。
向い側の対岸は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区だ。せんぎょの囃しも「「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 宇井野のせんぎょ」に替った。
古野瀬も索道があったと話す地はかつて阪本の中心地であった。
宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区は高野大峯を結ぶ旧街道の参詣道。
天川広瀬から滝尾、塩野、塩谷、簾を抜けて、一旦は川沿いに下りる阪本、古野瀬、宇井野、小代下へ続く道は高野山へ向かう旧街道。
宿場としても栄えた阪本のせんぎょは最後に吊り橋の阪本橋。
宇井野へ向かう橋は一度に3人までしか渡れない。
かつては最後にダム湖に水没した村のお稲荷社に参って終えた。
阪本橋の袂にアズキメシとアブラゲを供えて市場へ戻っていった。
「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」と元気よく囃しながら戻っていく。
作ったアズキメシは42個。
それぞれ2個ずつ供えたというからお店も含めて21カ所であった。
阪本の狐の施行の行程時間はおよそ1時間半。
およそ5000歩である。
最初に供えた橋の袂の御供は跡かたもなくなっていた。
山のキツネが食べたのであろうか。
公民館に戻れば施行をこなした子供たちにお菓子を配る。
年長者から一人ずつ受け取る子供の顔は一年ごとに逞しさをみせる。
お昼の時間はとうに過ぎた。
お腹も減っていただくパック詰めの弁当。
路の駅吉野路大塔の一角にある食事処の「金剛」の特製弁当である。
私もよばれることになったありがたい会食の席にはアゲサン入りのお味噌汁もある。
プリプリ感の海老フライは子供が好きな食べ物。
バラ肉もカラアゲも美味しい。
ご飯が進むご馳走である。
ほんの少し前まではカレーライスを食べていたが、イロゴハンのときもあった。
ダイコン、アブラゲ、ニンジンなどを醤油で味付けした炊き立てのイロゴハンを食べた。
寒の間に施行する家から食材を貰ってきた子供たち。
お金を貰うこともあったようだ。
ヤドとなる当家の家で親とともに料理をしていたと話す。
会食を済ませばカラオケなどの余興もしていたというだけに子供たちにとっては楽しい一日を過ごしたのであろう。
あくる日も公民館に集まって残り物のカレーライスを食べていた。
施行の次の日も楽しみだったから土曜日にしていたと話す子供の行事である。
(H25. 1.27 EOS40D撮影)
子供会が主催する村の行事は灯りが要る。
提灯で足元を照らして歩いていく。
提灯は長年に亘って使ってきた。
風合いを偲ばせる色具合である。
当時に集まっていた子供の人数分がある。
それには「いちごう」の文字がある。
「いちごう」は十津川郷の北端を示す「一郷」だ。
阪本は現在の行政区域でいえば五條市大塔阪本町。
平成17年の市町村合併によって旧大塔村と旧西吉野村は五條市に編入された。
五條市内から旧西吉野村を経て新天辻トンネルを下れば旧大塔村の阪本に入る。
その途中の天辻下辺りから阪本、簾、中原、小代は一郷組と呼ばれている。
現在は旧大塔村より南は十津川村を指すが、平安・鎌倉年代では十津川上流の地域を遠津川郷と呼んでいた。
遠津川郷はのちに十津川十八郷。
さらに最上流になる十二村荘と舟ノ川荘が加わった。
現在の野迫川村領域を含む区域である。
十二村荘は今西(北今西)、平、弓手原、桧股(檜股)、北俣(北股)、立利(立里)、池津川、紫園、中津川、上、中、柞原、今井、平川、天ノ川辻、中原、猿谷、簾、阪本、小代、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、清水、引土、宇井、閉君、唐笠である。
十二村荘はさらに区分けされて旧大塔村の天ノ川辻、阪本、簾、中原、小代、猿谷が一郷組、さらに南下した唐笠、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、閉君、引土、宇井、清水は野長瀬(のながせ)組となった。
東側に位置する中峯、中井傍示、惣谷、篠原は舟ノ川荘の括りであった。
荘村は今でも一郷、野長瀬郷、舟ノ郷と呼んでいると阪本住民のⅠ氏が話す。
運航する送迎バスの経路は今でも郷名で表示し、阪本の消防団建物には「一郷地区」で表記されている。
十津川村からみれば「一郷」は十津川上流の天ノ川へと遡る最奥の地であった。
