マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

萱森頭屋祭のマツリの調製

2015年06月10日 07時29分33秒 | 桜井市へ
桜井市の大字萱森は山間部。

標高は400mから480mに3垣内が分散している。

かつては集落内に小学校があったくらいに住民数は多かった。

昭和30年代では60から70戸もあったが、村を転出される家が増えて今では17戸になった。

在地は宮垣内(4軒)、中垣内(4軒)、下垣内(9軒)の3垣内。

それぞれがやや離れた地域に分散している。

昨年の私祭の神祭(カンマツリ)に伺ったときは、すでに終わっており、祭り後の翌日に慰労する後宴の真っ最中だった。

日程を聞き誤っていたのだ。

繰り返してはならないと思って記憶を改めてでかけた萱森の頭屋家である。

前日、宵宮に高龗(たかおかみ:雨冠に下は龍)神社の分霊遷しましをされた頭屋家。

神さんが泊りの一夜を過ごした翌朝は太夫(一老)、二老、三老、祭頭総代に中老、副中老ら氏子一同は龗神社の幟を立てた頭屋家に集まって頭屋祭の祭り道具を調製する。

前庭が狭いことから幟全景をとらえることは難しい。

また頭屋家の玄関前には太い真竹を交差・組立てて日の丸国旗を掲げた。

軒下廊下でネムの木を細工していた二老、三老。

カマボコ板のような大きさの木は5枚重ねして苧で括っていた。

頭屋(頭人:この年は四老)も一緒になって作る木の札には頭人の名前を書き入れる。

二組作って鳥居下の両端に立てる木の札は頭屋の札。

「シバ」と呼んでいる。



一方、作業小屋では大注連縄や9本(燈籠・狛犬・掘切/春日/八幡の小宮・山の神・頭屋家)の小注連縄(こじめ)を作っている。

材は今年にできた新米藁である。

「いつもこじめは私が作っているんや」とワラナイする男性は云う。

やや太めに結っておいた注連縄。

くるりと輪にしてほどけないように縛る。

細い尾の方を胴に回して結ぶ。

胴の方は5cmぐらい出しておく。

メジャーで長さ測って一定にした細い荒縄は締め用だ。

適当な量で手掴みした束を二つ折りにしてコジメに巻く。

荒縄でしっかりと縛る。

これを4本コジメに取り付けていく脚部。

メジャーで測ってこれもまた一定の長さにした。



まるで五徳のような形であるが脚は4本だ。

作業は慣れて手際よく作られる。

「他の人ではできんのじゃ」と話す氏子たち。



納屋のなかでは拝殿等に掲げる大注連縄を結っていた。

10mが2本(拝殿・社務所)、8mが1本(手水)、3mは3本というから合せてみれば37mにもなる長さだ。

もう一つの大注連縄作り。

鳥居に架ける大注連縄は藁すぐりをした藁を3束。

太くするからそれだけの量が要る。

まずは藁3束を地面に置いていく。

同等量の藁3束を隣に並べる。

もう一本の藁束も並べる。

量が均等になるように測って束ねる。

繋げる束を重ねて藁縄でしっかりと縛る。

これを繰り返して長くする。

一般的な大注連縄作りでは継ぎ足しの藁を入れながら三本拠りにしていくのだが、萱森では人足が少ないために作業を工夫されている。

広い場を要するために納屋外での作業である。

先端を藁縄で縛って崩れないようにするが、藁縄の長さはある程度長い。

これは鳥居に掛けるための長さが要るのだ。

これらができあがれば納屋の天井辺りから吊るしたロープに掛けて引き上げる。

作業場は頭屋家の納屋。



昭和54年10月12日に上棟祭に揚げた棟札があった。

当時の施主は頭家当主の父親。

平成5年四月に発刊した私家版の『萱森風土記』の著者だったのだ。

ここからの作業は力仕事になる。

頭人も加わって3人で縄を依る。



しっかりと藁を掴んで息を合せて「せーのっ」と声をかけて捩る。

3人揃って身体を捩る。

これを何度も何度も繰り返す。

尾の部分は崩れないように荒縄で締める。

頭の部分は押し切り道具でざくっと切った。

