昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』に「十八酒」行事が記載されていた。
場は桜井市の鹿路(ろくろ)である。
18歳になった若者の祝いは村の大人の仲間入りとして認める儀式。
それが「十八酒」行事であるが対象者はなく中断している。
そのときに伺った男性は正月四日に綱掛祭をしていると話してくれた。
現在は四日に近い日曜に移っている綱掛祭。
ウルシの弓、ススダケとも呼ぶススンボの竹で矢を作る。
弦は苧だという。
弓初めの儀式を終えて北の入口に綱掛けをする。
綱はオーコで担いで運んだ。
「綱をまくったら男になる。豊作やといって川までまくった」と話す男性は「面白半分にしていた」と話していた。
天一神社で行われる綱掛祭はどのような形式でされているのか、前々から気になってはいるものの訪れる機会を逃していた。
この年の4日は第一日曜日。
固定日の4日に行われる地域もありどちらに向かうか選択順位は悩ませるが、男性が話してくれたこともあって鹿路に決めた。
到着した時間帯は9時少し前だった。
道路は除雪されて難なく上がることができたが神社境内は積もった雪が残っていた。
拝殿内で綱結いをしている村人たちがおられた。
突然のことではあるが取材を申し出た。
昨年の8月19日に訪れた経緯を伝えれば男性は来ていないという。
男性は84歳。
若い人たちに後継を頼んで引退したそうだ。
区長こと総代のMさんの承諾を得て取材に入る。
鹿路は天一神社が鎮座する宮垣内に下垣内、上垣内の3垣内からなる。
この日は朝8時半から作業を始めたそうだ。
天一神社に本殿はなく巨樹の大杉がご神体。
美しい朱塗りの玉垣によって囲われている。
正月前に立てた松飾りには竹があるが梅は見られない。
玉垣下の階段に各戸が供えたと思われる正月御供が雪に埋もれている。
各戸より寄せられた藁束をしごいてシビと取る人に小注連縄を結う人も。
トンドの火の周りで行う分担作業はしばらく続く。
綺麗にシビを取った藁束は拝殿鴨居に引っかけて綱結いをする。
藁ニ把を持つ二人組。
「さあーよい さあーよい よいよい さあーよい よいよい」と掛け声をかけながら綱を結う。
藁把を綱に継ぎ足して「さあーよい さあーよい」の掛け声で右依り。
2回の捩りである。
そして「よいよい」と云いながら相手側に綱をお互いに交換しあう。
次に「さあーよい」と綱を捩る。
最後の「よいよい」で再び交換する。
リズミカルな結い方についつい見惚れてしまう綱組みである。
綱組みの先には細い藁縄を括っている。
掛け声かけて結った綱は長くなる都度に引っ張って弛まないようにする。
3人は呼吸を合わせて綱を伸ばしていく。
おおよその長さになった綱結いは力仕事。
何人かが交替しながら結っていた。
綱結いを始めて30分後。
作業開始から1時間半後に小休止。
注文していたオードブル料理をよばれて一服する。
休憩を挟んで再び作業が始まった。
今回の取材は祭り道具の作り方の調査もある。
できる限りその様子を詳細に記録させてもらった。
的の骨組は一尺六寸の長さにした女竹をナタで割って作る。
右側の人が作っているのは「丘の棚」と呼ばれている御供台だ。
長さ四尺の女竹の先を四つに割いて広げる。
予め作っておいた二本の藁枕を挿して固定する。
長さ七寸に切断したハゼウルシの割木は両端を縄で編んで簾のようにした。
それを藁枕に括り付けてできあがる。
左側の人は神饌台作り。
これもまた予め作っておいた円形の藁。
円の中心部には長さ40cmぐらいの藁束がある。
それを固定していたのは割竹。
円形の藁に挿して十文字。
交差する部分に長い藁束の折り曲げたところに通している。
下部は崩れないようにテープで止めていた。
その横で作業をされる人はナタで割って竹串を作っていた。
