今でもここはモンサキ(門先)と呼ぶ地であると話すK家の親父さん。
楼門のような建物があったそうだ。
そこは村へ入る門であった。
そのモンサキのすぐそばに鉾立神社が鎮座する。
東側や神社内の会所の西側はかつて濠があった。
東側に池のような濠があったが埋められた。
西側はいまでもその面影を残す景観がある。
神社の北側は小高い段丘が東西に延びる竹林。
昔はもっと細い農道であった。
そこを東に数十メートル歩けば藤原業平が覗いたとされる井戸がある大和郡山市の新庄町。
鉾立は本村から東の外れにある8軒の集落である。
その集落の東側にある街道は東西、或いは南北に通る古代の街道の中ツ道を在原(ありわら)の業平(なりひら)道と呼ばれていた。
業平が夢の中で妻が形見の衣装を着て井戸に姿を写してありし日の業平を偲んだ筋書きの謡曲「井筒」、「高安の女」。
女面を被り男装で登場する妻は井戸の水に映った姿を見て「女とも見えず男なりけり業平の面影」と懐かしんだとされる伝承の井戸は中ツ道街道にある。
現在の新庄町の鉾立は新庄本村の枝村になっているが、元禄時代までは逆に鉾立が本村で新庄が枝村であった。
主客転倒した時代は判らないが本村と枝村が逆転した特異な事例であるそうだ。
鉾立に鎮座する神社は鉾立神社。
本殿屋根に「鉾」の文様がある。
鳥居から砂の道を敷いていた大晦日。
その痕跡がまだ残っているとんどの日は村の行事のカキユイ。
垣根を仕替えるからそう呼ぶカキユイの日である。
かつて集落では門屋や玄関に掛けていた注連縄は簾型であった。
K長老の話によれば「ゾウガイ」と呼んでいた。
いつしか止めたゾウガイはうん十年も前のこと。
当時は神社や鳥居にも掛けていたと云う。
カキユイの日には境内でとんどを燃やす。
かつては2月2日にしていたと云うとんどは村外れの南側がとんど場であった。
今では神社境内で行っている。
50mほど離れた地が旧社地。
往古の印しに「鉾立大明神」の石塔を建てている。
とんどの前には作業がある。
社務所の屋根瓦が大風に吹かれて落下した。
屋根に登って修復作業をしてから神社の裏に生えている朽ちた竹を伐採してはとんどで燃やす。
正月を飾った神社の注連縄を外してとんどで燃やす。
半日仕事をするのは当屋をはじめとして鉾立八軒の人たち。
伐採する、運ぶ、燃やすの繰り返しの3時間である。
とんどの火点けはアキの方角(今年は南南東)。
当屋が火を点けた。
伐採とんどの間に持ってきた御供を鉾立三社に供える当屋の母親。
「みんながいてるから猫もやってこない時間帯を考えてしています」と云う。
午前中いっぱいかけてカキユイのとんどを終えた8軒の人たち。
当屋が決めた時間に再び寄り会う。
その場はサンヨ(算用)。
神社行事の費用を立て替えていた当屋の精算である。
収支金額が一致しなければならない。
算用を終えてほっとするらしい。
勤めを果たした人たちは当屋家での会食に移る。
現在の会食は市内にある樽常の仕出し料理。
かつては当屋が料理をまかないした。
すき焼きなども食べていた算用の会食は派手になったことから改正したそうだ。
かつてのカキユイは神社周りの垣根作り。
伐採した竹で組んだ。
倒れないように編んだ荒藁を垣根に巻いて掛けていた。
垣根周りをぐるりと掛けていたと云うのは竹林の端周りだそうだ。
伐採する竹はイネザオにもしたと云う。
カキユイを漢字で書けば「垣結い」。
今ではそのようなことはしなくなったと話すこの日のとんど。
以前は杭を打ってとんどを組んでいた。
カキユイと同様に倒れないように荒縄で縛った。
子供は習字の書を燃やしてから学校に出かけたそうだ。
長老の話によれば同市の発志院町に住むO家ではカキユイをしていたという。
ほっこりとした時間を過ごした鉾立には2月に伊勢講をしていると云う。
新庄本村は3軒で、鉾立は4軒の営み。
かつての伊勢講はもっと多く何軒もあったそうだ。
カキナマスの送り膳をよばれに着物を着て行った。
とんどが終わってから夕方まで講中の家にいたという。
