マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

南阿田御霊神社の狛犬

2012年05月21日 07時44分45秒 | 五條市へ
南阿田と滝の氏神さんを祀る南阿田御霊神社。

右側の社殿が滝の八幡神社である。

享保六年(1721)の刻印が見られる石燈籠がある神社。

二つの宮座講があるそうだ。

下市から五條にかけて各大字で祀られるお仮屋がある。

下市新住(あたらすみ)八幡神社、東阿田の八幡宮、西阿田の御霊神社に南阿田である。

当地のお仮屋はかつてヒノキの葉で覆われた屋形を建てていたそうだが、現在は屋形になったという。

その南阿田御霊神社には珍しい形の狛犬がある。



子供と思われる(唐)獅子が母親に抱きつくような姿の石造りの狛犬。

左側は丸い石を左足で押さえている。

同じ様式と思われる狛犬は奈良市法蓮町の常陸神社や明日香村栢森の加夜奈留美命神社にもあった。

探せばもっとあるのではないだろうか。

(H24. 4. 1 SB932SH撮影)

南阿田吉野川流し雛

2012年05月20日 07時45分20秒 | 五條市へ
かつては旧暦の4月3日に行われていた五條市南阿田の流し雛。

現在は4月第一日曜日(昭和48年より)になった。

この日は村の農休日。

「休まんと罰金や」というて、絶対に集まれる日を行事の日としたのである。

南阿田では戦前まで伝統の吉野川流し雛を守ってきた。

戦中、戦後も途絶えていた村の行事を昭和44年に復活された亀多桃牛氏の意思を継いで今も行っている。

流し雛を流す吉野川は清流。

流れ、流れて和歌山の淡島へと注いでいく。

南阿田西方数キロメートルからは吉野川は名を替えて紀ノ川となる。

流れる川の水は同じでも地域によって呼称がかわる。

その淡島には加太の淡嶋神社がある。

婦人病やお雛さんの神さんとして崇められている。

吉野川・紀ノ川を通じて生活文化が交流した。

源流から切り出された山の木は五條に着いた。

そこでは材木商が盛んであった。

積み換えられた材木は大型船に移されて大阪湾に沿って住吉大社前の浜から難波の津(港)に着いたという。

川に沿った道は紀州から伊勢に繋がる参勤交代の幹道でもある。

川と道を行き交う交易の文化。

一説によれば加太の淡嶋神社に祀られた「あはしまさま」が流し雛に関係しているようだ。

「あはしまさま」は天照大御神の娘(六女)が嫁がれて住吉大神の妃となった。

その後、婦人の下の病いのために淡島に流されたという妃神の祭日が桃の節句の三日と重なって雛祭りと結びついた。

このことは後世に加えられた伝承であろう。

同神社の祭神は少彦名命。

医薬の神さんだ。

薬と婦人病が結びついたと思われるのである。

やがて江戸時代になれば、「淡島願人(がんじん)」と呼ばれる修行者が、全国に淡島明神の功徳縁起を説き広めるために妃神の姿絵を入れた箱を背負って行脚した。

婦人にご利益があると伝えられて広まった淡島信仰が五條に流れ着いた。

旧暦4月3日の桃の節句にお雛さんを祭る女性たち。

淡島信仰を支える命の川は禊の川でもある。

その川に千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める。

女児による流し雛は亀多桃牛氏(故人)が主催していた俳句会同志らの後押しもあって復活した。

ところが少子化は時代の流れ。

子供会の主催事業として継承されてきたが運営できなくなった。

それでは村の行事が再び廃れる。

そんな危機感から自治会運営にしてはどうかと相談があった。

自治会組織ともなれば役員が替ることもある。

それでは継続するのも支障がでるだろうと保存会を立ち上げて現在に至る。

かつての南阿田の流し雛はヒトカタ(人形)流しであった。

紙で作ったヒトカタは折り紙。

女性が居る家はそれを作って、めいめいが川へ流していた。

前日の夕刻か、当日の朝だったそうだ。

病いを封じて穢れを祓い、心身の健康を願う女人の数のヒトカタを流していた。

淡島信仰が根付いたその風習行為は女性だけだったという。

当時は晴れ着もない、素朴な普段着で流していたと流し雛保存会会長は語る。

大和郡山市に住む岡山出身のFさんの話では鳥取県のモチガセ(※用瀬)でも流し雛をされているという。

そこでは紙のヒトカタを川に流すと話す。

ヒトカタを丸い形のサンダワラに乗せて流すのはひと月遅れの4月3日。

村の人がめいめいにしていたという。

その話の様相と似かよっているかつての南阿田の流し雛であった。

現在の流し雛の主役は小学6年生までの女児。

赤ちゃんはともかく歩けるようになった3歳児から参加する。



女の子の行事であるゆえ晴れ着を纏う。

訪れた大勢のカメラマンの要請に応じて晴れ姿を撮る人も多い。

