マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

虫の知らせは悲しい知らせのお月見

2015年04月10日 08時30分23秒 | 桜井市へ
平成24年4月14日に訪れた桜井市脇本。

その日は内垣内の西・中・東の垣内3講中と町垣内の下ノ町・上ノ町の垣内2講中がそれぞれの場で行われる旧暦閏年の庚申トウゲだった。

あくる年の2月3日は頭屋八人衆が営む二月朔座だった。

翌年の二月朔座はM家が受け頭屋を勤めると聞いていたが、県文化財課の緊急伝統芸能調査が忙しく訪れることはできなかった。

しばらく離れていた脇本の行事取材である。

この日は中秋の名月。

元総代のM家では「お月見」にススキ、ハギ、ダンゴを供えると聞いていた。

竜谷の御供を取材した帰り路。

国道を挟んだ向かい側の脇本はすぐ近くになる。

車を走らせて出かけた。

畑におられたご主人。

平成24年4月14日以来、実に2年5カ月ぶりである。

懐かしい顔に誘われるときに話した悲しい知らせ。

おかちゃんが亡くなったという。

その年の8月3日の朝は二人仲良く会話して朝食を摂っていた。

畑の水まわりが気になったご主人は水やりに出かけた。

それから30分後に戻った自宅。

おかちゃんの顔が見えない。

携帯電話をかけてもでない。

たまたま来られたおかちゃんの友達が来ていた。

二人で探した。

その朝に収穫した野菜は奇麗にして袋詰めをした。

それはあるがおかちゃんはいない。

どこに行ったのだろうかと探して見れば倒れていた。

救急車を呼んで病院に行ったが、ときすでに遅しで息を絶えていた。

突然のことである死因はくも膜下出血だった。

それより二日前の通院診断では何の問題もなく喜んで戻ってきたという。

あっけにとられて茫然自失の日々。

てきぱきと動くおかちゃんがいなくなって何もかも、やる気が失せたと話す。

M家に訪れる度になんやかやとぱっぱと差し出してくれた食べ物。

コエビを入れたドヤモチは醤油をたらしていただいたのが、私が最後に交わした声だった。

仏壇にあるおかちゃんの姿は笑顔。

手を合わすとどこからともなく元気な声が聞こえてきそうだ。

S家が頭屋を勤めた平成25年2月の二月朔座ではM家の姿はなかった。

何かの事情で参列できなかったと思っていた。

もしかとすれば服忌で参列できたかったのではと思っていた。

虫の知らせは悲しい知らせ。

おかちゃんの死去だったのだ。

つい先日に老人会の寄り合いで話題になった頭屋遷し。

平成20年10月18日に行われた座の行事を取材させてもらった。

そのときの様相は平成22年10月20日付けの産経新聞・シリーズ「やまと彩祭」で紹介させていただいたが、頭屋受けを承諾する家が名乗り出ず、やむなく中断となった。

懐かしい記事は村の伝統行事が回想になった。

記録・記事紹介した私の名前が挙がって「最近は顔をみせないし、元気でいるんだろうか」と話題になっていたというのだ。

ありがたいことであるが、この日の訪問は悲しい出合い。

やむを得ず中断となった頭屋の座。

頭屋受けする頭屋箱は春日神社で保管されることになり、神事などの神社行事は村行事に移管されたという。

座の儀式はなくなったが、村行事は継承されることになった脇本。

「お月見」の在り方は個々の家行事。



おかちゃんが生きていたころは採れたコイモを洗って皮を剥いていた。

ススキ、ハギを飾ってイガグリやコイモのダンゴを供えていた。

亡くしてやる気が失せていたご主人はせめてハギでもと取っていた。

花がついているハギは少ない。

穂が出たススキは見つからなかったと云う。

イガグリはまだ青いが、割って5個の栗の実を取り出して供える。

ニギリメシは五つ。

胡麻を振ったニギリメシである。

訪問した時間帯では揃わないようだ。

「お月見」を供えるのは夜遅くなるが、M家独特の作法があるという。

お月見を供えたその夜。

寝る直前に近くの川に出かける。

そこで目を洗うご主人。

そうすれば眼病が治ると云われる作法は、子供の頃から続けている家の信仰・風習。

「寝しなに川で洗わなあかんで」といわれて作法をしていたそうだ。

付近の家では見られないが、町垣内のN家でもそうすると話す。

「近くに川があるから、そうしていたのでは」と話す。

久しぶりの対面会話に元気を取り戻したご主人。

「来年のお月見はきちんと揃えておくから」と願われて見送られた。

これまで仏壇に手を合わすこと度々ある。

「出逢い」は「別れ」の始まり・・・。

「別れの磯千鳥」の歌詞に「逢うが別れの はじめとは 知らぬ私じゃないけれど せつなく残る この思い・・・」がある。

ときおりふっと思い出したように口ずさむ唄である。

建物など「モノ」はできあがった瞬間から崩壊・消滅に向かうことに気がついたのは40年も前のことだ。

「始まり」あれば必ず「終わり」があるこの世の道理。

「侘び・寂び」であると思った。合掌。

(H26. 9. 8 EOS40D撮影)
(H26. 9. 9 EOS40D撮影)

