前日・午前中はどっと押し寄せた現地説明会。
午後ともなればすっかり冷え切った行列。
この日は朝からずっと途絶えることなく夕方まで・・。
豊臣時代に威容を誇った郡山城・天守閣の遺構が発掘された天守台を拝見する行列だ。
郡山城の名であるが、福島県の郡山でなく、奈良県大和郡山市の郡山城である。
市の施設に勤務していたときのことだ。
郡山でイベントをしているようだから場所を教えてと願う電話があった。
市役所はもとより観光ボランテイアガイドに尋ねても知らないというイベント。
ネットで調べてみれば福島県の郡山だった。
電話主の地元であったのだ。
そのイベントを伝えたら恥ずかしそうな声が返ってきたことを思い出す。
それはともかく前日19日の奈良のニュースは発掘調査の模様をとりあげ賑わっていた。
大和郡山市教育委員会・生涯学習課の発表によれば、天守(※当時の呼称は閣がなく天守)と想定される23石の礎石の他、大阪城の瓦と同型の瓦や金箔が残っていた軒丸瓦も出土した。
また、秀吉が京都に建てた聚楽第に類例がある軒平瓦の他、鯱瓦や鬼瓦の一部も出土したというのだ。
郡山城は初代城主である筒井順慶が天正八年(1580)に入城した。
『多聞院日記』によれば天守が完成したのは天正十一年。
順慶死後の城主は豊臣秀長が入城。
本丸・二の丸石垣普請され天守が完成となる直前に地震で崩壊したと『大和郡山旧記』にあるそうだ。
その後も城主がかわって豊臣秀保、増田長盛に移った。
長盛入城翌年の文禄五年(1595)九月に京都伏見付近で大地震が起こり、天守はじめ、櫓なども倒壊したと『近衛前久書状』にあるようだ。
その後、天守を再建しゆえたという記録もなく、設計図も見つかっていない。
それゆえ「幻の天守」と云われる郡山城であった。
一方、江戸時代初期の大工技術書である『愚子見記』には関ヶ原の戦いの後、郡山城は廃城となり、天守は京都二条城に移したとある。
その天守は京都淀城に移されたという古文書もあるそうだ。
現存する二条城絵図には五層の天守が描かれていることから、郡山城の天守も五層であった可能性が高いと考えられていたのだ。
天守から望む大和うるわしの景観。
今では高くそそりたつ樹木で遮られているが眺望は遥か遠く東に若草山。
西に矢田丘陵。
南西は葛城山系で南東は三輪山から奥吉野に高く聳える連山も見え、奈良盆地平坦全体が一望できるのである。
逆にいえば周辺山々からも天守が見えたということだ。
平成24年3月25日に地元住民の案内で城下町より西に位置する矢田町を巡った。
その地は県立民俗博物館がある大和民俗公園より数十メートル歩いた処だ。
そこにコグリと呼ぶ地がある。
それは「コグチ」であったかもと話す村人。
コグチは虎口。
木戸があったという地には川があった。
上流の池から流れる川だった。
その川は今でも流れているが道の下。
山を崩して新道を造った。
この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていた。
向こう側が見えない山を縫うようにあった細い道だった。
山は切り取られて開放された。
その道筋はぐるりとえぐる。
見通しがよくなったが道の様子はよく判る。
切り崩された山の上から敵が来るのを監視していた戦略上の要地。
郡山城下町に敵が寄せてくるのを視ていたのであろうと話す。
残った山は「タカヤマ」。
井戸もある山に登ってみれば広がる西の丘陵地・三之矢塚が見渡せる。
「タカヤマ」は「城」であったろうと話していた。
つまり侵入する敵を監視していたタカヤマなのだ。
そのような状況になれば狼煙をあげたであろう。
郡山城天守にはすぐに伝わる緊急通報手段である。
天守が建っていた豊臣政権の郡山藩はどの地まであったのだろうか。
五奉行でなく、見張り役を勤めたと思われる旧村はどこであったのだろうか。
発掘された天守に思いをはせて中世時代の大和を巡る。
そんな旅をしてみたいものだ。
天守台に登ってそんなことを思ってみたが、高く伸びた樹木で遮られている。
市職員の話によれば春日・若草山を展望する方角にある多い繁った樹木は地主である柳澤家当主と協議するらしい。
伐採する木はすべてではなく、あくまで眺望を遮る高さまでのようだ。
この日の天守台見学は十数人までの限定人数。
どう思われたのか知らないが、平成28年度には展望台を設けるようだ。
そうであればお城に敷設されている電信柱はどうするのであろうか。