仕上げは挟みで刈り取って奇麗にする。



鳥居に掛ける太い注連縄ができあがるころにはナタとヨキ(カマとも)をそれぞれ2個ずつ作っていた。

材はシバと同じく当地ではコカンボと呼んでいるネムの木である。

端のほうに二穴を開けて苧を通して結び固定する。

90度にしたそれぞれの山の道具に黒い筋を書き入れる。

刃側となる部分は4本でウラ側は3本の筋だ。

一方、宮司は大御幣や注連縄に掛ける幣垂れを作っていた。

大御幣用は杉原紙だ。頭屋家には大御幣を立て掛けて御供を供えた祭壇を奉る。

分霊を遷しましていたヤカタもある。

手前には神輿も置いた。

萱森の頭屋は一年に二回、在宅に分霊を迎える。

この日のマツリと3月に行われる三月朔座のオシメイリ(御神明入り)と呼ぶ儀式である。

隣村の瀧倉においてもかつては2月に御分霊還幸祭並びに御注連入りと呼ぶ御分霊頭屋入祭が行われていた。

還幸祭には御頭揚げと呼ぶ儀式もあったが、分霊を受け入れる頭屋もなく、平成23年を最後に中断された。



それはともかく唐櫃に収める御供もある。

一升餅、稲穂付きの新穀、甘酒、洗米、果物にクリの木で調製した二膳の箸もある。

小注連縄などに紙垂れを括りつけた時間は昼も過ぎていた。

これよりしばらくは頭屋家でよばれる会食となる。

(H26.10.18 EOS40D撮影)

寿がきや辛味噌番長ラーメン

2015年06月09日 07時57分10秒 | あれこれインスタント
仕事を終えて自宅に向かう。

この日は通り越してグランドオープンした富雄南イオンタウンだ。

2日前はプレオープンだった。

目指すはマックスバリュの富雄南店。

オープンともなれば駐車場は満杯。

オープン特価の砂糖とバターを買いにきたが時すでに遅しである。

かーさんはこの日もおふくろが通院する住之江の畠中医院に出かけている。

昼食は我が家で食するカップラーメン。

買い置きのラーメンを底から探す。

あったのは食べて欲しいというような真っ赤な顔で睨みつける寿がきや辛味噌番長ラーメンだ。

辛口ラーメンは数年に一度の試し喰い。

辛いだけでは辛い。

「カライ」も「ツライ」も同じ漢字。

「辛味」の味わいは痛くてツライのだ。

そう思うのだが、手が勝手に動いて取っていたのだ。

かやくを入れてお湯を注ぐ。

待つ時間は5分間だ。

後入れの液体スープに同じく後入れの粉末スープを投入した。

な、な、なんとである。



お湯は真っ赤に染まった。

見ただけで恐ろしい味であろうと思った。

ドロドロの液体スープに浮いた赤いトウガラシが山のように盛りあがる。

ほんまに辛そう。

さっと混ぜて麺を口にする。

強烈なパンチが襲ってきた。

辛い、辛いの連続パンチである。

辛いも、辛いも同じ漢字である。

赤味噌と思ったスープに絡んだ麺はやや堅め。

ずるずるすする辛い麺。

汗がどっと出てきた番長ラーメンは、なぜか箸が止まらない。

トウガラシが喉を通るときに感じる辛味噌はウマカラだ。

スープが美味しいのである。

かやくはモヤシとニラ。

量は少なめ。

もっと多く盛ってシャキシャキ感がでればもっと美味くなるであろう。

食べているときに声を掛けられたら・・・。

恐ろしい光景にでくわすことを想像した。

喉を通っている最中にしゃべったりしたらエライことになる。

そう思ったとたんに鼻水が吐き出た。

ゲホっ、ゲホっである。

それから食べるのが辛くなった。

最後の一滴まで飲み干したいと思っていたが叶わなかった。

それから上蓋に書いてあった文字を見た。

「※ 大変辛いラーメンです。辛いものが苦手な方はご注意ください。」とある。

このラーメンは「注意」レベルでは許されない。

「辛いものが苦手な方は決して食べないでください」とすべきだ。

「東京・野方 味噌麺処 花道 監修」とある寿がきやの辛味噌番長ラーメン。

マーケットで売っていても目を逸らすことだろう。

(H26.10.17 SB932SH撮影)

