前日の宵宮は十人衆の行事。
この日は氏子のマツリで御湯が行われる三郷町勢野薬隆寺・八幡神社。
平成24年に第三版を発行された『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩-文化財と史蹟のガイドブック-』によれば、昭和26年に解体修理されたときのことだ。
「永正拾壱年甲戌(1514)九月拾九日」の棟木が発見されたという。
この年の平成26年11月には薬隆寺八幡神社の創建500年祭を記念する講演会が催される。
主催は『三郷路ふるさと散歩』執筆にあたって調査された団体だ。
本殿階段下には数多くの燈籠がある。
「宝暦六丙子(1756)十一月吉日 施主赤井氏」が刻まれていた。
そこには天保時代(1830~)や万延時代(1860~)に寄進建之された燈籠もあった。
場を離れて鳥居下にも燈籠があった。
それには「明和七年庚寅(1770)三月吉日 八幡宮永代常夜燈 北垣内連中」が刻まれていた。
勢野薬隆寺八幡神社を訪れたのは7月14日に行われた北垣内の天王祭りの取材に出かけたときにお会いした宮総代のUさんが話した古い湯釜に興味をもったからだ。
前日に下見を済ませた八幡神社には宮総代や氏子たちが集まっていた。
ご挨拶をさせてもらって取材に入る。
その直前に出合った坂本巫女。
三郷町在住の巫女さんだ。
この日は娘さんも同行である。
神社に向かう道すがらに話された隣村の秋留の八幡神社。
坂本さんが幼いころ、母親か祖母についていって秋留の八幡神社に出仕したそうだ。
当時は鬱蒼とした社そうであったと思い出された。
そのころは御湯や神楽も舞っていたという。
いつの時代か判らないが、それはしなくなったと話す。
もしかとすれば湯釜があるのかも知れない。
薬隆寺八幡神社には古い湯釜があると聞いていたが、斎場に設えていたのはそれほど古くもない湯釜だった。
薬隆寺八幡神社はかつて当地鎮座でなく北垣内の東側。
美松という地に元は八幡堂と呼ばれていた場があり、その地が元社の旧鎮座地であったと伝わる。
祭祀を勤めていたのは東の座と呼ばれていたそうだ。
そう話すのはこの日の調査に来られていた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏だ。
東の座の呼び名はどうしてついたのか、である。
勢野にはもう一つの八幡神社がある。
秋留の八幡神社だ。
同神社は薬隆寺八幡神社から北の方角に鎮座している。
元々の地が北垣内であれば、そこは秋留の八幡神社から見れば東の地。
今尚十人衆と呼ばれる座がある秋留の八幡神社を西の座と仮定すれば、薬隆寺八幡神社を東の座の名がついたのではないだろうかと云うのだ。
本殿階段下に御神燈を掲げた提灯立てがある。
そこより数メートル下った場に斎場を組んだ。
新しい湯釜を設えて、祭壇に洗い米、塩、お酒に幣や笹束を置いた。
巫女さんが御湯をされる場にはブルーシートを広げて敷物を敷いている。
始めに神職が巫女さんともども氏子たちを祓ってくださる。
そして移動した。
提灯を掲げた下には神饌御供を供えた祭壇もある。
普段着姿の氏子たちはその場を見守るかのように境内に立った。
神職らは提灯立て付近に並ぶ。
白装束の人は次の年度に神職を勤める後継者だ。
始めに祓えの詞を唱えて次は神職による祝詞奏上となる。
当地は近鉄電車生駒線の勢野北口駅近く。
駅舎に停車する音が祝詞奏上中に聞こえてくる。
献饌など神事は本殿に登ることなくこの場さ斎行されるのだ。
次は娘さんの巫女さんが舞う神楽に移る。
神楽歌を奏上されて鈴と扇を手にして舞う。
左に一回転して鈴を下げる。
続けて右に一回転する。
一旦、鈴を下げるような所作をしてもう一度、左に一回転。
シャンシャンと鈴を鳴らす音が聞こえる。
拝礼されて「このやおとめ・・・」と謡う神楽歌は母親の坂本さんだ。
「このや乙女」の神楽歌に合せて舞う神楽は娘さん。
親子の競演にしばし立ちつくす。
大きく両手を広げて舞う。
何度か所作をされて水平に保つ。
水平に保ちつつ、左に右に手を動かす。
しばらく舞っている間に謡われる「このや乙女」。
声高らかな神楽歌が境内へ広がる。
なんとも神々しさを感じるのだ。
次は穢れを祓う剣の舞いに移る。
両手に剣を持ちかえて舞う神楽。
度々、拝見する剣の舞いは所作が大きい。
左に一回転して両手でもつ剣を交差するように所作をされる。
まるで空を切るような感じである。
右に三回転されて空を切る。
左に三回転されて空を切る。
四隅を祓って境内側に向かって空を切る。
何度か立ち位置を替えて空を切る。
最後は鈴と剣を持ってシャンシャンと鈴を鳴らしながら舞う。
それらの所作を終えて鈴と剣で祓ってくださる。
「家内安全お守りください 水難盗難 交通事故・・・どうか身体健勝でありますように 祓えたまえきよめたまえ」。
神職の他、氏子一人ずつ丁寧に祓ってくださる。