ウチ孫では少ないからとソト孫も参加される村の行事は賑わいをみせる。

始めるにあたって浄土宗源龍寺に登って法要を勤められる。

かつてはそれもなかった。

形式を整えるようになったのだ。

それは川に張られた結界の注連も同様である。

大豆で象られたお顔のお内裏さまとお雛さまを飾った内陣。



その手前には多数の流し雛が置かれている。

流し雛は二種類ある。

川へ流す流し雛と少し小さめの飾り雛だ。

竹の皮に貼りつけた折り紙のお雛さん。

印刷した寛永通宝銭も張っている竹皮はお雛さんの舟。



一か月前ぐらいから地区の婦人たちが寄って作った舟は、いずれも購入(200円、300円)することができる。

一般の人も流すことができる村の温かい配慮なのだ。

保存会の意向によって南阿田地区以外の子たちも参加を認めている。

大勢来てほしいと願って保育所へも案内している。

この年は10人も集まった。



本尊阿弥陀如来に雛ながし表白を唱える住職の法要。

並んだ女児たちは静かに手を合わせる儀式である。

それが終われば吉野川に向かう。



集落を抜けて畑が広がる畦道を歩む。

素朴で、昔のままの風情をいつまでも残しておきたいという保存会の意思は微塵に打ち砕かれる行為があった。

女児たちが歩む姿を捕えたいと群がるカメラマン。

何人ものレンズがその姿を納めようといている。

まるで高射砲のように見えた。



その人たちが並ぶ目の前に菜の花が・・・。

畦道にどこからか抜いてきた菜の花を植えていたのだ。

行事を終えてその痕跡をみた村の人はカンカンであった。

残念な行為に怒り心頭である。

村の行事を台無しにする行為は、敢えて代弁する形で書かざるを得ない。

河原に着けば禊の吉野川。

お雛さんを流す前に作法をする子供たち。

結界の注連下で年長の子が願文を詠みあげる。



「流し雛さま 私たちの今までの つみけがれを 吉野川の清流の上に おとき下さいまして 清く 正しく 明るく 健やかに育ちますよう お願いいたします どうか私たちの 切なる願いを おきき下さいませ」と。

昔はめいめいがしていたという流し雛。

これも形式化されたのである。

岸辺に並んだ子供たちは抱えてきた流し雛をそっと流す。

祈りを込めて船を浮かべて流す。



一般の婦人たちも岸辺から流していく。

その姿に手を合わせるご婦人。

年齢は違っても健康や安産を願う思いは同じなのであろう。



穢れを乗せた竹の小舟に託した願いは下流に流れていった。

(H24. 4. 1 EOS40D撮影)

サガミの晦日そば

2012年05月19日 07時13分12秒 | 食事が主な周辺をお散歩
「晦日そば食べ放題」の幟が目に入った。

毎月の末日はざるそばが食べ放題。

お店はサガミチェーン店。

各地にあるお店だ。

住之江では満席だったので諦めた。

おふくろが蕎麦を食べたいといったのだが当日は諦めた。

六甲オルゴールミュージアムを楽しんだあとは国道沿いのお店を探していた。

うどん、そばを食べたいというから視線が集中する先は神戸谷上店サガミ店の看板。

「食べ放題」の文字にインパクトがある。

お値段は1680円。

ソサエティの支払いで懐具合に余裕がでた。

値段を見て驚いたが、本日は踏ん張って注文した。



蕎麦は石挽そば。お店の石臼で挽いたそばだ。

コシが違うそうだ。

それには大きな海老の天ぷらが付いている。

野菜もある。

出汁は2種類。一般的な醤油と胡麻味だ。

蕎麦を胡麻味噌で食べてみる。

これはイケる口だ。

醤油タレは山葵にとろろ。

最初に山葵を入れて蕎麦をすする。

たしかにコシがある。

ととろを加えてむれば喉越しがさらに通る。

あっという間に一杯がなくなった。

追加を願う食べ放題。

ハシ休めに八丁味噌をベースにしたサガミオリジナルのそば味噌をいただく。

味噌は見ためも味も濃い。

ご飯があればいいのではと思ったが満腹するのでやめた。

この月の晦日そばにつくらしい。

結局、4杯もザル蕎麦を食べてしまった食べ放題。

晩飯に影響を与えてしまった。

神戸から住之江までの行程はどうするか。

もちろん阪神高速(900円)である。

摩耶から阪神高速。

途中でチケットをチェックするようになっていた。

それは何。

係員に聞けば領収書兼通行証であるという。

チケットには「本券は高速道路の利用最終出口まで必ずお持ちください」とある。

なるほど、これは大切なチケットだったのだ。

初めて知る券であった。

それを提示して通行パスした。

東へ東へと一路大阪環状線へ。

雨はあがって東の空に虹が掛かる。

おふくろを住之江に送った帰りは長井公園通り経由で西名阪松原本線へ。

(H24. 3.31 SB932SH撮影)