(H26. 9.20 EOS40D撮影)
午後ともなればすっかり冷え切った行列。
この日は朝からずっと途絶えることなく夕方まで・・。
豊臣時代に威容を誇った郡山城・天守閣の遺構が発掘された天守台を拝見する行列だ。
郡山城の名であるが、福島県の郡山でなく、奈良県大和郡山市の郡山城である。
市の施設に勤務していたときのことだ。
郡山でイベントをしているようだから場所を教えてと願う電話があった。
市役所はもとより観光ボランテイアガイドに尋ねても知らないというイベント。
ネットで調べてみれば福島県の郡山だった。
電話主の地元であったのだ。
そのイベントを伝えたら恥ずかしそうな声が返ってきたことを思い出す。
それはともかく前日19日の奈良のニュースは発掘調査の模様をとりあげ賑わっていた。
大和郡山市教育委員会・生涯学習課の発表によれば、天守(※当時の呼称は閣がなく天守)と想定される23石の礎石の他、大阪城の瓦と同型の瓦や金箔が残っていた軒丸瓦も出土した。
また、秀吉が京都に建てた聚楽第に類例がある軒平瓦の他、鯱瓦や鬼瓦の一部も出土したというのだ。
郡山城は初代城主である筒井順慶が天正八年(1580)に入城した。
『多聞院日記』によれば天守が完成したのは天正十一年。
順慶死後の城主は豊臣秀長が入城。
本丸・二の丸石垣普請され天守が完成となる直前に地震で崩壊したと『大和郡山旧記』にあるそうだ。
その後も城主がかわって豊臣秀保、増田長盛に移った。
長盛入城翌年の文禄五年(1595)九月に京都伏見付近で大地震が起こり、天守はじめ、櫓なども倒壊したと『近衛前久書状』にあるようだ。
その後、天守を再建しゆえたという記録もなく、設計図も見つかっていない。
それゆえ「幻の天守」と云われる郡山城であった。
一方、江戸時代初期の大工技術書である『愚子見記』には関ヶ原の戦いの後、郡山城は廃城となり、天守は京都二条城に移したとある。
その天守は京都淀城に移されたという古文書もあるそうだ。
現存する二条城絵図には五層の天守が描かれていることから、郡山城の天守も五層であった可能性が高いと考えられていたのだ。
天守から望む大和うるわしの景観。
今では高くそそりたつ樹木で遮られているが眺望は遥か遠く東に若草山。
西に矢田丘陵。
南西は葛城山系で南東は三輪山から奥吉野に高く聳える連山も見え、奈良盆地平坦全体が一望できるのである。
逆にいえば周辺山々からも天守が見えたということだ。
平成24年3月25日に地元住民の案内で城下町より西に位置する矢田町を巡った。
その地は県立民俗博物館がある大和民俗公園より数十メートル歩いた処だ。
そこにコグリと呼ぶ地がある。
それは「コグチ」であったかもと話す村人。
コグチは虎口。
木戸があったという地には川があった。
上流の池から流れる川だった。
その川は今でも流れているが道の下。
山を崩して新道を造った。
この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていた。
向こう側が見えない山を縫うようにあった細い道だった。
山は切り取られて開放された。
その道筋はぐるりとえぐる。
見通しがよくなったが道の様子はよく判る。
切り崩された山の上から敵が来るのを監視していた戦略上の要地。
郡山城下町に敵が寄せてくるのを視ていたのであろうと話す。
残った山は「タカヤマ」。
井戸もある山に登ってみれば広がる西の丘陵地・三之矢塚が見渡せる。
「タカヤマ」は「城」であったろうと話していた。
つまり侵入する敵を監視していたタカヤマなのだ。
そのような状況になれば狼煙をあげたであろう。
郡山城天守にはすぐに伝わる緊急通報手段である。
天守が建っていた豊臣政権の郡山藩はどの地まであったのだろうか。
五奉行でなく、見張り役を勤めたと思われる旧村はどこであったのだろうか。
発掘された天守に思いをはせて中世時代の大和を巡る。
そんな旅をしてみたいものだ。
天守台に登ってそんなことを思ってみたが、高く伸びた樹木で遮られている。
市職員の話によれば春日・若草山を展望する方角にある多い繁った樹木は地主である柳澤家当主と協議するらしい。
伐採する木はすべてではなく、あくまで眺望を遮る高さまでのようだ。
この日の天守台見学は十数人までの限定人数。
どう思われたのか知らないが、平成28年度には展望台を設けるようだ。
そうであればお城に敷設されている電信柱はどうするのであろうか。
(H26. 9.20 EOS40D撮影)