矢田の歴史から振りかえり、郡山城下や矢田の民俗文化を探って郷土の基礎的な情報を蓄積する試み。
民俗談話会を発展すべく研究会と名を替えてから1年が過ぎた。
2カ月に一度の会合だけに歩みは牛のごとく。
矢田に住まいする人たちから享受していただきながら数回も経過した。
郡山城を建築した中井主水正清大和守は江戸幕府の大工頭になっていた。
その中井家の末裔が務める語り部。
前回は郡山城の姿やその後の行先だ。
天守閣がどこへ行ったのか流転を探る。
はたまた江戸時代の地図を参照して地名から探しだした大工村。
矢田にあった小字の一つがその名を示す。
その会合の一つ前は古文書クラブの人たちが書き下ろした「西矢田宮座年代記」の解説だった。
宮座文書から歴史文化を探ったのである。
慶長十五年(1610)に記された「祈之頭人」の文字に驚いたものだ。
トウニン、大エボシ、小エボシが勤めてきた座の行事に見られる坊名や僧侶の名。
天明年間(1781~1789)辺りから徐々に変化があり、寛政十年(1798)以降には坊の名が記されることなく以降は消えた。
宮座の在り方に変化があったということだ。
それまでは寺の僧侶と神主を勤める村社人(矢田ではトーニンと考えられる)が神事(行事)を行っていたのである。
つまり、神道家の活動の影響を受け、寛政十年以降においては寺を排除したことになるのであろう。
今回は矢田の地理だ。
民俗的観点からなので集落、建物、墓地を巡ってみようということだ。
例会は県立民俗博物館の会議室だった。
この日はアウトドアのフイールド散策。
民俗博物館がある大和民俗公園を歩いて矢田を目指す。
自然観察会でも歩いていた公園道だ。
<村の道>
公園道の北側を歩く二人。
ここは矢田東村から郡山城下に向かう道。
アスファルトの道外は東村の道なのだ。
枯れ草落ち葉の下は白い道がある。
そこを通った道は里道(りどう)だ。
それを示す境界もある。
今まで何度も歩いた道がそうだったとはまったく知らなかった。
住民しか知り得ない道なのだ。
ここから北へ抜ける道がある。
その向こうは尾根道。
ビシャコやウラジロが植生する尾根である。
城村との境界になる。
尾根を越せば大谷池だ。
村内の道は荒れているように見えるがそうではない。
東村の人たちが道造りをして整備されているのだ。
<村の葬送と墓地>
ぐるりと巡る村の道。
丘にあがれば墓地がある。
サンマイ墓地と呼ばれる墓地は免許埋葬墓地である。
サンマイは三昧と書くそうだ。
字は大谷の東村墓地は無税の共同墓地。
それを示す石柱に「免許埋葬墓地」とある。
「三界萬霊六(視)」法界)と記された石柱は天明八年(1788)の刻印があった。
その下に並ぶのは六地蔵だ。
墓地に入れば台座が目に入る。
蓮華の文様があることから蓮華の台座。
葬儀のときに運んできた棺桶を一旦降ろす台座である。
台座向こうにあるのは受け取り地蔵。
逆からみた言い回しは預かり地蔵とも。
土葬、座棺があったのは30年も前のことだという。
座棺は四角い箱の寝棺だった。
それ以前は円形の棺桶だったそうだ。
四人で担いで運んだ寝棺。
オーコと一体もので、それをコシと呼んでいる。
それには煌びやかなトウキンを掛けたという。
トウキンは融通念仏宗の光連寺の什物だが、コシは村のもの。
お寺に預けているので葬儀のときに持ちだす。
棺桶を台座に置いて念仏を唱える。
墓の穴掘りは運ぶ前にしておくが、埋葬する際には家人は見届けることなく家に戻る。
墓の前に竹串の幣や丸いダンゴ(5個)を挿したシカ(東村では紙花と書く)を置く。
それぞれ2本ずつだそうだ。
ダンゴは一袋250gの上新粉。
以前は米を粉にしていたそうで、婦人たちが作る。
竹串は4本作って墓に2本。
残りの2本は仏壇に供える。
シカの台は季節によってダイコンであったりイモであったりする。
また、二つの草履を作って座棺と同じように墓に埋めた。
死出のときに旅にでられるようにという意味がある草履と白い紙を巻いた竹の杖も棺桶に入れて運ぶ。
杖も死出にということだ。
これらの材を作る人たちをカミザイク、タケザイク、ワラザイクと呼んだ。
棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せる。
土を掛ければ見えなくなる。
獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケという。
このようなことをしていたのは20年も前のことだと案内人の二人が話す。
<かつての大谷池>
墓地の北側は大谷池。
東に行けば西城に辿りつくが今は行くことができない。
池の北側も道があったが歩くことは困難だ。
江戸時代中期に造られた人工の大谷池。
それまでは集落もあったという。
その地は狩山村(かりやまむら)と呼ばれていたそうだ。
<水車はどこに>
かつて水車があった場所を案内してもらった。
細い川があった。
そこを流れる水を利用していた水車小屋があった。
子供の頃にはそれがあったという水車跡は、今年の正月明けに行われたツナウチの当番のT家の前。
狭い溝がその名残である。
<クスリの木>
東村に咲く白い花。
見上げれば青空に染まっている。
スモモの花だそうだ。
現在は少なくなったがケンポナシやナツメ、ニッケ、スモモなどを育てていたという。
それらは漢方薬の原料に使っていたのではと話す。
<敵を監視するタカヤマ>
コグリと呼ぶ地がある。
それは「コグチ」であったかもと話す両氏。