六甲オルゴールミュージアム

2012年05月18日 08時51分34秒 | もっと遠くへ
雨の有馬では足湯に浸かるにも難しい。

坂道など多い有馬ではおふくろは歩けない。

どこを目指せばいいのだろうか。

ソサエティで聞いた六甲オルゴールミュージアムなら館内。

雨が降っても施設内は影響ない。

それならばと目指したミュージアム。

ソサエティにはネットパソコンがある。

そこで調べた行先道はプリントしておいた。

我車にはカーナビGPS機能は装備していない。ペーパーベースだ。

参照しながら国道に一旦出て有馬口JC、唐櫃大橋を渡る。

裏六甲ドライブウエイを目指す。

料金所が目に入った。

ここを入れば・・・ではない。

側道でなければとんでもない処に行ってしまう。

偶然にもそれは避けられた。

六甲の山は霞の中。ドライブウエイも霞んでいる。

前方が見えないがようやく辿りついた駐車場。

六甲の高山植物園、オルゴールミュージアム、ガーデンテラスやカンツリーハウス、フイールドアスレチックの駐車場がフリーパスになるという1DAYパーキングチケットは500円。

晴れのときならお得なチケットだが、この日は雨。

六甲オルゴールミュージアムは入館1000円。

京都嵐山オルゴール博物館を訪れたことがある。

こことの違いはあるのかないのか。

予想は覆された施設。



19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパ、アメリカで親しまれてきた自動演奏楽器をコレクションされている。

館内に入ればこれからコンサートが始まるという案内があった。

開演時間まで少し待ち時間があるので館内を見て回る。



数々のオルゴールは小さなものから大きなものまで販売されている。

工作するコーナーもある。



手作りのオリジナルオルゴールもできるのだ。

オルゴールは円盤、シリンダー型から紙テープがぐるぐる。



ぐるぐる回転するから自動演奏。

一周すれば演奏は停止する。

必ず終点があるということだ。



入室したコンサート会場には所狭しに演奏装置が置かれている。

解説付きの演奏が心地よい。

館内は撮影できるが演奏中は禁止。

奏でる音楽に耳を傾けてほしいという願いであろう。

始めにストリートミュジックオルゴールだ。

おもむろに取りだした黒いハット。

ひっくり返して観客に内部を見せる。

チップをねだる。

ヨーロッパではそうであった。

映画でその様子が描かれていたことを思い出すがシーンも題名も浮かばない。



もう一つのストリートオルガンは人形が動く。

ビデオカメラで捉えた映像が大きく映し出される。

顔や目の表情はどことなく物悲しい。

それが済めばまたもやコンサート案内。

それも聞きたくなるオルゴールの音色。

2回目の解説員は学芸員だった。

怪しく伝えるその雰囲気。

スロットにコインを入れたら自動演奏装置が動き出した。

100年前の時空を醸し出す。

その後の3回目もあったが、聞いたのはおふくろとかーさん。

透明な玉を操る曲芸は大道芸だ。

考えてみればこれもストリートミュージッシャン。

演奏装置がバックで奏でていたのかどうか聞かなかった。

4回目は巨大な自動演奏オルガンだ。



ダンスオルガン(1938年ベルギー製)やDEGAPデカップ・ダンス・オルガン・ケンペナーが光り眩い。

電飾ピカピカ光りながら迫力ある演奏がDEGAP。

ダンスオルガンで名高い。

ときおりポコポコする音が聞こえてくるのは何。

後方にある赤い「何か」が動いている。

目を凝らせば赤いモノがドラムと同時に叩かれているのだ。



ミュージアム学芸員に聞いてみれば、それは木魚・・なんですって。

1938年は昭和13年の大戦前。

ルーズベルト大統領が就任した年にあたる。

そんな時代に日本の木魚を使った楽器を考案したことに驚かせる。

面白すぎる木魚の動きと音色。

これも民俗にあたるのではと興味を抱いた楽器であった。

オルゴールの歴史文化を探求する研究者は少ない。

誰がどのようにして木魚をオルゴールにしたのか。

京都嵐山オルゴール博物館と情報交換しているという施設。

いつしか解明してほしいものだ。

さらにコンサートは続く。



自動人形のエクリヴァン(1988年スイス製)が演奏するというのだが、その頃は昼時。

京都嵐山のミュージアムでも拝見したエクリヴァンの顔立ちが好きだ。

調べてみれば何体かあるそうだけに同じかどうか判らない。

夜更けにピエロが居眠りしながら手紙を書く。

ウトウトする瞼があったかどうか・・・。

ランプの火が消えそうになれば、ピエロは目覚めて火を灯す。

再び書き始める手紙。というような動きの愛おしいピエロ姿の人形の動きを見たかったが・・・。

演奏装置は人形が装飾されているケースがわりあい多い。

味わいある顔立ちに衣装が映える。



一つ一つの表情を見て回るのもいいだろう。

11時に入館して13時まで楽しませていただいた。

時間はあっという間に過ぎていき、お腹も昼食どきを越えてしまった。

2週間前の3月23日に館名をリニューアルされた。

それまではオルゴールミュージアムのホール・オブ・ホールズ六甲だった。

電話口で応えるミュージアム名はとても判りにくかったそうだ。

平成6年(1994)に開館して2年後の平成8年から自動演奏楽器専門博物館として今日に至る。

六甲オルゴールミュージアムの経営は阪神電鉄子会社の阪神総合レジャー㈱だという。

民間電鉄が経営される博物館は珍しいのではと思う。

催しもこの日からリニューアルされたそうで、季節に応じたイベント企画も行われている。

今後も楽しみな施設である。

(H24. 3.31 SB932SH撮影)