竹串は4本。
神饌御供のタチバナ(柑橘)やミカン(蜜柑)、ホシガキ(干柿)、クリヒシモチ(栗菱餅)を挿す竹串だ。
次は弓作り。
材は長さ四尺八寸のハゼウルシの木。
適当な幅ごとに材の皮を剥いでおく。
道具造りは細かい作業。
大まかな道具類が揃っていく。
この場には弓打ちの的も置いてある。
紙を充てて糊付けして乾かしていた。
右手奥に立てているのは長さ八尺の矢である。
両端に穴を開けて麻芋の縄を取り付ける弓作り。
優しい眼差しで見ておられたのは談山神社禰宜の花房兼輔さん。
昨年の10月には嘉吉祭の御食調製にてたいへんお世話になった禰宜さんである。
御供のタチバナやミカン、ホシガキ、クリヒシモチを挿した神饌台を小注連縄に取り付ける。
注連縄は長老が編んでいた。
これを左右に立つ灯籠の頭部分に括り付けていた。
水平にした注連縄に神饌台の中央にある縄の先を落ちないように注連縄の結びを緩めて通す。
神饌台の形で思いだしたのはこの月の3日に取材した宇陀市長峯・長安院で行われた修正会に奉られた「カラスのオドシ」だ。
若干の違いは見られるもののほぼ同じ形態だと思った。
このような形の祭り道具は他所でも拝見したことがある。
一つは天理市荒蒔町・勝手神社の将軍さんに奉られた串膳だ。
もう一つは五條市東阿田町・八幡神社の七つ御膳だ。
時代とともに祭り道具が変化した天理市上仁興町・釈尊寺で行われた七草元座講の「ダイワ」もある。
かつては「ダイワ」の下部に円形の藁束があった。
そこに挿して立てていたと話していた。
隣村の天理市苣原町・大念寺のケイチンもかつては「ダイワ」と呼ぶ祭り道具があった。
つるし柿やミカン、クリを竹の串に挿して、ケイチンのモチを供えていた「ダイワ」はおよそ60年前には作っていたと話していたことを思い出す。
次は幣作り。
長さ四尺五寸の女竹は4本揃える。
幣垂れは半紙5枚重ね。
二つを互いに宛てた10枚重ねの幣は先を割った2本の女竹に差し込む。
麻苧で3か所結んで締める。
さらにはハゼウルシの割木を12本。
これも麻苧で結んで幣に括り付ける。
半紙に包んだ洗い米(かつてはほんぐりと呼んでいた)も括りつけてできあがる。
これを2本用意する。
祭り道具はもう一つある。
杉材と紙で作る天蓋である。
長さ八寸の杉材は厚さ数センチのへぎ。
中心点に穴を開けて十文字にする。
麻苧を通して吊るようにしておく。
へぎ材端の四か所には長さ20cmほどの細長い紙を糊付けする。
これを神饌台の両横に吊るす。
神事と思われていた綱懸祭に天蓋が登場するのだ。
形は簡略的であるが、県内事例に天蓋が登場するのを初めて知った鹿路の在り方に神仏混合の名残を感じた。
矢羽根を取り付けた矢もできあがった。
合計で48本にもなる。
弓を立て掛けて丘の棚に御供を置く。
ウラジロを敷いて広げた半紙に載せた御供。
鏡餅(かつてはクリのヒシモチ)にタチバナやミカン、ホシガキがある。
夫婦大杉に注連縄を張る間も作業がある。
「さあーよい さあーよい」の掛け声で依った綱に足を付けるのだ。
三尺五寸の女竹。
両端に葉付きの樒を差し込む。
細い藁も差し込んで解けないよう女竹をぐるぐる巻きながら端に差し込む。
このような在り方も初見である。
縄は12尋。
四つ折りにして拝殿鴨居に引っかける。
三尺辺りの処に結び目。
そこより下は二本ずつに分けて垂らす。
左右に樒を挿した女竹を結ぶ。
等間隔に開けて下に3本の女竹を結んで垂らす。
下縄は七尺ほど余らすように調える。
後方にある夫婦大杉の注連縄には紙垂れを付けていた。
樒を挿した女竹の綱足は藁で括って玉垣正面の扉前に奉った。
綱足を奉った段階に結った綱を運び出した。
全長はどれぐらいの長さにしたのだろうか。
相当な長さである。
綱をぞろぞろ引くわけではなく地面に当たらないように抱えて運ぶ。