竜谷のお月見

2015年04月09日 09時06分11秒 | 桜井市へ
旧暦正月七日の宮座行事がある「七日座」を調べていた桜井市の竜谷で出合った老婦人が話していた「お月見」。

お月さんに供えるドロイモの数は「七日座」にだされる「月の数のモチ」と同じだった12個。

家族の人数分のドロイモも供える。

皮を剥いて洗って皿に盛る。

夕方にはカドに供えておくと話していた。

傍らには近くで採取してきたススキやハギも添えると言っていた。

お月見の日は毎年替る中秋の名月日。

いわゆる満月前夜の十五夜の日である。

この日の夜は各家で供える「お月見」。

縁側に供えるところもあれば、窓越しに月を見られる場にする家もある。

竜谷に住むN家ではカドと呼ぶ場に供えると話していた。

その様相を拝見したく立ち寄った夕刻前。

まだ、お陽さんは高く光り輝いていたカド。

母親はススキやハギをガラスの壺に挿して畑に出かけたという息子さんは数年も経てば定年を迎える。

そうすれば母親のあとを継いで畑仕事に従事したいと話す。

母親が作る農作物はとても美味しい。

たくさん作って親戚筋におすそ分けをしているそうだ。



この日は家に居た息子さんが収穫したドロイモの皮を剥いで皿に盛ったという。

白い素肌が現れるまでは皮剥ぎはしなかったので見た目は悪く申しわけないという。

本来なら12個であるが、盛った個数はやや多めの18個になったと話す。

今年の十五夜は30数年ぶりの早め。

遅い年では10月初めにもある旧暦の八月十五日。

県内各地では観月祭の行事はさまざまな場で催されているが、ススキやハギを飾って月見だんごを供える家の行事もまたさまざまである。

昨今ではイモではなく、和菓子屋やスーパーで売っている月見だんごを供える家が多くなった。

都会では間違いなくそうであろう。

農家ではそうではなく昔ながらのドロイモである。

皮を剥いで丸くする。

真っ白な形にした月見だんごはドロイモが原型。

ドロイモはサトイモとかコイモと呼ばれているイモである。

丸くしたイモは月になぞらえている姿。

豊作に感謝して十五夜に供えるのである。

この在り方は「お月見」と呼ばず、「イモ名月」の呼び名がある地域は多方面に亘る。

史料によれば、供えるイモダンゴの数は12個としている吉野町津風呂(鬼輪垣内)がある。

旧暦の閏年であれば、その数は13個にするとあった。

旧暦閏年の大の月数である。

例年であれば12個。

12カ月の一年を現す数であるが、旧暦は大の月が増えて13カ月。

個数が13個になる仕組みは江戸時代までの暦に従っているのである。

今年の平成26年は旧暦閏年。

津風呂で、その後もされているようであれば、是非とも拝見したいものである。

そのような話題提供もさせていただいてN家の「お月見」を撮らせてもらった。

今年は一段と早い9月8日の十五夜。

ハギは小粒であるが花が咲いていたが、ススキは穂もなく茎だけだった。

かつては稲作におけるカドボシもされていた地はお花がいっぱい咲いている。

子供のころはカドが遊び場だったと懐かしそうに話す息子さん。

座行事やマツリのときにはお世話になることだろう。

N家の石垣に咲いていた渡来系ベゴニア属のシュウカイドウ(秋海棠)が美しく、光り輝いていた。

(H26. 9. 8 EOS40D撮影)

阪原南明寺重陽薬師会

2015年04月08日 08時07分39秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市阪原に建つ南明寺は真言宗御室派。

いずれも重要文化財に指定されている本尊薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の藤原三仏を安置している。

本堂に初めてあがったのはこの年の3月16日だった。

その日は南明寺の涅槃会だった


すべての扉は閉められた本堂は真っ暗闇。

ローソクの灯りや僅かに挿しこむ日中の光りに見えた涅槃図であった。

大きな涅槃図の後方にあるのが三仏だ。

この日、初めてお会いした住職は平成14年に副住職。

平成21年より住職を勤めてきた米田弘雅住職である。

涅槃会を終えてご挨拶をさせていただいた。

取材の意図、心がけなど話せば、「そうであれば、写真を撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。

その後、阪原で行われた地蔵盆に念仏を唱えられた住職。

顔は覚えてもらったようで、これより始まる重陽薬師会の撮影許可をいただいた。

但しである。

本堂での立ち位置は限定。

中央は決して入らない。

立ち位置は決めた以上、その場から動いてはならぬ、ストロボは厳禁であるというお達しである。

涅槃会の際にご挨拶をさせてもらった檀家総代らも私の顔を覚えておられた。

ありがたいことであるが、入堂許可をいただいたのは私だけだった。

舞楽を奉納される天理大学の記録係は本堂柱、若しくは本堂内。

決して法要の妨げにならないよう気を配る緊張したなかでの撮影となった。

平安時代に寺を再興したという公家の信西入道(藤原通憲)を偲び、長寿を祈る重陽薬師会を興したのは平成18年。

舞楽や読経の後、菊の花を浮かべた酒を振る舞われる。

本堂にあがる人たちは大師講の婦人もおれば、村人檀家も、である。

南明寺に出向く直前に伺った富士講中

お世話になったOさんやYさんも参られた。

受付を済ませば三仏に手を合わせる村人たち。

その前にはたくさんの菊の花を盛っている。

重陽に相応しい菊の盛りだ。

その横には樽酒や菊の花びらを入れた大きな深皿も置いてある。

さらに置いてあった金属鉢には菊の花びらを浮かべた酒もある。

菊の節句に相応しい振る舞いの菊酒である。

南明寺の重陽薬師会法要は、かつて南都や京都の諸寺などで行われていた法要などの次第から新しくした式次第をつくっている。

工夫を凝らした式次第は毎年異なる。

この年は「唄・散華・梵音・錫杖の四声明・作法からなる「四箇法要」に舞楽を加えた法要とされた。

始め1.は「振鉾(えんぶ)」である。

最初に舞われる儀礼的な舞いである。

式次第の詳しいことは受付でいただいた資料に書いてあるが、ここでは以下、引用・略記しておく。

左方(唐楽)と右方(高麗楽)より、それぞれ一人の舞人が鉾を持って舞台に登って場を清めるように振る。

舞い作法は廃絶した東大寺の華厳会の振鉾作法を参考に復元したそうだ。

次は2.「庭讃(ていさん)」。

真言宗では「曼茶羅供」や「伝法灌頂」のような大儀の法会・法要では、堂内に入る前に「庭讃」を唱えられる。

独特の抑揚で唱えた「庭讃」は「四智梵讃」。終わりに鈸が打たれ、法螺を吹く。

次は3.「惣礼」。導師以下職衆が道場に入って本尊や聖衆を三度礼拝する。



次は4.「供花」。本堂奥内より登場した天童、迦陵頻(かりょうびん)が整列して菊花を手渡し仏前に供える。

次は5.「如来唄」。佛の妙なる身体と、その教えの常住なることを称える声明を唱える。



次は6.「散華」。初段・中段・後段の三段からなる声明で各段の終わりに花弁をかたどった紙を散らす。

次は7.「讃」。この年は大日如来の四つの徳を賛美する「四智梵語(しちぼんご)」を唱える。



次は8.「満歳楽」。平舞の四人舞。襲装束の袍を片肩袒にし、鳥甲を被って四人で舞う。

涅槃の場合はすべての扉を閉めた本堂内でお勤めをされていたが、重陽薬師会は舞楽を披露される場と繋げた本堂。

すべての扉を開放する。



外は真夏とも思える日照りで暑いが、お堂の内部は爽やかな風を撫でるように通り抜ける。

次は9.「錫杖」。「満歳楽」を演舞している終わりごろに迦陵頻が錫杖を職衆に手渡していた。

錫杖は僧侶が山野を遊行する際に用いる杖。

錫杖を鳴らして村人に来訪を知らせ、獣を追い払う金属製の環がある。

音色を聞いた人たちが発心修行して成仏することを願った「九条錫杖経」を声明する。

次は10.「延喜楽(えんぎらく)」。「満歳楽」と同じくおめでたいときに舞う平舞の四人舞。

襲装束に鳥甲を被って舞う延喜楽は別名に「花栄舞」の名がある。

次は11.「表白」。導師が本尊前にて仏事の目的や趣旨を告げる。

次は12.「分経」。供花作法と同様に雅楽を奏そうする最中に聴衆が読誦(どくじゅ)する経巻を天童・迦陵頻(かりょうびん)が分配する。

次は13.「神分・勧請」。道場に佛・菩薩・諸神を勧請して読経や法要の功徳を分かち合う。そして、魔隙から法会を擁護する。

次は14.「経釈」。般若心経を講釈する。

次は15.「読経」。般若心経を読誦し、本尊薬師如来などにご加護を願う。

次は16.「惣礼」。法要の終わりに再び本尊や聖衆に三礼して退出する。



導師以下職衆が退出されたあとは、左方舞楽<蘭陵王>を舞う。



17.「入調舞楽」。走舞に属する一人舞である。



この年は徳川宗武(徳川吉宗の息子)が『楽曲考』で考証した舞楽作法に則り奏舞された蘭陵王の舞。

9回目の重陽薬師会は。本尊薬師さんの供養に法要を終えた。

配られた資料には翌年の行事日も案内されていた。

10回目は「十種供養次第による舞楽法要」になるそうだ。

ちなみにこの年の10月26日から11月2日までは本堂が特別公開される。

その本堂で参拝者へ振る舞われる菊酒に行列ができあがった。

(H26. 9. 7 EOS40D撮影)