有馬の朝

2012年05月17日 06時43分10秒 | もっと遠くへ
目が覚めたら朝だった。

その日は朝から雨。

横殴りの風に煽られて有馬の山が見えない。

どこへ行くアテもないが朝食はいただかないと・・・。

1700円の和朝食、洋朝食があるがそれほど変わらない。



美味しくいただいた朝食は5年前と同じだったことに後日気がつくのであった。

宿泊は費用的に助かる。

天国に居るねぇちゃんのお陰で平日メイトの料金で済んだ。

(H24. 3.31 SB932SH撮影)

5年ぶりの有馬温泉

2012年05月16日 06時45分08秒 | もっと遠くへ
従姉妹のねぇちゃんが保有していたダイヤモンドソサエティ。

クラブ員だったが平成19年7月に亡くなった。

その後も家族が継続契約をしているソサエティクラブ。

ときおりおふくろも利用している。

亡くなる年の3月に行ったことがある有馬ソサエティ。

オーナー利用券は宿泊無料の券。

有効的に使ってほしいと願われて出かけた。

二人の子供は遠く離れた地に滞在している。

呼び出すわけにもいかないからおふくろとかーさんの三人だけ。

5年ぶりに訪れる有馬は奈良から遠い。

相当な時間がかかると考えて早めに出発した。

向う先はとりあえず大阪住之江。おふくろが住む町だ。

いつもなら第二阪奈道路と阪神高速道路を利用するが、今回はあえて西名阪高速だ。

郡山ICから柏原本線へ。2か所に料金ゲートがある。

それぞれが300円の軽自動車料金である。

柏原からは阪神高速だ。

地道を走れば渋滞ではまって時間がかかる。

だが、阪神高速では一旦環状線に向かわねばならない。

それであれば時間がかかる。

地道の様子ではそれほどでもないだろうとそれを選んだ。

正解である。1時間ほどで住之江に着いた。

そこでおふくろを乗せた。

ここからは阪神高速を利用するに限る。

住之江から走る大阪北部。着地点は池田だ。

その辺りまでくると飛行機が飛んでいる。

今まさに着陸の体制をとっていたジャンボ機が上空に見える。

降りた飛行場は伊丹(いたみ)空港。

大阪の豊中市、池田市に兵庫県の伊丹市の三市にまたがる大阪国際空港だ。

左にそれを見てしばらくすると池田。長い距離だが短時間で着いた。

利用料金は900円。

これぐらいの距離だとお徳のように感じるが、短距離であっても900円。

割高に感じる場合もある。

そこからは中国自動車道を利用する。

久しぶりに利用する自動車道。

ビジネスマン時代は営業でたびたび通った大道だ。

行先は兵庫県の龍野市だった。そこまでは行かない今日の旅。

中国池田から西宮北まで650円。ここも軽自動車料金だ。

第二阪奈道路、西名阪国道、中国自動車は軽自動車料金があるが、阪神高速にはそれがない。

これが不満なのである。

それはともかく予想時間を2時間も短縮して着いた有馬温泉。

「⑩円饅頭」の看板がなくなっていたのは残念だが、喫茶店カルーは健在だ。

特製カレーも日替わり定食も美味かったことを思い出す。

ソサエティに着いたのは15時。

大阪住之江を出て2時間余り。

余り時間はたっぷりあるが部屋にこもった。

見るところがないと言えば申しわけないが宿でゆったり寛ぐのもいいものだ。

でっかい地デジテレビはBS放送も映る。

何もしない時間が与えられた。

こんな時間はテレビを見るしかない。

たまたま選んだチャンネルからは「にっぽん原風景紀行」だった。



寛ぐ時間に寛ぐ番組。

有馬温泉「きんせん堂」の金泉焼や黒豆煎餅をいただきながらお茶をすすって拝見する。

美味い和菓子は宿でも売っている。

お土産に最適な和菓子だが今回は買わなかった。

寛ぎ時間は温泉に移った。

ソサエティは温泉もあるのだ。

安らぎの時間を過ごす大人の隠れ家が謳い文句。

いつもなら夜八時にいただく夜食は寛いだ身体を持てあます。

温泉に浸かった喉が渇く。

宿の食事は目玉が飛び出すぐらいの料金。

我が家に合わない。

以前はそうしたこともあったが、今回はお店で買ってきた。

ソサエティは神戸市北区の有馬町。

その北に西宮市の山口町がある住宅街だ。

住宅があるということはスーパーがある。

コープと万代があったが選んだのは万代スーパーだ。



2種のにぎり寿司に巻き寿司、マグロ・タイ・ホタルイカの造りにでっかいあなごやイカのテンプラ、海鮮生春巻き、タケノコ煮などなどがテーブルに並ぶ。

発泡酒で乾いた喉を潤す。

至福の時間はたっぷりとある。

飲み過ぎたかもしれない。

(H24. 3.30 SB932SH撮影)

