奈良市の今市、山町を抜けて車を走らせる。
目的地はさらに東へ行った奈良市古市町である。
目的地は未だ探したことのない北の地蔵さん。
この地で地蔵盆をしているとわかったのは町内掲示板に案内する掲示物があったからだ。
物は試しと思って探索のつもりで北の地蔵さんを探してみたい。
そう、思ってやってきた。
古市町集落の南の端に念佛寺がある。
以前、同寺で地蔵盆をしているらしいと他村の人から聞いたことがある。
手がかりでもあれば、と思って立ち寄った前年の平成28年7月18日。
お寺の掲示板に貼ってあった2枚の行事案内に飛びついた。
一つは今年、求めて探した北の地蔵さんの地蔵盆。
もう一枚は念佛寺の「くつはき地蔵尊」の地蔵祭りである。
平成28年9月5日の取材で知った明日香村・飛鳥の弥勒さんの祭り場の小屋内部にある「くつぬぎ石」に対するわけではないが「くつはき地蔵尊」の二つが揃えば靴を履いて、脱ぐ状態が成立する。
両者とも草鞋を奉納しているのも、同じ足に関する願掛けであるが、この日の祭りではなかったようだ。
あれば、写経に紙絵馬。
くつはぎ地蔵の恩謝回向に祈祷や戦没者法要、法話、写経奉納・祈願などがある。
後日にわかったことだが、この年は7月20日に行われたようだ。
「くつはき地蔵尊」の地蔵祭は外したが、地蔵講の営みはどこでしているのだろうか。
念佛寺は南の端。
集落を抜ける旧街道を北上する。
一部は一方通行になっている旧街道へ行くには遠回りせざるを得ない。
北の端から入ってしばらく行けば、貼ってあった掲示物に目がいった。
前年に見た掲示物と同じであるが、色塗りが増えていた。
だが、地蔵盆の時間帯は書いていない。
結局は集落の尤も北部にあった北の地蔵さん。
地蔵堂は平成8年7月23日に落成したと記している。
寄進した講中は地蔵講。
昔も今も変わらず9軒の講中が寄進したと堂内に板書はあるが、どなたも現れない。
訪れた時間帯は午後5時20分。
付近には一般的な長机もあるしパイプ椅子もある。
しばらく待っていたが、どなたも来られない。
真新しい赤と白の涎掛けに替えたと思われる地蔵石仏の前にはお供えがどっさりある。
なかでも気になったのは白い団子。
個数は何個であろうか。
その横にある御膳は朱塗りの膳に朱塗りの椀だ。
中央の椀はぶどうにトマト。
白飯は見た目でわかるが、他は蓋が半開き。
手前右の椀は赤いニンジンがあるから野菜などの煮しめであろう。
その左横の椀はキュウリに麺が見える。
汁けがあるからニュウメンであろう。
左奥の椀にも麺が見える。
小さなカマボコにワカメを盛った汁椀であろう。
これまで各地の膳を拝見したことがあるが、はじめて見る様式だけに供えられた人に伺ってみたいが、おそらく返ってくる言葉はそのときの気分でそうしています、と云われそうだ。
何時来られるやもしれない講中を待っていても仕方がない。
この調子であれば、始まる時間は午後7時と判断して、近くのスーパーに出かけて我が家の買物を済ませていた。
戻ってきた時間帯は午後6時50分。
長机に座って歓談されていた十数人の人たちが居る。
雰囲気的には始まりの体制ではなく、終わってゆったりの落ち着いた状態である。
パック詰め料理を肴に缶ビール中であった。
自己紹介に取材の申し出をすれば、ついさきほどの午後6時半は法螺貝を吹いて心経を唱えていたという。
北の地蔵講の参拝は終えたばかりで、これより参拝に来られる村の人たちを待っているという。
その間に撮らせてもらった北の地蔵さんのお供えはさきほど拝見したときよりも増えていた。
参拝者が来られたのは午後7時。
講中の孫さんたちを連れ添ってやってきた。
子どもたちは揃って浴衣姿にパジャマ姿。
幼子がこれほど多いとは、想定していなかっただけに感動ものである。
他村と比較すれば少ない方になるが、以前に取材した千軒講の営みのセンゲンサン参りもほぼ同数ぐらい。
講中のお爺ちゃん方が孫を連れてくる。
古川町の講の特徴のような気がした。
手を合わせることはなかったが、小っちゃな幼子も地蔵さんにお参りする。
後ろの母親たちに見守られて始まったお地蔵さんの参拝。
鉦に吊るした名前入りの鈴緒が風に揺れる。
戯れる幼子の動きが可愛らしくシャッターを押させてもらった。
この日が特別なのかわからないが先導は幼子の参拝であった。
それがはじまりの合図かもしれない北の地蔵講の佇まいはこの時間帯が、実質の始まり時間。
次から次へと訪れる村の参拝者は順番待ちの参拝。
それぞれは地蔵堂に祀っている地蔵さんに手を合わせていた。