日清でかぶと1.5マー油とんこつ

2015年04月07日 08時51分06秒 | あれこれインスタント
買い置きしていたカップラーメンは車中食。

早めに出かけてご住職に挨拶しなければならない。

そう思って車に詰め込んで走ったのだ。

涅槃の際は行事後になった。

そのときに話していた「前もって言ってくれれば・・」である。

先々月は地蔵盆の場で法要されていた住職。

この日にお会いするのは3度目。

快く堂内の撮影を許可してくださるが条件付き。

立ち位置はここか、あちら。

そこからは動いてはならぬ、法要の邪魔をしてはならぬ、ストロボは厳禁ということだ。

当然のことである。

寺の駐車場も臨時で設営された指定場所。

それから伺った富士講の一人。

取材でたいへんお世話になったお礼に記録の写真をさしあげた。

喜んでいただいたご主人もこの日の重陽薬師会に参られる。

前もって済ませた所用。

ようやくお昼にいただけるカップラーメン。

この日のメニューは日清でかぶと1.5マー油とんこつ。

ちゃんぽん麺のような太さの麺である。

1.5倍の量に圧倒される。家で沸かしたお湯はポットに入れてきた。

でかさも太さも1.5倍のカップラーメンはお湯入れ4分間。



太さの関係で1分多く待って添付の調味オイルを入れる。

真黒なマー油が刻んだネギの海に浮かぶ。

香ばしい匂いが漂ってきた。

ネギはとにかく多い。

ありがたいことである。

深みのある味に麺がつるつる喉を通る。

(H26. 9. 7 SB932SH撮影)

シンカン祭り宵宮行幸

2015年04月06日 07時31分48秒 | 天理市へ
蒸し暑い日になった6日。

汗が被服内部をつたう。

9月初めに行われる天理市海知町のシンカン祭りに伺った。

前日の七日座を終えた大・小当屋らはこの日に行幸をする。

七つ御膳などの神饌を納めた唐櫃を担いで倭恩智神社を目指す。

ここ数年間はシンカン祭りの調査をしてきたこともあって氏子たちとは顔馴染み。

ハレの姿を撮らせていただく。

今年の大当屋はSさん。

美貌の娘さんは薬大出身の薬剤師。

虫がつかないうちに嫁入りさせたいとかつて大当屋を勤めたOさんが懇願する。

私の姪っ子も同業の薬剤師。

彼女同様に未婚だ。

どなたか手を挙げて欲しいと願われた。



神事を終えた村人たちは神饌を下げた拝殿で直会をされる。

大きなスルメ一枚をよばれていた。

いつもの直会の在り方だ。

直会を終えた数分後。

にわかに黒い雲が湧いてきた。

雷もゴロゴロと鳴りだした。

夕暮れどきに発生した真黒な雲は県南部にあった。

北部は短時間であったがバケツをひっくり返したような雨だった。

長く降らなかっただけに助かったと思ったが、行幸を終えた海知町では宵宮に御湯之儀やお神楽がある。

平成18年に訪れたときも雨だった。

傘をさしてもらって作法をする御湯之儀を拝見したことがあるから中断はないと思っていた。

が、この日はあまりにすごい豪雨でやむなく中断された。

ただ、拝殿でのお神楽は実行されたと後日に伺った27日に聞いた。

(H26. 9. 6 EOS40D撮影)

櫟枝のごーさん札

2015年04月05日 07時56分46秒 | 大和郡山市へ
行事の名称を聞きそびれていた大和郡山市櫟枝町のマツリ。

かつては9月15日であったが、昨年はそれより早い第一週目の日曜日だったと聞いている。

もしやと思って出かけたが八幡宮にはどなたもおられなかった。

乗っていたトラクターから男性が降りられた。

行事のことは村の人に聞けば判ると思って尋ねた。

宮さんのお渡りはあるにはあるが、隣村の新庄町のような和装でもなく普段着。

随分と簡素化したと話す。

トーヤの家から出発して宮司が神事を執り行われる。

トーヤについていくのは4人の手伝いさん。

なんでも年長者から一老、二老、三老、四老の呼び名があるそうだ。

そうであれば「座」の存在であるが、あくまでもマツリの主役はトーヤさん。

これまで拝見した県内各地の在り方から考えれば主客転倒したのではと思った。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば櫟枝町には宮座は「なし」と書かれていた。

座の在り方はすでに退廃していたのであろう。

話しをしてくださったNさんは75歳。

若い時から村の農業委員を勤めてきた。

神社の事情も詳しいが息子さんなど若い人たちに後継を譲ったという。

座の饗応にも参加をせず、お渡りが着くころに神社へ寄るだけにしたという。

隣村の横田町は150戸もあるが、櫟枝町は25戸の集落。

嫁入りも葬儀も家内で行っていた。

今では簡素化され、念仏講が営む7日タイヤの数珠繰りやご詠歌もすることがなくなったという。

時代とともにかわった生活文化の流れである。

農業を営むNさん所有の作業場。

ここには知り合いの人が集まってたむろする場。

いろんな人が交流する場でもある。

県立民俗博物館にはかつて所有していた竃を寄贈したことがあるという。

何らかの展示に寄贈した竃があったそうだ。

竃には煤がつく。

それを版木で摺るごーさん札の墨にしていた。

煤のごーさん札は2年前の苗代で拝見したことがある。

そんな話をすれば、2階に残していると案内してくださる。

1町7反もの田んぼがあるから苗代も2カ所。

そういうわけでごーさん札は2本授かっていた。

年々減らした田んぼ。苗代田も減らして1本にした。

「よかったら貰ってくれるか」と云われて2本のごーさん札をいただいた。

ひとつは墨汁で摺った札。

もうひとつは煤を混ぜて摺ったお札である。

今年の苗代田で拝見したごーさん札は墨汁であったが、2年前は煤を混ぜたお札であった。

札を広げて見るわけにもいかなかったので、お札の文字は判らなかった。

いただいたお札を広げてみれば、中央に「八幡宮」。

右が「牛□」で左は朱印を押した「寶印」である。

2年がかりで判明した櫟枝のごーさん札であった。

版木は何年間も使っているから一部分が欠けているように見える。

煤を混ぜたお札も拝見した。

これにははっきりと文字が判るが、「牛玉(若しくは王)」にあたる「玉」は文字ではなく寶印のような形に見える。

2階にはもっと面白いものがあると見せてくれたのは、昔ながらの雨具。

藁製の蓑(みの)である。

跳ねておらず、太さもある稲のような藁が何本もあるように見えたので棕櫚(しゅろ)ではなく、萱の茎ではなかろうか。

また、かつてカドボシに敷いていたミシロ(ムシロ)も残されているN家の民俗調度品。

学芸員に伝えたくなった。

隣村の横田町は郡山藩。

市内の東側はほとんどが郡山藩であるが、西は片桐藩。

櫟枝は高取藩であったという。

(H26. 9. 6 SCAN)

