大和郡山市石川町は22戸の集落。
かつては環濠に囲まれた旧村のひとつ。
氏神さんを祀る八坂神社北は環濠であった。
城下町・郡山城に鎮座する柳澤神社に移ったものの、20年ほど前までは春日大社から神職が来られて神事が行われていた。
この日は「むかしよみや」と呼ばれる年中行事。
神社祭祀を勤める上六人衆によって行われる。
公民館横に建つ鳥居は明治四十五年五月吉日に建之された。
寄進奉納されたのは本座の頭屋中。
一方、社殿前に建つ鳥居は古基座中である。
秋のマツリにはそれぞれの頭座中が「トージ(ニ)ン トージ(ニ)ン ウワハハイー」と発声しながらお渡りをして参られる。
「むかしよみや」はそういった賑やかさはみられない。
参拝者もなく、上六人衆だけで祭典されるのだ。
10年ほど前まではマツリと同じように辻ごとに提灯を掲げていたと話す。
「むかしよみや」と呼ばれる行事は石川町だけでなく、市内では横田、東椎木、山田、伊豆七条、宮堂、八条がある。
天理市では合場。
田原本町では八尾、八田、法貴寺西口垣内で行われているが、いずれも9月であるが稀に田原本町の唐古例もある。
石川町では充てる漢字は昔宵宮。
ほとんどがそうであるが、稀には昔夜宮、或いは充てる漢字もなく「むかしよみや」と称している地域もある。
宵宮と書いている地域もあるが、一様に「よみや」と呼んでいる一夜、或いは一日限りのマツリである。
聞く処によれば、天理市庵治町もあるようだ。
上六人衆が言うには、「かつて旧暦にされていた行事でなかろうか。元々あったマツリをむかしと呼んでいたのでは」と話すが明快な答えはここでも見つからない。
この日の行事当番の人が運んできた御供箱。
ナシ、キュウリ、コーヤドーフ、コンブ、カマボコなどの御供も買いそろえて持ってきた。
器を包んだ風呂敷を持参する上六人衆が参集する場は公民館。
いつもの場で、いつものようにしばらくはお茶とお菓子で歓談をする。
今年の天候は不順。
異様な年であったが、水ツキは発生しなかった。
そういう年の作物の出来は不良。
米の価格も決まったそうだ。
例年よりは千円も安かったと話す。
一俵当たりの単価が下がれば農家を営む人にとっては大打撃。
ドロイモやサツマイモも実成りの評価を口々に話す。
出来、不出来は畑地によって随分と違うらしい。成り話は知人の福住までおよんだ。
ゼンマイは茶畑にあがるものは太くなるという話題まででた。
雨が多すぎたこの年の実成り話しはつきない。
そろそろ始めようかと腰をあげた六人衆。
神饌御供を盛っていく。
三枚の大きな膳は大御膳(おおごぜん)と呼び、小さめは四枚の小御膳である。
まずは、白紙で包んでいた器を取り出す。
御膳と呼ぶ折敷の底にコンブを敷く。
「神饌昆布」の名がついた昆布は市販品。
業務スーパーで売っていた。
そこで出た話題は敷きもののバランやナンテン。
何故にバランやナンテンを敷くのか知っているかと云う。
答えはそれに乗せた御供が毒物を含んでいるなら赤くなるというのだ。
バランやナンテンでなく、食べ物の下敷きに笹やシソの葉を使う「かい敷き」は数多くある。
防腐・殺菌効果の高い材は古来から使われてきたのである。
さて、本題に戻して行事の進行である。
公民館の縁側に調えた大御膳に小御膳。
それぞれを一人ずつ運んで社殿やイワクラに供える。
献饌である。
六人揃って中央の社殿に向かって拝礼する。
次は右に移って拝礼する。
その次は左の社殿に向かって拝礼する。
その次はアタゴサン、オイナリサン、西、東のハツホサンと呼ばれているイワクラに向かって拝礼する。
神事はそれで終わりでなく、三社を時計回りに周回するのである。
