マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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勢野薬隆寺八幡神社マツリの御湯

2015年06月20日 08時36分43秒 | 三郷町へ
前日の宵宮は十人衆の行事。

この日は氏子のマツリで御湯が行われる三郷町勢野薬隆寺・八幡神社。

平成24年に第三版を発行された『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩-文化財と史蹟のガイドブック-』によれば、昭和26年に解体修理されたときのことだ。

「永正拾壱年甲戌(1514)九月拾九日」の棟木が発見されたという。

この年の平成26年11月には薬隆寺八幡神社の創建500年祭を記念する講演会が催される。

主催は『三郷路ふるさと散歩』執筆にあたって調査された団体だ。

本殿階段下には数多くの燈籠がある。

「宝暦六丙子(1756)十一月吉日 施主赤井氏」が刻まれていた。

そこには天保時代(1830~)や万延時代(1860~)に寄進建之された燈籠もあった。

場を離れて鳥居下にも燈籠があった。

それには「明和七年庚寅(1770)三月吉日 八幡宮永代常夜燈 北垣内連中」が刻まれていた。

勢野薬隆寺八幡神社を訪れたのは7月14日に行われた北垣内の天王祭りの取材に出かけたときにお会いした宮総代のUさんが話した古い湯釜に興味をもったからだ。

前日に下見を済ませた八幡神社には宮総代や氏子たちが集まっていた。

ご挨拶をさせてもらって取材に入る。

その直前に出合った坂本巫女。

三郷町在住の巫女さんだ。

この日は娘さんも同行である。

神社に向かう道すがらに話された隣村の秋留の八幡神社。

坂本さんが幼いころ、母親か祖母についていって秋留の八幡神社に出仕したそうだ。

当時は鬱蒼とした社そうであったと思い出された。

そのころは御湯や神楽も舞っていたという。

いつの時代か判らないが、それはしなくなったと話す。

もしかとすれば湯釜があるのかも知れない。

薬隆寺八幡神社には古い湯釜があると聞いていたが、斎場に設えていたのはそれほど古くもない湯釜だった。

薬隆寺八幡神社はかつて当地鎮座でなく北垣内の東側。

美松という地に元は八幡堂と呼ばれていた場があり、その地が元社の旧鎮座地であったと伝わる。

祭祀を勤めていたのは東の座と呼ばれていたそうだ。

そう話すのはこの日の調査に来られていた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏だ。

東の座の呼び名はどうしてついたのか、である。

勢野にはもう一つの八幡神社がある。

秋留の八幡神社だ。

同神社は薬隆寺八幡神社から北の方角に鎮座している。

元々の地が北垣内であれば、そこは秋留の八幡神社から見れば東の地。

今尚十人衆と呼ばれる座がある秋留の八幡神社を西の座と仮定すれば、薬隆寺八幡神社を東の座の名がついたのではないだろうかと云うのだ。

本殿階段下に御神燈を掲げた提灯立てがある。

そこより数メートル下った場に斎場を組んだ。

新しい湯釜を設えて、祭壇に洗い米、塩、お酒に幣や笹束を置いた。

巫女さんが御湯をされる場にはブルーシートを広げて敷物を敷いている。

始めに神職が巫女さんともども氏子たちを祓ってくださる。

そして移動した。

提灯を掲げた下には神饌御供を供えた祭壇もある。

普段着姿の氏子たちはその場を見守るかのように境内に立った。

神職らは提灯立て付近に並ぶ。

白装束の人は次の年度に神職を勤める後継者だ。

始めに祓えの詞を唱えて次は神職による祝詞奏上となる。

当地は近鉄電車生駒線の勢野北口駅近く。

駅舎に停車する音が祝詞奏上中に聞こえてくる。

献饌など神事は本殿に登ることなくこの場さ斎行されるのだ。



次は娘さんの巫女さんが舞う神楽に移る。

神楽歌を奏上されて鈴と扇を手にして舞う。

左に一回転して鈴を下げる。

続けて右に一回転する。

一旦、鈴を下げるような所作をしてもう一度、左に一回転。

シャンシャンと鈴を鳴らす音が聞こえる。

拝礼されて「このやおとめ・・・」と謡う神楽歌は母親の坂本さんだ。

「このや乙女」の神楽歌に合せて舞う神楽は娘さん。

親子の競演にしばし立ちつくす。

大きく両手を広げて舞う。

何度か所作をされて水平に保つ。

水平に保ちつつ、左に右に手を動かす。

しばらく舞っている間に謡われる「このや乙女」。

声高らかな神楽歌が境内へ広がる。

なんとも神々しさを感じるのだ。



次は穢れを祓う剣の舞いに移る。

両手に剣を持ちかえて舞う神楽。

度々、拝見する剣の舞いは所作が大きい。

左に一回転して両手でもつ剣を交差するように所作をされる。

まるで空を切るような感じである。

右に三回転されて空を切る。

左に三回転されて空を切る。

四隅を祓って境内側に向かって空を切る。

何度か立ち位置を替えて空を切る。

最後は鈴と剣を持ってシャンシャンと鈴を鳴らしながら舞う。

それらの所作を終えて鈴と剣で祓ってくださる。