松飾りや神饌台の下を潜らせて玉垣正面の扉と屋根の間に綱の先端を差し込む。
一本の道のような姿になった綱は長い。
汚れないようにしたと思われる境内一面に広げた藁。
そこに綱を置く。
敷いた藁は相当な広さになっていた。
この場で何かが始まると感じたが何事も起こらず村人はトンドの火にあたって暖をとっていた。
10分ほど経過したころ。数人が神前に動いた。
綱を手にしてとぐろを巻くような感じで綱を巻いていく。
一方、後方に立つ人は綱を抱えている。
巻きやすいように援助しているのかと思った。
何重か巻いた綱。
そのときだ。
綱を手にした人は逆方向に引っ張ったのだ。
巻き方が違うと言って引っ張る。
とぐろ巻きは右巻き、左巻き。
正順があるのかそれとも逆順なのか判らないが「あーせー、こーせー」と囃しては綱を引っ張る。
ときにはとぐろ巻きをしていた人に綱を被せてぐるぐる巻き。
これを何度も繰り返す。
とぐろ巻きを邪魔するような感じであるが、これは遊びでなく時間稼ぎだという。
若者、年寄りが入れ替わり暴れる。
和気藹々とじゃれているようにも思える。
綱巻きは歳の差も感じさせない。
暴れれば暴れるほど喜びあう村人たち。
この日に神事を務める禰宜の花房兼輔は自ら綱に飛び込んで巻かれていた。
かつては流血もあれば骨折した人もあったぐらいに暴れたそうだ。
今ではじゃれあっているような感じ。
おとなしくなったと話す。
30分ほど暴れてようやく落ち着く。
結局、とぐろ巻きは正順、逆順どっちであったろうか判らず終いだ。
巻いた綱は体重をかけて縄締めする。
弓打ちされる斎庭に運んで二本の幣を立てる。
幣はクロスするように立てていた。
上部に「上」の文字。
蛇の眼とされる黒丸に二重線の輪を書いた的も置く。
設える場はアキの方角。
いわゆる恵方である。
この年は西南西である。
すべての祭り道具を作り終えてようやく食事を摂る村人たち。
遅い昼食に一息をつける。
(H27. 1. 4 EOS40D撮影)
場は桜井市の鹿路(ろくろ)である。
18歳になった若者の祝いは村の大人の仲間入りとして認める儀式。
それが「十八酒」行事であるが対象者はなく中断している。
そのときに伺った男性は正月四日に綱掛祭をしていると話してくれた。
現在は四日に近い日曜に移っている綱掛祭。
ウルシの弓、ススダケとも呼ぶススンボの竹で矢を作る。
弦は苧だという。
弓初めの儀式を終えて北の入口に綱掛けをする。
綱はオーコで担いで運んだ。
「綱をまくったら男になる。豊作やといって川までまくった」と話す男性は「面白半分にしていた」と話していた。
天一神社で行われる綱掛祭はどのような形式でされているのか、前々から気になってはいるものの訪れる機会を逃していた。
この年の4日は第一日曜日。
固定日の4日に行われる地域もありどちらに向かうか選択順位は悩ませるが、男性が話してくれたこともあって鹿路に決めた。
到着した時間帯は9時少し前だった。
道路は除雪されて難なく上がることができたが神社境内は積もった雪が残っていた。
拝殿内で綱結いをしている村人たちがおられた。
突然のことではあるが取材を申し出た。
昨年の8月19日に訪れた経緯を伝えれば男性は来ていないという。
男性は84歳。
若い人たちに後継を頼んで引退したそうだ。
区長こと総代のMさんの承諾を得て取材に入る。
鹿路は天一神社が鎮座する宮垣内に下垣内、上垣内の3垣内からなる。
この日は朝8時半から作業を始めたそうだ。
天一神社に本殿はなく巨樹の大杉がご神体。
美しい朱塗りの玉垣によって囲われている。
正月前に立てた松飾りには竹があるが梅は見られない。
玉垣下の階段に各戸が供えたと思われる正月御供が雪に埋もれている。
各戸より寄せられた藁束をしごいてシビと取る人に小注連縄を結う人も。
トンドの火の周りで行う分担作業はしばらく続く。