しかもだ。調査に訪れていた鹿谷氏や取材していた私にも祓ってくださる。
いつもそうしてくださるありがたいお祓いである。
神楽舞の次は御湯神事に移る。
本殿に向かって拝礼される巫女さん。
幣を左右に降る。
ポン、ポンと柏手を打つ。
祓えの祝詞を奏上する。
そして湯に撒き散らすキリヌサ。
立ちあがって酒を注ぎながら「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
大幣を左右に振って柄の部分を湯に浸けて「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。
「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。
勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転して神楽を舞う。
2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。
湯に浸けて上下に動かす笹の葉。
立ちあがる湯のけむり。
「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。
何度か繰り返す笹湯の作法。
そうして湯に浸けた笹も手にして「もとのやしろにおくりそうろう おさめそうろう おんなおれ」と四神に向かって告げる。
四神それぞれに捧げたあとも舞う神楽。
先ほどと同じように左、右、左に一回転する。
シャンシャンシャンと鈴を鳴らす所作は神楽歌のときよりも早い。
履物を履いて提灯下に移動する。
本殿の神さんに捧げる神楽舞は湯に浸けた笹と鈴をもつ。
シャンシャンシャンの音色はいつ聞いてもリズミカルに感じる。
場を移して境内社に浅間(せんげん)社にも捧げられる。
次の場は結界で区切った伊勢神宮遥拝所の前だ。
坂本さんが捧げる御湯の神楽はいつもこうしてあらゆる神さんに献上されるのだ。
そして、娘さんと同様に神職の他、氏子たちに向かう。
そうして氏子一人ずつに「家内安全 水難盗難 交通安全 どうかお守りたまえ もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と、御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体健勝を願い祓ってくださる。
最後に鹿谷氏、私もである。
なんとこの日は親子揃ってのダブル祓いになった。
坂本家が行われる御湯神事は県内地域に広範囲に亘っている。
当地の三郷町の他、平群町、大和郡山市、川西町、広陵町、王寺町、天理市、香芝市、斑鳩町、安堵町などがある。
この年は新たに大淀町も出仕されることになった。
坂本家は龍田大社の神子(巫女)を勤めていた家系で宝暦十二年(1762)に吉田家から受けた裁許状を伝えている。
坂本家に伝わる神楽歌は「神の呼び出し」、「このや乙女」、「すめ神」、「めづらしな」、「千代まで」、「君が代」、「都人」があるが詳しくは三郷町史を参照されたい。
御湯の作法を終えて拝見した古い湯釜。
傷みがあるのか湯が洩れるらしい。
使うわけにはいかなくなったことから蔵に収納されていたのだ。
ありがたくも宮総代の一人が箱に納めていた湯釜を取り出してくださった。
湯釜には刻印があった。
「和平群郡東勢野哩八幡宮御湯釜 貞享二年乙丑九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」である。
貞享二年は西暦1685年。
今から329年前に製作された代物である。
刻印地名に東勢野哩がある。
勢野の里は今でいう勢野であろう。
ということは東勢野である。
西の秋留八幡神社に対する東の薬隆寺八幡神社と称された証しだと思ったのである。
貴重な湯釜は三郷町の文化財。
御所市蛇穴の野口神社と同じようにガラスケースに収納されて大切に保管されてはどうかと伝えた。
直会を終えて絵馬殿に上がらせてもらった。
宮総代らの承諾を得て撮らせてもらった数々の奉納絵馬。
慶応三年(1867)正月に奉納された「御祭礼の図」や「元寇の図」、「七福神の図」など額装された絵馬は平成3年7月に町指定された有形文化財である。
明治時代の勧進相撲番付額も数点ある。
薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された「御祭礼の図」絵馬に描かれている。
今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋であろう。
その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。
廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。
(H26.10.25 EOS40D撮影)