矢田村の民俗を巡る

2012年05月15日 08時06分23秒 | 民俗を観る
矢田の歴史から振りかえり、郡山城下や矢田の民俗文化を探って郷土の基礎的な情報を蓄積する試み。

民俗談話会を発展すべく研究会と名を替えてから1年が過ぎた。

2カ月に一度の会合だけに歩みは牛のごとく。

矢田に住まいする人たちから享受していただきながら数回も経過した。

郡山城を建築した中井主水正清大和守は江戸幕府の大工頭になっていた。

その中井家の末裔が務める語り部。

前回は郡山城の姿やその後の行先だ。

天守閣がどこへ行ったのか流転を探る。

はたまた江戸時代の地図を参照して地名から探しだした大工村。

矢田にあった小字の一つがその名を示す。

その会合の一つ前は古文書クラブの人たちが書き下ろした「西矢田宮座年代記」の解説だった。

宮座文書から歴史文化を探ったのである。

慶長十五年(1610)に記された「祈之頭人」の文字に驚いたものだ。

トウニン、大エボシ、小エボシが勤めてきた座の行事に見られる坊名や僧侶の名。

天明年間(1781~1789)辺りから徐々に変化があり、寛政十年(1798)以降には坊の名が記されることなく以降は消えた。

宮座の在り方に変化があったということだ。

それまでは寺の僧侶と神主を勤める村社人(矢田ではトーニンと考えられる)が神事(行事)を行っていたのである。

つまり、神道家の活動の影響を受け、寛政十年以降においては寺を排除したことになるのであろう。

今回は矢田の地理だ。

民俗的観点からなので集落、建物、墓地を巡ってみようということだ。

例会は県立民俗博物館の会議室だった。

この日はアウトドアのフイールド散策。

民俗博物館がある大和民俗公園を歩いて矢田を目指す。

自然観察会でも歩いていた公園道だ。

<村の道>

公園道の北側を歩く二人。

ここは矢田東村から郡山城下に向かう道。

アスファルトの道外は東村の道なのだ。

枯れ草落ち葉の下は白い道がある。

そこを通った道は里道(りどう)だ。

それを示す境界もある。



今まで何度も歩いた道がそうだったとはまったく知らなかった。

住民しか知り得ない道なのだ。

ここから北へ抜ける道がある。

その向こうは尾根道。

ビシャコやウラジロが植生する尾根である。

城村との境界になる。

尾根を越せば大谷池だ。

村内の道は荒れているように見えるがそうではない。

東村の人たちが道造りをして整備されているのだ。

<村の葬送と墓地>

ぐるりと巡る村の道。

丘にあがれば墓地がある。

サンマイ墓地と呼ばれる墓地は免許埋葬墓地である。

サンマイは三昧と書くそうだ。

字は大谷の東村墓地は無税の共同墓地。



それを示す石柱に「免許埋葬墓地」とある。

「三界萬霊六(視)」法界)と記された石柱は天明八年(1788)の刻印があった。

その下に並ぶのは六地蔵だ。



墓地に入れば台座が目に入る。

蓮華の文様があることから蓮華の台座。



葬儀のときに運んできた棺桶を一旦降ろす台座である。

台座向こうにあるのは受け取り地蔵。

逆からみた言い回しは預かり地蔵とも。

土葬、座棺があったのは30年も前のことだという。

座棺は四角い箱の寝棺だった。

それ以前は円形の棺桶だったそうだ。

四人で担いで運んだ寝棺。

オーコと一体もので、それをコシと呼んでいる。

それには煌びやかなトウキンを掛けたという。

トウキンは融通念仏宗の光連寺の什物だが、コシは村のもの。

お寺に預けているので葬儀のときに持ちだす。

棺桶を台座に置いて念仏を唱える。

墓の穴掘りは運ぶ前にしておくが、埋葬する際には家人は見届けることなく家に戻る。

墓の前に竹串の幣や丸いダンゴ(5個)を挿したシカ(東村では紙花と書く)を置く。

それぞれ2本ずつだそうだ。

ダンゴは一袋250gの上新粉。

以前は米を粉にしていたそうで、婦人たちが作る。

竹串は4本作って墓に2本。

残りの2本は仏壇に供える。

シカの台は季節によってダイコンであったりイモであったりする。

また、二つの草履を作って座棺と同じように墓に埋めた。

死出のときに旅にでられるようにという意味がある草履と白い紙を巻いた竹の杖も棺桶に入れて運ぶ。

杖も死出にということだ。

これらの材を作る人たちをカミザイク、タケザイク、ワラザイクと呼んだ。

棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せる。

土を掛ければ見えなくなる。

獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケという。

このようなことをしていたのは20年も前のことだと案内人の二人が話す。

<かつての大谷池>