綺麗にシビを取った藁束は拝殿鴨居に引っかけて綱結いをする。
藁ニ把を持つ二人組。
「さあーよい さあーよい よいよい さあーよい よいよい」と掛け声をかけながら綱を結う。
藁把を綱に継ぎ足して「さあーよい さあーよい」の掛け声で右依り。
2回の捩りである。
そして「よいよい」と云いながら相手側に綱をお互いに交換しあう。
次に「さあーよい」と綱を捩る。
最後の「よいよい」で再び交換する。
リズミカルな結い方についつい見惚れてしまう綱組みである。
綱組みの先には細い藁縄を括っている。
掛け声かけて結った綱は長くなる都度に引っ張って弛まないようにする。
3人は呼吸を合わせて綱を伸ばしていく。
おおよその長さになった綱結いは力仕事。
何人かが交替しながら結っていた。
綱結いを始めて30分後。
作業開始から1時間半後に小休止。
注文していたオードブル料理をよばれて一服する。
休憩を挟んで再び作業が始まった。
今回の取材は祭り道具の作り方の調査もある。
できる限りその様子を詳細に記録させてもらった。
的の骨組は一尺六寸の長さにした女竹をナタで割って作る。
右側の人が作っているのは「丘の棚」と呼ばれている御供台だ。
長さ四尺の女竹の先を四つに割いて広げる。
予め作っておいた二本の藁枕を挿して固定する。
長さ七寸に切断したハゼウルシの割木は両端を縄で編んで簾のようにした。
それを藁枕に括り付けてできあがる。
左側の人は神饌台作り。
これもまた予め作っておいた円形の藁。
円の中心部には長さ40cmぐらいの藁束がある。
それを固定していたのは割竹。
円形の藁に挿して十文字。
交差する部分に長い藁束の折り曲げたところに通している。
下部は崩れないようにテープで止めていた。
その横で作業をされる人はナタで割って竹串を作っていた。
竹串は4本。
神饌御供のタチバナ(柑橘)やミカン(蜜柑)、ホシガキ(干柿)、クリヒシモチ(栗菱餅)を挿す竹串だ。
次は弓作り。
材は長さ四尺八寸のハゼウルシの木。
適当な幅ごとに材の皮を剥いでおく。
道具造りは細かい作業。
大まかな道具類が揃っていく。
この場には弓打ちの的も置いてある。
紙を充てて糊付けして乾かしていた。
右手奥に立てているのは長さ八尺の矢である。
両端に穴を開けて麻芋の縄を取り付ける弓作り。
優しい眼差しで見ておられたのは談山神社禰宜の花房兼輔さん。
昨年の10月には嘉吉祭の御食調製にてたいへんお世話になった禰宜さんである。
御供のタチバナやミカン、ホシガキ、クリヒシモチを挿した神饌台を小注連縄に取り付ける。
注連縄は長老が編んでいた。
これを左右に立つ灯籠の頭部分に括り付けていた。
水平にした注連縄に神饌台の中央にある縄の先を落ちないように注連縄の結びを緩めて通す。
神饌台の形で思いだしたのはこの月の3日に取材した宇陀市長峯・長安院で行われた修正会に奉られた「カラスのオドシ」だ。
若干の違いは見られるもののほぼ同じ形態だと思った。
このような形の祭り道具は他所でも拝見したことがある。
一つは天理市荒蒔町・勝手神社の将軍さんに奉られた串膳だ。
もう一つは五條市東阿田町・八幡神社の七つ御膳だ。
時代とともに祭り道具が変化した天理市上仁興町・釈尊寺で行われた七草元座講の「ダイワ」もある。
かつては「ダイワ」の下部に円形の藁束があった。
そこに挿して立てていたと話していた。
隣村の天理市苣原町・大念寺のケイチンもかつては「ダイワ」と呼ぶ祭り道具があった。
つるし柿やミカン、クリを竹の串に挿して、ケイチンのモチを供えていた「ダイワ」はおよそ60年前には作っていたと話していたことを思い出す。
次は幣作り。
長さ四尺五寸の女竹は4本揃える。
幣垂れは半紙5枚重ね。
二つを互いに宛てた10枚重ねの幣は先を割った2本の女竹に差し込む。
麻苧で3か所結んで締める。
