萱森の御神入り行事の取材に向かう途中のことだ。
小夫、和田を経て下ってきた小夫バイパス線。
初瀬ダム辺りに着く。
バス停留所から山側に行けば萱森であるが、その手前に社がある。
天落神六社権現の宮である。
落神の宮は山に三社、大和川(初瀬川)に三社。
その内の一つはかつて初瀬川にあったが、初瀬ダムの建設(昭和62年竣工)に伴って水没した。
巨大な屏風岩だったそうだ。
その磐には宝篋印塔や梵字が線刻されており、上部に祭神の祠があったようだ。
県道を挟んだもう一つは岩盤に線刻された宝篋印塔があった。
いずれも初瀬ダムに水没してしまうということで石材を運び当地に遷したと昭和63年に設置した石碑に記されている。
その場を通過しようとした際である。
神職が振った祓いが見えたのである。
どうやら神事のようであるが御神入り行事を優先しなければならない。
見送っていかざるを得なかった。
萱森の住民らの話ではその行事は存知していないようだ。
取材を終えて下りてきた天落神(あまのおちがみ)六社権現の宮。
大きな岩に注連縄が張られている。
由緒書きされた線刻の宝篋印塔が見られる岩に奉っている注連縄である。
人影はなく尋ねることもできないが石碑の由緒書きには旧暦一月十一日に輪番の六社権現講が綱掛けをするとある。
真新しい注連縄はその行事であろうか。
同日の旧暦正月十一日に行われている行事に長谷寺境内の三社権現の綱懸けがある。
中央の滝蔵権現社は中之郷(南之郷とも)の大字吉隠・角柄・柳である。
西の新宮権現社が下之郷の大字下の森・出雲・柳原で、大字の萱森は中谷とともに祀る東の石蔵権現社だ。
石蔵権現の権現當屋は萱森の宮垣内、中垣内、下垣内と大字中谷で順次交替して勤める。
平成25年は急遽変更されて大字中谷が勤めた2月20日であった。
予定していた順番を替えての當屋である。
天落神の六社権現講はいずこの大字が勤めているのか判らないが、先ほど取材した萱森住民の名が石碑に寄せられている。
数人の名は存知する萱森の人たちであるが萱森の天落神はそこではなくバス停前の石組みされた墳丘だそうだ。
『萱森風土記』によれば長谷寺の三社権現と天落神の六社権現の創始は天平年間・長谷寺開創の徳道上人の発願によるとある。
三社権現の由来も含めて話された御供のモチ。
旧暦一月十一日の前日は輪番にあたった大字・垣内は頭屋(當屋とも)家でモチを搗く。
6升のウルチ米で搗くモチは8枚の鏡餅と蟹餅と太刀餅だそうだ。
三社権現に供えるモチは二種類。
ガニノモチが訛ったカメモチとナタノモチである。
それぞれのモチの形から命名された呼称であろう。
他に三段のコモチもあるようだ。
祭典当日の午前中は注連縄作り。
神殿に掲げる大注連縄、落神磐座に掛ける中注連縄の他小注連縄もある。
それらは山之神、頭屋家の荒神と天落神六社権現社である。
拝見した宝篋印塔が線刻された磐座の注連縄はそれであると思われるのだ。
三社権現に参る際には長谷寺内のホウジョウサン(方丈講堂であろうか)に向かう。
そこにはセンジョウジキ(千塁の間であろうか)の掛軸もあるらしい。
「三社権現のがっちよんという寺」に行くそうだが「がっちよん」と呼ぶ名は一体何であろうか。
萱森においても旧暦閏年に行われる庚申さんがあると云う。
「タナアゲ」とか「トアゲ」と呼んでいる行事は四つの垣内ごとで行われる。
行事の日は初庚申の日。
その年によって大幅に日付けが替る。
下垣内では初庚申日直前の土曜日にしていると話す旧暦閏年の庚申さん。
『萱森風土記』によれば4年ごとだと書かれてあるが実際は4年、3年或いは2年跨りの場合もある旧暦であろう。
庚申さんは「庚申講塔揚」とあることから隣村の芹井や瀧倉滝蔵、小夫嵩方と同じ呼び名の「トアゲ」である。
桜井市の山間は10ケ大字からなる上之郷村だ。
かつては式上郡であった大字で桜井が萱森、中谷、白木、芹井、小夫嵩方、三谷、小夫、滝倉、笠、和田で、山辺郡大字は修理枝である。
数年前から調査している旧暦閏年の庚申トアゲは滝倉、白木、芹井、小夫嵩方、和田、修理枝、小夫、和田の現況を調べてきた。
聞き取りによって萱森も加えることにした。
『萱森風土記』によれば御供の鏡餅を供える御供台があると記されている。
七色の菓子に七色の花を添える花立てもある。
いずれも竹製である。
庚申塔婆は杉の木に「五文字の梵字に為南無青面金剛五穀豊穣講中家内安全祈攸」と墨書するらしい。
かつては宿(当番の家)に奉っていたが現在は庚申堂のようだ。
10月は秋祭りだ。
かつての祭りには供える御供に山盛りがあった。
サトイモ、コンニャク、ダイコン、イタ(カマボコ)、チクワ、ニマメを山盛りに積んでその上に生カマスの切り身も乗せたそうだ。
祭りを終えれば瀧蔵に参る。
あくる日には三社権現にモチを供えるともいう。
9月16日に行われる掘切神縄懸は「お庭造り」とも称する。
山の中にある神社(白土山中腹の龍ケ谷神社であろう)で谷道を跨げるように綱を掛ける。
かつて疫病が流行った。
それから今でもしているカンジョウ掛けだそうだ。
