マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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切幡神明神社神還り

2009年12月22日 08時56分02秒 | 山添村へ
神無月のとき、切幡の神明(しんめい)神社の神さんは出雲の国から還ってきた。

村神主は神饌を供えた拝殿に登り祝詞を詠みあげる。

静寂のなか、厳かに神さんを迎える儀式である。

それを終えると紙垂を抱えて走っていった。

鳥居向こうの橋の袂で訪れる参拝者を迎えるために闇夜の中に一人立ちつくす。

喪があける服忌者もお参りしたいと願われて始まったという迎えの祓えだ。

神還りは二日間営まれ、いずれも参籠所でその夜にお籠もりをする。

昭和10年ころのお籠もりは村中の人が集まったそうで50人もいた。

家から布団を持ってきて泊まったという。

戦時の出征で男性が少なくなり、戦後のいっときに籠もりの人数も若干戻った。

引き出し付きのお重に料理を入れて持ってきた。

子供のころに見た賑わいは今でも覚えていると述懐される。

現在はわずか十人ぐらいになった。

参拝を終えてお下がりのアカメシをいただく。

お米に餅米少々入れて炊いたアカメシはゴマを振りかけている。

御神酒を口にしてアカメシをいただく。

手で受けて口にするのが作法とされる。



切幡では村神主が二人いる。

上出と下出から一人ずつ選ばれた一年神主。

昨夜は上出で今夜は下出と交替して神還り神事を行っている。

かつて上の宮と下の宮の二つの神社があった。

それを明治42年に併合されたのが神明神社。

二人の神主が営む二日間の神事が存在するのは、二つの神社があったことの証しだろうと仰る。

神主は11月23日から一年間勤めて奉仕している。

上出は28軒、下出が14軒。

14年にいっぺん回ってくんやと下出の方が仰った。

(H21.12. 1 Kiss Digtal N撮影)

小倉倉立

2009年12月21日 07時40分48秒 | 民俗あれこれ(護符編)
西名阪国道の小倉インターを出た直後の分岐点に「小倉倉立」の碑が立てられている。

傍らには風雨に耐えた神野寺のお札があった。

なんらかの祭事が行われている証拠だ。

当地はよく通過する道だけにお札の状況で実施時期が判断できるかもしれない。

形的には田の虫送りの祈祷札と思える。

そうであれば小倉と上深川地域の境界にあたるのではないだろうか。

(H21.12. 1 SB912SH撮影)

最終デー

2009年12月20日 07時01分15秒 | メモしとこっ!
一ヶ月開催されてきた県立民俗博物館の「大和郡山の祭りと行事(2)」。

今日が最後のラストデー。

駐車場に到着すると自然観察会のK先生が旗を持って出迎えてくれた。

それは違って大阪自然観察の会だった。

立ち話を済ませて館内へ。

今回も数回に亘り博物館に立ち寄った。

ほとんどが来館もなく暇をもてあましていた。

ラストでーもそうであろうかと思いきや、男性が展示写真に目を落としていた。

お話を伺えば、毎月開催されている観光ボランティアガイドクラブ主催の再発見ウオークの参加者だった。

仕事オンリーだったビジネスマン時代の卒業後は地元の学習に励んでおられる。

市広報誌「つながり」も拝見して小泉神社の田植え祭を見に行った。

そして、今年は当展示会に足を運ばれたという。

その後、二人の男性が来られた。その方は展示物をひとつひとつじっくりと拝観されていた。

なんでも館外にいたら写真家が解説をしていますと放送が聞こえたという。

慌てて来館し拝見しているという。

興味を惹かれた行事を解説しましょうかと尋ねるとすべてだと仰る。

これだけのものを記録されたとは驚きであり感動したという。

館外に数人がいるので声をかけて呼び込みたいと言った。

もうお一人は発志院町から来られた女性。

「つながり」の記事は毎回楽しみにしていると仰る。

今月号の簾注連縄も興味をもって読んだそうだ。

私の住んでいる地域もあるのです、当番の年に作ったことがありますという。

しかも砂の道を敷くと言われた。

是非とも取材させてくださいとお願いをしたのは言うまでもない。

(H21.11.29 記)
(H21.10.30 SB912SH撮影)