「家内安全お守りください 水難盗難 交通事故・・・どうか身体健勝でありますように 祓えたまえきよめたまえ」。



神職の他、氏子一人ずつ丁寧に祓ってくださる。

しかもだ。調査に訪れていた鹿谷氏や取材していた私にも祓ってくださる。

いつもそうしてくださるありがたいお祓いである。

神楽舞の次は御湯神事に移る。



本殿に向かって拝礼される巫女さん。

幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯に撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって酒を注ぎながら「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

大幣を左右に振って柄の部分を湯に浸けて「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転して神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。



湯に浸けて上下に動かす笹の葉。

立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。

何度か繰り返す笹湯の作法。



そうして湯に浸けた笹も手にして「もとのやしろにおくりそうろう おさめそうろう おんなおれ」と四神に向かって告げる。

四神それぞれに捧げたあとも舞う神楽。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

シャンシャンシャンと鈴を鳴らす所作は神楽歌のときよりも早い。

履物を履いて提灯下に移動する。



本殿の神さんに捧げる神楽舞は湯に浸けた笹と鈴をもつ。

シャンシャンシャンの音色はいつ聞いてもリズミカルに感じる。

場を移して境内社に浅間(せんげん)社にも捧げられる。



次の場は結界で区切った伊勢神宮遥拝所の前だ。

坂本さんが捧げる御湯の神楽はいつもこうしてあらゆる神さんに献上されるのだ。

そして、娘さんと同様に神職の他、氏子たちに向かう。



そうして氏子一人ずつに「家内安全 水難盗難 交通安全 どうかお守りたまえ もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と、御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体健勝を願い祓ってくださる。

最後に鹿谷氏、私もである。

なんとこの日は親子揃ってのダブル祓いになった。

坂本家が行われる御湯神事は県内地域に広範囲に亘っている。

当地の三郷町の他、平群町、大和郡山市、川西町、広陵町、王寺町、天理市、香芝市、斑鳩町、安堵町などがある。

この年は新たに大淀町も出仕されることになった。

坂本家は龍田大社の神子(巫女)を勤めていた家系で宝暦十二年(1762)に吉田家から受けた裁許状を伝えている。

坂本家に伝わる神楽歌は「神の呼び出し」、「このや乙女」、「すめ神」、「めづらしな」、「千代まで」、「君が代」、「都人」があるが詳しくは三郷町史を参照されたい。

御湯の作法を終えて拝見した古い湯釜。

傷みがあるのか湯が洩れるらしい。

使うわけにはいかなくなったことから蔵に収納されていたのだ。

ありがたくも宮総代の一人が箱に納めていた湯釜を取り出してくださった。



湯釜には刻印があった。

「和平群郡東勢野哩八幡宮御湯釜 貞享二年乙丑九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」である。

貞享二年は西暦1685年。

今から329年前に製作された代物である。



刻印地名に東勢野哩がある。

勢野の里は今でいう勢野であろう。

ということは東勢野である。

西の秋留八幡神社に対する東の薬隆寺八幡神社と称された証しだと思ったのである。

貴重な湯釜は三郷町の文化財。

御所市蛇穴の野口神社と同じようにガラスケースに収納されて大切に保管されてはどうかと伝えた。



直会を終えて絵馬殿に上がらせてもらった。

宮総代らの承諾を得て撮らせてもらった数々の奉納絵馬。

慶応三年(1867)正月に奉納された「御祭礼の図」や「元寇の図」、「七福神の図」など額装された絵馬は平成3年7月に町指定された有形文化財である。

明治時代の勧進相撲番付額も数点ある。



薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された「御祭礼の図」絵馬に描かれている。

今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋であろう。

その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。

廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。

(H26.10.25 EOS40D撮影)