(H25. 3. 1 EOS40D撮影)
小夫、和田を経て下ってきた小夫バイパス線。
初瀬ダム辺りに着く。
バス停留所から山側に行けば萱森であるが、その手前に社がある。
天落神六社権現の宮である。
落神の宮は山に三社、大和川(初瀬川)に三社。
その内の一つはかつて初瀬川にあったが、初瀬ダムの建設(昭和62年竣工)に伴って水没した。
巨大な屏風岩だったそうだ。
その磐には宝篋印塔や梵字が線刻されており、上部に祭神の祠があったようだ。
県道を挟んだもう一つは岩盤に線刻された宝篋印塔があった。
いずれも初瀬ダムに水没してしまうということで石材を運び当地に遷したと昭和63年に設置した石碑に記されている。
その場を通過しようとした際である。
神職が振った祓いが見えたのである。
どうやら神事のようであるが御神入り行事を優先しなければならない。
見送っていかざるを得なかった。
萱森の住民らの話ではその行事は存知していないようだ。
取材を終えて下りてきた天落神(あまのおちがみ)六社権現の宮。
大きな岩に注連縄が張られている。
由緒書きされた線刻の宝篋印塔が見られる岩に奉っている注連縄である。
人影はなく尋ねることもできないが石碑の由緒書きには旧暦一月十一日に輪番の六社権現講が綱掛けをするとある。
真新しい注連縄はその行事であろうか。
同日の旧暦正月十一日に行われている行事に長谷寺境内の三社権現の綱懸けがある。
中央の滝蔵権現社は中之郷(南之郷とも)の大字吉隠・角柄・柳である。
西の新宮権現社が下之郷の大字下の森・出雲・柳原で、大字の萱森は中谷とともに祀る東の石蔵権現社だ。
石蔵権現の権現當屋は萱森の宮垣内、中垣内、下垣内と大字中谷で順次交替して勤める。
平成25年は急遽変更されて大字中谷が勤めた2月20日であった。
予定していた順番を替えての當屋である。
天落神の六社権現講はいずこの大字が勤めているのか判らないが、先ほど取材した萱森住民の名が石碑に寄せられている。
数人の名は存知する萱森の人たちであるが萱森の天落神はそこではなくバス停前の石組みされた墳丘だそうだ。
『萱森風土記』によれば長谷寺の三社権現と天落神の六社権現の創始は天平年間・長谷寺開創の徳道上人の発願によるとある。
三社権現の由来も含めて話された御供のモチ。
旧暦一月十一日の前日は輪番にあたった大字・垣内は頭屋(當屋とも)家でモチを搗く。
6升のウルチ米で搗くモチは8枚の鏡餅と蟹餅と太刀餅だそうだ。
三社権現に供えるモチは二種類。
ガニノモチが訛ったカメモチとナタノモチである。
それぞれのモチの形から命名された呼称であろう。
他に三段のコモチもあるようだ。
祭典当日の午前中は注連縄作り。
神殿に掲げる大注連縄、落神磐座に掛ける中注連縄の他小注連縄もある。
それらは山之神、頭屋家の荒神と天落神六社権現社である。
拝見した宝篋印塔が線刻された磐座の注連縄はそれであると思われるのだ。
三社権現に参る際には長谷寺内のホウジョウサン(方丈講堂であろうか)に向かう。
そこにはセンジョウジキ(千塁の間であろうか)の掛軸もあるらしい。
「三社権現のがっちよんという寺」に行くそうだが「がっちよん」と呼ぶ名は一体何であろうか。
萱森においても旧暦閏年に行われる庚申さんがあると云う。
「タナアゲ」とか「トアゲ」と呼んでいる行事は四つの垣内ごとで行われる。
行事の日は初庚申の日。
その年によって大幅に日付けが替る。
下垣内では初庚申日直前の土曜日にしていると話す旧暦閏年の庚申さん。
『萱森風土記』によれば4年ごとだと書かれてあるが実際は4年、3年或いは2年跨りの場合もある旧暦であろう。
庚申さんは「庚申講塔揚」とあることから隣村の芹井や瀧倉滝蔵、小夫嵩方と同じ呼び名の「トアゲ」である。
桜井市の山間は10ケ大字からなる上之郷村だ。
かつては式上郡であった大字で桜井が萱森、中谷、白木、芹井、小夫嵩方、三谷、小夫、滝倉、笠、和田で、山辺郡大字は修理枝である。
数年前から調査している旧暦閏年の庚申トアゲは滝倉、白木、芹井、小夫嵩方、和田、修理枝、小夫、和田の現況を調べてきた。
聞き取りによって萱森も加えることにした。
『萱森風土記』によれば御供の鏡餅を供える御供台があると記されている。
七色の菓子に七色の花を添える花立てもある。
いずれも竹製である。
庚申塔婆は杉の木に「五文字の梵字に為南無青面金剛五穀豊穣講中家内安全祈攸」と墨書するらしい。
かつては宿(当番の家)に奉っていたが現在は庚申堂のようだ。
10月は秋祭りだ。
かつての祭りには供える御供に山盛りがあった。
サトイモ、コンニャク、ダイコン、イタ(カマボコ)、チクワ、ニマメを山盛りに積んでその上に生カマスの切り身も乗せたそうだ。
祭りを終えれば瀧蔵に参る。
あくる日には三社権現にモチを供えるともいう。
9月16日に行われる掘切神縄懸は「お庭造り」とも称する。
山の中にある神社(白土山中腹の龍ケ谷神社であろう)で谷道を跨げるように綱を掛ける。
かつて疫病が流行った。
それから今でもしているカンジョウ掛けだそうだ。
(H25. 3. 1 EOS40D撮影)