春日不動院高野山結縁行脚

2015年04月04日 07時56分30秒 | 山添村へ
高野山奥之院で1200年も燃え続ける弘法大師の永遠の命とされる浄火「不滅の聖燈(しょうとう)」と大師が唐から投げると高野山に落ちたという「飛行三鈷(ひぎょうさんこ)」が山添村春日の不動院に到着した。

三重県内を巡って奈良入り後の3日は奈良市の大安寺。

4日は生駒山龍眼寺(大阪大東市)。



5日が不動院であった。

そして、6日は橿原市東池尻町・妙法寺、7日は御所市東佐味・弥勒寺へと向かう高野山結縁行脚。

住職が結縁の法会をされる場の前に置かれた大きな木製の「撫で三鈷」は五色の紐で繋がっている。

法要を終えた村人は大師ご縁に「撫で三鈷」を手で撫でていた。



龍厳山不動院は真言宗派。

前月に寺総代のMさんに教えていただいて訪問した。

この日は高野山結縁行脚。

これまで住職とはいくつかの山添村寺行事でお会いしている。

大字菅生では施餓鬼、大字広代ではオコナイである。

第22世住職(平成19年4月晋山式)を勤められる前川良基さんは大和郡山市矢田町の矢田寺大門坊住職の前川真澄さんともご関係がある。

真澄住職とはこれまで幾度かの行事でお世話になっている。

不思議なご縁成り、である。

(H26. 9. 5 EOS40D撮影)

2014十津川遊びp2

2015年04月03日 07時31分32秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
一夜が明けて朝食。

適度な酒量であったのか、目覚めが良くて7時の朝食。

いつもならだいたいが8時。

一時間も早い朝食になった。

おかずの種類は毎年増えているのではと思うぐらいに配膳された。



焼き魚の鮭、ヒジキ・アゲサン・ニンジンの煮物、ミョウガ・カツオブシを振り掛けた冷ややっこ豆腐、野菜サラダを盛ったステーキハム、味噌汁、味付け海苔、生卵、ナス・コウコの漬物、梅干しに納豆だ。