勢野の神社を探す

2015年06月19日 08時18分02秒 | 三郷町へ
三郷町勢野西に鎮座する薬隆寺の八幡神社で宵宮が行われることは聞いていたが、時間は知らなかった。

下見を兼ねて午後に出かけてみた。

勢野東の北垣内から近い地にあると思っていたがどうも判り難い。

カーナビゲーションに出現するであろうと思っていたが、意に介さず出力されない。

平隆寺(へいりゅじ)の所在地を示す立て看板があった。

入っていくものの道は狭くて自動車は入ることはできない。

なんとかUターンして侵入口に戻る。

寺所在地の反対側へ向かって付近におられた婦人に尋ねた。

狭い道だが軽自動車であれば通ることも可能だと云う。

ところで神社である。

薬隆寺の八幡神社へは一旦道路に出て右曲がり、左曲がりして行けば着くそうだ。

ここにも立て看板があり表示に沿って道を進む。

神社は見つかったが、駐車場はない。

下った田畑に男性がサツマイモを引いていた。

声をかけさせていただいて神社に向かいたいがどうすればいいのだろうと話せばここへ停めても構わないと云う。

ありがたいことである。

参拝を兼ねた下見。

この日は宵宮と聞いていたが、どなたもおられない。

絵馬殿とも呼ばれる参籠所に掲示してあった年中行事リスト。

氏子用に掲示したものであるが、民俗探訪者にとってはありがたい。

そのうちのいくつかの行事には時間も書いてあった。

この日は朝の8時に宵宮の御湯が行われたようだ。

斉場と思われる処にキリヌサが撒いてあった。

翌日はマツリで9時とある。

仕方がないが、明朝に出かけることにした。

下って田畑の男性に話しをすれば、勢野には二つの神社があるという。

当地は薬隆寺の八幡神社であるが、ここより北にあるのは勢野西地区の秋留の八幡神社である。

男性は秋留の八幡神社の十人衆のひとり。

一老から年齢順にくだった九老だという。

十人衆は神社祭祀を勤める宮守さん。

毎月の初めには境内を清掃していると云う。

この日は秋留の八幡神社のヨミヤ。

朝8時に出かけて清掃をしていた。

それが終わればお供えをして一老が祝詞を奏上していたと云う。

翌日はマツリで同じように清掃をされて神事が行われる。

神職は龍田大社の上田宮司が来られるそうだ。

明日に、ここ薬隆寺の八幡神社に来るなら停めていてもいいと話す。

村の人から「なんで停めているのだ」と云われたら勢野西に住むWさんの名前を告げればいいと話す。

ところで二つの神社の氏子区域はどのような区割りがあるのか尋ねてみた。

答えは二つの檀家寺に別れているというのだ。

秋留の八幡神社の氏子は平隆寺で、薬隆寺の八幡神社の氏子は勢谷寺(せいこくじ)になるという。

そういえば、この年の7月に取材させていただいた勢野東地区の北垣内は勢谷寺が檀家寺だと話していた。

聖徳太子建立46ケ寺院のひとつである平隆寺も勢谷寺も同じ宗派の融通念仏宗派だと云う。

これまで数々の行事取材させていただいたが、勢野の氏子圏区割りは初見である。

男性の話しによれば秋留の戸数は75戸で勢野西は125戸にもおよぶようだ。

勢野の旧村よりも新興住宅が増えたのであろう。

ちなみに勢野東に鎮座する神社に春日神社があるそうだ。

(H26.10.24 SB932SH撮影)