さらにはハゼウルシの割木を12本。
これも麻苧で結んで幣に括り付ける。
半紙に包んだ洗い米(かつてはほんぐりと呼んでいた)も括りつけてできあがる。
これを2本用意する。
祭り道具はもう一つある。
杉材と紙で作る天蓋である。
長さ八寸の杉材は厚さ数センチのへぎ。
中心点に穴を開けて十文字にする。
麻苧を通して吊るようにしておく。
へぎ材端の四か所には長さ20cmほどの細長い紙を糊付けする。
これを神饌台の両横に吊るす。
神事と思われていた綱懸祭に天蓋が登場するのだ。
形は簡略的であるが、県内事例に天蓋が登場するのを初めて知った鹿路の在り方に神仏混合の名残を感じた。
矢羽根を取り付けた矢もできあがった。
合計で48本にもなる。
弓を立て掛けて丘の棚に御供を置く。
ウラジロを敷いて広げた半紙に載せた御供。
鏡餅(かつてはクリのヒシモチ)にタチバナやミカン、ホシガキがある。
夫婦大杉に注連縄を張る間も作業がある。
「さあーよい さあーよい」の掛け声で依った綱に足を付けるのだ。
三尺五寸の女竹。
両端に葉付きの樒を差し込む。
細い藁も差し込んで解けないよう女竹をぐるぐる巻きながら端に差し込む。
このような在り方も初見である。
縄は12尋。
四つ折りにして拝殿鴨居に引っかける。
三尺辺りの処に結び目。
そこより下は二本ずつに分けて垂らす。
左右に樒を挿した女竹を結ぶ。
等間隔に開けて下に3本の女竹を結んで垂らす。
下縄は七尺ほど余らすように調える。
後方にある夫婦大杉の注連縄には紙垂れを付けていた。
樒を挿した女竹の綱足は藁で括って玉垣正面の扉前に奉った。
綱足を奉った段階に結った綱を運び出した。
全長はどれぐらいの長さにしたのだろうか。
相当な長さである。
綱をぞろぞろ引くわけではなく地面に当たらないように抱えて運ぶ。
松飾りや神饌台の下を潜らせて玉垣正面の扉と屋根の間に綱の先端を差し込む。
一本の道のような姿になった綱は長い。
汚れないようにしたと思われる境内一面に広げた藁。
そこに綱を置く。
敷いた藁は相当な広さになっていた。
この場で何かが始まると感じたが何事も起こらず村人はトンドの火にあたって暖をとっていた。
10分ほど経過したころ。数人が神前に動いた。
綱を手にしてとぐろを巻くような感じで綱を巻いていく。
一方、後方に立つ人は綱を抱えている。
巻きやすいように援助しているのかと思った。
何重か巻いた綱。
そのときだ。
綱を手にした人は逆方向に引っ張ったのだ。
巻き方が違うと言って引っ張る。
とぐろ巻きは右巻き、左巻き。
正順があるのかそれとも逆順なのか判らないが「あーせー、こーせー」と囃しては綱を引っ張る。
ときにはとぐろ巻きをしていた人に綱を被せてぐるぐる巻き。
これを何度も繰り返す。
とぐろ巻きを邪魔するような感じであるが、これは遊びでなく時間稼ぎだという。
若者、年寄りが入れ替わり暴れる。
和気藹々とじゃれているようにも思える。
綱巻きは歳の差も感じさせない。
暴れれば暴れるほど喜びあう村人たち。
この日に神事を務める禰宜の花房兼輔は自ら綱に飛び込んで巻かれていた。
かつては流血もあれば骨折した人もあったぐらいに暴れたそうだ。
今ではじゃれあっているような感じ。
おとなしくなったと話す。
30分ほど暴れてようやく落ち着く。
結局、とぐろ巻きは正順、逆順どっちであったろうか判らず終いだ。
巻いた綱は体重をかけて縄締めする。
弓打ちされる斎庭に運んで二本の幣を立てる。
幣はクロスするように立てていた。
上部に「上」の文字。
蛇の眼とされる黒丸に二重線の輪を書いた的も置く。
設える場はアキの方角。
いわゆる恵方である。
この年は西南西である。
すべての祭り道具を作り終えてようやく食事を摂る村人たち。
遅い昼食に一息をつける。
(H27. 1. 4 EOS40D撮影)