奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の石仏の特集ページに掲載されていた榛原山辺三の濡れ地蔵。
室生ダム湖岸の巨岩に彫られた地蔵石仏である。
彫りは深いと云う地蔵石仏は建長六年(1254)の作。
昭和49年(1974)の建設当時、お地蔵さんを刻んだ山ごと移転を願った榛原山辺三地区住民の声も空しく、ダム湖が満水ともなればすべてが水没した。
せめて湖水が引く時期にはおひざ元まで近づけるようにと懇願して作った石段や参道の設置は認められた。
12月ともなれば湖水の水位が上がって頭の上まですっぽりと水中に隠れた地蔵さんは拝見することができない。
水中から姿を現し始めるのは水位が下がる5月中旬頃。
11月末頃までの半年間は地上に現れる。
まるで月の満ち欠けのように繰り返す地蔵さんは年に一度は自治会が主催する地蔵会式を営んでいると書いてあった。
当時、自治会長を勤めた新禎夫さんは「先輩たちが大事に守ってきたお地蔵さんは、今も毎年の秋の彼岸に地蔵会式を営み、供養を続けている」と書いてあった。
ハザ架けを終えた山間部に住む男性に教えてもらった現自治会長家を訪ねる。
ご主人は村の慰霊祭で不在であったが、農作業をされていた婦人に取材の主旨を伝えた。
そういうことであれば戻ってくる主人は承諾するに違いないと云う。
会式の場には西方寺の住職が来られて会式の法要が始まる。
一週間前には場に生えた雑草などを刈り取った。
祭壇を設ける場所も奇麗に掃除をしたと云う。
濡れ地蔵石仏は「青越え伊勢街道」とも呼ばれた初瀬街道より下ったふれあい広場より数百メートル先にある。
石畳の参道をまっすぐ降りる。
最端には天保六年(1835)に建てられた常夜燈がある。
石段を下った川岸の向こう側にあったのが濡れ地蔵である。
天満川を渡る木造の橋が架けてあった。
婦人が話していたお参りに欠かせない橋は近年に設置したと云っていた。
地蔵山と呼ばれる崖下に光背を深く彫った地蔵菩薩の石仏は、雨が降れば山から流れ出る湧水で岸壁が濡れ、水が滝のように落ちてくることから「濡れ地蔵」と呼ばれている。
左手に宝珠、右手に錫杖を持つ半身彫りの地蔵石仏立像に「建長六年(1254)甲寅八月十五日建」の刻印がある。
室生ダムが満水のときは水中に姿を隠している濡れ地蔵。
梅雨や台風に備えてダムは出水され水位を下げる。
室生ダムは淀川水系名張川の支流。
宇陀川の洪水調節、河川環境の保全や大和平野への水道水供給を目的に建設された。
濡れ地蔵を別の地に移すことも検討されたが、動かせば崩れる可能性があった。
やむを得ない決断によって、その地に残された濡れ地蔵は、秋が終わるころには再び満水となって隠れるのである。
18日間も雨が降っていなかった9月23日は彼岸の中日。
昼過ぎに集まった自治会役員たちは参道や濡れ地蔵に花立てを設えて、乾いた濡れ地蔵石仏に水を垂らした。
山辺三は全戸で数百戸。
都会などから転居された天満台の新興住宅で膨れ上がったが、旧村では85戸だ。
山辺三は西村・中村・篠畑(さいはた)からなる村落である。
濡れ地蔵がある地蔵山はかつて雨乞いをしていた山。
生前、自治会長家のおばあさんが日照りにダケノボリをしていたと話していたそうだ。
およそ60年前のことだけに、松明を持って太鼓を打ちながら参ったという雨乞いを記憶するのは80歳ぐらいの人でないと覚えていないと話す。
地蔵会式は濡れ地蔵がある対岸側で行われる。
祭壇を組んで花を飾る。
風で消えないようにガラス筒に納めたローソクに火を灯す。
村人はブルーシートに座って会式に参列する。
お参りされる人たちは天満川に架けた橋を渡って地蔵さんに手を合わせる。
そうして始まった会式。
西方寺は大阪平野大念仏寺・末寺の融通念仏宗派。
25日に発表された奈良新聞によれば安置する木造薬師如来立像が重要文化財に指定される運びとなったことを伝えていた。
平野大念仏寺はこの年、三年ぶりにあたる大和山間地を巡る如来さんがやってきた。
三年おきにされる山廻りである。
この日の午前中に慰霊祭の法要も勤めた住職の話によれば9月5日だったそうだ。
この日の濡れ地蔵会式は気温が30度近くまで上昇した。
暑い日差しが法要の場を照らす。
ピーカン照りに遮られて対岸にある濡れ地蔵は山の影で判り難い。
およそ25分間、伏し鉦を叩いて融通念仏勤行を勤められた会式の法要が終われば数珠繰りに移る。
