6月末に「さなぶり」行事を行っていると聞いて出かけた明日香村の上居(じょうご)。
この日の午前中は大和の山々がぽっかり浮かんだいい日和だった。
出かけた時間帯は午後でくすんでいたが、遠望する向こう側は二上山、手前は甘樫丘が見える。
右上は生駒山辺りになる。その間の先にうっすらとある山々は六甲連山だ。
村の鎮守さんである春日神社参道から拝見した氏子さん曰く、「ここは穴場やな・・・」と呟いた。
田植えが終われば春日神社に参って豊作を祈願する「さなぶり」行事。
祭典日は不定、総代ら村役によって日程を決められる「さなぶり」行事である。
会所では村役がススンボの竹を細工していた。
ハカマを取り除いて幣を挿せるように先を割っておく。
奉書を巻いて水引で括る。
御湯の作法に用いられる笹束は2本作っておく。
昔は子供もやってきたと云う「さなぶり」行事。
6月と11月にしていた気がすると話すが、11月は何であろうか。
県内各地でみられる「さなぶり」行事は田植えが無事に終わって氏神さんに報告する行事だが、もしかとすれだが、11月は稲作が実って刈り取り。
豊作に感謝する新嘗祭ではないだろうか。
平成19年に景観ボランティア明日香が聞き取り纏められた『明日香村上居地区聞取り調査報告』書によれば「さなぶり」行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司さんに“米があんじょうできるようみのたきで祈祷してもらう”とある。
湯釜の湯を沸かして米と酒を入れて混ぜて、笹でお祓いをするのである。
その史料に書いてあった11月の行事は稲刈りを終えた「亥の子」であった。
ぼた餅を作って仏壇に供えると書いてあったが、神社行事は書かれてなかった。
この日に参拝された人たちは27人。
村から求められて柿栽培などを支援している景観ボランティア明日香の人たちも参加するが、実際の村人は団体よりも少ない。
「ほぼ限界集落」になったと云う上居。
団体の氏子入りはできないが、行事の参列はできるようにしたそうだ。
春日神社が鎮座する場は山に登った高台だ。
参道から六甲山まで見えるが、行事が始まる時間帯はもやもやになった。
午前中は鮮明に見えたという眺望であったが、どんよりとした雲が移っていた。
雨が降りそうな気配である。
春日神社の鳥居横に手水鉢がある。
暗がりであったが、「寛政九年(1797)十二月吉日」と刻まれていた。
神饌を供えてローソクに火を灯して祭典が始まった。
御供は洗い米、塩、酒、ニンジン、キョウリ、ナスビ、カボチャにスイカ。
生タマゴやスルメイカもある。
秋のマツリもされている御湯を作法されるのは飛鳥坐神社の飛鳥宮司。
ススンボの幣で湯を掻き混ぜて笹束で湯煙をあげる。

神さんを勧請する作法であるが、わずか数秒間で終える。
湯に浸けた笹をもって参拝者にお祓い。
いわゆる湯祓いである。
続いての祓えの儀、祝詞奏上。
そして、大祓えの奏上となる。
祝詞奏上は長文。
その間の動きはほとんどなく、祭典は25分間で終えた。
大祓えの祝詞に「罪を祓う」とあった。
「アマツカミはスサノオことヤサカさん。天に昇って悪いことをした罪。田んぼの畦まで壊した」と解説される宮司。
「毛はもともと頭の毛。稲穂にはノギ(芒)がある。稲穂を切れば毛が切れてハゲになる。お米を育てるとき、悪いことが起こらないように守ってあげる」とも。
すべての田植えが終わって豊作を祈願するお祝いでもあると云う。
かつては麦作もしていた。
二毛作時代の「さなぶり」。
田植えが終わるのは7月だったそうだ。
収穫した籾を米にするのは12月。
遅い地域では12月の第二週目になったと云う。
村じゅうでウスヒキをしていた。
いつしか動力で稼働するウスヒキになった。
電気の線は太くて重たくてとても長かった。
そのウスヒキの道具は持ち廻りで使っていたという。
唐箕は別にあったとも話す村人たち。
稲刈りを終えたときも「さなぶり」と呼んでいた。
上居では豊作祈願に対して実りの祝いも「さなぶり」と称していたのである。

