三郷の坂本さんが教えてくださった三郷町勢野の天王祭り。
行事の場は北垣内になる。
「ややこしい場所なので見つけにくい」と話していた。
二週間前、南畑の帰り路に立ち寄ったが、「北垣内」の住居地図があるにも拘わらず、結局判らずじまいだった。
坂本さんの話によれば、「北垣内」は行政町名の勢野東3丁目らしい。
集落内にある成就寺であるが、安寿さんが亡くなられてからは一般的な家屋になったと話していた。
尼寺・成就寺には牛頭さんを祀っている。
7月14日には、その場で行われる御湯神事は自治会主催の行事。
日が聞き間違いでなければ人が集まっているはずだ。
そう思って北垣内を巡ってみた。
民家らしき家にはテントを張っていた。
おそるおそる尋ねた自治会の人の話しによれば、成就寺は曹洞宗の大阪府柏原市本郷の河内薬師寺の末寺になると云う。
で、「どうしてお寺さんであるのに牛頭さんが・・・」と聞けば、昭和14年に焼失した成就寺敷地内の西側に建つ小社がそうだと云う。
小社は牛頭天王社だった。
明治時代の廃仏毀釈のおりに、何らかの理由があって勢野薬隆寺に鎮座する八幡神社に遷されたと云う。
マツリには獅子舞もやってきたと云う八幡神社の境内社に浅間(せんげん)社がある。
そこに元あった社を祀っていると云うのだ。
この件は、10月に訪れた薬隆寺の八幡神社に出仕された坂本さんの話しによれば絵馬殿こと参籠所内に神像があったと思いだされる。
いつしかその場でなく他所に遷したらしいと話す。
八幡神社に寄進された常夜燈の一つは北垣内が建之されたもの。
明和二年(1765)の刻印があるようだ。
成就寺敷地内に建つ牛頭天王社の神像は、気になされていた安寿さんが生前中に新しく木像の牛頭さんを製作して祀るようになったと尋ねた人が話す。
そのことを機会に集落の長老たちが立ちあがり、14日の夕刻にはアゲメシを炊いて地区の人にもてなすようになったと云う。
アゲメシは葬儀のときにだしていた食べ物。
北垣内の東・西それぞれが炊いていたそうだ。
次世代を担う人たちに継承してもらいたいという願いで始まったと云う。
天王さんの祭りには御供がいっぱい供えられている。
ソーメンやスイカなどもあるが、多くはお重いっぱい盛ったお米だった。
社殿下に設えた湯釜は三本脚でもなくレンガ造りの火場だった。
湯釜は記銘もなく、古くでもなく、新しくもない感じだ。
2軒の当家さんは湯焚きさん。
竹の幣も作る。
二本の竹幣は一本が90cmで、もう一本は38cmの長短だ。
北垣内は旧村28戸。
本家・分家の人たちの廻りとなる当家は14年に一度廻ってくるようだ。
かつては母家筋の特定家。
「講のもんやった」と83歳のK当家が当時を振り返って話してくれた。
御湯の神事は坂本さんのお勤め。
神職は登場しない。
いつもながらの作法で行われる。
集まった人たちで「後方からでは写しにくいやろ、前から撮ってもかまへんで」と云われて立ち位置を移動する。
ありがたいお言葉に甘えて撮らせてもらった御湯の作法。
大きな幣で沸かした湯を掻き混ぜる。
二本の笹束を湯に浸けて北垣内に神さんを勧請する。
祝詞とも思える「神の呼出し」の神楽歌である。
左側に座っているのは娘さんの考江さんだ。
御湯の作法を終えれば、牛頭さんの御前で神楽を舞う。
牛頭天王社下の燈籠には「牛頭天王 天保二年卯(1831)六月吉日」の刻印がある。
そして、御湯をされた笹とともに鈴を手にして参拝者一人ずつ湯祓いをされる。
いつもそうされている湯祓いだ。
次は考江さんが舞う神楽舞である。
「すめ神」の神楽舞、「このや乙女」の神楽歌に二本の剣をもち舞う神楽。
鈴ももって舞う神楽が行われた。
今度は鈴と剣で祓えたまえ清めたまえと一人ずつ祓っていく。
神楽を舞う時間と同じぐらいに費やした。
テント後方におられた方は順番待ち。
一人ずつされるまで順番を待っていた。
念仏講もあると云う北垣内。
昔は、天王さんの祭りのときには大勢の子供たちがやってきて花火をした。
集落を巡るキモダメシもあったと話す。
夕方5時から始まる垣内の行事。
今ではそのような様相もないようだ。
ここにおられた婦人が話してくれた出里地域の行事。
天理市竹之内町である。
氏神さんの十二神社では風鎮祭をしていたと云うのだ。
いつなのか覚えておられなかったが、家で作った料理をお重に詰めて神社に参り、ゴザを敷いて食べていたと話してくれた。