この日は例年になく大勢が参られた。
自治会役員ら30人は数珠繰りをされる。
法要が始まる直前のことだ。
法要に数珠繰りがあると知って拝見した風呂敷包に納めた数珠箱。
内部に径12cmぐらいの古い鉦があった。
西村在住のⅠさんは数珠・鉦とも西村が所有していると云う。
数日前の21日には念仏講中の寄り合いがあった。
そのときに繰っていた数珠である。
大きな房がくれば頭を下げる。
数取りの数珠玉がなくなるまで繰っていると話す。
21日は彼岸入りの翌日。
その日から彼岸の中日までの期間中、講中が集まりやすい日の夜が営みだと云う。
西村以外にも中村、篠畑でもしているらしい。
拝見した西村が所有する伏し鉦には「念佛講中 山辺村 □□□ 西村和泉守作」の刻印記銘があった。
「西村和泉守作」の鉦はこれまで私が拝見した大和郡山市伊豆七条町・勝福寺や奈良市中ノ川町・観音寺で見つかっているが年代は不明である。
「西村和泉守」は江戸神田鍛冶町において実在した鑄物師だったことが知られている。
初代「西村和泉守」は延宝年間(1673~)をはじめとし、十一代目は大正時代まで続いた老舗の鑄物師。
大数珠とともに納めていた箱の蓋の色は黒ずんでいた。
そうとう古いものに違いないが、裏には「改 昭和四十二年三月三十日」とあり、12人の講中の名が記されていた。
生存している人は一名。
記憶に頼るしかないが、おそらく後年に墨書したものであろう。
およそ10分間の数珠繰りが終われば、束ねた数珠玉で背中をなで下ろす。
身体堅固の作法で無病息災を願った。
供えた御供を下げて参拝者に配って解散された会式の花立ては濡れ地蔵を見守るかのように佇んでいた。
ちなみに山辺三の秋の彼岸は濡れ地蔵会式であるが、春の彼岸は中村の山に鎮座する五輪塔の山部赤人墓で法要をされる。
また、7月中旬のコンピラサンの他、秋には神社のマツリもある。
山辺三には二つの神社が鎮座する。
一つは西村の葛神社で、もう一つは篠畑(さいはた)の篠畑神社だ。
この年は10月12がヨミヤで翌日の13日はマツリ。
いずれも同じ日に斎行される神職は山辺三在住の藤田宮司。
額井の十八神社造営リハーサルの際にずいぶんと教えていただいたことを思い出す。
(H26. 9.23 EOS40D撮影)
室生ダム湖岸の巨岩に彫られた地蔵石仏である。
彫りは深いと云う地蔵石仏は建長六年(1254)の作。
昭和49年(1974)の建設当時、お地蔵さんを刻んだ山ごと移転を願った榛原山辺三地区住民の声も空しく、ダム湖が満水ともなればすべてが水没した。
せめて湖水が引く時期にはおひざ元まで近づけるようにと懇願して作った石段や参道の設置は認められた。
12月ともなれば湖水の水位が上がって頭の上まですっぽりと水中に隠れた地蔵さんは拝見することができない。
水中から姿を現し始めるのは水位が下がる5月中旬頃。
11月末頃までの半年間は地上に現れる。
まるで月の満ち欠けのように繰り返す地蔵さんは年に一度は自治会が主催する地蔵会式を営んでいると書いてあった。
当時、自治会長を勤めた新禎夫さんは「先輩たちが大事に守ってきたお地蔵さんは、今も毎年の秋の彼岸に地蔵会式を営み、供養を続けている」と書いてあった。
ハザ架けを終えた山間部に住む男性に教えてもらった現自治会長家を訪ねる。
ご主人は村の慰霊祭で不在であったが、農作業をされていた婦人に取材の主旨を伝えた。
そういうことであれば戻ってくる主人は承諾するに違いないと云う。
会式の場には西方寺の住職が来られて会式の法要が始まる。
一週間前には場に生えた雑草などを刈り取った。
祭壇を設ける場所も奇麗に掃除をしたと云う。
濡れ地蔵石仏は「青越え伊勢街道」とも呼ばれた初瀬街道より下ったふれあい広場より数百メートル先にある。
石畳の参道をまっすぐ降りる。
最端には天保六年(1835)に建てられた常夜燈がある。
石段を下った川岸の向こう側にあったのが濡れ地蔵である。
天満川を渡る木造の橋が架けてあった。
婦人が話していたお参りに欠かせない橋は近年に設置したと云っていた。
地蔵山と呼ばれる崖下に光背を深く彫った地蔵菩薩の石仏は、雨が降れば山から流れ出る湧水で岸壁が濡れ、水が滝のように落ちてくることから「濡れ地蔵」と呼ばれている。
左手に宝珠、右手に錫杖を持つ半身彫りの地蔵石仏立像に「建長六年(1254)甲寅八月十五日建」の刻印がある。