椎木町のサオカケ

2015年06月08日 07時26分02秒 | 民俗あれこれ(干す編)
この秋はハザカケ(稲架け)を見かけること度々。

ほとんどが山間にあった。が、である。

平坦部の地元大和郡山市内にもあった。

送迎中に拝見した窓越しのサオカケは椎木町である。

送迎患者の話によれば翌週末の休日にイネコキ・ウスヒキをするらしい。

屋内乾燥もしなくていい天日干しのお米は食べたことがないと話していた。

脱穀した藁は葡萄園を営む人が欲しがっている。

直ちに取りにくるそうだ。大和郡山市内では当地の他、山田町にもあることが判った。

探してみればあるものだ。

(H26.10.17 SB932SH撮影)

魚輝住之江店の日替り寿司ランチ

2015年06月07日 08時08分05秒 | 食事が主な周辺をお散歩
この日も畠中医院で診療の点滴治療。

1時間半待つ間にオムロン製の血圧測定器の購入やおふくろが食べたかったバナナやトマトを探しまわる。

治療も終わってほっとするが、足元はおぼつかない。

横たわって点滴を受けていた。

終わって立ち上がる。

動きは俊敏でないのは当然の起きたてである。

車で向かう郵便局や銀行に薬局へと巡回した。

おふくろが住む住居は市営住宅の4階。一段、一段と上がっていく。

買いだした食料品の整理もあるし、空調機の暖房にセット合せ。

購入したばかりの血圧測定器の取り扱いを説明する。

難なくできる。声は普段とかわりなくなっていいたおふくろは食欲旺盛。

急激に食べれば再び吐き戻しになりかねない。

先日に買っておいたお粥を食べる。

住まいを離れた私たちも遅めの昼食。

どこへ行くかは決まっている。

いうまでもない「魚輝(うおてる)」。

おふくろが住んでいるすぐ近くにある。

入店した時間は午後2時半。

お客さんはまずいない時間帯だ。

ランチタイムは午後3時まで。

ぎりぎりいっぱいの時間帯に注文したメニューは日替わり。

うどん定食も食べたいが、この日に選んだ日替りの寿司ランチ。



大皿に盛ったにぎり寿司は10品。

マグロ、サーモン、イカ、ツブ貝、エビ、コハダ、トリガイ、ゲソ巻き、タコなどだ。

玉子焼きなんぞ一口で食べきれない大きさ。

三口でようやく食べきれた。右にある大きな汁椀はひときわ大きいブリの切り身が二つも浮いている赤だし。

ぷりぷり感のブリが美味いのだ。

ナスビの煮ものもある。

ランチサービスに無料のドリンクもついている。コロコリの新鮮食感。

ネタも大きいにぎり寿司がたまらない魚輝。

奈良に出店してほしいものだ。

(H26.10.16 SB932SH撮影)

松尾トウヤの祝い唄

2015年06月06日 09時05分54秒 | 山添村へ
大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば祭祀の日は旧九月二十七日が神前で行われる祭儀日だった。

いつの時代に移り替ったのか判らないが、現在は10月15日である。

調書によれば「祭儀を終えて退社した渡り衆は当家に上がり込む。

その際には竹枝に御幣紙を付箋したものを手にした人が当家の家先で出迎える。

そのときに御幣付きの竹を一本ずつ渡り衆に手渡す。

先導しながら当家の家に上がり込む。

「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返し唱和しながら上がり込む」。

これを「踊り込み」と呼ぶ。

高膳の盛られたお米と小豆を手にする楽人たちは竹を振りながらそれらを撒き散らす。

「祭り日には毎年能師を招いて能楽を奏する例」とある。

翌日の旧二十八日には「帰り夜宮と称して御幣元より当家へ向け楽人を向う為七度半の使いを立て、是より御幣元宅へ楽人着座し大の御幣弐木を調製し、その日の午後は御幣元となる出生男子母と共に先登し、父を御幣を男子の頭上に差掛け、次に楽人の一老が御幣を構え各楽人が次につく。神前に礼拝儀式を行い、終りて帰途に御幣元宅より竹枝に付箋もの10本を構えて出迎えた」。