生卵でご飯が一杯。

おかずで二杯、三杯も食べてしまうが、納豆はいただけない。

子供のときから禁食している納豆は遠慮する。

そのころに戻ってきた民宿津川の息子さん。



鮎のサシアミ漁が解禁されるこの日の朝に仕留めてきたと運ばれたアマゴはおよそ30cm。

とてもでかいアマゴは見せてもらって感動する。



20歳のころから毎年通う民宿津川には野猿(やえん)がある。

30年前は現役だった野猿は向こう岸に行くためにあった。

鉄製のロープをえっちらえっちら手で引っぱって移動するのだが、真ん中辺りにくれば戻るのがたいへんだった。

その下を流れる滝川は鮎の川。

3年前の豪雨でほぼ全滅。

今年はようやく復活したものの、台風11号の影響で上流の栗平にできた土砂ダムが決壊した。

栗平川から溢れた川の水位は重機もおし流す。



水量は溢れかえり、岸が流されそうになったと話す隣家のおやじさん。

3年前のことだ。

平成23年9月に発生した台風12号の影響による豪雨である。

山を崩し、川を堰き止めた。

山津波による川の段波で家が押し流された。

対岸が山崩れしてそれが何十メートルも高いところにあった崖を家もろとも崩した。

次々と映し出される映像に涙がでたことを覚えている。

その後は、大雨ともなれば直ちに公民館に避難するようになったと話す住民。

下流はもっと悲惨で移転を考える人も少なくないと云う。

8月20日に民宿津川に電話したときにねえちゃんが話したそのときの状況。

豪雨の影響で内原辺りにあった砂防堤が決壊し濁流が発生したと云っていた。

滝川集落には影響が無かったと云っていたが、想像し難い状況であったことが眼前に広がる。

流木があまりにも多い痕跡に足が震える。

しばらく時間を過ごして出発するが、例年のごとく撮った記念写真。5人では寂しすぎる。

前日の土曜日は崖崩れ工事の土砂を運ぶダンプカーが占有していた内原地区上流。

この日は工事が休みでダンプカーは出動していない。

上流1km先は笹の滝だがここで停止



平成27年3月25日まで行われる災害復旧工事でこれより向こうは通行禁止。

ゲートに書かれてあった崩土及び路肩決壊による全面通行止め。



工事期間は3月25日であるが、ここでは復旧未定とあった。

ここで川原に下りて食事の設営をする。

食事時間にはまだ早い。

友人たちは早速、竿を出して魚釣りに興じる。

その間は通行止め付近を散策して山の花を観察する。

岩崖は常に水が湧きでて染みている。



滝川渓谷は毎年8月末に出かけるが、例年ともイワタバコが迎えてくれる。



昼間であっても影になる岩地一面に咲いている。



足元にはホトトギスも咲いていた。



よくみればヤマジノホトトギスである。



斑点の少ない白花のようなヤマジノホトトギスも咲いていた。



潜んで咲いているように思えた地味で目立たないラン植物が見つかった。



トンボソウに似ているが、なんとなく違うような・・・。

ヒロハノトンボソウ、それともオオバトンボソウであろうか。

もう一つ、細い茎にピッピと飛び出すような花と思えないような小さな花。



イネ科の植物であろうと思って調べてみればチジミザサだった。

その場へ到着した一台の車。

和歌山からやってきた家族連れが目指すのは笹の滝だった。

秘境の名瀑として知られる笹の滝は、熊野川支流の滝川の12km上流部にある。

源流は近畿の屋根といわれる大峯山系だ。

勢いよく流れ落ちる笹の滝の主瀑は落差約30mにもなる。

流れ落ちた滝の川はなだらかな渓流で沢沿いに道がある。

訪れる観光客も多いのである。

全面通行止めは十津川村観光協会のHPに記載しているが、知らずやってきたと云う。

滝川に入る場には通行止めの立て看板があるのですが、気がつかずここまでやってきたのだ。

来ていただいたのに笹の滝には行けない。

申しわけないと思って案内してあげたイワタバコやホトトギスの花。

始めて見たと喜んでくれた。

これも一つの「お・も・て・な・し」と思って良いだろう。

食事を始めたのは11時20分。

民宿津川でよばれた朝食でお腹がいっぱいだったが、時間ともなれば身体が自然に反応するお腹の減り具合。

早速、フライパン料理を始める。



油はエクストラバージンオイルだ。

我が家ではサラダ油は使わなくなった。

旨みを引き出すエクストラバージンオイルの味は我が家の定番。

瓶に詰めかえて持ってきたのだ。

高取町の住民に貰ったシシ肉は半分残しておいた。



塩・胡椒を振って焼いていく。

できあがればブラックペパーも振り掛けた。



前日と同じく美味しくいただいたシシ肉はあっという間に胃袋行きである。

次のフライパン料理はモヤシ。



うちのご飯シリーズの「モヤシ・ネギ・味噌」炒めである。

肉は米国産切り落とし豚肉。

包丁でザクザクみじん切りにして混ぜた。

食欲をそそる味である。



ゴーヤは塩で揉んでプライパン炒め。

さっぱりした食感が好のみだ。



次は肉入りギョーザ。

味はもひとつだった。

例年持ってくるみんみんギョーザの方が美味いと感じた。

次は味付け若鶏ムネ肉。



ぶつ切りしてフライパンで焼く。



適当な焦げ目がついたら食べごろになる。

次はゴーヤにモヤシ。



切り落とし豚肉多めに入れて塩・胡椒で焼く。

こんな料理でお腹が膨れるんやろかと思う人は若者。

63歳の私以外は60歳手前。

年齢を感じる年ごろにはこれで充分のようだと思いつつ次の料理は魚肉ソーセ-ジ。

商品名はニューバーガーであるが魚肉である。



塩・胡椒も要らずのニューバーガーはスライスして焼くだけだが、ちょっと切り過ぎた。

フライパン料理の〆はタマゴ焼き。

余ったネギも入れて焼く。

焼くごとに料理人は入れ替る。



ちょちょっと焼いてとじたタマゴを落とす。

箸でぐちゅぐちゅして膨らます。



焼けたタマゴをくるっと返す。

何度か繰り返してできあがり。



食事を済ませば設営の後片付け。

いつでも撤収できるように川で汚れを洗い落として乾かしておく。



洗剤を使わず水洗いで済ます。

食後のあとは釣り三昧。

スーパーで買ってきたイクラをエサに釣り始める。

な、なんとである。

4年ぶりにアマゴが釣れたのだ。



久しぶりに拝見するアマゴは何匹も釣れた。

魚影はそれほどでもなかったが、底に泳いでいたアマゴが釣れた。

放流サイズぎりぎりのアマゴは復活したと思う。

来年も来るからもっと大きくなぁれと云って放流した。



満喫した川原を離れて下る途中にある集落は内原地区。

滝川の最奥は「奥里」の集落であるが、その手前が内原だ。

40数年間も通っている十津川村の滝川渓流。

鮎釣り師はそれほど多くない。

昔の栗平の川は魚影が濃いかったと聞いた。

アマゴもいるらしいが入川したことがない。

3年前の豪雨・土砂ダムで全滅したそうだ。



集落入口辺りの樹の下にキノコの一種と思われる白きものがニョキニョキと林立していた。



ひょろひょろしたキノコは成長したモヤシのように見えた。

分岐がみられないことからシロソウメンタケと思われる。



シロソウメンタケは食用だが、味はないそうだ。

ある人はワカメ・キュウリに三杯酢で食べたと記述していたが・・・。

民家が建ち並ぶ山村景観は毎年の楽しみであるが、眼下の川に下りたことはない。

一人の鮎釣り師がいたが釣れた様子は見なかった。

かつて集落に入る道はコンクリート製の橋だった。

今では車は通ることはできず、迂回路を設けた。



山村であるが、稲作もされている。

2週間もすれば稲刈りであろう。

レンズ越しに見た民家に高く組んだ構造物がある。



刈った稲のハザ架けなのか、それとも吊るし柿を干す棚だろうか。

来年に訪れるときは聞取りをしてみたいと思った民俗の生活景観である。

こうして滝川を楽しんだあとは汗を流す。



行き先はいつもどおりの滝の湯だ。

民宿津川でいただいた優待券を有効的に使う。

本来なら600円の入湯料が300円。

ありがたく利用させていただいた。



両日とも雨にあたらず、無事、怪我も事故もなく、18時50分、自宅に戻った。

一人ひとりが考えて役目をこなす行動に盛りあがった川原。

アマゴも釣れたし、めでたしめでたしであるが二日間も使った食事道具は数が多い。

自宅に戻った翌日は来年のために奇麗に洗っておく。

洗剤で洗って天日干し。乾いてからバック詰めする。

使い捨てのカップ、プレート、箸などは残った数量も数えておく。

これら纏めて我が家の蔵に納める。

半日がかりの作業はいつものことだ。

(H26. 8.31 SB932SH撮影)
(H26. 8.31 EOS40D撮影)

2014十津川遊びp1

2015年04月02日 09時31分31秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
今年は欠席通知が多くなり、参加は5人になった十津川遊び。