墓地の北側は大谷池。

東に行けば西城に辿りつくが今は行くことができない。



池の北側も道があったが歩くことは困難だ。

江戸時代中期に造られた人工の大谷池。

それまでは集落もあったという。

その地は狩山村(かりやまむら)と呼ばれていたそうだ。

<水車はどこに>

かつて水車があった場所を案内してもらった。

細い川があった。

そこを流れる水を利用していた水車小屋があった。



子供の頃にはそれがあったという水車跡は、今年の正月明けに行われたツナウチの当番のT家の前。

狭い溝がその名残である。

<クスリの木>

東村に咲く白い花。

見上げれば青空に染まっている。



スモモの花だそうだ。

現在は少なくなったがケンポナシやナツメ、ニッケ、スモモなどを育てていたという。

それらは漢方薬の原料に使っていたのではと話す。

<敵を監視するタカヤマ>

コグリと呼ぶ地がある。

それは「コグチ」であったかもと話す両氏。

コグチは虎口。

木戸があったという地には川があった。

上流の池から流れる川だった。

その川は今でも流れているが道の下。

山を崩して新道を造った。

この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていた。

向こう側が見えない山を縫うようにあった細い道だった。



山は切り取られて開放された。

その道筋はぐるりとえぐる。

見通しがよくなったが道の様子はよく判る。

切り崩された山の上から敵が来るのを監視していた戦略上の要地。

郡山城下町に敵が寄せてくるのを視ていたのであろう。

残った山は「タカヤマ」。

井戸もある山だ。

登ってみれば広がる西の丘陵地・三之矢塚が見渡せる。

「タカヤマ」は「城」であったろうと話す。

<アリバカ>

コグリから西に数百メートル歩けば小高い丘に出る。

南に三之矢塚がある。

「イシバシ」と呼ぶ地だそうだ。

歩いてきた道の北側は「ツバキダニ」。

自然観察会で通った農道は谷だったのだ。

池から流れる水が美味しい米を作るのだと聞いたことがある谷だ。

登った丘の内部は「アリバカ」と呼ぶ墓地。

元は東明寺の墓地だったようだと案内人のN氏は話す。

入口の六地蔵が迎えてくれる。



花が飾られ、真新しい線香の香りが漂う。

サンマイ墓地と同様にアリバカ墓地でも連台座があった。



葬送のコシを乗せる台だ。

「大正七年 施主 ○○」の刻印がある。

サンマイ墓地にもそれが刻まれていたが薄らとしか残っていなかったので判読できなかった刻印。

寄進された時期、人物が明確になった台座の横には預かり地蔵が立っている。

墓の穴を掘るには一旦墓石をどける。

それから穴を掘った。

仏さんを埋めれば盛り土をする。

それはこんもりとした形に盛るから「ドマンジュウ」と呼んでいた。

そこに標木を立てる。

ドマンジュウの土が引っ込むまでそのままにしておく。

雨が降れば土が沈むのだ。

平坦になれば墓石を乗せる。

<建物>

矢田東村から北村へと歩いてきた。

東ノ池村は元北村内。

江戸時代の後期に分離して東村になったそうだ。

ここから北の子供の森へ続く道は狭くて細い旧道。

勾配はキツイ。

3年前に取材した北村の地蔵盆はすぐ近く。

夜の八時に集まってくる村の子供たちと婦人。

般若心経を一巻唱えていた。

その街道にある建物の上部に杭が出ている。



話によれば解体しやすい構造にしているという。

案内人のK家も北村集落。

かつては油商を営んでいた。

前庭には巨木がある。



古来はハガキに使われたとされるタラヨウである。

幹回りは一人どころか二人以上の手がいる。

手尺で測ってみれば2m以上もあるようだ。

<伝承の地>

奈良市に砂茶屋がある。

富雄川沿いだ。

矢田からはそれほど遠くない。

そこには(トミノ)ナガスネヒコにまつわる産湯の井戸があったとN氏の祖母が話していたそうだ。

神武東征において抵抗した豪族はトミの地。

古地伝承の地だ。

ニギハヤヒコノミコトが天の磐船から三本の矢を放った。

その一つにあるのが三之矢塚。

碑が建てられているが、地下からそれを示す証拠は出土していない。

傍を流れるゲンジボタルが飛び交う川堤付近はマムシが多い。

二之矢塚は矢田坐久志玉比古神社内。

境内に鳥居がある。



刻印は見られないが、年代がはっきりした。

会合4回目に解説された「西矢田宮座年代記」に書かれてあったのだ。

「元禄十四年(1701)二月六日 頭人 坂之坊・惣九郎 矢落大明神石鳥居出来仕候 満米内 三升 小エボシ 済 六蔵・ 小平次 三もりかけ 北僧坊下人 弐升 済 源蔵・薬師坊内 五升 甚兵衛 弐升 小エボシ済 貞蔵」とある。

