平成24年4月14日に訪れた桜井市脇本。
その日は内垣内の西・中・東の垣内3講中と町垣内の下ノ町・上ノ町の垣内2講中がそれぞれの場で行われる旧暦閏年の庚申トウゲだった。
あくる年の2月3日は頭屋八人衆が営む二月朔座だった。
翌年の二月朔座はM家が受け頭屋を勤めると聞いていたが、県文化財課の緊急伝統芸能調査が忙しく訪れることはできなかった。
しばらく離れていた脇本の行事取材である。
この日は中秋の名月。
元総代のM家では「お月見」にススキ、ハギ、ダンゴを供えると聞いていた。
竜谷の御供を取材した帰り路。
国道を挟んだ向かい側の脇本はすぐ近くになる。
車を走らせて出かけた。
畑におられたご主人。
平成24年4月14日以来、実に2年5カ月ぶりである。
懐かしい顔に誘われるときに話した悲しい知らせ。
おかちゃんが亡くなったという。
その年の8月3日の朝は二人仲良く会話して朝食を摂っていた。
畑の水まわりが気になったご主人は水やりに出かけた。
それから30分後に戻った自宅。
おかちゃんの顔が見えない。
携帯電話をかけてもでない。
たまたま来られたおかちゃんの友達が来ていた。
二人で探した。
その朝に収穫した野菜は奇麗にして袋詰めをした。
それはあるがおかちゃんはいない。
どこに行ったのだろうかと探して見れば倒れていた。
救急車を呼んで病院に行ったが、ときすでに遅しで息を絶えていた。
突然のことである死因はくも膜下出血だった。
それより二日前の通院診断では何の問題もなく喜んで戻ってきたという。
あっけにとられて茫然自失の日々。
てきぱきと動くおかちゃんがいなくなって何もかも、やる気が失せたと話す。
M家に訪れる度になんやかやとぱっぱと差し出してくれた食べ物。
コエビを入れたドヤモチは醤油をたらしていただいたのが、私が最後に交わした声だった。
仏壇にあるおかちゃんの姿は笑顔。
手を合わすとどこからともなく元気な声が聞こえてきそうだ。
S家が頭屋を勤めた平成25年2月の二月朔座ではM家の姿はなかった。
何かの事情で参列できなかったと思っていた。
もしかとすれば服忌で参列できたかったのではと思っていた。
虫の知らせは悲しい知らせ。
おかちゃんの死去だったのだ。
つい先日に老人会の寄り合いで話題になった頭屋遷し。
平成20年10月18日に行われた座の行事を取材させてもらった。
そのときの様相は平成22年10月20日付けの産経新聞・シリーズ「やまと彩祭」で紹介させていただいたが、頭屋受けを承諾する家が名乗り出ず、やむなく中断となった。
懐かしい記事は村の伝統行事が回想になった。
記録・記事紹介した私の名前が挙がって「最近は顔をみせないし、元気でいるんだろうか」と話題になっていたというのだ。
ありがたいことであるが、この日の訪問は悲しい出合い。
やむを得ず中断となった頭屋の座。
頭屋受けする頭屋箱は春日神社で保管されることになり、神事などの神社行事は村行事に移管されたという。
座の儀式はなくなったが、村行事は継承されることになった脇本。
「お月見」の在り方は個々の家行事。
おかちゃんが生きていたころは採れたコイモを洗って皮を剥いていた。
ススキ、ハギを飾ってイガグリやコイモのダンゴを供えていた。
亡くしてやる気が失せていたご主人はせめてハギでもと取っていた。
花がついているハギは少ない。
穂が出たススキは見つからなかったと云う。
イガグリはまだ青いが、割って5個の栗の実を取り出して供える。
ニギリメシは五つ。
胡麻を振ったニギリメシである。
訪問した時間帯では揃わないようだ。
「お月見」を供えるのは夜遅くなるが、M家独特の作法があるという。
お月見を供えたその夜。
寝る直前に近くの川に出かける。
そこで目を洗うご主人。
そうすれば眼病が治ると云われる作法は、子供の頃から続けている家の信仰・風習。
「寝しなに川で洗わなあかんで」といわれて作法をしていたそうだ。
付近の家では見られないが、町垣内のN家でもそうすると話す。
「近くに川があるから、そうしていたのでは」と話す。
久しぶりの対面会話に元気を取り戻したご主人。
「来年のお月見はきちんと揃えておくから」と願われて見送られた。
これまで仏壇に手を合わすこと度々ある。
「出逢い」は「別れ」の始まり・・・。
「別れの磯千鳥」の歌詞に「逢うが別れの はじめとは 知らぬ私じゃないけれど せつなく残る この思い・・・」がある。
ときおりふっと思い出したように口ずさむ唄である。
建物など「モノ」はできあがった瞬間から崩壊・消滅に向かうことに気がついたのは40年も前のことだ。
「始まり」あれば必ず「終わり」があるこの世の道理。
「侘び・寂び」であると思った。合掌。
(H26. 9. 8 EOS40D撮影)