それほど多くなると認識していたのは、予め供えていた御供の数である。
お供えをしている人は必ずや子供たちを連れてくると想定していた。
参拝を終えた子どもたちに手渡すお菓子。
幼子にとっては一番の幸せではないだろうか。
ゲームに熱中する子は独りもいない。
風情に佇まい情景は想定以上である。
私の粗相で講中の参拝タイミングを逃したが、ここへ寄せてもらってよかったと思っている。
数分も経たないうちに夕闇が迫ってくる。
子どもの参拝が終われば一段落する。
賑やかさもどこかに行ってしまったかのような・・・静けさも佇まい。
少し間をあけて、一人、二人と参拝される人はたいがいが婦人だった。
その間の講中は会食に歓談で和気あいあい。
講中の仲の良さがよくわかる。
子どもたちの参拝を終えてからの30分後。
時間帯は午後7時半になっていた。
小規模な夕焼けであるが、マジックアワーに心が躍る。
スマホでも撮れますよ、と、声をかけた女性は喜んでくれた。
昔は当番の家で会食をしていたという。
自前の食事にお寿司とか弁当も持ってきていたが、手間のかかる当番家の負担をなくして場所を地蔵尊の前に移した。
心地いい場で歓談は、御供した人が御供下げに来るまで会食しているという。
御供は講中以外の村の人も持ち寄るそうだ。
御供下げの時間は午後9時くらい。
たばりに来る人の時間も考慮して、設営の後片付けは翌朝になると話していた。
ちなみに9月1日は春日山に登って「こうぜんさん」参りをするという。
「こうぜんさん」は「鳴雷神社」のことらしい。
山歩きにヤマビルが出没するから足まわりは万全の体制にしておく必要がある。
また、参る先は春日山の禁足地。
普段はだれも侵入できない地を普段着で参る。
午前10時に集合する人たちの中には地蔵講の人たちも居るが、古川町の水利組合員が総勢になるのでバスに乗って出かける参拝。
春日山に行く道は有料通行の「奈良奥山ドライブウエイ」の利用。
その日の参拝に取材をお願いしたら了解してくださったが、バスには乗ることはできない。
なぜなら参拝後の組合員は一席を設けるので、バスの後ろに付いていく条件である。
(H28. 7.18 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 EOS40D撮影)
目的地はさらに東へ行った奈良市古市町である。
目的地は未だ探したことのない北の地蔵さん。
この地で地蔵盆をしているとわかったのは町内掲示板に案内する掲示物があったからだ。
物は試しと思って探索のつもりで北の地蔵さんを探してみたい。
そう、思ってやってきた。
古市町集落の南の端に念佛寺がある。
以前、同寺で地蔵盆をしているらしいと他村の人から聞いたことがある。
手がかりでもあれば、と思って立ち寄った前年の平成28年7月18日。
お寺の掲示板に貼ってあった2枚の行事案内に飛びついた。
一つは今年、求めて探した北の地蔵さんの地蔵盆。
もう一枚は念佛寺の「くつはき地蔵尊」の地蔵祭りである。
平成28年9月5日の取材で知った明日香村・飛鳥の弥勒さんの祭り場の小屋内部にある「くつぬぎ石」に対するわけではないが「くつはき地蔵尊」の二つが揃えば靴を履いて、脱ぐ状態が成立する。
両者とも草鞋を奉納しているのも、同じ足に関する願掛けであるが、この日の祭りではなかったようだ。
あれば、写経に紙絵馬。
くつはぎ地蔵の恩謝回向に祈祷や戦没者法要、法話、写経奉納・祈願などがある。
後日にわかったことだが、この年は7月20日に行われたようだ。
「くつはき地蔵尊」の地蔵祭は外したが、地蔵講の営みはどこでしているのだろうか。
念佛寺は南の端。
集落を抜ける旧街道を北上する。
一部は一方通行になっている旧街道へ行くには遠回りせざるを得ない。
北の端から入ってしばらく行けば、貼ってあった掲示物に目がいった。
前年に見た掲示物と同じであるが、色塗りが増えていた。
だが、地蔵盆の時間帯は書いていない。
結局は集落の尤も北部にあった北の地蔵さん。
地蔵堂は平成8年7月23日に落成したと記している。
寄進した講中は地蔵講。
昔も今も変わらず9軒の講中が寄進したと堂内に板書はあるが、どなたも現れない。
訪れた時間帯は午後5時20分。
付近には一般的な長机もあるしパイプ椅子もある。
しばらく待っていたが、どなたも来られない。
真新しい赤と白の涎掛けに替えたと思われる地蔵石仏の前にはお供えがどっさりある。
なかでも気になったのは白い団子。
個数は何個であろうか。
その横にある御膳は朱塗りの膳に朱塗りの椀だ。
中央の椀はぶどうにトマト。