gooログインがエラー

2015年06月18日 09時03分57秒 | つうしん
前夜までは難なくログインができていたgooブログ。

ただ、出現する入力画面がちと違う。

正しい画面状況ではないのだ。

一週間ばかりそういう状態が続いていたが、入力はできていた。

この日の朝はその状態も出現することなく、インターネット・エクスプローラーではこのページは表示できませんとくる。

可能性のある原因は、インターネットに接続されていないか、WEBサイトに問題が発生しているという表示。

ブログは問題なく出現する。

グーグルやヤフーも難なくネットに繋がって出現する。

ビーチシステムやフォトハイウェイでは問題もなくログインができる。

gooブログだけがおかしいのである。

ブラウザの構成が違うのだろうか。

ウインドウズの問題なのか判らないが、インターネット・エクスプローラーでは無理と思われ、グーグルクロームで行ってみた。

それであればgooブログは難なくログインができる。

ブログ作成画面の形式が異なるので面食らったが、なんとかアップできた。

(H26.10.23 記)

山田町の稲架け

2015年06月17日 07時28分43秒 | 民俗あれこれ(干す編)
送迎中に見つけた稲架け。

大和郡山市の山田町である。

ここは松尾寺に向かう街道筋。

この時期ではどこともコンバインで稲刈りを終えている。

無造作に架けた稲束が波打っている。

それがまた美しい景観美を描いている。

市内では椎木町もあった。

この日は櫟枝町にもあった稲架けを発見した。

今年は3カ所で見つけた。

市内ではまったくないと思っていた。

送迎患者の婦人たちは一様にサオカケと呼ぶ。

天日干しをしたお米は艶があって釜で炊いたご飯はとてつもなく美味しかったと云う。

その後、イネコキした藁干しだったが、街中の筒井町の田園にもあった。

今まで気がつかなかった大和郡山市内。

目線が替わったのかもしれない。

(H26.10.22 SB932SH撮影)

魚輝住之江店天ぷらうどん・ミニ丼定食

2015年06月16日 08時30分46秒 | 食事が主な周辺をお散歩
住之江南大阪病院で内視鏡検査を受診して、紹介してくださった医院で結果を聞く。

それまでの待ち時間に昼食を摂る。

出かけた食事処は5日前にも昼食を摂った魚輝の住之江店。

美味しいものだからついついそうする。

この日も昼ランチ。選んだメニューは税抜き750円の天ぷらうどん・ミニ丼定食だ。

かーさんは丼ではなく握り寿司。

この場合は税抜きで800円となる。

本日のおすすめランチは、この他に750円の豚生姜焼き定食や780円の焼き魚定食、650円の串カツ6本定食がある。

ランチには無料でドリンクがついてくる。

私はカルピスソーダを選んだが、かーさんはアイスコーヒーを頼んだ。

注文してから5分後に配膳されたランチ盛り。

揚げたての天ぷらを盛ったうどんは豪華に見える。

大葉、タケノコ、ナスビに海老だ。

揚げた衣はサクサクだ。

うどんはしっかりとしたコシをもつが、どちらかといえばモチモチ麺だ。

うどんは何といっても出汁が美味いのである。

どの店でも味わったことがない温かみがある出汁に感動する。

天ぷらも美味しいが遥かに凌駕する味である。

誉めすぎかもしれないがとにかく美味いのである。

丼は海鮮丼。

ミニとあるがご飯の量が多いこと。

添えつけの山葵を醤油で溶いて混ぜたが利きは僅か。

ご飯にもっとぶっかけるぐらいの量でたべた方が美味いだろうと思った。

一年前に食べた魚輝の漁師丼は税抜き480円。

海鮮の量は多かったし、飯は寿司めしだったように思えるが記憶が正しいかどうか思い出せない。

ランチには一品がついている。

先日に食べた日替り寿司ランチと同じくコナスビの油炊き。

これが美味しいのだ。

(H26.10.21 SB932SH撮影)