「満米内」はそれ以前の元禄十年、寛文十三年では「満米堂」とあるからそれであろうと思うが、いずれにしても元禄十四年に建てられたに違いない。

郡山城主の第二次本多家の時代だ。

郡山城下の大火が起った元禄十二年の本多忠常の時代から2年後にあたる。

鳥居がある矢田坐久志玉比古神社の楼門。

嘉永年間にキュウショウジと呼ばれる寺から移設したという。

キュウショウジはおそらく久松寺だと思われるが断定はできない。

楼門にある瓦屋根。



そこに「中」の文字がある。

郡山城天守を建てた主水正清大和守の家紋である。

<ムカイヤマ>

三之矢塚から西方にある小高い丘は「ムカイヤマ」。

充てる漢字は向山。

ここもサンマイ墓とアリバカと同じように台座と受け取り(預かり)地蔵が見られる。



矢田にナナハカあるといわれた。

かつてはシキビを持ってナナハカ参りをしていた。

帰ってからは一同揃ってソーメンやパンを食べたというお参りは戦死者を弔いだったそうだ。

<故地の名>

案内人のN家は「ツキヤマ」と呼ばれる地にある。

台状で古墳のようだったという。

ヤマを削って屋敷を建てた。

その際に出土した葺き石。

そこを「フキアゲ」と呼ぶ地だった。



「ツキヤマ」を漢字で充てれば築山。

古墳を築造した山そのものを云い現わす。

隣家のT家を古屋敷と呼ぶ。

その南側はトンド場。

矢田坐久志玉比古神社へ参拝する村の道に提灯を立てている。

自然観察会のときに拝見した提灯立てだ。

田んぼ景観の中にぽつりと立つ。

その向こうはトンド場。

その付近を「オデマチ」と呼ぶ。

「オイデマチ」が訛った「オデマチ」は殿さんがおいでになる道だという。

こうして本日の地域文化を知る機会はとても有意義だった。

地元のことは住民に聞く。

これがすべてである。

(H24. 3.25 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社正遷宮

2012年05月14日 07時41分28秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
昼間に八柱神社の上棟祭を終えた奈良市の誓多林町。

夜は仮宮に遷されていた神さんを神殿に戻ってもらう正遷宮が行われる。

ライトアップされた神社境内が浮かび上がる。

参列する大人衆と氏子たちはテント内で見守りながら神事が始まった。

修祓を経て遷宮の儀に移った。

そのときは全ての灯りが消される。

辺りは真っ暗闇になった。

役員が照らし出す行燈の明かりだけがときおり闇夜に動く。

白いマスクをした宮司が発する「おおーー おおーー」の声だけが聞こえる静寂のなかでの遷座の儀式。

それは正遷宮(しょうせんぐう)と呼ばれるミタマウツシの儀式である。

八柱神社、三十八神社、八阪神社、宗像神社、大国神社、水神社など一つずつ神さんは遷される。

そうして全ての神さんが遷されたら氏子たちは玉垣に入って献饌、祝詞奏上、玉串奉奠で正遷宮を終えた。

11月から半年間、永い間も仮宮に納まっていた神さん。

窮屈であったろう。

明日は水神さんを遷宮されることを伝えて直会を終えた。

大人衆たちはこれからの毎月。神社の清掃に勤められる。

(H24. 3.24 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社造営上棟祭

2012年05月13日 08時27分35秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
前日からの雨は降りやまない。

夜半には強い風が吹き荒れた。

春一番であろうか。

気象庁では立春から春分の間に初めて吹く強風を春一番と呼ぶ。

春分を過ぎた数日後はそうとは呼ばないからこの日は強い風の日としか言いようがない。

そんな雨もあがった奈良市誓多林町。

田原の里にある一つの村だ。

西の誓多林を上誓多林、東にもある誓多林は下誓多林と呼ぶ。

その真中が中誓多林の三つの村が誓多林町となる。

白砂川沿いの旧柳生街道に鎮座する八柱神社は中誓多林。

20年ぶりの造営上棟祭が行われる村の一大行事。

集落に住む人は町へ出ていくことが多い。

現在住む人は少しずつ減っているという。

村に残った人、村を出て行った人も久しぶりに20年ぶりの造営事業に顔を合わす。

社務所でゆっくり寛いでくださいのアナウンスを聞き流して会話を境内で交わす。

婚姻関係にある隣村の長谷町からもやってきた。

受付を済まして和やかに談笑する人たちで境内は膨れ上がった。

舞殿で行われる式典はすでに神饌も供えられた。

前年の11月3日に行われた「チョウナハジメ」の儀式で使用されたヤリガンナ(槍鉋)、チョウナ(手斧)、サシガネ、スミツボ、スミサシも並べられた。氏神さんに捧げられる日の丸御幣や彩りの小幣や紅白のモチもある。

