節分行事を取材していたときに聞いていた佐紀二条町弁財天の夏越まつり。
7月7日は蛙飛行事もあるし、七夕さんもあるのですが、気になっていたのは弁天さんの行事である。
調べてみればわりあい数多く見られるようだ。
水の神さんとも呼ばれる弁天さんは、農家にとって不可欠の「水」を恵んでくれる。
なぜに7日なのか、どの村に行っても答える人はいないが、祭典の様相だけでも、と思って訪ねた奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。
鳥居下に弁財天社を祀っている。
弁財天社はかつて佐紀池の西側にあったと伝わる。
今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。
神社が鎮座する地は現在の佐紀町。
今では鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。
超昇寺城は永禄十二年(1569)に松永久秀軍の争いによって陥落したと伝わっている。
その後の元亀二年(1571)には筒井軍の反攻によって復帰・修復されたものの、天正八年(1580)の破却令まで存続していたそうだ。
そのころか、それ以前か判らないが超昇寺村には右座・左座の宮座が存続していた。
略歴によれば超昇寺村の社家は吉田家・福井家・中西家・河村家が右座、左座は松田家・河合家・吉村家・河邉家であった。
話しによれば、河邉家一族は遡ること藤原不比等四男の家系になるそうだ。
上の八人衆と下の六人衆からなる宮座の名残もあるかと思って出かけた佐紀二条町。
宮座は50年ほど前に解散したが、今でもマツリを継承している。
集まった氏子たちは節分のときとほぼ同じ人たちであった。
弁財天社に幕を掲げて提灯を灯していた。
お供えはすでに置いてあった。
洗い米・塩にヒモロギで結んだニンジン・ゴボウ・ダイコンと一尾の生サバであるが、神主に許しを得て今年の当番さんは塩サバを供えた。
節分の際には「ヒトギ(シトギ)」もあるようなことを聞いていたが、それはなかった。
弁天池から当地に遷したのは御前池の間にある道路が敷かれた時代。
うっすらと覚えておられた長老らの話しによれば昭和38年のようだ。
当時のお供えはカボチャ、ナスビなどの農作物も盛っていたそうだ。
農業を営んでいた農家は転業されて作物栽培はこの辺では見ることもないと話す。
Nさんの話しによれば、カボチャとかナスビを栽培していた農家が供えていたそうだ。
サラリーマン時代に移り替ってからはお供えはご祝儀金になったと云う。
昭和38年は今より51年前。
宮座を解散した年にあたるようだ。
当時は、露店の夜店が数珠を繋ぐように多くの露天が並び、そうとう賑わっていたと話す。
神事は修跋、祝詞奏上、玉串奉奠など一般的で、特別なこともなく神事を終えた。
昔は大勢の子供たちもやってきたそうだ。
神事中に大慌てでやってきた親子連れ。
自転車を降りるなり神事を終えた弁財天に手を合わせた。
(H26. 7. 7 EOS40D撮影)
7月7日は蛙飛行事もあるし、七夕さんもあるのですが、気になっていたのは弁天さんの行事である。
調べてみればわりあい数多く見られるようだ。
水の神さんとも呼ばれる弁天さんは、農家にとって不可欠の「水」を恵んでくれる。
なぜに7日なのか、どの村に行っても答える人はいないが、祭典の様相だけでも、と思って訪ねた奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。
鳥居下に弁財天社を祀っている。
弁財天社はかつて佐紀池の西側にあったと伝わる。
今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。
神社が鎮座する地は現在の佐紀町。
今では鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。
超昇寺城は永禄十二年(1569)に松永久秀軍の争いによって陥落したと伝わっている。
その後の元亀二年(1571)には筒井軍の反攻によって復帰・修復されたものの、天正八年(1580)の破却令まで存続していたそうだ。
そのころか、それ以前か判らないが超昇寺村には右座・左座の宮座が存続していた。
略歴によれば超昇寺村の社家は吉田家・福井家・中西家・河村家が右座、左座は松田家・河合家・吉村家・河邉家であった。
話しによれば、河邉家一族は遡ること藤原不比等四男の家系になるそうだ。
上の八人衆と下の六人衆からなる宮座の名残もあるかと思って出かけた佐紀二条町。
宮座は50年ほど前に解散したが、今でもマツリを継承している。
集まった氏子たちは節分のときとほぼ同じ人たちであった。
弁財天社に幕を掲げて提灯を灯していた。
お供えはすでに置いてあった。
洗い米・塩にヒモロギで結んだニンジン・ゴボウ・ダイコンと一尾の生サバであるが、神主に許しを得て今年の当番さんは塩サバを供えた。
節分の際には「ヒトギ(シトギ)」もあるようなことを聞いていたが、それはなかった。
弁天池から当地に遷したのは御前池の間にある道路が敷かれた時代。
うっすらと覚えておられた長老らの話しによれば昭和38年のようだ。
当時のお供えはカボチャ、ナスビなどの農作物も盛っていたそうだ。
農業を営んでいた農家は転業されて作物栽培はこの辺では見ることもないと話す。
Nさんの話しによれば、カボチャとかナスビを栽培していた農家が供えていたそうだ。
サラリーマン時代に移り替ってからはお供えはご祝儀金になったと云う。
昭和38年は今より51年前。
宮座を解散した年にあたるようだ。
当時は、露店の夜店が数珠を繋ぐように多くの露天が並び、そうとう賑わっていたと話す。
神事は修跋、祝詞奏上、玉串奉奠など一般的で、特別なこともなく神事を終えた。
昔は大勢の子供たちもやってきたそうだ。
神事中に大慌てでやってきた親子連れ。
自転車を降りるなり神事を終えた弁財天に手を合わせた。
(H26. 7. 7 EOS40D撮影)