住之江南大阪病院の検査に待つ

2015年06月15日 07時27分38秒 | むびょうそくさい(おかん編)
今月の8日辺りから吐き戻しの症状があったというおふくろ。

我が家に電話で異常を訴えたのは12日だった。

翌日は祝日で医院は休診。

やむなく祝日明けの14日に診断してもらった畠中医院。

点滴は1時間半もかかった。

一旦はラクになったがまたもや症状が再発。

16日も点滴治療を受けた。

帰宅後におふくろが云った。

一度、精密検査を受けたいと訴えたのだ。

翌日の17日も点滴治療だった。

先生の診断によれば胃潰瘍か、それとも逆流性の胃炎かである。

止まっていた便通が治ったと伝える電話の声は元気な声。

すっきりしたと云う。

特に症状も出ず元気な声で様子を伝えるが、精密検査は受けたい。



先生からの紹介で住之江にある南大阪病院で胃カメラを飲み込むことになった。

予約時間は10時45分。

予約時間よりも1時間も前の時間帯。

早めに着いた病院では受付をしている人に声をかけて何やら大きな袋を手渡している。

受付を済ませた私たちにも差し出した書状は厚生労働省統計調査の「受病行動調査外来患者用」であった。

断る理由もないので受け取った。

今年は統計調査によく当たる。

60歳から65歳の家計調査に続いて全国実態消費調査も当たった。

期間は3カ月。家の収支状況をこと細かく記録する家計簿記入である。

案内を受けて3階に向かう。

そこは内視鏡センター。

受診待ちの患者さんが席に座って並んでいる。

予約時間を20分過ぎたころに廻ってきた。

付き添いするかーさんはおふくろに同席して検査受けを聞いていた。

胃カメラを飲み込むには麻酔用法が必須であるが、何十年も前に経験したおふくろは大丈夫と断ったようだ。

検査が終わったのは12時を過ぎていた。

痛いと訴えるおふくろ。

だから云ったでしょ、である。

十数分経ったころにはそれが消えた。

違和感であったのだろう。

検査料並びに駐車料金を払って自宅に戻った。

お腹が減ったというおふくろの食事はぬくぬくのご飯。噛みしめるように食べていた。

胃カメラ検査の結果は医師の診断を要する。

封をされた所見は畠中医院へ、であるが午後の開院は夕方5時。

それまでの待ち時間を過ごすにはどうしたもんじゃ、である。

昼食を済ませて出かけた行先は住之江・南港にあるATCである。

コストコのような大型マーケットプレイスでもあればよかったのだが、住之江にはない。

大和郡山市に出店する話題もあったが立ち消えになったようだ。

30分までは無料の駐車場に停めて館内をうろつく。

広いエントラスロビーはイベント会場になるのだろう。



見上げてみれば都市的な構造物で天井はとてつもなく遠い。

奈良県内の施設では見られない建物だ。

そこに上下するエレベーターが動いている。



妙なことだが、どこかのメーカーの缶ビールに見えたのだ。

これだけの量を飲むには何人を要するのだろうか。

ATCには100円均一のダイソーがあった。

店内は広く販売する品数も多い。

これまで見つからなかったノートもあったが、同店ではクレジットカードの支払いはできずの現金扱いだ。

30分ぎりぎりで出庫した。

おふくろが食べたいと云っていた食材はスーパーサンディで買い物。

これで医院が開院される時間が丁度いい。

それからも待つこと1時間。

受付順に診断された患者さんが終わったのは真っ暗になった夕方6時過ぎ。

心配していた診断結果は老人性の萎縮性胃炎だった。

大病ではなくてほっとするが、組織検査の結果は一週間後になる。

朝8時過ぎに家を出て戻ってきたのは午後7時半。



待っていた時間は9割にも達した。

(H26.10.21 SB932SH撮影)

スズキエブリィのリコール

2015年06月14日 07時18分11秒 | いどう
中古で買ったスズキエブリィのリコールが新聞通知されたのは9月18日。

届出番号は「2467」だった。

エアコンの外気導入部構造・レジスタの不具合であるが、この夏には現象は発生しなかった。

対象の車台番号ではなかったのではと思っていた。

10月に入ってから気になっていた車台番号を確認すれば見事に命中。

中古車販売店に電話しようと思っていたが、忙しい毎日にすっかり忘れていた。

そうこうしているうちにスズキ自販奈良から通知が届いた。

販売店は近くにある。電話をすれば夕方なら対応が可能だと云われて出かけた。

カバーの有無の点検し、パーツのブロアファンモータの新品交換で対応を終えた。

待つことおよそ30分間。

サービスのオレンジジュースを飲む間に終わった。

(H26.10.20 SB932SH撮影)