男ばかりの5人も初めてだが、これまでの記録を塗り替える最低人数になったことも初めてである。

平成16年は男性4人に女性が2人の6人だった。

平成15年は11人。

平成17年は14人。

平成18年は16人。

平成19年は12人。

平成20年は8人。

平成21年は14人。

平成22年は16人。

平成23年は11人。

平成24年は10人。

平成25年も10人だった。

仕事の都合で参加できない人もおられるが、子供が大きくなって中学校ともなればクラブや入学試験などで遊びどころではない。

毎年上昇する年齢で若手の人たちも定年迎えが増えつつある。

親の介護で自宅を離れることも難しくなった。

案内状を通知して欠席の連絡を拝読してそういう時代を迎えたと思った十津川遊びも今年で31回目。

初めて十津川に出かけたのは40年も前。

まだ二十歳過ぎだった。

そのときは車でなく奈良交通を利用するバス旅だった。

奈良駅だったか、それとも八木駅だったか記憶は飛んでいるが、五條バスセンターで乗り換えたことを覚えている和歌山新宮駅行きの路線バス。

乗車率は高かった。

当時勤務していた会社で三交替勤務をしていた。

前日は夜勤だった。

仕事を終えて始発バス停留所に向かった。

そこには若手SVが2人。

SVをアシストするOPの4人が待っていた。

夜勤帰りなのに目が覚める。

バス旅道中は長時間。

十津川に向かう道路は砂利道で乾燥した砂埃が舞っていた。

トンネルも少ない曲がりくねった道は細い道。

車酔いする人にとってはたぶん無理だろう。

乗車するお客さんは多く座席は満席だった。

席を譲った若手は立って吊り革持ちで延々と向かう先は風屋停留所。

そこから歩いて到着した民宿が津川さんだった。

昼は過ぎていたと思う。

民宿の昼食は冷やしソーメンだった。

民宿の下に流れる川は滝川。

ピチピチと光る魚が泳いでいた。

エサを投入して釣りをしてみるが、いっこうにアタリがない。

それもそのはず、魚は鮎だった。

釣りが好きなめんめんが気にいった民宿。

数年間の夏旅はここにしていた。

その後は参加メンバーも増えて信州まで出かけたことがある。

もっぺんあそこに行きたいという気持ちが高ぶって、再び滝川へとなった十津川遊び。

初期は記録を残していないので、明白ではないが、今回で31回目を迎えるこになった。

7月半ばに民宿津川に予約電話をかけたが、そのときは参加人数は確定していない。

たぶんいつもより人数が少なくなるようだと伝えておいた。

その後の8月9日。

台風11号の影響で大雨になった。

各地で被害が発生しているニュース報道。

そのころの参加人数はわずか4人。

取りやめの決断が迫ってきた。

通信不能だった一人から参加すると連絡があった。決行である。

例年ならば花火もするが子供はいない。

おっさんばかりでは不要である。

食事の内容・分量は大幅に変更せざるを得ない。

食材などは事前に準備するのだが気乗りしない。

人数が確定した旨、民宿津川に連絡した8月20日。

電話口で話す滝川の状況は悲惨だった。

お盆前の11日。

台風11号による影響で、十津川の栗平地区にあった土砂ダムの仮排水路が損壊して大水になったと云う。

重機も押し流される濁流で生きた心地がしなかったと話していた住民の声。

民宿のねえちゃんらは大阪に避難していたが、住民は公民館に避難していたと云う。

気象庁発表の降雨量は475ミリ。

おっとろしい雨量である。

そのような状況で、せっかく復活した鮎もまたあかんようになったと電話口で話す。

で、滝川はどうなのか。

13日の国交省の情報によれば立ち入り調査が不能な現状であると知らせていた。

笹の滝へも行けなくなった昨年よりまだ手前の土砂ダム決壊。

栗平地区の砂防ダム工事を早急に進めるとあった。

福知山といい、広島といい、豪雨によって甚大な被害がでているが、滝川集落には影響ないということだ。

例年と違う様相は電話口では判らない。

行ってみてから判断するとした。

さて、食材は何にするかである。

高取町の住民に貰ったシシ肉がある。



1本はすき焼きにして家族3人で食べたが、脂がのってとても美味しかった。

こんなに美味しいシシ肉は持っていってみんなに食べてもらおうと思った。

なんせでかい一本なので、5人でも食べきらんような量である。

残すかもと考えて半分に切ってもっていくことにした。

例年なら乾麺を茹でてぶっかけうどん。

余ったうどんはゴーヤを入れてゴーヤうどんチャンプルーにしていた。

5人であればうどんでお腹が膨れる。

そう思ってうどんをチェンジして、乾麺は食べやすいソーメンにした。

冷やしソーメンで残りをゴーヤチャンプルソーメンにする考えだ。

たまたま貰った1本のゴーヤを持っていくことにする。

食材の買出しは出発する二日前。

4品の簡単料理を買ってきた。



モヤシ・ひき肉を入れて作る麻婆春雨。

エリンギを入れて作るエリンギの春雨炒め。

春雨ばかりやんかと云われそうだが、お腹に堪えないからそれでいいのだ。

ピーマンと豚肉を入れて作るチャプチェも買った。

これもまた春雨の一種である唐麺(タンミョン)。

春雨よりも強く歯ごたえを感じる麺だ。

春雨は緑豆やジャガイモ・サツマイモデンプンが原料で食べやすい。

麺ばかりではと思う人もあるので、蒟蒻・ヒジキの炒り煮も買ったお手軽セットである。

それだけじゃ足らんやろと思って翌日も買出し。



モヤシを入れて作るもやしのねぎ味噌炒めも揃えた。

魚肉バーガーは我が家の必需品。

野菜炒めするも良しやし、厚めに切ってフライパン焼きも良しである。

肉餃子もフライパンでできる。

あらびきスパイス焼きの鶏肉やあらびきウインナーも買った。

そうそう忘れてはならないエサも要る。

生食用のイクラはアマゴ釣りのエサに欠かせない。

野菜は簡単料理に間に合わせるピーマン、モヤシ、キャベツ、エリンギ。ニンジンは切るのがめんどくさいというわけではないが、分量から考えて多くは要らない。

そう思って袋入りのカット野菜を買った。

豚肉は切り落としだ。

2パックで540g。

妥当な量だと思うが、買ってきた品物を見たか-さんが云った。

「そんなに買って食べきれるんか」と問われた。

食材は揃ったが、料理をするには鍋・器・箸、カップにコンロなどがある。

蔵出ししたいつもの道具を詰め込んでできあがりではなく、他にもある。

出汁、塩、胡椒、油、生姜、山葵などは我が家の残り物だ。

出発地は我が家。

そこへAさんを乗せたUさんが車でやってくる。

ガソリン代を節約しようと1台を提案したが、Uさんの事情によって2台で行くことになった。

出発時間は朝8時10分。

目指すは大和高田駅だ。

この日の道路はすいすい状態。

詰まることなく8時半には早々と着いた広陵町の安倍。



スーパーセンターいずみや近くのコンビニで小休止。

電車でやってくるUさんに電話をすれば、まだ八木駅だと云う。

特急、急行列車の時間待ちだと云う。

時間調整して大和高田駅で合流した時間は8時53分。



予定していた時間より7分も早かった。

御所、そして五條・吉野川を渡って旧西吉野・旧大塔村を走り抜ける。

大阪からやってくるSさんと待ち合わせる場は「吉野路大塔」の道の駅。



なんと10時9分に着いた。

大和高田から道の駅まで1時間20分。

今年はむちゃくちゃ早いのである。

道の駅には大きな看板で旧大塔村の観光資源を案内している。



県無形民俗文化財指定の伝統行事である阪本の「阪本踊り」や篠原の「篠原踊り」が書いてあるが、現在は実施されていない。

「阪本踊り」は平成23年以降中断中。

「篠原踊り」は平成23年に発生した宇井の崖崩れや高齢化によって踊り手が5人になったことから平成26年からは中断せざるを得ない状況になっていたが、存続に向けて踊り手を一般募集され練習に入ったと7月21日付けの奈良新聞が伝えていた。