そうして始まった上棟祭。

始めに修祓。

そして降神の儀、献饌、祝詞奏上と神事が続く。

そのあとは棟梁によって執り行われる上棟祭の儀式に移る。

まずは曳綱の儀。

綱を曳いて棟木をあげる。

神殿が永く栄えるように、また、氏子たちが氏神さんと永く結びつき、縁を深くする意味合いがある曳綱の儀式である。

斎主から大御幣を受け取る棟梁。

神殿前の鳥居辺りに立つ。

紅白の綱を持つのは大人衆を先頭に氏子らが続く。

「エイ エイ オー」と掛け声をあげた棟梁は大御幣を大きく上に揚げて振りおろす。

そのとき大御幣はトンと音がする。

それを聞いた氏子たちは「オー」と応えて綱を曳く。

その際には「エイ エイ エイ」と三度発声する。

これを三回繰り返す。

これが曳綱の儀式である。

「エイ」は「永」。永く栄える仕草を氏子全員で行ったのだ。

次に行われるのが槌打の儀。

曳綱によって曳き上げられた棟木。

それを納める儀式が槌打である。

白木の槌には「上」の文字がある。

また、打ち出の小槌や海老錠の絵が描かれている。

大阪羽曳野市の野々上遺跡や平城京跡など各地の遺跡からも出土している海老錠。

古来から使われてきたセキリティキーの錠前である。



それはともかく槌を打つ仕草をするのは大人衆だけだ。

神前で副斎主から受け取った長老たちは7人。65歳以上になれば大人衆と呼ばれる。

「築(つき)立つる柱は 比(こ)の大神の 大御心(おおみごころ)の 鎮也(しずめなり) 千代に八千代に 栄へゆべし 千歳棟(せんざい)・・トー」と発声する棟梁。

大きく御幣を振り上げて降ろせばトンと音がする。

それを合図に「オー」と応えて六人衆が槌を打つ。

その数はトン、トン、トンの三回。



二番目は「取揚(とりあ)ぐる 棟梁(むねはり)は 比の大神の 大御心の栄なり 萬代(よろずよ)に 八萬代(やおよろず)に 栄へゆべし 萬歳棟(まんざい)・・トー」と発声し、槌を三回打つ。

三番に「取り置ける 槍僚(そうりょう)は 比の大神の 大御心の祝なり 天地(あまち)と共に 無窮(むきゅう)に 栄へゆべし 永々棟(えいえい)・・トー」で槌を打った儀式は三回繰り返す。

続いて弓引の儀。



本殿の表鬼門、裏鬼門に向かって矢を放つ。

「エイ エイ エイ」と棟梁は放った表鬼門は上方で裏鬼門は下方に向けてだ。

天と地に向けて放つ引矢は悪魔を追い払う儀式である。

散餅(さんぺい)の儀は矢で悪魔を祓った天(あま)地(つち)の四方(よも)の神に餅を供える儀式である。



表鬼門は棟梁が、裏鬼門は造営委員長が供える。

そして棟梁が祝詞を奏上する寿詞進上(よごとしんじょう)、玉串奉奠、撤饌、昇神の儀の順で神事を終えた。

その後は、田原自治連合会、田原神社協議会、造営委員長の挨拶で締めくくられた。

その頃降りだした雨は本降りになった。

それを避けてテントの内側に入る氏子たち。

記念撮影のときはおかまいなしの土砂降りだが、大人衆に造営委員は12人、ウチ氏子は52人、ソト氏子たちが21人の大所帯集合写真は困難な状況であった。

その後も降りやまない雨。

水の恵みもほどほどと思いたいが、自然現象に行事は待ったなしだった。

雨乞いをしなくともお参りに行けば雨が降るという水の神さんは萬福寺の裏山。

農耕や生活にとっても必要な命の水は欠かせない。

(H24. 3.24 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社造営上棟祭リハーサル

2012年05月12日 08時33分22秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
翌日の造営上棟祭を前にリハーサルをされる奈良市誓多林町の造営委員会。

昨年の11月3日に行われた「チョウナハジメ」の儀式から半年を経てようやく造営の日を迎えることになった。

尾田組の手によって新しくなった宮さんは7社。

真新しい朱塗りの神殿が美しい。

鳥居も築地塀も真っ赤だ。

翌日の本番は雨の様相が濃い。

テントを張って決行しなくてはならない。

式典は舞殿内がほとんどだが参拝者は雨除けのテント内となる。

神殿は左から水神社、八阪神社、大国主命神社、八阪神社、本社八柱神社、宗像神社、三十八神社が並ぶ。

それぞれに絵が描かれている。

氏子が書かれた絵はそれぞれの神さんを具象化した絵柄で水玉、壺、相撲、牛、神楽獅子、午、虎。

神地を囲む築地塀内には燈籠がある。

一つは「元文二年(1737)五月吉祥」とある。

境内下にある燈籠は「文政七年(1824)八月 八王子御宝前」とあった。

永正11年(1514)の創建だという八柱神社は、明治初めまでは八王子社と呼ばれていた。

さて、造営の上棟祭は20年おきに行われる祭典である。

前回は平成四年の四月十九日。「奉正遷宮札」には社老たち16人の名が記されている。

もう一枚は「献」。年寄の文字がある。

ねんにょと呼ぶのかとしよりなのか、13人の名がある。

式典は曳綱、槌打ち、引矢、散餅(さんぺい)の四儀式。

いずれも棟梁の儀式である。

曳綱は棟梁の合図で大人衆や氏子たちが揃って紅白の綱を曳く。



「エイ、エイ、エイ」の掛け声合わせて綱を曳く。

本来は棟木をそれで引き上げるのだが、誓多林は採用しなかった。

次の槌打ちは大人衆が神殿前に立つ。

棟梁が合図する。



「せんざい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

「まんざい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

「えいえい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

いずれも三回である。

その次は棟梁一人で式典される引矢。

表鬼門と裏鬼門に向けて矢を射る。

最後の散餅も棟梁一人で同じように鬼門にモチを供える儀式である。

これらの確認をしたのは明日本番の撮影に際する撮り位置をどこにするかを目的としていた。

造営委員長から頼まれた儀式の記録写真の撮影だ。

氏子たちは儀式のリハーサル。

撮影者もリハーサルであったのだ。

(H24. 3.23 EOS40D撮影)