室生ダムが満水のときは水中に姿を隠している濡れ地蔵。
梅雨や台風に備えてダムは出水され水位を下げる。
室生ダムは淀川水系名張川の支流。
宇陀川の洪水調節、河川環境の保全や大和平野への水道水供給を目的に建設された。
濡れ地蔵を別の地に移すことも検討されたが、動かせば崩れる可能性があった。
やむを得ない決断によって、その地に残された濡れ地蔵は、秋が終わるころには再び満水となって隠れるのである。
18日間も雨が降っていなかった9月23日は彼岸の中日。
昼過ぎに集まった自治会役員たちは参道や濡れ地蔵に花立てを設えて、乾いた濡れ地蔵石仏に水を垂らした。
山辺三は全戸で数百戸。
都会などから転居された天満台の新興住宅で膨れ上がったが、旧村では85戸だ。
山辺三は西村・中村・篠畑(さいはた)からなる村落である。
濡れ地蔵がある地蔵山はかつて雨乞いをしていた山。
生前、自治会長家のおばあさんが日照りにダケノボリをしていたと話していたそうだ。
およそ60年前のことだけに、松明を持って太鼓を打ちながら参ったという雨乞いを記憶するのは80歳ぐらいの人でないと覚えていないと話す。
地蔵会式は濡れ地蔵がある対岸側で行われる。
祭壇を組んで花を飾る。
風で消えないようにガラス筒に納めたローソクに火を灯す。
村人はブルーシートに座って会式に参列する。
お参りされる人たちは天満川に架けた橋を渡って地蔵さんに手を合わせる。
そうして始まった会式。
西方寺は大阪平野大念仏寺・末寺の融通念仏宗派。
25日に発表された奈良新聞によれば安置する木造薬師如来立像が重要文化財に指定される運びとなったことを伝えていた。
平野大念仏寺はこの年、三年ぶりにあたる大和山間地を巡る如来さんがやってきた。
三年おきにされる山廻りである。
この日の午前中に慰霊祭の法要も勤めた住職の話によれば9月5日だったそうだ。
この日の濡れ地蔵会式は気温が30度近くまで上昇した。
暑い日差しが法要の場を照らす。
ピーカン照りに遮られて対岸にある濡れ地蔵は山の影で判り難い。
およそ25分間、伏し鉦を叩いて融通念仏勤行を勤められた会式の法要が終われば数珠繰りに移る。
この日は例年になく大勢が参られた。
自治会役員ら30人は数珠繰りをされる。
法要が始まる直前のことだ。
法要に数珠繰りがあると知って拝見した風呂敷包に納めた数珠箱。
内部に径12cmぐらいの古い鉦があった。
西村在住のⅠさんは数珠・鉦とも西村が所有していると云う。
数日前の21日には念仏講中の寄り合いがあった。
そのときに繰っていた数珠である。
大きな房がくれば頭を下げる。
数取りの数珠玉がなくなるまで繰っていると話す。
21日は彼岸入りの翌日。
その日から彼岸の中日までの期間中、講中が集まりやすい日の夜が営みだと云う。
西村以外にも中村、篠畑でもしているらしい。
拝見した西村が所有する伏し鉦には「念佛講中 山辺村 □□□ 西村和泉守作」の刻印記銘があった。
「西村和泉守作」の鉦はこれまで私が拝見した大和郡山市伊豆七条町・勝福寺や奈良市中ノ川町・観音寺で見つかっているが年代は不明である。
「西村和泉守」は江戸神田鍛冶町において実在した鑄物師だったことが知られている。
初代「西村和泉守」は延宝年間(1673~)をはじめとし、十一代目は大正時代まで続いた老舗の鑄物師。
大数珠とともに納めていた箱の蓋の色は黒ずんでいた。
そうとう古いものに違いないが、裏には「改 昭和四十二年三月三十日」とあり、12人の講中の名が記されていた。
生存している人は一名。
記憶に頼るしかないが、おそらく後年に墨書したものであろう。
およそ10分間の数珠繰りが終われば、束ねた数珠玉で背中をなで下ろす。
身体堅固の作法で無病息災を願った。
供えた御供を下げて参拝者に配って解散された会式の花立ては濡れ地蔵を見守るかのように佇んでいた。
ちなみに山辺三の秋の彼岸は濡れ地蔵会式であるが、春の彼岸は中村の山に鎮座する五輪塔の山部赤人墓で法要をされる。
また、7月中旬のコンピラサンの他、秋には神社のマツリもある。
山辺三には二つの神社が鎮座する。
一つは西村の葛神社で、もう一つは篠畑(さいはた)の篠畑神社だ。
この年は10月12がヨミヤで翌日の13日はマツリ。
いずれも同じ日に斎行される神職は山辺三在住の藤田宮司。
額井の十八神社造営リハーサルの際にずいぶんと教えていただいたことを思い出す。
(H26. 9.23 EOS40D撮影)