カーナビはいるのかいらないのか

2009年12月19日 07時22分24秒 | もっと遠くへ
小牧にかーさんの友人夫婦が住んでいる。

もう一組の家族と家族ぐるみでおつき合いしていた。

子供が小学生だったときは一緒に琵琶湖や南紀旅行に出かけて楽しんでいた。

小牧の家にも訪問して近くの河原で遊んだこともあった。

それは随分と前だった。

それからうん十年も経った。

定年後、ご主人は病に倒れた。

永いベッド暮らしの生活になりかけたが奇跡的に立ち上がった。

春にはかーさんが数ヶ月間のリハビリを経て元気な姿になったご主人に会った。

早期定年で辞めたあとの私の活動をご主人はうらやましく思っていたと奥さんから病気になる前から聞いていた。

その奥さんは知人二人と平成19年4月16日に大和郡山へやってきた。

あれから2年半も経っていたか。時の流れはあっという間に過ぎゆく。

それはともかく小牧に出かける迷ナビ話にしよう。

大阪から電車を乗り継いでやってきた友人をJR大和小泉駅で迎える。

ここからは西名阪国道を東に向けてまっしぐら。

途中、四日市でかーさんの会社時代の友人を乗せる。

ここで道に迷ってしまった。

前日までに用意したのは四日市と小牧の地図だ。

マップファンで調べてプリントしておいた。

四日市も小牧もうん十年ぶり。

記憶にある景観と異なる。

最初に目指すのは近鉄湯の山線のさくら駅。

西名阪道から東名阪道へ。

亀山ICへは割合早く着いた。

待ち合わせ時間まで相当あるのでここからは国道1号線に切り替えた。

亀山バイパスから1号線へ。

市街地は信号が多くて時間だけが費やされる。

この辺りから向かう方向が怪しくなってきた。

関西ロードマップを見ながら三滝川沿いの477号線で西に向かう。

四日市ICを越した1km先がさくら駅。の、はずだった。

目印マークが見あたらない。ここはどこ?。

菰野って、行き過ぎているやないかとUターン。

印はファミマだった。

40分もロスタイムしたが知人を乗せて一路小牧へ。

向かう先は小牧だがそれを示す標識はない。

ロードマップは全体感がつかめる。

途中の高速道は度外視して東名阪道を一直線。

ややこしいのは名古屋ICに楠IC。

楠ICは特にややこしい。

ここから北に向かうには高速11号小牧線有料道路。

村中交差点に行くには小牧北で降りなければならない。

ここを右折だと思って行ったら1本早かった。が、北へ抜け道行けば小牧原に合流する。

国道155線を走るのだが用意した地図がない。

自宅に忘れてしまった。

所在が判らない。

プリントの記憶に頼りながら東へ走る。

たしかジャンクション近くを左折してすぐだった。

それを1本早くしてしまった。

小牧JCと思って曲がったのはニュータウンに入る道で、桃花台に入り込んでしまった。

あっちかな、こっちかな。

停めてお店の人に聞く。

それならあっちやと。とは言っても知人宅がまるっきし判らない。

携帯コールして診療所の前にいてると伝えればそこまで迎えに行くという。

えー勘してますがロスタイムは20分にもなった。

こんだけ迷ったら道は覚えているし、帰りは余裕だろうと思っていたら、それはとんでもなかった。

久しぶりに会ったものだから会話が弾んで日暮れ時になっていた。

あっち行って、こっち行って、小牧ICはこの方向やろ、国道に出たら1本道やし大丈夫やと手を振って別れた。

その国道が見あたらない。

とにもかくもニュータウンから脱出せねば。