萱森私祭の頭屋祭

2015年06月13日 08時46分11秒 | 桜井市へ
氏子たちがマツリ道具の調製を終えて、会食した桜井市萱森の頭屋家ではこれより頭屋祭が行われる。

一老こと太夫は白装束の狩衣姿。頭人、二老、三老、祭頭総代らは紺色の素襖に着替える。

烏帽子を被った白い鉢巻姿。

中老、副中老は裃姿になった。

後列に並んだ氏子はスーツ姿。

一同が揃って分霊を祭った祭壇の前に座る。

祭主を勤めるのは瀧倉の今西宮司だ。



引退された親父さんの跡を継いだ娘さんは神職。

恭しく神事が執り行われる。

かつて座を営む頭屋家は長男が生まれた家が受けていた。

戸数が17戸になった萱森では継承することが難しく、ミヤモト十人衆が順次交替して頭人を勤めるようになった。

この年の頭人は四老でもある。

中老を勤める人も八老。

兼任せざるを得ない現状である。

しかもこの年は五老家に不幸ごとがあって祭りごとには参集することはできない。

五老の親族も氏子。

少ない戸数に不幸ごとが重なればマツリの営みの役目も兼任者ばかりとなり、お渡りも断念せざるをえないのだ。

そのような事態に陥ってもマツリの「渡行ノ列次及列員ノ行装持物」は決まりごと。

警護・竹箒/警護・竹杖役はお一人だ。

渡行ノ列は警護を先頭に太夫の御榊、二老・三老の日ノ御旗、祭頭総代の御榊台もあれば、氏子の立矛や中老、八老・十老の唐櫃担ぎもある。

十老はマツリに参集さきるが数ヶ月前に病いに冒され運ぶどころか歩くことも困難になった。

副中老、一老の名はあるが兼任者。

空白の渡行ノ人である。

後方に付くのは頭屋主にもう一つの立矛。

これもまた氏子である。

後続は座中一同とあるが・・・もう村人はいない。



祝詞を奏上する宮司。

頭屋家のマツリは頭屋祭でもあり、宵宮座でもあるのだ。



頭人は神事進行に沿って頭を下げる。

続いて太夫も頭を下げる。



そのときには参列者一同も頭を下げる。

神事を終えれば茶菓子をいただくひとときを過ごす。



いわゆる直会である。

「それでは始めようか」と云われて謡いだした「トウヤダチウタイ」。

充てる漢字は「頭屋立詩」だ。

詞章は「神と君との道すぐに 都の春に行くべきは 此れぞ現状楽の舞 さて万才楽の生み衣 さすかいなには悪魔を祓い 納むる手にはふじくを抱き 千秋楽には民を撫で 万才楽には命を延ぶ 相生の松風颯々(さっさつ)の聲(こえ)ぞ楽しむ 颯々の聲ぞ楽しむ」だ。