拝殿前に三つの砂跡があった。
左右は門松立ての痕だが、中央の砂跡が気になった。
氏子の話しによれば、年末に門松を立てた際に中央へ平らな砂を敷いたと云う。
それは「砂の参道」で神さんが通る道だと云うのだ。
「砂の参道」は本殿前にも敷いたそうで、上居寺にもしていると云う。
これまで県内各地の砂の道撒きや砂モチと呼ぶ砂盛りなどの風習を調査してきた。
大和郡山市、天理市、田原本町、奈良市で拝見および聞取り調査をした神さんが通る砂の道であるが、上居では集落までは繋げなかったようだ。
上居にあった砂の存在を拝見して明日香村内の状況も調べる必要性が生じた。
ちなみに上居の「さなぶり」行事を終えた飛鳥宮司は他の地区も行かなくてはならない。
忙しく駆け回る宮司は足早に去っていった。
翌日の日曜日かどうか判らないが、細川や阪田でもしていると村人は話していた。
(H26. 6.28 EOS40D撮影)
この日の午前中は大和の山々がぽっかり浮かんだいい日和だった。
出かけた時間帯は午後でくすんでいたが、遠望する向こう側は二上山、手前は甘樫丘が見える。
右上は生駒山辺りになる。その間の先にうっすらとある山々は六甲連山だ。
村の鎮守さんである春日神社参道から拝見した氏子さん曰く、「ここは穴場やな・・・」と呟いた。
田植えが終われば春日神社に参って豊作を祈願する「さなぶり」行事。
祭典日は不定、総代ら村役によって日程を決められる「さなぶり」行事である。
会所では村役がススンボの竹を細工していた。
ハカマを取り除いて幣を挿せるように先を割っておく。
奉書を巻いて水引で括る。
御湯の作法に用いられる笹束は2本作っておく。
昔は子供もやってきたと云う「さなぶり」行事。
6月と11月にしていた気がすると話すが、11月は何であろうか。
県内各地でみられる「さなぶり」行事は田植えが無事に終わって氏神さんに報告する行事だが、もしかとすれだが、11月は稲作が実って刈り取り。
豊作に感謝する新嘗祭ではないだろうか。
平成19年に景観ボランティア明日香が聞き取り纏められた『明日香村上居地区聞取り調査報告』書によれば「さなぶり」行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司さんに“米があんじょうできるようみのたきで祈祷してもらう”とある。
湯釜の湯を沸かして米と酒を入れて混ぜて、笹でお祓いをするのである。
その史料に書いてあった11月の行事は稲刈りを終えた「亥の子」であった。
ぼた餅を作って仏壇に供えると書いてあったが、神社行事は書かれてなかった。
この日に参拝された人たちは27人。
村から求められて柿栽培などを支援している景観ボランティア明日香の人たちも参加するが、実際の村人は団体よりも少ない。
「ほぼ限界集落」になったと云う上居。
団体の氏子入りはできないが、行事の参列はできるようにしたそうだ。
春日神社が鎮座する場は山に登った高台だ。
参道から六甲山まで見えるが、行事が始まる時間帯はもやもやになった。
午前中は鮮明に見えたという眺望であったが、どんよりとした雲が移っていた。
雨が降りそうな気配である。
春日神社の鳥居横に手水鉢がある。
暗がりであったが、「寛政九年(1797)十二月吉日」と刻まれていた。
神饌を供えてローソクに火を灯して祭典が始まった。
御供は洗い米、塩、酒、ニンジン、キョウリ、ナスビ、カボチャにスイカ。
生タマゴやスルメイカもある。
秋のマツリもされている御湯を作法されるのは飛鳥坐神社の飛鳥宮司。
ススンボの幣で湯を掻き混ぜて笹束で湯煙をあげる。

神さんを勧請する作法であるが、わずか数秒間で終える。
湯に浸けた笹をもって参拝者にお祓い。
いわゆる湯祓いである。
続いての祓えの儀、祝詞奏上。
そして、大祓えの奏上となる。
祝詞奏上は長文。
その間の動きはほとんどなく、祭典は25分間で終えた。
大祓えの祝詞に「罪を祓う」とあった。
「アマツカミはスサノオことヤサカさん。天に昇って悪いことをした罪。田んぼの畦まで壊した」と解説される宮司。
「毛はもともと頭の毛。稲穂にはノギ(芒)がある。稲穂を切れば毛が切れてハゲになる。お米を育てるとき、悪いことが起こらないように守ってあげる」とも。
すべての田植えが終わって豊作を祈願するお祝いでもあると云う。
かつては麦作もしていた。
二毛作時代の「さなぶり」。
田植えが終わるのは7月だったそうだ。
収穫した籾を米にするのは12月。
遅い地域では12月の第二週目になったと云う。
村じゅうでウスヒキをしていた。
いつしか動力で稼働するウスヒキになった。
電気の線は太くて重たくてとても長かった。
そのウスヒキの道具は持ち廻りで使っていたという。
唐箕は別にあったとも話す村人たち。
稲刈りを終えたときも「さなぶり」と呼んでいた。
上居では豊作祈願に対して実りの祝いも「さなぶり」と称していたのである。

拝殿前に三つの砂跡があった。
左右は門松立ての痕だが、中央の砂跡が気になった。
氏子の話しによれば、年末に門松を立てた際に中央へ平らな砂を敷いたと云う。
それは「砂の参道」で神さんが通る道だと云うのだ。
「砂の参道」は本殿前にも敷いたそうで、上居寺にもしていると云う。
これまで県内各地の砂の道撒きや砂モチと呼ぶ砂盛りなどの風習を調査してきた。
大和郡山市、天理市、田原本町、奈良市で拝見および聞取り調査をした神さんが通る砂の道であるが、上居では集落までは繋げなかったようだ。
上居にあった砂の存在を拝見して明日香村内の状況も調べる必要性が生じた。
ちなみに上居の「さなぶり」行事を終えた飛鳥宮司は他の地区も行かなくてはならない。
忙しく駆け回る宮司は足早に去っていった。
翌日の日曜日かどうか判らないが、細川や阪田でもしていると村人は話していた。
(H26. 6.28 EOS40D撮影)