毎年の9月12日、薬師さんに供えるキナコのボタモチを作っている。
大久保垣内の3軒の営みである。
山添村の桐山は大久保垣内の他、和田、大君の3垣内。
戸数は20戸の集落である。
田楽系芸能を継承している山添村大字の一つ。
他大字に北野、室津、峰寺(峰寺・松尾・的野)、中峯山がある。
大久保垣内は田楽を奉納される戸隠神社が鎮座する山の上にある垣内である。
室生ダムが建設されたおかげで村の道は拡張されてアスファルト道路になった。
それまでは車も通れない村の里道。
急な坂道を登るには牛の力が必要だった。
牛に曳かせた木造のソリに乗って上がったという。
いつしか耕運機に移ったが、その時代もソリであった交通手段である。
薬師堂が建つ付近の崖には防空壕もあったと話す。
薬師さんを安置する大久保垣内の薬師堂は平成10年9月22日に到来した台風七号の大風で屋根が吹き飛ばされて倒壊した。
「ぺしゃんこになって潰れた」と村人は云う。
当時の薬師堂は板間。
垣内共同で使うコメツキ場だった。
お堂の前には大きな椿があった。
いつの時代か判らないが「昔はお堂の前のカドで盆踊りをしていた」と話すNさんは大正13年生まれの最長老。
子供のころだったと云うから、昭和一桁時代であろう。
桧皮葺の職人がここに来て家で泊っていたとも云う。
お堂を建て替えするまでの「薬っさん」の場は一年交替のヤド家でしていた。
建て替えてお堂は美しくなった。
それからお堂に集まるようにしたと話す。
薬師堂には木彫りの仏像を安置している。
僅かに残る色彩が美しい。
「何時の製作か、どなたが作ったのやら、判らないが、こうして守っている」と話す。
この夜の「薬っさん」行事は「ボタモチのイセキ」と呼んでいた。
盆踊りがあったというからイセキに違いない。
「イセキ」はおそらく「会式」が訛ったものであろう。
この夜の取材は昨年の続きである。
ボタモチ作りは拝見したが夕方は大阪へ行かねばならなかった。
おふくろの病理診断であるMRI検査の立会だった。
手術した結果は良好だった。
イセキの様相は2年後となったわけである。
「薬っさん」に供えるキナコのボタモチがある。
この日の午後に作ったボタモチは大量だ。
一軒あたり一升米を持ち寄って作るというから三升にもなる。
ボタモチ作りは昨年に拝見した。
一人は飯椀によそって、椀を振るう。
そうすればまぁるくなる。
隣の老婦人に渡してオニギリの形にする。
それを手渡してキナコを塗す連携作業だった。
木造の薬師さんに供えるボタモチは5個。
大量のボタモチはコジュウタに入れて前に置く。
長老の息子さんのNさんはローソクに火を灯してオリンを打つ。
手を合わせることも念仏を唱えることもないイセキの在り方である。
同時に動いたボタモチ。
コジュウタから家に持ち帰る大皿に移していく。
一軒あたり30個にもなる分量だ。
供えたお神酒も下げて各家が持ってきた手料理とともに会食をする。
ボタモチは一口で食べきらない量。
お椀一杯分だけに何口にも分けて食べる。
甘い香りがするボタモチでお腹が膨れあがる。
もう1個食べてやと云われて口にする。
これで二杯分。
すでに胃袋は満腹になっている。
手料理もあるからそれも食べてやと云われて口にする。
別腹なのか、美味しいのか判らないが、口に入るのである。
この夜の参拝に若夫婦が参列した。
茶生産をするため入植した夫婦は垣内入りを容認されて、ともに会食をする。
生まれて間もない赤ちゃんも同席だ。
ひ孫ができたように思えて仕方がない長老があやせば笑顔で応える。
和やかな雰囲気で過ごす薬っさんのボタモチイセキの夜がふけていく。
外ではクツワムシがガチャガチャと奏でていた。
お堂辺りもそうだが、山から降りた県道筋も鳴いている。
そういえば隣村の奈良市北野山もそうであったことを思い出した。