(H26. 7.14 EOS40D撮影)
行事の場は北垣内になる。
「ややこしい場所なので見つけにくい」と話していた。
二週間前、南畑の帰り路に立ち寄ったが、「北垣内」の住居地図があるにも拘わらず、結局判らずじまいだった。
坂本さんの話によれば、「北垣内」は行政町名の勢野東3丁目らしい。
集落内にある成就寺であるが、安寿さんが亡くなられてからは一般的な家屋になったと話していた。
尼寺・成就寺には牛頭さんを祀っている。
7月14日には、その場で行われる御湯神事は自治会主催の行事。
日が聞き間違いでなければ人が集まっているはずだ。
そう思って北垣内を巡ってみた。
民家らしき家にはテントを張っていた。
おそるおそる尋ねた自治会の人の話しによれば、成就寺は曹洞宗の大阪府柏原市本郷の河内薬師寺の末寺になると云う。
で、「どうしてお寺さんであるのに牛頭さんが・・・」と聞けば、昭和14年に焼失した成就寺敷地内の西側に建つ小社がそうだと云う。
小社は牛頭天王社だった。
明治時代の廃仏毀釈のおりに、何らかの理由があって勢野薬隆寺に鎮座する八幡神社に遷されたと云う。
マツリには獅子舞もやってきたと云う八幡神社の境内社に浅間(せんげん)社がある。
そこに元あった社を祀っていると云うのだ。
この件は、10月に訪れた薬隆寺の八幡神社に出仕された坂本さんの話しによれば絵馬殿こと参籠所内に神像があったと思いだされる。
いつしかその場でなく他所に遷したらしいと話す。
八幡神社に寄進された常夜燈の一つは北垣内が建之されたもの。
明和二年(1765)の刻印があるようだ。
成就寺敷地内に建つ牛頭天王社の神像は、気になされていた安寿さんが生前中に新しく木像の牛頭さんを製作して祀るようになったと尋ねた人が話す。
そのことを機会に集落の長老たちが立ちあがり、14日の夕刻にはアゲメシを炊いて地区の人にもてなすようになったと云う。
アゲメシは葬儀のときにだしていた食べ物。
北垣内の東・西それぞれが炊いていたそうだ。
次世代を担う人たちに継承してもらいたいという願いで始まったと云う。
天王さんの祭りには御供がいっぱい供えられている。
ソーメンやスイカなどもあるが、多くはお重いっぱい盛ったお米だった。
社殿下に設えた湯釜は三本脚でもなくレンガ造りの火場だった。
湯釜は記銘もなく、古くでもなく、新しくもない感じだ。
2軒の当家さんは湯焚きさん。
竹の幣も作る。
二本の竹幣は一本が90cmで、もう一本は38cmの長短だ。
北垣内は旧村28戸。
本家・分家の人たちの廻りとなる当家は14年に一度廻ってくるようだ。
かつては母家筋の特定家。
「講のもんやった」と83歳のK当家が当時を振り返って話してくれた。
御湯の神事は坂本さんのお勤め。
神職は登場しない。
いつもながらの作法で行われる。
集まった人たちで「後方からでは写しにくいやろ、前から撮ってもかまへんで」と云われて立ち位置を移動する。
ありがたいお言葉に甘えて撮らせてもらった御湯の作法。
大きな幣で沸かした湯を掻き混ぜる。
二本の笹束を湯に浸けて北垣内に神さんを勧請する。
祝詞とも思える「神の呼出し」の神楽歌である。
左側に座っているのは娘さんの考江さんだ。
御湯の作法を終えれば、牛頭さんの御前で神楽を舞う。
牛頭天王社下の燈籠には「牛頭天王 天保二年卯(1831)六月吉日」の刻印がある。
そして、御湯をされた笹とともに鈴を手にして参拝者一人ずつ湯祓いをされる。
いつもそうされている湯祓いだ。
次は考江さんが舞う神楽舞である。
「すめ神」の神楽舞、「このや乙女」の神楽歌に二本の剣をもち舞う神楽。
鈴ももって舞う神楽が行われた。
今度は鈴と剣で祓えたまえ清めたまえと一人ずつ祓っていく。
神楽を舞う時間と同じぐらいに費やした。
テント後方におられた方は順番待ち。
一人ずつされるまで順番を待っていた。
念仏講もあると云う北垣内。
昔は、天王さんの祭りのときには大勢の子供たちがやってきて花火をした。
集落を巡るキモダメシもあったと話す。
夕方5時から始まる垣内の行事。
今ではそのような様相もないようだ。
ここにおられた婦人が話してくれた出里地域の行事。
天理市竹之内町である。
氏神さんの十二神社では風鎮祭をしていたと云うのだ。
いつなのか覚えておられなかったが、家で作った料理をお重に詰めて神社に参り、ゴザを敷いて食べていたと話してくれた。
(H26. 7.14 EOS40D撮影)