「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ いちばのせんぎょ」と囃しながら公民館を出発した子供たちは中学2年生の男の子を先頭に歩きだした。
この年に集まった子供たちは6人。
かつては阪本の市場、索道(さくどう)、向井(むかい)阪本の3地区ごとの子供たちが行っていた。
当時は大勢の子供がそれぞれの地区で行っていたと云う阪本の狐の施行である。
その昔は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)の合同地区もしていた。
「施行」はそのまま読めば「せぎょう」であるが囃し詞は訛って「せんぎょ」である。
「せんぎょ」はキツネなどの山の獣に施す習わし。
地区を周回して施す御供を置いて巡る。
獣が食べる食物が少なくなる季節。
大寒のころに行われる寒施行は県内各地であったようだ。
寒施行は「かんせぎょう」或いは「かんせんぎょ」と呼ばれることが多かった。
いつしか廃れていった地域は少なくない。
平成19年に実施されたときは夜間の施行であった。
ローソクを灯して集落を巡っていたが、その後は昼間になった。
かつてはそれぞれの地区の子供たち。
村の子供が少なくなってからは子供会主催で一同が揃っての村行事。
この年は中学2年生の男の子に小学4年生、2年生に幼稚園の子たち6人。
宇井の崩落で住まいを仮設住宅に移した子供は参加したが、五條市内に移住を余儀なくされて今年が最後。
中学2年生の男の子も役目を終えて同様に今年が最後。
僅か3人になってしまう阪本の施行は今年が最後になるかも知れないと子供会の会長は話す。
これまで何度も危機感が迫っていた阪本の行事は毎年のように中止になるかもといいながら続けてきた。
そうした状況下にある施行をご自身のブログで案内されたⅠ氏も同行する緊急取材である。
「せーんぎょ せんぎょ 狐のせんぎょ せーんぎょ せんぎょ お稲荷さんも置いてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」の音頭をとるのは中学生だ。
路面は積もった雪も除雪されて走行可能だが両サイドは三日前に降った雪が残っている。
それより数日前に降った雪はドカ雪だった。
Ⅰ家の向いにあるガレージに突っ込んだ車はスリップ。
騒々しい雪の日々が残した積雪の日。
橋の袂とか、辻々にお供えをするアズキのオニギリと2枚のアブラゲ。
狐にせんぎょ(施行)をする御供である。
かつてはセキハンにアブラゲメシだった。
狐の施行は阪本で商売をしているお店にも捧げる市場の施行だ。
猿谷ダム湖に架かる朱色に塗られた大塔橋を渡って向う先は大塔コスモ地下観測所。
宇宙の謎である見えないニュートリノ素粒子や暗黒粒子を検出している実験施設はトンネル内だ。
不審者が侵入しないように鉄柵を設けている。
内側からは生暖かい風が吹きぬける。
和歌山新宮と五條市を結ぶ旧国鉄の五新線(ごしんせん)となるはずだったトンネルの傍らにも施行する。
来た道を戻って市場に向かう。
豆腐屋の辻政商店や旅館昭和館の家人にも捧げて歩く。
ありがたく受け取るご主人の顔は笑顔だ。
市場を通り抜ける国道は168号線。
絶え間なく車が通過する。
通り抜けるまで待つ。
危険を避けてのせんぎょは子供たちを誘導しながら巡行する。
天神社下のトンネルを抜けてぐるりと旋回。
索道(さくどう)に入った。
囃す台詞は「市場」から「索道」に替って「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 索道のせんぎょ」となる。
索道にもお店があるが不在であった。
その場合はポストに入れておくことになっていると話す。
かつて索道の鉄塔が建ってあった地を通り抜ける。
物資をロープウエイのように運ぶ索道で思い起こしたのが大和高原の索道だ。
奈良市京終から山越えの東金坊、矢田原・南田原(天満駅)の田原の里、天理市の山田を経て旧都祁村の針・小倉間であった。
総延長16.9kmは大正6年からの架設で平坦と高原を結んだ「奈良安全索道」。
木材および、主には高原で生産された凍り豆腐を運んでいた。
戦後は製氷会社によって大量に生産されることや道路の整備とともに自動車による陸送普及が進んで衰退した。
昭和27年にはすべてが廃止された。
旧大塔村阪本にあった索道は天辻峠、阪本、野迫川村を結んでいたと云う。
採掘された鉱物や生活物資を運んでいたようだ。
Ⅰさんが子供の頃に見ていた索道は稼働していたそうだ。
野迫川村は樽の生産地。
「樽材も運んでいたのでは」と話す。
当時の阪本の索道は映画館が2軒もあって賑わいをみせていたと回顧される。