詞章は「高砂」の最後に謡われる小謡の「付祝言(つけしゅうげん」。

かつては直会の酒宴に酒を飲み交わす際に謡われていたのであろう。



節回しもなく朗々と“詩”を詠みあげるような謡い。

つまり肴謡(さかなうたい)であったのだ。

こうしてお渡りに移るのであるが、この日のマツリ道具を運ぶ人足は小数だ。



頭屋家を出発する唐櫃担ぎ。

竹の杖をついて急な坂道を登る。

唐櫃の上蓋には午前中に調製された大注連縄などを載せている。



頭人は大御幣や立矛を持って駆けあがる。



神輿も担がれて登っていけば軽トラが待っていた。

お渡りでもなく運んでいたこの年の渡行ノ列は一挙に済ませて高龗(たかおかみ:雨冠に下は龍)神社に着いた。



竹箒を運んでいる二老の姿だけがお渡り風情を醸し出していた。

本来の渡行ノ列は宮垣内まで車移動するが、その辺りで降りて行列を組んで神社まで歩いて行く。



平成25年1月12日に伺った十老家にはかつての様相を写した写真を残していた。

お渡りの先頭は竹箒だ。

立矛、日ノ御旗、御榊、唐櫃、神輿などの渡行もあれば頭屋家でのマツリや太夫・二老前に座る頭人の姿もあった。

写真に「FUJICOLOR 86」とあるから昭和61年の様相であろう。

今から27年前に行われた萱森のマツリには大勢の人たちが写っていた。

「FUJICOLOR 76(昭和51年)」に撮られた写真には何らかの形を象った餅もある。

鏡餅もあれば長細い餅もある。

一つは剣である。

これはナタノモチと呼んでいた。

もう一つはガニノモチだ。

宵宮の際に供えていたらしい。

これらの映像は十老が記録していたが、数か月前に自宅が火事で焼けた。

家屋は焼けたがご主人は火災から免れた。

しかし写真は消失した。

撮らせてもらった数枚の写真だけはパソコンに残りブログでアップさせていただいた。

それだけが救いだったと思った。

神社に着いた一行はマツリの支度を調える。



コジメと呼ぶ4本脚をもつ小注連縄は小宮の春日神社多八幡神社の他、燈籠や狛犬に置く。

頭に載せた狛犬が笑っているようだ。



狛犬の台座がユニークだ。

力いっぱいの形相で台座を支えているのは力士。



顔も支える格好もすべてが違っている。

文久二年(1862)二月に建之されたようだ。

幕を張った拝殿や社務所に長い注連縄を張る。

提灯も吊るした。

拝殿前には立矛、日ノ御旗を立てて鳥居に集まった座中。

太い注連縄を鳥居に吊り下げる。

そこには高張提灯も掲げる。



光が差し込み、神々しさが浮かび上がった。

四つの大きな房の間にネムの木で細工したナタとヨキ(カマとも)をそれぞれ2個ずつぶら下げた。



ナタとヨキは山の仕事道具。

山の神へ捧げる道具である。



そして頭屋家でも掲げていた日の丸国旗。

太い真竹を交差・組立てて掲げた鳥居の柱下には「シバ」と呼ぶ頭人の名前を書き入れた木の札も置かれた。

同時併行して行われた「カンマツリ」の御供。



太夫と頭人は小注連縄を山の神に置いた。

その山の神にはクリの木の箸で摘まんだ白いモノを供えた。



甘酒をトリコ(米粉であろう)と呼ぶ粉で混ぜて練ったと云う白いモノはシトギであろう。

狛犬の足元や燈籠にもそれぞれクリの木の箸で摘まんで供えていた。



「カンマツリ」の御供は掘切にあると云う祠にも供えたと云うので場所を教えてもらった。

社務所より数十メートル下った地である。

9月16日ごろに掘切浚えと呼ぶ行事がある。



一段下がった場が掘切だ。

そこには結界とも思える注連縄が張ってあった。

落ち葉や雑草を取り除き土盛りをする綱掛け行事である。



その結界外に祭ってあったのが滝倉神社だ。

そこにも供えていた御供であった。

こうした作業のすべてを終えて拝殿前で甘酒をいただいた座中は拝殿にあがって祭典をされる。

萱森のマツリは前日の宵宮で分霊遷しましをされてこの日に再び高龗神社に戻られる還幸祭でもある。

かつては19日、20日であったが、今では近い金・土曜に行われている。

正式な行事名は私祭のカンマツリ。

宮司は祭主を勤めるが、カンマツリの主体は太夫、二老、頭人である。

カンマツリを充てる漢字は「神祭」。

カミマツリがカンマツリに訛ったのであろう。

カンマツリは前述したシトギ御供を供えるところから始まっていたのである。

斎主宮司の祓えの詞、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに執り行われる。

拝殿には祭壇に盛ったお供えがある。



五枚重ねの鏡餅。

上にはコモチが3個ある。

サバやカマスの魚も供えた。

ニンジン・キャベツ・ピーマン・ダイコン・ハクサイ・ゴボウ・ドロイモや果物のカキなども盛っている。