この日は氏子のマツリで御湯が行われる三郷町勢野薬隆寺・八幡神社。
平成24年に第三版を発行された『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩-文化財と史蹟のガイドブック-』によれば、昭和26年に解体修理されたときのことだ。
「永正拾壱年甲戌(1514)九月拾九日」の棟木が発見されたという。
この年の平成26年11月には薬隆寺八幡神社の創建500年祭を記念する講演会が催される。
主催は『三郷路ふるさと散歩』執筆にあたって調査された団体だ。
本殿階段下には数多くの燈籠がある。
「宝暦六丙子(1756)十一月吉日 施主赤井氏」が刻まれていた。
そこには天保時代(1830~)や万延時代(1860~)に寄進建之された燈籠もあった。
場を離れて鳥居下にも燈籠があった。
それには「明和七年庚寅(1770)三月吉日 八幡宮永代常夜燈 北垣内連中」が刻まれていた。
勢野薬隆寺八幡神社を訪れたのは7月14日に行われた北垣内の天王祭りの取材に出かけたときにお会いした宮総代のUさんが話した古い湯釜に興味をもったからだ。
前日に下見を済ませた八幡神社には宮総代や氏子たちが集まっていた。
ご挨拶をさせてもらって取材に入る。
その直前に出合った坂本巫女。
三郷町在住の巫女さんだ。
この日は娘さんも同行である。
神社に向かう道すがらに話された隣村の秋留の八幡神社。
坂本さんが幼いころ、母親か祖母についていって秋留の八幡神社に出仕したそうだ。
当時は鬱蒼とした社そうであったと思い出された。
そのころは御湯や神楽も舞っていたという。
いつの時代か判らないが、それはしなくなったと話す。
もしかとすれば湯釜があるのかも知れない。
薬隆寺八幡神社には古い湯釜があると聞いていたが、斎場に設えていたのはそれほど古くもない湯釜だった。
薬隆寺八幡神社はかつて当地鎮座でなく北垣内の東側。
美松という地に元は八幡堂と呼ばれていた場があり、その地が元社の旧鎮座地であったと伝わる。
祭祀を勤めていたのは東の座と呼ばれていたそうだ。
そう話すのはこの日の調査に来られていた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏だ。
東の座の呼び名はどうしてついたのか、である。
勢野にはもう一つの八幡神社がある。
秋留の八幡神社だ。
同神社は薬隆寺八幡神社から北の方角に鎮座している。
元々の地が北垣内であれば、そこは秋留の八幡神社から見れば東の地。
今尚十人衆と呼ばれる座がある秋留の八幡神社を西の座と仮定すれば、薬隆寺八幡神社を東の座の名がついたのではないだろうかと云うのだ。
本殿階段下に御神燈を掲げた提灯立てがある。
そこより数メートル下った場に斎場を組んだ。
新しい湯釜を設えて、祭壇に洗い米、塩、お酒に幣や笹束を置いた。
巫女さんが御湯をされる場にはブルーシートを広げて敷物を敷いている。
始めに神職が巫女さんともども氏子たちを祓ってくださる。
そして移動した。
提灯を掲げた下には神饌御供を供えた祭壇もある。
普段着姿の氏子たちはその場を見守るかのように境内に立った。
神職らは提灯立て付近に並ぶ。
白装束の人は次の年度に神職を勤める後継者だ。
始めに祓えの詞を唱えて次は神職による祝詞奏上となる。
当地は近鉄電車生駒線の勢野北口駅近く。
駅舎に停車する音が祝詞奏上中に聞こえてくる。
献饌など神事は本殿に登ることなくこの場さ斎行されるのだ。
次は娘さんの巫女さんが舞う神楽に移る。
神楽歌を奏上されて鈴と扇を手にして舞う。
左に一回転して鈴を下げる。
続けて右に一回転する。
一旦、鈴を下げるような所作をしてもう一度、左に一回転。
シャンシャンと鈴を鳴らす音が聞こえる。
拝礼されて「このやおとめ・・・」と謡う神楽歌は母親の坂本さんだ。
「このや乙女」の神楽歌に合せて舞う神楽は娘さん。
親子の競演にしばし立ちつくす。
大きく両手を広げて舞う。
何度か所作をされて水平に保つ。
水平に保ちつつ、左に右に手を動かす。
しばらく舞っている間に謡われる「このや乙女」。
声高らかな神楽歌が境内へ広がる。
なんとも神々しさを感じるのだ。
次は穢れを祓う剣の舞いに移る。
両手に剣を持ちかえて舞う神楽。
度々、拝見する剣の舞いは所作が大きい。
左に一回転して両手でもつ剣を交差するように所作をされる。
まるで空を切るような感じである。
右に三回転されて空を切る。
左に三回転されて空を切る。
四隅を祓って境内側に向かって空を切る。
何度か立ち位置を替えて空を切る。
最後は鈴と剣を持ってシャンシャンと鈴を鳴らしながら舞う。
それらの所作を終えて鈴と剣で祓ってくださる。
「家内安全お守りください 水難盗難 交通事故・・・どうか身体健勝でありますように 祓えたまえきよめたまえ」。
神職の他、氏子一人ずつ丁寧に祓ってくださる。