いつもなら三周するが、この日は二周。
境内でしばらくは談をとる。
石川町より数キロメートル、東は天理市の楢町である。
万葉集にも謳われた楢神社が鎮座する。
言い伝えによれば、楢神社は石川町から遷した分霊社であるという。
そうであれば石川町のほうが古社になるのである。
春日さん(かつては伊勢天照大神宮)、オオクニヌシ(コトシロヌシとも)、スサノオの三社を祀る石川町の八坂神社は明治時代までは八柱神社と呼ばれていたと話すKさん。
同家には古くから伝わる人員(名)帳が残されている。
それによれば八坂神社でなく八柱神社と記されている。
先代の前の前のもっと前の先代の名がある人員帳。
天保2年(1831年)生まれで安政四年(1858年)に称念寺で相続したとある。
江戸時代は八柱神社と呼ばれていた石川の八坂神社。
廃仏毀釈のおりだろうか、明治時代に八坂神社と改称されたようだ。
先人から東と西のハツホサンは八柱神社の上社と下社だったと聞いているという。
八柱はヤツバシラ、或いはヤツハシラ。
それが訛ってヤツバ若しくはヤツハを経て、ヤツホとなった。
その後も訛ってハツホとなったのであろうか。
「ホ」は「穂」だと4年前に勤めた六人衆は声を揃えて話していたことを思い出す。
ハツホサンと呼ぶ地にはアタゴサンやオイナリサンもある。
イワクラは四つの石造神。
オイナリサン、西、東のハツホサンが境内にあるのは、わざわざその地に行かなくとも神社に参ることで済ませるようにしたのであった。
では、アタゴサンの元の所在地はどこであろうか。
アタゴサンは火伏せの神さん。
火事にならないよう集落を守ってきたのであろう。
推定であるが、アタゴサンは神社付近にあったかも知れない。
それぞれの神さんに供えた御供は持ってきた風呂敷に包んで帰る。
(H26. 9.12 EOS40D撮影)
かつては環濠に囲まれた旧村のひとつ。
氏神さんを祀る八坂神社北は環濠であった。
城下町・郡山城に鎮座する柳澤神社に移ったものの、20年ほど前までは春日大社から神職が来られて神事が行われていた。
この日は「むかしよみや」と呼ばれる年中行事。
神社祭祀を勤める上六人衆によって行われる。
公民館横に建つ鳥居は明治四十五年五月吉日に建之された。
寄進奉納されたのは本座の頭屋中。
一方、社殿前に建つ鳥居は古基座中である。
秋のマツリにはそれぞれの頭座中が「トージ(ニ)ン トージ(ニ)ン ウワハハイー」と発声しながらお渡りをして参られる。
「むかしよみや」はそういった賑やかさはみられない。
参拝者もなく、上六人衆だけで祭典されるのだ。
10年ほど前まではマツリと同じように辻ごとに提灯を掲げていたと話す。
「むかしよみや」と呼ばれる行事は石川町だけでなく、市内では横田、東椎木、山田、伊豆七条、宮堂、八条がある。
天理市では合場。
田原本町では八尾、八田、法貴寺西口垣内で行われているが、いずれも9月であるが稀に田原本町の唐古例もある。
石川町では充てる漢字は昔宵宮。
ほとんどがそうであるが、稀には昔夜宮、或いは充てる漢字もなく「むかしよみや」と称している地域もある。
宵宮と書いている地域もあるが、一様に「よみや」と呼んでいる一夜、或いは一日限りのマツリである。
聞く処によれば、天理市庵治町もあるようだ。
上六人衆が言うには、「かつて旧暦にされていた行事でなかろうか。元々あったマツリをむかしと呼んでいたのでは」と話すが明快な答えはここでも見つからない。
この日の行事当番の人が運んできた御供箱。
ナシ、キュウリ、コーヤドーフ、コンブ、カマボコなどの御供も買いそろえて持ってきた。
器を包んだ風呂敷を持参する上六人衆が参集する場は公民館。