トイレ休憩を済ませて10時15分に再出発した5人はいつもの陸路で滝川を目指す。

民宿津川に着いたのは11時8分。



これもまた早くなった。

毎年お世話になっているから顔馴染み。

元気な顔をみせてくれる。



欠かせない手土産を渡して、明日の食材を預かってもらう。

詰め込んだ今年の分量は少ない。

軽くなったものだ。

滝川の様相を拝見すれば、川岸にたくさんの木が流れ着いていた。

滝川に下りる場をどこにするかノロノロ運転で走る林道。

栗平川が合流する橋を渡る。

水位はそれほどではないが、泥色になった河である。

ここから上流が土砂ダム決壊地。

工事が始まっているようだ。

ひとまず目指した内原。

いつも利用させてもらっているトイレがある処である。



そこには「全面通行止 これより6.5キロ先 崩土及び路肩決壊にため全面通行止 笹の滝には行けません」とある。

それより先の奥里には昨年あった通行止めのゲートは外されていた。

笹の滝には行けないが、どこまで行けるかである。

狭い林道をそろそろ走る。

カーブミラー越しに見えた大きな車体。

ダンプカーである。

これまで見たこともない大きなダンプカーである。

上手な運転で除けてくれた運転手の目が光っている。

もう少し走ってみれば、ダンプカーが停まっていた。

運転手に問われた行き先。

その場は崩れた土砂を運ぶダンプカーの回転地。

入ることはできないと云う。

僅かな場所で反転して戻った。

ここなら安心して停められる内原のトイレ処。

何台も行き交うダンプカーの休憩場であった。



お聞きすれば一日に5往復もする土運びは土曜日も働いておられたそうだ。

私たちの食事処の設営はこの場。



12時ジャストだった。

とにかくお腹が空いた。

簡単料理を始めるには水が要る。

トイレ脇に設置してある蛇口に供給されているのは井戸水。

というよりもポンプで汲みあげる谷川水だ。

大鍋に入れて湯を沸かす。

ソーメンを湯がくのである。

うどんなら10分もかかるが、ソーメンであれば1分半から2分間。



あっという間である。

その間にさばいたシシ肉。



冷凍していたが溶けて柔らかくなっていたから包丁が入り難いとAさんが云う。

フライパンで焼くが、下味はと問えばまだやった。



今なら間に合う下味は塩と胡椒。

あらびき胡椒も入れて焼いたシシ肉はとろけるな甘さで肉汁がじゅうじゅう湧いてくる。



柔らかくて旨みのあるシシ肉は大評判。



あっという間になくなった。

茹でたソーメンは透明カップに入れたみつかん追いかつお汁でいただく。

生姜、山葵はお好み次第。

買ってきた刻みネギも入れていただく。

この日の風屋測候所が伝えた気温は29.9度。

涼しい風が通りぬける内原であるが、日差しはキツイ。

もみのりをぶっかけた冷たいソーメンが喉を潤して箸が止まらない。

おかわりは茹でたソーメン。

ザルに盛ったソーメンが消えた。

食べている最中もプライパン料理が続く。

買ってきたトップバリューのウインナーソーセージ。



ただ焼くだけだ。焦げ目がついたらできあがり。

ぷっちっと感で味わえる。

中身の種をとったピーマン。

カットされたニンジン、キャベツにモヤシを入れて作る麻婆春雨。

何かが足らない。

商品袋に書いてあったひき肉。

それは二つのパックで買った豚肩切り落としを包丁で細切れにするつもりだった。

確かに詰め込んだと思っていたが見当たらない。

はっと思い出した。

2パックとも民宿津川に預けたんだった。

明日は2倍食べさしてあげるわといっても納得いかない友人たち。



仕方なく食べた麻婆春雨は美味いやん。

春雨の量は少ないが野菜がカバーしてくれる。

次の簡単料理はエリンギの春雨炒め。

春雨料理が続くのである。

適度に切ったピーマンを入れる。

もう一つの野菜はエリンギ。

肝心かなめのエリンギがない。

見当たらないのである。

そういえば冷蔵庫から取り出した記憶がない。

エリンギは自宅に忘れてきたんだ。

仕方ないからたまたま冷蔵庫にあったエノキを持ってきたことに気がつく。

それでいいんじゃないのというわけだ。

根の部分をざくっと切って、適度に手でさばく。

ばさばさ入れて混ぜる。

半分に分けたカット野菜も入れて炒める。



できあがる寸前に春雨を入れる。

これもまた美味しくいただくお手軽料理。



もう一品作ろうかといっても回答なし。

お腹が満腹になったのだ。

いつのまにかダンプカーが動いていたことも知らずに、ゆったり寛ぐ内原に集落がある。

山間村落の景観に見惚れていた時間帯は15時。

川に下ろうという声で動き出す。



エサと竿を持って歩いていく集落には橋が架かっていた。

川原を見渡せば一人の鮎釣り師がいた。

釣れている様子は見られない。

どこから下りられるのか。

探してみる。

畑の間の道をつたって下りた3人。

魚がおらんというが、橋の上から見ていた私にははっきりと魚影は見える。

黒さ、大きさ、泳ぎ方からおそらくウグイであろう。

うじょうじょ泳いでいるが下りる気はしない。

渦を巻いていたところに泳いでいた魚。

遠目であるが間違いなくアマゴである。

泳ぎ方が違うのであるし、僅かに見えた側面に特有の文様があった。

うろうろしている間に小雨模様。

身体も冷えてきた。

そうだ、温泉に行こう、である。

食事のあと方づけは終わっている。

食事を済ませたころに掛かった携帯電話。

ここはソフトバッンクでも繋がるのである。

写友人からの相談電話であった。

写真にタイトルなどを県立民俗博物館に提出したが、仲間から一言あったそうだ。

それに悩んだ件を伝えてきた。

たしかにその意見は本人は悩まれるが、言われた通りにしなさいと伝えた。

そうこうしているうちに4人が方づけてくれたのである。

指示をしなくともかって知ったる十津川遊び。

テキパキと収納し終わっていたのだ。

小雨だった雨はやがて本降りになった。

滝川を下って本流に沿った国道を走る。

道路は滑りやすくなっている。

やがて着いた昴の郷。

丁度16時だった。



ここで浸かる温泉は源泉かけ流しの宿のホテル昴。

民宿津川でもらった優待券を渡せば800円のところを500円になる。

300円の割引は助かる。

ホテル昴の湯加減がお気に入り。

内風呂、外風呂で汗を流して滝に打たれる。

長湯出来る人が羨ましい。

20分浸かってロビーで休む。



天井を見上げれば美しくキャンドルライトが輝いていた。

のんびりとした寛ぎタイムは騒がしい下界を忘れて、1時間20分も滞在した。

民宿に戻った時間は18時前。

到着すれば部屋割りだ。



SさんとAさんは大のいびきかき。

部屋はいくらでもあるというのでいびき組は一人一部屋に割り当てる。

残った3人は10帖の大部屋。

3人でも広すぎる。

夕食は18時20分。

なんか例年と違うようなメニューである。



鍋はシシ肉のすき鍋だが、中華麺がある。

これは初めてだ。

ハクサイ、タマネギ、ニンジン、シイタケ、エノキのてんこ盛り。



シシ肉は脂身が多いが赤身もある。

見るからに美味そうなシシ肉は出汁で埋まった鍋に入れる。



野菜はあと回しだ。

脂が浮いてきた鍋に浮かぶシシ肉の脂身にごっくん。

見た目以上に美味いのである。



鍋には極上色の生卵に浸けてよばれる。

ぐつぐつ煮込む鍋に野菜も入れた。



そういやネギやアゲサンもあったんだ。



テーブルに運ばれたのは鍋だけでなく、ゼンマイ、イモ、ニンジン、シイタケで煮込んだ煮しめもあれば、焼きナス、タコとワカメの酢もの、ナス・キュウリ・高菜の漬物もある。