しかもだ。調査に訪れていた鹿谷氏や取材していた私にも祓ってくださる。
いつもそうしてくださるありがたいお祓いである。
神楽舞の次は御湯神事に移る。
本殿に向かって拝礼される巫女さん。
幣を左右に降る。
ポン、ポンと柏手を打つ。
祓えの祝詞を奏上する。
そして湯に撒き散らすキリヌサ。
立ちあがって酒を注ぎながら「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
大幣を左右に振って柄の部分を湯に浸けて「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。
「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。
勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転して神楽を舞う。
2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。
湯に浸けて上下に動かす笹の葉。
立ちあがる湯のけむり。
「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。
何度か繰り返す笹湯の作法。
そうして湯に浸けた笹も手にして「もとのやしろにおくりそうろう おさめそうろう おんなおれ」と四神に向かって告げる。
四神それぞれに捧げたあとも舞う神楽。
先ほどと同じように左、右、左に一回転する。
シャンシャンシャンと鈴を鳴らす所作は神楽歌のときよりも早い。
履物を履いて提灯下に移動する。
本殿の神さんに捧げる神楽舞は湯に浸けた笹と鈴をもつ。
シャンシャンシャンの音色はいつ聞いてもリズミカルに感じる。
場を移して境内社に浅間(せんげん)社にも捧げられる。
次の場は結界で区切った伊勢神宮遥拝所の前だ。
坂本さんが捧げる御湯の神楽はいつもこうしてあらゆる神さんに献上されるのだ。
そして、娘さんと同様に神職の他、氏子たちに向かう。
そうして氏子一人ずつに「家内安全 水難盗難 交通安全 どうかお守りたまえ もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と、御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体健勝を願い祓ってくださる。
最後に鹿谷氏、私もである。
なんとこの日は親子揃ってのダブル祓いになった。
坂本家が行われる御湯神事は県内地域に広範囲に亘っている。
当地の三郷町の他、平群町、大和郡山市、川西町、広陵町、王寺町、天理市、香芝市、斑鳩町、安堵町などがある。
この年は新たに大淀町も出仕されることになった。
坂本家は龍田大社の神子(巫女)を勤めていた家系で宝暦十二年(1762)に吉田家から受けた裁許状を伝えている。
坂本家に伝わる神楽歌は「神の呼び出し」、「このや乙女」、「すめ神」、「めづらしな」、「千代まで」、「君が代」、「都人」があるが詳しくは三郷町史を参照されたい。
御湯の作法を終えて拝見した古い湯釜。
傷みがあるのか湯が洩れるらしい。
使うわけにはいかなくなったことから蔵に収納されていたのだ。
ありがたくも宮総代の一人が箱に納めていた湯釜を取り出してくださった。
湯釜には刻印があった。
「和平群郡東勢野哩八幡宮御湯釜 貞享二年乙丑九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」である。
貞享二年は西暦1685年。
今から329年前に製作された代物である。
刻印地名に東勢野哩がある。
勢野の里は今でいう勢野であろう。
ということは東勢野である。
西の秋留八幡神社に対する東の薬隆寺八幡神社と称された証しだと思ったのである。
貴重な湯釜は三郷町の文化財。
御所市蛇穴の野口神社と同じようにガラスケースに収納されて大切に保管されてはどうかと伝えた。
直会を終えて絵馬殿に上がらせてもらった。
宮総代らの承諾を得て撮らせてもらった数々の奉納絵馬。
慶応三年(1867)正月に奉納された「御祭礼の図」や「元寇の図」、「七福神の図」など額装された絵馬は平成3年7月に町指定された有形文化財である。
明治時代の勧進相撲番付額も数点ある。
薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された「御祭礼の図」絵馬に描かれている。
今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋であろう。
その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。
廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。
(H26.10.25 EOS40D撮影)