日は落ちて辺りは街灯と信号の灯りが輝く。

山も見えないので山立てができない。

国道に入ったと思えばどうも元に戻っているような気がしてぐるりと旋回Uターン。

丁度ガソリン屋さんが見つかったので燃料の補給。

さぁ、道はこっちだと走っていくが、どうも町灯りの風景が違う。

走れば走るほど家がなくなっていく。

米屋さんの店灯りが目に入った。

小牧ICへ行くのはどの道を行けばいいのでしょうかと尋ねれば、あっちの信号を右折してどん突きの国道に出たらそこで聞いてという。

あまりにも遠いからそれしか判らんと仰る。

とにかく行くかと指示された道を走る。

街道は町灯りがあるもののいったいここはどこなのだろうか。

方角が判らないと、不安が高まるだけだ。

今度はコンビニに入って尋ねた。

明確な地図を書いてくださった。

ロッテリアの小牧原だ。これで間違いなし。

一挙に行き道へたどり着いた。

そこからは小牧北入り口まで1km。信号を左折して入った。

ここからは「東名阪道」を書いてある標識に沿って走らせた。

帰りは2時間強。

今日はカーナビが必須だった。が、買うつもりはない。

なぜかって?遠出は滅多になく、奈良県内なら夜間でも方角が判るので必要を感じないからさ。

ちなみにETCもないので高速割引の恩恵を受けることもなかった。

中日本高速の四日市→名古屋西は800円。

中日本高速の大治本線は400円。

名古屋高速の大山川は350円の往路計は1550円。

帰りは同じく名古屋高速の小牧北も350円。

中日本高速の楠JCT第二が400円。

中日本高速の名古屋西→亀山が1250円で復路計は2000円。

往復合計は3550円だった。

(H21.11.28 記)

快気といえるかどうか

2009年12月19日 07時10分09秒 | むびょうそくさい
二ヶ月経過後の診療に行った。

変化はみられない。

これからも同じ状況であろう。

数ヶ月間の便薬でいいだろう。

万が一状況が変わって血でも滲むようなことがあれば病院にいらっしゃいということだ。

快気といえるかどうか判らないが、次回診療日の予定はなくなった。

(H21.11.18 記)

藺生上垣内のフリアゲ

2009年12月18日 08時01分56秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
藺生町の上垣内では村神主になる葛神社の社守さんを決めるフリアゲが行われている。

中、並松(なんまつ)の垣内にも村神主が決められるがフリアゲはされていない。

茶碗に籤を入れて穴の開いた紙を被せる。

これを手に持って振り上げると中からひゅんと飛び出してくる。

それが当たり籤になる。

総代の家に集まった座衆たちは御幣を祀った神さんの前に整然と並ぶ。

代表者が神さんの前に座り、フリアゲ儀式が始まった。

一同は神さんに拝礼する。今からさしてもらいますと茶碗を上下に振った。

すぐに飛び出すこともあれば、何度も振らなければならないこともある。

神の託宣のフリアゲは厳かな儀式だ。



村神主が決まったあとは、一老、二老の籤を振り上げる。

社守に不幸が生じたときは一老が代わって御幣を預かるという。

厳粛な儀式を終えると、座中記録に墨書して神社へお参りする。

社守が正式に認められるのは三月の初午祭典。

都祁の宮司が来られて社守が祝詞をあげて神さんに奉告する。

これが一年交替の社守さんの初仕事になる。

(H21.11.23 Kiss Digtal N撮影)