五條市の市史および野迫川村の村史によれば明治45年に五條市二見の川端貨物駅から樫辻(かたつじ)を経由する和歌山県富貴(ふき)間に開通した「大和索道」であった。
その後の大正6年に延長されて富貴辻(天辻西側付近)、阪本間の16kmとなった。
二見からは燃料、食料、大豆、苦塩水、肥料、雑貨などに日用物資が。
逆に木材や凍り豆腐を五條市に運んでいた。
その後においては天辻トンネルの開通とともに陸路のトラック輸送が盛んになって索道の利用は衰退するものの、野迫川村の立里(たてり)鉱山(昭和13年に金屋淵鉱業が創業)から採掘された鉱石を運ぶ必要性が生じたことから昭和19年に野迫川村の紫園まで延長された。
鉱石はトラック輸送に切り替わり、新天辻トンネルも開通されて本格的な陸路輸送の影響も受けて鉱山は昭和37年に閉山され索道も消えた。
阪本の索道は物資の集積地として発展したことからその地を「索道」と名付けたようだ。
映画館があったというだけにかなり栄えた索道であった。
かつてあった索道の地も雪が積もっている。
索道のせんぎょを囃しながら急坂を登っていく。
行程は長い距離。
始めのころは子供たちが揃って提灯を持っていたがいつの間にか親の手に移った子もいる。
今では「いちごう子供会」の提灯であるが、かつては家の紋や名が記された提灯だった。
天神社の前のくさがみさんの祠にもせんぎょをした。
ここからはさらに急坂の向井阪本の地。
車も登れないほどの雪道はアイスバーン。
小さな子供たちだけに危険は避けたいとUターンする。
天神社辺りからは下の市場が見える。
市場の子供たちを発見すれば「ガッソ ガッソ」と云い合った。
索道と市場の子供どうしの言いあいだ。
「ガッソ」の言葉は対抗する言い回し。
「こっちの方が提灯の数が多いぞ」と自慢する言葉だったと話す会長。
地域ごとに子供がしていた時代のせんぎょのガッソは競い合いであったようだ。
集落を抜けて再び国道を行く。
緑色に染まった猿谷ダム湖を見下ろしながら雪が溶けた歩道を行く。
向い側の対岸は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区だ。せんぎょの囃しも「「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 宇井野のせんぎょ」に替った。
古野瀬も索道があったと話す地はかつて阪本の中心地であった。
宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区は高野大峯を結ぶ旧街道の参詣道。
天川広瀬から滝尾、塩野、塩谷、簾を抜けて、一旦は川沿いに下りる阪本、古野瀬、宇井野、小代下へ続く道は高野山へ向かう旧街道。
宿場としても栄えた阪本のせんぎょは最後に吊り橋の阪本橋。
宇井野へ向かう橋は一度に3人までしか渡れない。
かつては最後にダム湖に水没した村のお稲荷社に参って終えた。
阪本橋の袂にアズキメシとアブラゲを供えて市場へ戻っていった。
「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」と元気よく囃しながら戻っていく。
作ったアズキメシは42個。
それぞれ2個ずつ供えたというからお店も含めて21カ所であった。
阪本の狐の施行の行程時間はおよそ1時間半。
およそ5000歩である。
最初に供えた橋の袂の御供は跡かたもなくなっていた。
山のキツネが食べたのであろうか。
公民館に戻れば施行をこなした子供たちにお菓子を配る。
年長者から一人ずつ受け取る子供の顔は一年ごとに逞しさをみせる。
お昼の時間はとうに過ぎた。
お腹も減っていただくパック詰めの弁当。
路の駅吉野路大塔の一角にある食事処の「金剛」の特製弁当である。
私もよばれることになったありがたい会食の席にはアゲサン入りのお味噌汁もある。
プリプリ感の海老フライは子供が好きな食べ物。
バラ肉もカラアゲも美味しい。
ご飯が進むご馳走である。
ほんの少し前まではカレーライスを食べていたが、イロゴハンのときもあった。
ダイコン、アブラゲ、ニンジンなどを醤油で味付けした炊き立てのイロゴハンを食べた。
寒の間に施行する家から食材を貰ってきた子供たち。
お金を貰うこともあったようだ。
ヤドとなる当家の家で親とともに料理をしていたと話す。
会食を済ませばカラオケなどの余興もしていたというだけに子供たちにとっては楽しい一日を過ごしたのであろう。
あくる日も公民館に集まって残り物のカレーライスを食べていた。
施行の次の日も楽しみだったから土曜日にしていたと話す子供の行事である。
(H25. 1.27 EOS40D撮影)