これらのお供えは小宮に捧げる御供だ。

3本の大御幣の下には折敷に盛った一升米もある。

その上には紙片も載せていた。

続いて献饌に移る。

神饌所に置かれていた神饌を本殿に手渡しで捧げる。

続けて行われる宵宮の祭典。

大御幣と饌米を本殿から見える位置に置かれた。



祝詞を奏上される間は座中一同が起立して頭を下げる。



祝詞奏上の次が奉幣振りの神事となる。



一本の大御幣を取り出す裃姿の中老、副中老。

倒れないように介添えして御幣を支える。



登場したのは白装束姿の太夫だ。

御幣下方の脚を持って左回りに三回振りまわす。

次いで登場したのは頭人(この年は二老が代行した)だ。



中一本の大御幣を持って太夫が所作した作法と同じように左回りに三回振りまわす。

次は二老に移る。

右一本の大御幣を持って左回りに三回振りまわす。

続けて三老に移る。

同じように左一本の大御幣を持って左回りに三回振りまわす。



頭人、二老、三老は奉幣振りをした直後に供えていた饌米を紙片とともに本殿側に向かって撒き散らす。

饌米は今年産ではなく昨年の産である。

本年も五穀豊穣でありますようにと願いを込めて撒米されるのは、本年の2月24日に祭典された御田植祭のお礼でもあると話していた。

また、この作法はすべての禍を祓う儀式でもある。

この儀式を終えて撤饌。宮司一拝で祭典を終えた。



下げた御供のカマスはそれぞれ頭と尾に包丁で切り分け、パック詰め料理の宴席に置かれる。

お神酒とともに会食される直会に移る直前のことだ。

裃姿の中老、副中老が奉幣振りをした大御幣をもって座中一人ずつに頭の上から翳して振る。

祓いの儀式である。

それを済ませてから直会の宴が始まった。



酒杯を注ぐのも中老と副中老だ。

そうして乾杯をして会食になった。

(H26.10.18 EOS40D撮影)

和田の旧暦閏年の庚申さん

2015年06月12日 07時31分37秒 | 桜井市へ
9月か10月辺りになりそうだと聞いていた桜井市和田の旧暦閏年の庚申さん。

和田では「トアゲ」と呼んでいる閏庚申の行事である。

区長は連絡をすると云っていたが、失念されたのかな、と思われたので訪れた山の中。

キラキラを輝く木漏れ日が差し込む樹木の下にある青面金剛石仏は和田村講中が寄進したものだ。

年代を示す刻印があるが判読不能。右は「・・・甲寅年」、左側は「閏十一月二日」しか読めなかった。

調べてみれば寛政六年(1794)に建之されたようだ。

左右に立てた花立ての形状が異なる。

朽ちた竹であることからずいぶんと日が経過したものであろう。

和田の講中は上・下垣内であるが、上は解散したと聞いている。



その花立てには赤、白、黄の菊の花を飾っていた。

真新しいお花だけについ最近のことであろう。

手前にこれもまた朽ちた杉の木が何本もある。

何を意味するのか想定できないが、花立ては平成25年2月23日に拝見したときと同じ状態であった。

(H26.10.18 EOS40D撮影)

明星麺処一徹野菜タンメン

2015年06月11日 08時10分18秒 | あれこれインスタント
午前中に注連縄作りを終えた萱森の人たちは一旦、頭屋家でよばれの昼食に移る。

この日は弁当ことカップラーメンを持参していた。

なにかと気遣いしてくれる前頭屋のOさんは一緒に食べようと誘ってくださるが、そういうわけにはいかない。

遠慮を申し上げて辞退する。

山を下って和田へと向かう。

そこでひとまず昼食を摂る。

この日のカップラーメンは買い置きの明星麺処一徹野菜タンメン。

この商品は何故か判らないが、明星食品のHPには登場しない。

どうやらイオンスーパーでしか売っていないようだ。

この年の2月に食べたのはエースコックの柳麺屋野菜タンメン。

お味はどれぐらいの差があるのだろうか。

麺処の一徹野菜タンメンはこだわりの平打ちのスーパーノンフライ麺。

野菜はたっぷりの6品目もある。

お湯を注いで4分間も待つ。

時間は午後1時。朝は寒かったがお日さんが上昇するにつれて暑くなってきた。



蓋を開けて添えつけの調味油を入れる。

食欲をそそるゴマの香りが漂ってきた。

具材は大き目のキャベツに細切りニンジン、コーン、モヤシ・・・キクラゲ。

5品目だけやん。

ひょっとしてゴマもそのうちの1品目に数えるなんて横暴やと思うのである。

透き通るようなスープに浮かんでいる。

すっきりした野菜タンメンの麺はモチモチ感。

僅かであるが弾力感もある麺のコシつきが気にいった。

スープは鶏ガラを使っているようだが、やはりタンメンの味は塩味が決めて。

是非、塩味バージョンを追加してほしいのである。

(H26.10.18 SB932SH撮影)