ホカケ調査で

2009年12月17日 07時47分08秒 | 民俗あれこれ(干す編)
ホカケ調査で訪れた御杖村。

数年前の秋祭りに寄せてもらったとき、畑の垣根にあった不思議な物。

編んだ藁を曲げて輪っかに似たようなものがあった。

そのころはまったく気にしていなかった。

後年にそれはホカケと呼ぶものであったと判った。

今でもそれをされているのか確認したくて足を伸ばした。

御杖神社の傍だったことは鮮明に覚えている。

垣根は現存していたが見あたらない。

畑におられたご婦人に尋ねたら、そんなんしてなかったでという。

これやろと見せてくれたのは二股に藁を通したものでハサガケ(稲架掛け)。

これは私の記憶にあるものと違う。

通りがけの人がほしいと言われるのでこうして干しているそうだ。

ご婦人は干しイモを作ってんやけど見てくれると案内してくれた。



美味そうな色に染まったイモの天日干し。

お天とうさんのエネルギーがイモを自然の甘さにしてくれる。

食べてみいよと言われて一口よばれた干しイモ。

美味すぎる。

天日干しは他にもあるんやと見せてくれたのはゼンマイ、シイタケ、ナンテン(万病に効くらしい)、コンニャクイモだ。



畑の野菜を持って帰らんけと要請されて引っこ抜いたのがダイコン、ハクサイ、ニンジン、ネギなど。

息子らは出て行って、ばあちゃんはいつも一人やし、作っても食べ切れんからもっと採ってくれたらえーのにといわれるが、袋が。

袋もあるよ、持ってけと大きなものを用意してくださった。

今日は話し相手になってくれたから嬉しくて仕方ないのだと笑うばあちゃん。

二股になったダイコンを見るたびに顔を思い出すであろう。

(H21.11.23 Kiss Digtal N撮影)

小長尾の行事

2009年12月16日 08時10分10秒 | 楽しみにしておこうっと
毎月25日は天神さんの月参りと称して組単位で御膳を供えられる。

六組が交替するので一年に二回は回ってくる行事。

弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげん(浅間)さんや秋葉さんなど。

小長尾地区に祀られている祠は十カ所ほどになるという。

家で作ったお米や野菜などをお重に入れて供える。

それは七品あるから七品御膳さんという。

組当番によって行われるが、時間は決まっていない。

しかもお参りする順番もくじ引で決める。

祠を周回していればいつかは遭遇するかもしれない。

天神さん参りは毎日もある。

当番の木の札は村52軒を回る。

夕方であろう、神社の灯明を点ける役目だ。

日替わり当番の木の札は「番帳(ばんちょう)」と呼び、字が判読できないぐらい真っ黒になっているという。

祠の一つがせんげん(浅間)さん。かって浅間講があった。

40年も前のことだ。

土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。

魚や肉は一切口にせず精進していた。

川に行って水垢離の行もしていた。

今は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。

せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。

84歳になったが元気でせんげんさんの山登りをするのだと黒光りする顔で笑った。

御仁は門僕神社の秋祭りで重要な役割をしているという。

それはスコ(頭甲)の先達といって、八カ大字が奉納するスコを一人で受け取る神社に納める役目だという。

赤い着物を着ているから目立つそうだ。

(H21.11.23 SB912SH撮影)

小長尾天神社の例祭収穫祭

2009年12月15日 18時43分09秒 | 曽爾村へ
曽爾村の小長尾は春祭りにタワミネさんに登って豊作を祈願した。

秋は菅原天神さんを祀る天神社の例祭典で収穫を祝う。

25日は天神さんの命日で、その日を祭典にしていたが、近年に集まりやすい祝日へと移行された。

今朝は冷え込んで曽爾は靄がたちこんだ。

集まった村人は鳥居下にとんどを焚いて暖をとる。

境内では婦人方が甘酒を造っている。

小長尾は六つの班が交替で祭りごとをしている。

東出、下組、中組、上組に西出の川原組と上組になる。

年番の組からトーヤが出て御幣を捧げる。

拝殿の右は総代や副総代に組代表の氏子たちが並ぶ。

左は年番の組衆となる。

門僕神社の宮司を迎えて神事が始まった。

神饌は小豆を乗せた洗米に山、海、里の幸。

かつて魚は開きのカマス(サイラと呼ぶ)だったが、今は生サバに。

お頭があればと構わないという。

修祓、開扉、献饌、祝詞奏上など厳かに神事が行われる。

その間、参拝する村人らで境内がいっぱいになってきた。

収穫したお米を供えて村の行事に参列した人はおよそ80人。

祭典後はお下がりのお酒や甘酒をいただき談笑の場。

酒や肴を配るのは年番衆。



境内は穏やかな陽が差し込んできた。

そして始まったモチ撒き。

前日に搗いた餅は長餅。

手で伸ばして棒状にする。

それを一口サイズに切った餅を撒く。



春祭りと同じように四方八方から放り投げるのが特徴だ。

欅(ケヤキ)の大木がある天神社。

欅の幹は太く、樹齢は数百年を越すであろう。

その欅から作られたわけではないが、狛犬は欅でできている。

盗られてはいけないので祭典後は回収される。

(H21.11.23 Kiss Digtal N撮影)