白飯は見た目でわかるが、他は蓋が半開き。
手前右の椀は赤いニンジンがあるから野菜などの煮しめであろう。
その左横の椀はキュウリに麺が見える。
汁けがあるからニュウメンであろう。
左奥の椀にも麺が見える。
小さなカマボコにワカメを盛った汁椀であろう。
これまで各地の膳を拝見したことがあるが、はじめて見る様式だけに供えられた人に伺ってみたいが、おそらく返ってくる言葉はそのときの気分でそうしています、と云われそうだ。
何時来られるやもしれない講中を待っていても仕方がない。
この調子であれば、始まる時間は午後7時と判断して、近くのスーパーに出かけて我が家の買物を済ませていた。
戻ってきた時間帯は午後6時50分。
長机に座って歓談されていた十数人の人たちが居る。
雰囲気的には始まりの体制ではなく、終わってゆったりの落ち着いた状態である。
パック詰め料理を肴に缶ビール中であった。
自己紹介に取材の申し出をすれば、ついさきほどの午後6時半は法螺貝を吹いて心経を唱えていたという。
北の地蔵講の参拝は終えたばかりで、これより参拝に来られる村の人たちを待っているという。
その間に撮らせてもらった北の地蔵さんのお供えはさきほど拝見したときよりも増えていた。
参拝者が来られたのは午後7時。
講中の孫さんたちを連れ添ってやってきた。
子どもたちは揃って浴衣姿にパジャマ姿。
幼子がこれほど多いとは、想定していなかっただけに感動ものである。
他村と比較すれば少ない方になるが、以前に取材した千軒講の営みのセンゲンサン参りもほぼ同数ぐらい。
講中のお爺ちゃん方が孫を連れてくる。
古川町の講の特徴のような気がした。
手を合わせることはなかったが、小っちゃな幼子も地蔵さんにお参りする。
後ろの母親たちに見守られて始まったお地蔵さんの参拝。
鉦に吊るした名前入りの鈴緒が風に揺れる。
戯れる幼子の動きが可愛らしくシャッターを押させてもらった。
この日が特別なのかわからないが先導は幼子の参拝であった。
それがはじまりの合図かもしれない北の地蔵講の佇まいはこの時間帯が、実質の始まり時間。
次から次へと訪れる村の参拝者は順番待ちの参拝。
それぞれは地蔵堂に祀っている地蔵さんに手を合わせていた。
それほど多くなると認識していたのは、予め供えていた御供の数である。
お供えをしている人は必ずや子供たちを連れてくると想定していた。
参拝を終えた子どもたちに手渡すお菓子。
幼子にとっては一番の幸せではないだろうか。
ゲームに熱中する子は独りもいない。
風情に佇まい情景は想定以上である。
私の粗相で講中の参拝タイミングを逃したが、ここへ寄せてもらってよかったと思っている。
数分も経たないうちに夕闇が迫ってくる。
子どもの参拝が終われば一段落する。
賑やかさもどこかに行ってしまったかのような・・・静けさも佇まい。
少し間をあけて、一人、二人と参拝される人はたいがいが婦人だった。
その間の講中は会食に歓談で和気あいあい。
講中の仲の良さがよくわかる。
子どもたちの参拝を終えてからの30分後。
時間帯は午後7時半になっていた。
小規模な夕焼けであるが、マジックアワーに心が躍る。
スマホでも撮れますよ、と、声をかけた女性は喜んでくれた。
昔は当番の家で会食をしていたという。
自前の食事にお寿司とか弁当も持ってきていたが、手間のかかる当番家の負担をなくして場所を地蔵尊の前に移した。
心地いい場で歓談は、御供した人が御供下げに来るまで会食しているという。
御供は講中以外の村の人も持ち寄るそうだ。
御供下げの時間は午後9時くらい。
たばりに来る人の時間も考慮して、設営の後片付けは翌朝になると話していた。
ちなみに9月1日は春日山に登って「こうぜんさん」参りをするという。
「こうぜんさん」は「鳴雷神社」のことらしい。
山歩きにヤマビルが出没するから足まわりは万全の体制にしておく必要がある。
また、参る先は春日山の禁足地。
普段はだれも侵入できない地を普段着で参る。
午前10時に集合する人たちの中には地蔵講の人たちも居るが、古川町の水利組合員が総勢になるのでバスに乗って出かける参拝。
春日山に行く道は有料通行の「奈良奥山ドライブウエイ」の利用。
その日の参拝に取材をお願いしたら了解してくださったが、バスには乗ることはできない。
なぜなら参拝後の組合員は一席を設けるので、バスの後ろに付いていく条件である。
(H28. 7.18 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 EOS40D撮影)