コグチは虎口。
木戸があったという地には川があった。
上流の池から流れる川だった。
その川は今でも流れているが道の下。
山を崩して新道を造った。
この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていた。
向こう側が見えない山を縫うようにあった細い道だった。
山は切り取られて開放された。
その道筋はぐるりとえぐる。
見通しがよくなったが道の様子はよく判る。
切り崩された山の上から敵が来るのを監視していた戦略上の要地。
郡山城下町に敵が寄せてくるのを視ていたのであろう。
残った山は「タカヤマ」。
井戸もある山だ。
登ってみれば広がる西の丘陵地・三之矢塚が見渡せる。
「タカヤマ」は「城」であったろうと話す。
<アリバカ>
コグリから西に数百メートル歩けば小高い丘に出る。
南に三之矢塚がある。
「イシバシ」と呼ぶ地だそうだ。
歩いてきた道の北側は「ツバキダニ」。
自然観察会で通った農道は谷だったのだ。
池から流れる水が美味しい米を作るのだと聞いたことがある谷だ。
登った丘の内部は「アリバカ」と呼ぶ墓地。
元は東明寺の墓地だったようだと案内人のN氏は話す。
入口の六地蔵が迎えてくれる。
花が飾られ、真新しい線香の香りが漂う。
サンマイ墓地と同様にアリバカ墓地でも連台座があった。
葬送のコシを乗せる台だ。
「大正七年 施主 ○○」の刻印がある。
サンマイ墓地にもそれが刻まれていたが薄らとしか残っていなかったので判読できなかった刻印。
寄進された時期、人物が明確になった台座の横には預かり地蔵が立っている。
墓の穴を掘るには一旦墓石をどける。
それから穴を掘った。
仏さんを埋めれば盛り土をする。
それはこんもりとした形に盛るから「ドマンジュウ」と呼んでいた。
そこに標木を立てる。
ドマンジュウの土が引っ込むまでそのままにしておく。
雨が降れば土が沈むのだ。
平坦になれば墓石を乗せる。
<建物>
矢田東村から北村へと歩いてきた。
東ノ池村は元北村内。
江戸時代の後期に分離して東村になったそうだ。
ここから北の子供の森へ続く道は狭くて細い旧道。
勾配はキツイ。
3年前に取材した北村の地蔵盆はすぐ近く。
夜の八時に集まってくる村の子供たちと婦人。
般若心経を一巻唱えていた。
その街道にある建物の上部に杭が出ている。
話によれば解体しやすい構造にしているという。
案内人のK家も北村集落。
かつては油商を営んでいた。
前庭には巨木がある。
古来はハガキに使われたとされるタラヨウである。
幹回りは一人どころか二人以上の手がいる。
手尺で測ってみれば2m以上もあるようだ。
<伝承の地>
奈良市に砂茶屋がある。
富雄川沿いだ。
矢田からはそれほど遠くない。
そこには(トミノ)ナガスネヒコにまつわる産湯の井戸があったとN氏の祖母が話していたそうだ。
神武東征において抵抗した豪族はトミの地。
古地伝承の地だ。
ニギハヤヒコノミコトが天の磐船から三本の矢を放った。
その一つにあるのが三之矢塚。
碑が建てられているが、地下からそれを示す証拠は出土していない。
傍を流れるゲンジボタルが飛び交う川堤付近はマムシが多い。
二之矢塚は矢田坐久志玉比古神社内。
境内に鳥居がある。
刻印は見られないが、年代がはっきりした。
会合4回目に解説された「西矢田宮座年代記」に書かれてあったのだ。
「元禄十四年(1701)二月六日 頭人 坂之坊・惣九郎 矢落大明神石鳥居出来仕候 満米内 三升 小エボシ 済 六蔵・ 小平次 三もりかけ 北僧坊下人 弐升 済 源蔵・薬師坊内 五升 甚兵衛 弐升 小エボシ済 貞蔵」とある。
「満米内」はそれ以前の元禄十年、寛文十三年では「満米堂」とあるからそれであろうと思うが、いずれにしても元禄十四年に建てられたに違いない。
郡山城主の第二次本多家の時代だ。
郡山城下の大火が起った元禄十二年の本多忠常の時代から2年後にあたる。
鳥居がある矢田坐久志玉比古神社の楼門。
嘉永年間にキュウショウジと呼ばれる寺から移設したという。
キュウショウジはおそらく久松寺だと思われるが断定はできない。
楼門にある瓦屋根。
そこに「中」の文字がある。
郡山城天守を建てた主水正清大和守の家紋である。
<ムカイヤマ>
三之矢塚から西方にある小高い丘は「ムカイヤマ」。
充てる漢字は向山。
ここもサンマイ墓とアリバカと同じように台座と受け取り(預かり)地蔵が見られる。
矢田にナナハカあるといわれた。
かつてはシキビを持ってナナハカ参りをしていた。
帰ってからは一同揃ってソーメンやパンを食べたというお参りは戦死者を弔いだったそうだ。
<故地の名>
案内人のN家は「ツキヤマ」と呼ばれる地にある。
台状で古墳のようだったという。
ヤマを削って屋敷を建てた。
その際に出土した葺き石。
そこを「フキアゲ」と呼ぶ地だった。
「ツキヤマ」を漢字で充てれば築山。
古墳を築造した山そのものを云い現わす。
隣家のT家を古屋敷と呼ぶ。
その南側はトンド場。
矢田坐久志玉比古神社へ参拝する村の道に提灯を立てている。
自然観察会のときに拝見した提灯立てだ。
田んぼ景観の中にぽつりと立つ。
その向こうはトンド場。
その付近を「オデマチ」と呼ぶ。
「オイデマチ」が訛った「オデマチ」は殿さんがおいでになる道だという。
こうして本日の地域文化を知る機会はとても有意義だった。
地元のことは住民に聞く。
これがすべてである。
(H24. 3.25 EOS40D撮影)