いつもの場で、いつものようにしばらくはお茶とお菓子で歓談をする。
今年の天候は不順。
異様な年であったが、水ツキは発生しなかった。
そういう年の作物の出来は不良。
米の価格も決まったそうだ。
例年よりは千円も安かったと話す。
一俵当たりの単価が下がれば農家を営む人にとっては大打撃。
ドロイモやサツマイモも実成りの評価を口々に話す。
出来、不出来は畑地によって随分と違うらしい。成り話は知人の福住までおよんだ。
ゼンマイは茶畑にあがるものは太くなるという話題まででた。
雨が多すぎたこの年の実成り話しはつきない。
そろそろ始めようかと腰をあげた六人衆。
神饌御供を盛っていく。
三枚の大きな膳は大御膳(おおごぜん)と呼び、小さめは四枚の小御膳である。
まずは、白紙で包んでいた器を取り出す。
御膳と呼ぶ折敷の底にコンブを敷く。
「神饌昆布」の名がついた昆布は市販品。
業務スーパーで売っていた。
そこで出た話題は敷きもののバランやナンテン。
何故にバランやナンテンを敷くのか知っているかと云う。
答えはそれに乗せた御供が毒物を含んでいるなら赤くなるというのだ。
バランやナンテンでなく、食べ物の下敷きに笹やシソの葉を使う「かい敷き」は数多くある。
防腐・殺菌効果の高い材は古来から使われてきたのである。
さて、本題に戻して行事の進行である。
公民館の縁側に調えた大御膳に小御膳。
それぞれを一人ずつ運んで社殿やイワクラに供える。
献饌である。
六人揃って中央の社殿に向かって拝礼する。
次は右に移って拝礼する。
その次は左の社殿に向かって拝礼する。
その次はアタゴサン、オイナリサン、西、東のハツホサンと呼ばれているイワクラに向かって拝礼する。
神事はそれで終わりでなく、三社を時計回りに周回するのである。
いつもなら三周するが、この日は二周。
境内でしばらくは談をとる。
石川町より数キロメートル、東は天理市の楢町である。
万葉集にも謳われた楢神社が鎮座する。
言い伝えによれば、楢神社は石川町から遷した分霊社であるという。
そうであれば石川町のほうが古社になるのである。
春日さん(かつては伊勢天照大神宮)、オオクニヌシ(コトシロヌシとも)、スサノオの三社を祀る石川町の八坂神社は明治時代までは八柱神社と呼ばれていたと話すKさん。
同家には古くから伝わる人員(名)帳が残されている。
それによれば八坂神社でなく八柱神社と記されている。
先代の前の前のもっと前の先代の名がある人員帳。
天保2年(1831年)生まれで安政四年(1858年)に称念寺で相続したとある。
江戸時代は八柱神社と呼ばれていた石川の八坂神社。
廃仏毀釈のおりだろうか、明治時代に八坂神社と改称されたようだ。
先人から東と西のハツホサンは八柱神社の上社と下社だったと聞いているという。
八柱はヤツバシラ、或いはヤツハシラ。
それが訛ってヤツバ若しくはヤツハを経て、ヤツホとなった。
その後も訛ってハツホとなったのであろうか。
「ホ」は「穂」だと4年前に勤めた六人衆は声を揃えて話していたことを思い出す。
ハツホサンと呼ぶ地にはアタゴサンやオイナリサンもある。
イワクラは四つの石造神。
オイナリサン、西、東のハツホサンが境内にあるのは、わざわざその地に行かなくとも神社に参ることで済ませるようにしたのであった。
では、アタゴサンの元の所在地はどこであろうか。
アタゴサンは火伏せの神さん。
火事にならないよう集落を守ってきたのであろう。
推定であるが、アタゴサンは神社付近にあったかも知れない。
それぞれの神さんに供えた御供は持ってきた風呂敷に包んで帰る。
(H26. 9.12 EOS40D撮影)