下笠間I家のモチ行事

2009年12月14日 08時20分06秒 | 大和の郷土料理
下笠間のI家では年中に亘り餅を搗いているという。

三宝荒神さんは三段餅、恵比寿大黒さんの餅は小判型で二個、稲荷さんは中小の二段重ね餅、神棚、先祖さんも同じく中小の二段重ね餅。

年末の28日辺りに搗いて正月に供える。

荒神さんは慌てる神さんやから一番先に供えるという。

1月7日は山の神さん。

小判型の餅を男の人数分だけ供える。

二房の太い藁棒の中にモチを入れた。

モチの端っこを二つほど切り取って七草粥に入れた。

雑煮と一緒で取り出してキナコをつけて食べる。

綿を作っている時代やった、今はしてないと断って話されたのはナリバナの餅。

ちぎってヒラドの枝に取り付けた。

その木は手で触るとモチっとした木のツツジやったという。

おそらく五月に花が咲くモチツツジであろう。

旧暦の1月3日や十三夜、十五夜、二十三夜、二十六夜は月の数だけのモチを供える。

閏年は月数が13なので丸い餅数は13個にする。

それは中央に突き出したヘソのような形のモチだ。

その中には一つだけ形が違うモチがある。

三日月型だ。これにもヘソがある。

これをミカヅキサンと呼ぶ。

なお中央のヘソはホシサンと呼んでいる。

3月3日はお雛さんの節句。

大きな一対のヒシモチを作っていた。

お嫁さんの親元などに配った。

春のお彼岸はクサモチ。

ヨモギ団子だったといって餡をくるんでいた。

これは実家の毛原でしていたそうだ。

5月5日は男の節句。

軍配型のチマキを作った。

萱の葉を巻いて茎で締めた。

先っぽに竹の串を中まで差し込んだ。

男児が生まれた家はモチを搗いてチマキを親元に配っていた。

チマキは五本。五本で1束、それを2束で1組。

息子に子供ができたときは10組ほど作っていた。

チマキを食べるには釜で茹でてゴマシオをふりかける。えー味やったという。

ハゲッショウ(半夏至)、ハガタメ(歯固め)のモチはしていない。

お盆のときもない。

秋の彼岸もモチを供える。

セキハン(赤飯)も作っている。

九頭神社の秋祭りもモチを搗く。

昨年まではキョウをしていた。

17歳以上の男の子の数だけ作る。

昔はトーヤさんの家で作っていた。

トーヤさんは本トーヤにアイトーヤさんがあった。

朝6時ごろにモチをもらいに行く。

カマス、のっぺ汁にモチになる。これを受け膳と呼ぶ。

今年は10月18日の日曜日やった。

カマスは不都合のないように長さを測る物さしがある。

享保二年(1717)の銘記があるというからおよそ三百年も使っている秤だという。

その物さしで測って、長ければカマスの尾っぽを切るそうだ。

11月は亥の子の日のイノコモチ。

一年の締めくくりというか、正月にかけて供えるモチがある。

ミズのモチという押しモチ。薄く伸ばす。

それは若水さんのモチ。

元日の朝、主人が井戸の水を汲みに行って、バケツに括り付けるモチ。

長い箸にモチを挿す。先っぽは葉付きのコウジミカンを挿す。

こうしてその年も一年が始まる。

モチは家人の健康や豊作を年中祈る大切なハレの食べ物であろう。

(H21.11.22 SB912SH撮影)