(H26. 9. 9 EOS40D撮影)
その日は内垣内の西・中・東の垣内3講中と町垣内の下ノ町・上ノ町の垣内2講中がそれぞれの場で行われる旧暦閏年の庚申トウゲだった。
あくる年の2月3日は頭屋八人衆が営む二月朔座だった。
翌年の二月朔座はM家が受け頭屋を勤めると聞いていたが、県文化財課の緊急伝統芸能調査が忙しく訪れることはできなかった。
しばらく離れていた脇本の行事取材である。
この日は中秋の名月。
元総代のM家では「お月見」にススキ、ハギ、ダンゴを供えると聞いていた。
竜谷の御供を取材した帰り路。
国道を挟んだ向かい側の脇本はすぐ近くになる。
車を走らせて出かけた。
畑におられたご主人。
平成24年4月14日以来、実に2年5カ月ぶりである。
懐かしい顔に誘われるときに話した悲しい知らせ。
おかちゃんが亡くなったという。
その年の8月3日の朝は二人仲良く会話して朝食を摂っていた。
畑の水まわりが気になったご主人は水やりに出かけた。
それから30分後に戻った自宅。
おかちゃんの顔が見えない。
携帯電話をかけてもでない。
たまたま来られたおかちゃんの友達が来ていた。
二人で探した。
その朝に収穫した野菜は奇麗にして袋詰めをした。
それはあるがおかちゃんはいない。
どこに行ったのだろうかと探して見れば倒れていた。
救急車を呼んで病院に行ったが、ときすでに遅しで息を絶えていた。
突然のことである死因はくも膜下出血だった。
それより二日前の通院診断では何の問題もなく喜んで戻ってきたという。
あっけにとられて茫然自失の日々。
てきぱきと動くおかちゃんがいなくなって何もかも、やる気が失せたと話す。
M家に訪れる度になんやかやとぱっぱと差し出してくれた食べ物。
コエビを入れたドヤモチは醤油をたらしていただいたのが、私が最後に交わした声だった。
仏壇にあるおかちゃんの姿は笑顔。
手を合わすとどこからともなく元気な声が聞こえてきそうだ。
S家が頭屋を勤めた平成25年2月の二月朔座ではM家の姿はなかった。
何かの事情で参列できなかったと思っていた。
もしかとすれば服忌で参列できたかったのではと思っていた。
虫の知らせは悲しい知らせ。
おかちゃんの死去だったのだ。
つい先日に老人会の寄り合いで話題になった頭屋遷し。
平成20年10月18日に行われた座の行事を取材させてもらった。
そのときの様相は平成22年10月20日付けの産経新聞・シリーズ「やまと彩祭」で紹介させていただいたが、頭屋受けを承諾する家が名乗り出ず、やむなく中断となった。
懐かしい記事は村の伝統行事が回想になった。
記録・記事紹介した私の名前が挙がって「最近は顔をみせないし、元気でいるんだろうか」と話題になっていたというのだ。
ありがたいことであるが、この日の訪問は悲しい出合い。
やむを得ず中断となった頭屋の座。
頭屋受けする頭屋箱は春日神社で保管されることになり、神事などの神社行事は村行事に移管されたという。
座の儀式はなくなったが、村行事は継承されることになった脇本。
「お月見」の在り方は個々の家行事。
おかちゃんが生きていたころは採れたコイモを洗って皮を剥いていた。
ススキ、ハギを飾ってイガグリやコイモのダンゴを供えていた。
亡くしてやる気が失せていたご主人はせめてハギでもと取っていた。
花がついているハギは少ない。
穂が出たススキは見つからなかったと云う。
イガグリはまだ青いが、割って5個の栗の実を取り出して供える。
ニギリメシは五つ。
胡麻を振ったニギリメシである。
訪問した時間帯では揃わないようだ。
「お月見」を供えるのは夜遅くなるが、M家独特の作法があるという。
お月見を供えたその夜。
寝る直前に近くの川に出かける。
そこで目を洗うご主人。
そうすれば眼病が治ると云われる作法は、子供の頃から続けている家の信仰・風習。
「寝しなに川で洗わなあかんで」といわれて作法をしていたそうだ。
付近の家では見られないが、町垣内のN家でもそうすると話す。
「近くに川があるから、そうしていたのでは」と話す。
久しぶりの対面会話に元気を取り戻したご主人。
「来年のお月見はきちんと揃えておくから」と願われて見送られた。
これまで仏壇に手を合わすこと度々ある。
「出逢い」は「別れ」の始まり・・・。
「別れの磯千鳥」の歌詞に「逢うが別れの はじめとは 知らぬ私じゃないけれど せつなく残る この思い・・・」がある。
ときおりふっと思い出したように口ずさむ唄である。
建物など「モノ」はできあがった瞬間から崩壊・消滅に向かうことに気がついたのは40年も前のことだ。
「始まり」あれば必ず「終わり」があるこの世の道理。
「侘び・寂び」であると思った。合掌。
(H26. 9. 8 EOS40D撮影)
(H26. 9. 9 EOS40D撮影)