(H26. 9.12 EOS40D撮影)
大久保垣内の3軒の営みである。
山添村の桐山は大久保垣内の他、和田、大君の3垣内。
戸数は20戸の集落である。
田楽系芸能を継承している山添村大字の一つ。
他大字に北野、室津、峰寺(峰寺・松尾・的野)、中峯山がある。
大久保垣内は田楽を奉納される戸隠神社が鎮座する山の上にある垣内である。
室生ダムが建設されたおかげで村の道は拡張されてアスファルト道路になった。
それまでは車も通れない村の里道。
急な坂道を登るには牛の力が必要だった。
牛に曳かせた木造のソリに乗って上がったという。
いつしか耕運機に移ったが、その時代もソリであった交通手段である。
薬師堂が建つ付近の崖には防空壕もあったと話す。
薬師さんを安置する大久保垣内の薬師堂は平成10年9月22日に到来した台風七号の大風で屋根が吹き飛ばされて倒壊した。
「ぺしゃんこになって潰れた」と村人は云う。
当時の薬師堂は板間。
垣内共同で使うコメツキ場だった。
お堂の前には大きな椿があった。
いつの時代か判らないが「昔はお堂の前のカドで盆踊りをしていた」と話すNさんは大正13年生まれの最長老。
子供のころだったと云うから、昭和一桁時代であろう。
桧皮葺の職人がここに来て家で泊っていたとも云う。
お堂を建て替えするまでの「薬っさん」の場は一年交替のヤド家でしていた。
建て替えてお堂は美しくなった。
それからお堂に集まるようにしたと話す。
薬師堂には木彫りの仏像を安置している。
僅かに残る色彩が美しい。
「何時の製作か、どなたが作ったのやら、判らないが、こうして守っている」と話す。
この夜の「薬っさん」行事は「ボタモチのイセキ」と呼んでいた。
盆踊りがあったというからイセキに違いない。
「イセキ」はおそらく「会式」が訛ったものであろう。
この夜の取材は昨年の続きである。
ボタモチ作りは拝見したが夕方は大阪へ行かねばならなかった。
おふくろの病理診断であるMRI検査の立会だった。
手術した結果は良好だった。
イセキの様相は2年後となったわけである。
「薬っさん」に供えるキナコのボタモチがある。
この日の午後に作ったボタモチは大量だ。
一軒あたり一升米を持ち寄って作るというから三升にもなる。
ボタモチ作りは昨年に拝見した。
一人は飯椀によそって、椀を振るう。
そうすればまぁるくなる。
隣の老婦人に渡してオニギリの形にする。
それを手渡してキナコを塗す連携作業だった。
木造の薬師さんに供えるボタモチは5個。
大量のボタモチはコジュウタに入れて前に置く。
長老の息子さんのNさんはローソクに火を灯してオリンを打つ。
手を合わせることも念仏を唱えることもないイセキの在り方である。
同時に動いたボタモチ。
コジュウタから家に持ち帰る大皿に移していく。
一軒あたり30個にもなる分量だ。
供えたお神酒も下げて各家が持ってきた手料理とともに会食をする。
ボタモチは一口で食べきらない量。
お椀一杯分だけに何口にも分けて食べる。
甘い香りがするボタモチでお腹が膨れあがる。
もう1個食べてやと云われて口にする。
これで二杯分。
すでに胃袋は満腹になっている。
手料理もあるからそれも食べてやと云われて口にする。
別腹なのか、美味しいのか判らないが、口に入るのである。
この夜の参拝に若夫婦が参列した。
茶生産をするため入植した夫婦は垣内入りを容認されて、ともに会食をする。
生まれて間もない赤ちゃんも同席だ。
ひ孫ができたように思えて仕方がない長老があやせば笑顔で応える。
和やかな雰囲気で過ごす薬っさんのボタモチイセキの夜がふけていく。
外ではクツワムシがガチャガチャと奏でていた。
お堂辺りもそうだが、山から降りた県道筋も鳴いている。
そういえば隣村の奈良市北野山もそうであったことを思い出した。
(H26. 9.12 EOS40D撮影)