(H25. 2. 9 EOS40D撮影)
楼門のような建物があったそうだ。
そこは村へ入る門であった。
そのモンサキのすぐそばに鉾立神社が鎮座する。
東側や神社内の会所の西側はかつて濠があった。
東側に池のような濠があったが埋められた。
西側はいまでもその面影を残す景観がある。
神社の北側は小高い段丘が東西に延びる竹林。
昔はもっと細い農道であった。
そこを東に数十メートル歩けば藤原業平が覗いたとされる井戸がある大和郡山市の新庄町。
鉾立は本村から東の外れにある8軒の集落である。
その集落の東側にある街道は東西、或いは南北に通る古代の街道の中ツ道を在原(ありわら)の業平(なりひら)道と呼ばれていた。
業平が夢の中で妻が形見の衣装を着て井戸に姿を写してありし日の業平を偲んだ筋書きの謡曲「井筒」、「高安の女」。
女面を被り男装で登場する妻は井戸の水に映った姿を見て「女とも見えず男なりけり業平の面影」と懐かしんだとされる伝承の井戸は中ツ道街道にある。
現在の新庄町の鉾立は新庄本村の枝村になっているが、元禄時代までは逆に鉾立が本村で新庄が枝村であった。
主客転倒した時代は判らないが本村と枝村が逆転した特異な事例であるそうだ。
鉾立に鎮座する神社は鉾立神社。
本殿屋根に「鉾」の文様がある。
鳥居から砂の道を敷いていた大晦日。
その痕跡がまだ残っているとんどの日は村の行事のカキユイ。
垣根を仕替えるからそう呼ぶカキユイの日である。
かつて集落では門屋や玄関に掛けていた注連縄は簾型であった。
K長老の話によれば「ゾウガイ」と呼んでいた。
いつしか止めたゾウガイはうん十年も前のこと。
当時は神社や鳥居にも掛けていたと云う。
カキユイの日には境内でとんどを燃やす。
かつては2月2日にしていたと云うとんどは村外れの南側がとんど場であった。
今では神社境内で行っている。
50mほど離れた地が旧社地。
往古の印しに「鉾立大明神」の石塔を建てている。
とんどの前には作業がある。
社務所の屋根瓦が大風に吹かれて落下した。
屋根に登って修復作業をしてから神社の裏に生えている朽ちた竹を伐採してはとんどで燃やす。
正月を飾った神社の注連縄を外してとんどで燃やす。
半日仕事をするのは当屋をはじめとして鉾立八軒の人たち。
伐採する、運ぶ、燃やすの繰り返しの3時間である。
とんどの火点けはアキの方角(今年は南南東)。
当屋が火を点けた。
伐採とんどの間に持ってきた御供を鉾立三社に供える当屋の母親。
「みんながいてるから猫もやってこない時間帯を考えてしています」と云う。
午前中いっぱいかけてカキユイのとんどを終えた8軒の人たち。
当屋が決めた時間に再び寄り会う。
その場はサンヨ(算用)。
神社行事の費用を立て替えていた当屋の精算である。
収支金額が一致しなければならない。
算用を終えてほっとするらしい。
勤めを果たした人たちは当屋家での会食に移る。
現在の会食は市内にある樽常の仕出し料理。
かつては当屋が料理をまかないした。
すき焼きなども食べていた算用の会食は派手になったことから改正したそうだ。
かつてのカキユイは神社周りの垣根作り。
伐採した竹で組んだ。
倒れないように編んだ荒藁を垣根に巻いて掛けていた。
垣根周りをぐるりと掛けていたと云うのは竹林の端周りだそうだ。
伐採する竹はイネザオにもしたと云う。
カキユイを漢字で書けば「垣結い」。
今ではそのようなことはしなくなったと話すこの日のとんど。
以前は杭を打ってとんどを組んでいた。
カキユイと同様に倒れないように荒縄で縛った。
子供は習字の書を燃やしてから学校に出かけたそうだ。
長老の話によれば同市の発志院町に住むO家ではカキユイをしていたという。
ほっこりとした時間を過ごした鉾立には2月に伊勢講をしていると云う。
新庄本村は3軒で、鉾立は4軒の営み。
かつての伊勢講はもっと多く何軒もあったそうだ。
カキナマスの送り膳をよばれに着物を着て行った。
とんどが終わってから夕方まで講中の家にいたという。
(H25. 2. 9 EOS40D撮影)