マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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柳町仲仙寺再訪

2015年10月31日 08時59分30秒 | 大和郡山市へ
大織冠に鎮座する鎌足神社がある。

推定、神宮寺とされる仲仙寺が建つ。

仲仙寺は天台宗延暦寺末。

平成23年6月に住職の任を授かった安寿さんがおられる。

この日は安寿さんが始められた地蔵供養があると知ったのは平成25年1月2日のことだ。

正月三が日は安置されている本尊の石造地蔵菩薩立像を特別開扉されていた。

寛文年間(1661~1679)に郡山城主の本多政勝が生駒の蓮台寺にあった本尊を遷したと伝わる。

高さはおよそ170cm。

丸彫りの地蔵石仏の手には金属製の錫杖がある。

大織冠の地は地蔵山と呼ばれている小高い丘。

そこに建つお堂は地蔵堂とも呼ばれている。

大和郡山市内の城下町に柳町がある。

商店街がある処だがこの地も柳町。

城下町からは遠く離れている。

文禄検地帳に記された新開地であった地蔵山は柳町の枝村であった。

安寿さんの話しによれば行政地は南郡山町と云うが、住宅マップで確認しても柳町である。

南郡山町の飛び地でもあるのだろうか。

ネットで所在地の698番地を調べてみた。

それを示したのは柳町であった。

南郡山町ではなく柳町なのである。

この日に訪れたのは安寿さんが始められたと云う地蔵供養を拝見したかったのだ。

初めてお会いした安寿さん。

今朝の6時に法要を済ませたと云う。

安寿さんの普段は修行を勤めている本山の天台宗延暦寺におられる。

毎月の地蔵供養の日には大和郡山に戻ってこられる。

当地にこられて数年になるが、大和郡山はまだまだ知らないことが多いとい話す。

法要を済ませた地蔵堂に上がってご本尊の写真を撮っても構わないと伝えられ、ありがたく撮らせてもらった。

仲仙寺には現役の梵鐘がある。

大晦日の除夜の鐘も搗いている。

昨年、とはいっても4週間前の大晦日は強風だった。

トンドを焚いていたが火が消える勢いでとても寒かったそうだ。

梵鐘に刻印がみられる。



「和添下郡柳町村大織冠」、「・・・仲仙寺現住法・・」などが判別できた。

梵鐘の刻印が記すように「柳町」で間違いなかったのだ。

反対側の打つ方には「享保十九(1734)年甲寅年慈光院住職・・・」が見られる。

かつての仲仙寺は地蔵堂でもなく北側に建っていたそうだ。

その地蔵堂とも呼ばれる現在の仲仙寺本堂は昭和37年8月に修築された。

芳志された人たちの名が記されている。

堂内に保管されていた函がある。

それには「大織冠念仏講備品(1969.8月吉日)」と書いてあった。

昭和44年には念仏講の存在があったようだ。

備品の中には大念珠がある。

それを使って数珠繰りを本堂下の境内で数珠繰りをしていると云う。

地域の人たちが集まって金魚すくいもしている。



「大織冠念仏講」の名は境内に建つ交通安全地蔵尊にもあった。

花立ての構造物に刻まれていた。

安寿さんの話しによれば、元々は外掘にあったそうだ。

埋もれていた地蔵石仏を掘り起こして旧道に遷した。

その後において仲仙寺へと遷ったという。

交通安全地蔵尊はその時点なのか、その後であるのか判らないが、昭和38年8月の地蔵盆を記念して祠を建てたようだ。

寄進発起人に当時の念仏講の名が記されている。

仲仙寺本堂修築の翌年のことである。



よろしければと拝見した伏し鉦は大小二つ。

鉦を打ったこともないと云う。

小型の伏し鉦は直径13cmであろうか。



裏を返せば「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。

その下にあった大型の伏し鉦は直径23cmぐらい。

刻印は見られない。

どちらも撞木で鉦を打たせてもらった。

小型の伏し鉦はやや甲高い音色だが、大型鉦の音色はとても響きが良く心地いい。

付属してある紐を持って吊り下げて打てばなおさら心地いい。

安らぎを覚えるような音色である。

初めて音色を聞いたことに喜ばれた安寿さん。

今年の数珠繰りはこの鉦で打ってみようと云われた。

(H27. 1.24 EOS40D撮影)