食べきれるんだろうかと思った矢先に運ばれたカツオのタタキ。



刻んだミョウガにシソの葉。

ぽん酢に浸してある。

おろした生姜でいただくカツオのタタキは美味すぎる。



料理はそれで終わることなく、シカ肉の唐揚げに野菜の天ぷら盛りも運ばれた。

例年より豪華になった感じだと思っていたら、まだあった。



鮎の塩焼きである。

絶滅したわけではなかったのだ。

宴の料理に口が弾む。

やっと飲めたビールは適当に冷蔵庫から持ちだす。

1本増え、2本増える空瓶。



途中経過が判らなくなるほど飲んだ。

こうして津川の夜は更けていく21時。

饒舌にしゃべっていたAさんが消えた。

眼覚めに聞いた前夜の記憶がないという。

フルーツにアイスもあったデザートも記憶にないようだ。

Aさんが寝込んだあとも飲み続ける瓶ビールは11本。

少なくなったものだ。

(H26. 8.30 SB932SH撮影)
(H26. 8.30 EOS40D撮影)

千代阿部田風日待ちの風鎮祭

2015年04月01日 07時29分02秒 | 田原本町へ
東西に建ち並ぶ田原本町千代・阿部田の集落。

西、東垣内を挟む中央は中垣内に建つ十念寺がある。

同寺の北地は神子天の名がある小字だ。

北に西院田、東院田の小字がみられる。

その東院田南が小字イセタで市杵島姫神社が鎮座する。

昨年、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社の郷村で行われる行事を調べていた。

その一つにあるのが千代(ちしろ)阿部田だ。

市杵島姫神社付近に住む人が話していた行事に風鎮祭がある。

8月28日に行っていると話していた。

興味をもったのは、この日の営みに集落内にある十念寺の僧侶が神社拝殿で法要をするということだ。

場は神社であるが、神職は登場せずに僧侶が営む神仏混合の行事だと話していた。

なんらかの掛軸を掲げられるのであるが、本殿側ではなく拝殿の東側の壁面。

村屋坐弥冨都比売神社が鎮座する方角的である。

聞いていた時間はどなたも現れなかった。

仕方なく自治会長家を訪ねた。

昨年は僧侶の都合によって午前中にされたのだが、今年は例年通りの16時と聞いて出直した。

時間ともなれば自治会長の他、村人多数がやってきた。

もちろん十念寺の僧侶もおられる。

円座を置かれた拝殿に登った僧侶は寺所有の掛軸を掲げる。

聞いていたとおりの位置である。



拝殿に登って撮らせていただいた掛軸は中央に(伊勢)天照皇太神宮、右は(石清水)八幡大菩薩で左に春日大明神を配した三社託宣神号図。

三神のお告げを記した掛軸である。

三社託宣の始まりは正応年間(1288~)とする説があるようだ。

鎌倉時代初期にはすでに成立していたとされる三社託宣。

室町時代中期以降に吉田神道を提唱した吉田兼倶が積極的に導入したと云われている。

公家から武家へ。そして、一般庶民に広がったという三社託宣の掛軸は、お日待ちと関係するアマテラスオオミカミのお軸を掲げることが多い。

これまで拝見した日待ち行事に三社託宣図を掲げる地域がある。

大和郡山市矢田町の日待ちは清水垣内と垣内が一年交代で地域が所有する掛軸を掲げる。

垣内の掛軸は「天照皇大神」の文字掛軸であるが、清水垣内が所有する掛軸は三社託宣だった。

赤童子祭りに三社託宣図を掲げていたのは奈良市東包永町であるが、田原本町伊与戸、大和郡山市丹後庄町・馬司町の日待ちでは「天照皇大神」の一神掛け図である。

大和郡山市小林町や横田町・柳生垣内日待ちのような雨宝童子神図の場合もある。

アマテラスオオミカミの掛け図を掲げて朝日が出るまでお籠りをしていたと考えられるお日待ちであったと思われた千代阿部田の風鎮祭。

行事名は風鎮祭であるが地元民は風日待ちと呼んでいるのも頷ける。

江戸時代には広く庶民信仰に普及したお日待ちの掛け図。

十念寺が所有する掛け図の軸箱に「表装並収納箱新調 昭和56年正月 阿部田総代 村井安弘氏」の文字があったことから新調品に違いない。

お若い十念寺の僧侶。

「先代、老僧からは新調される前のお軸有無は聞いていないが、もしかとしたら蔵にあるかもしれない」と云っていた。

お神酒、洗い米を供えてローソクに火を灯して始まった読経。

浄土宗派のお念仏であるが、二百十日の大風で実った稲穂が倒されないよう、五穀豊穣、村中安全を祈る風の祈祷願文である。

キーン、キーンと打つおリンの音が高く響く読経。

「なーむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ」のお念仏は拝殿内に広がった。

7分過ぎたころから焼香が始まった。



この日に初めて参列した子供会。

後席について大人と同じく一人ずつ焼香されて手を合わしていた。



拝殿は狭くて溢れた参列者も焼香をされる。

一心に願った風ノ祈祷念仏は16分間。

場は転じて阿部田池西北にある石塔の水神社に移動する。



ここでも僧侶の読経が行われる。

そして一人ずつ水神さんの前に立って焼香をされる。



長老、老婦人に親子連れの子供たち。



熱心に手を合わせて祈願した10分間。

最後に合掌する。



法要を終えれば子供会は解散するものの、村役員・長寿会の人たちは公民館で直会に移る。

かつて、風鎮祭を終えた村人らは市杵島姫神社境内で持ち寄った会食を楽しんだそうだ。大人から子供まで、大勢の人たちで埋まった様相は10年前まであったと云う。

途絶えていた風習を見直して子供会も参列するようにしたと話す。

開基は元亀元年(1570)と伝えられている十念寺。

元々は公民館が建つ位置に市杵島姫神社があったそうだ。

明治維新の神仏分離令によって明治34年に現在地に移ったようだ。

そういえば、水神社の石碑には明治廿年六月の記銘の刻印があった。

神社遷座よりも十数年古い年代である。

市杵島姫神社の祭神は水の守護神である弁財天。

水神社は阿部田池の守り神に建之したのかも知れない。

阿部田公民館前に建つ石造群がある。

中央は庚申さん。

右に金毘羅大権現があり、左は愛宕大権現である。

(H26. 8.28 EOS40D撮影)