マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下市の寒行を尋ねて

2013年05月07日 08時34分42秒 | 下市町へ
旧大塔村から下って下市へと向かう。

収穫を終えた柿の山々をぬうように施設された道路。

遠くに見える金剛山山麓が美しい。

山間を下れば町中。

下市町を貫くメインロード。

信号待ちをしていたときに気がついた提灯は初市の文字がある。

本町通りに鎮座する蛭子(ひるこ)神社の初市は2月12日。

2週間も前から灯している提灯だが人影は見当たらない。

目的地はここではない。

ここら辺りだと思うのだが東側へ向かう道がどうも判らない。

曲がってみればなんとかなるだろうと思ってハンドルを右に切った。

細い道なりに東へ向かれば墓地があった。

広大な墓地を通過すればメインロードに出てきた。

ぐるりと一周してきたのである。

その間に出合う人は誰もいない。

仕方なく戻った墓地を通過した。

畑地を整備されている男性なら判るかもと思って尋ねてみたセンギョの件。

アズキメシとかアゲサンを存じていたらと思って伝えた答えは・・・。

先週のことだと話すKさん。

草むらの上にあったという。

新聞紙の上にあったアズキメシは俵型だったそうだ。

三角のアブラゲもあったと話す。

その後の状態。

毎日に見ているわけにはいかない。

気がつけばなくなっていたという。

Kさんが語ったその場所で見つけた5年も昔の正月前。

コンクリートの間に何かが挟まっていると思って取り上げたら祝儀袋が2枚。

何なのか判らないから開けてみればうん万円のお札。

それぞれに入っていたという。

落とされた人が見かければと思って連絡先の電話番号を書いた手紙を張っていた。

1か月間も待ったが変化はなかった。

このままにしておくわけにはいかないと考えて最寄りの警察署に届けたという。

Kさんが示した場所には祠もない草むらである。

もしかとすればここから北にある地区と想定されたセンギョの行い。

センギョはキツネや山の獣に施す習わし。

ぐるりと地区を周回して供える場の一つに違いない。

その場を知るのは施行をしていた人でなければ判らない場所である。

Kさんが発見したその場所の先向こうは下市病院。

もしかとすれば願掛けをしていたのではないだろうか。

通るたびに病いが治るようにと手を合わせていた。

願いが叶ってお礼に捧げた祝儀袋と考えた。

であれば該当の地区の人に行き当たるが願掛けが叶っても取りには来ない。

そんな推定をしてみたセンギョ(施行)の場。

すべての謎が解けたと喜ぶKさんは本通りの大峯町住民。

県立民俗博物館に頼まれて家にあった木製の看板や杓子を展示協力したことがあるという。

現在は新建材店を生業にしているがかつては神社手水鉢の杓子を仕入れて販売していた。

大塔の繰り抜き杓子も売っていた。

ときには輪島塗の杓子も販売していたという。

天川村の洞川が仕入れ地だった。

大峯町と所縁のある洞川の地には金峯山寺蔵王堂がある。

戦前のときに蔵王堂の柱を寄進した先代。

戦後に寺を尋ねたが柱の件は判らず仕舞い。

立ち話に盛りあがったその場を離れて丘向こうの地に向かった。

新興住宅地を抜けて旧道へ。

いつしか阿知賀の原野。尋ねた地はそこではない。

それほど遠くない距離の間にある桧皮蔵がそこにあった。

桧皮蔵と書いて「ひざわ」と呼ぶが、Kさんは「ひわだ」と呼んでいた桧皮蔵は材木商が多かったという。

桧皮は「ひわだ」。

それが「ひざわ」に訛ったのかも知れない。

桧皮の蔵であったのかも知れない地域だ。

木材に密接した下市の本通りには吉野杉材の箸作りで名高い。

平成17年には杉箸神社で行われた箸祭りを取材した地もここにある。

祠社の傍にあった伝言板で判った桧皮蔵地区であるが付近を歩く人はいない。

たまたま外出されようとした人に聞いた区長さん。

今年もしていたというセンギョは寒行(かんぎょう)と呼ぶ地区の行事。

18、9人の人たちが山の里道(りどう)やケモノ道を歩いて供える三角オニギリのセキハンとアブラゲ。

新聞紙を敷いてそこに置くという話はKさんが見たものと同じであった。

自治会組織が行っている寒行は大寒の日の夜に巡る場所は20カ所。

かつては提灯で照らして巡っていたが今は懐中電灯。

セキハンとアブラゲはコジュウタに入れて持ち歩く。

およそ1時間もかかるという。

「カンギョ カンギョ」と唱和して巡るが囃す人は多くない。

年寄りは「センギョ センギョ」と云っていたというから寒の施行である。

(H25. 1.27 SB932SH撮影)