そして同じように「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんの歌を繰り返し歌いこみつつ座に着いた」。

さらに「座に着いた楽人は酒肴を供させられ一天四海波の謡を唄い、一同起立して御幣元宅を退座した」。

それから「当家へ帰り楽装を脱衣し、生心落としと称して酒肴の饗応を受けた」とある。

六所神社のマツリにジンパイを奉納された渡り衆。

肩の荷が下りて普段の笑顔に戻った。

ほっとした瞬間である。

車に乗って帰路についたトウヤ家。

手前で降りて日の丸扇と弓張り提灯を持つ人に迎えられる。

渡り衆に一人ずつ笹を手渡せば提灯を手にして先導する。

「あーきのくにの」を謡えば渡り衆は同じように「あーきのくにの」を囃す。「いつくしまの」を謡えば「いつくしまーの」を囃す。



渡り衆は提灯持ちの謡いに復唱するのだ。

続けて「べんざいてんの」も「べんざいてんの」で囃す。

以下、「ねじろのやなぎ」、「あらわれにけり」、「げにもそよそよ」、「いざやおがまん」を一節ずつ謡いながらトウヤ家に向かう。

「あきのくに いつくしまの べんざい(びざい)てん ねじろのやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん」を繰り返してゆっくりと歩く。

玄関から入って座敷に上がり込む。

目出度い台詞は調書に書かれてあった「オドリコミ(踊り込み)」の様相である。

座敷中央には高膳に盛られたお米と小豆がある。

紙片も乗せていた。



それを手にした8人の渡り衆。

竹を振りながら時計回り。



「なーんのたーね(何の種) まーきましょ ふーくのたーね(福の種) まーきましょ」と囃しながらお米と小豆をばら撒く。

何度も何度も繰り返す「福の種撒き」の所作である。

調子づいて小鼓も打ち鳴らす。



三周したであろうか福の種撒きを終えたシートはお米や小豆に紙片が散っていた。

史料によれば続いて「たからをまきましょう」とあったが、この年は見られなかった。

福の種が一面に広がった座敷は奇麗に掃除をされて渡り衆を慰労する場になる。

装束も仕舞われたトウヤ家の座敷はご馳走の皿がずらりと並ぶ。



トウヤ家の当主は渡り衆に対して厚く御礼を申し述べて、宴はトウヤ家のもてなし料理の膳をよばれる。

家紋が描かれた提灯に灯りが点いたトウヤ家の宴は夜が更けるまでもてなしたようだ。



大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。

続けて「右謡ツヽ豫テ之ヨリ先キ當屋ニ於テ洗米及大豆ヲ三方ニ盛リアルヲ各自ニ取リテ(千石ノ米捲キ 万石ノ豆捲キ)ト唱ヘ屋内ニ打捲キ、其侭坐ニ着キ薑吸雑ヲ戴ク。之レニテ儀式ハ全ク終ルモノナリ」とある。

今では見られないが、かつては千石(せんごく)、万石(まんごく)の台詞を謡いながら席に着いたようだ。

「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。

能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたと考えられている。

なお、渡り衆が手にしていた笹の御幣は今夜の宴を終えて家に持ち帰るそうだ。

笹の御幣は神さん。

授かった御幣は床の間に飾って次にあたる年度まで置いておくと云う。

(H26.10.15 EOS40D撮影)

松尾のマツリ奉納ジンパイ

2015年06月05日 10時42分37秒 | 山添村へ
午後3時ころには到着しなければならない大字峰寺の六所神社。

時間を見計らって出発した。

前日のヨイミヤと同じく車に同乗して下っていった松尾の渡り衆。

先頭は大御幣を持つトウヤである。

六所神社に行くまではヨイミヤと同じく松尾の神社など5カ所を遥拝する。

まず始めにかつては弁天さんとも呼ばれていた松尾の氏神さんを祀る遠瀛(おおつ)神社に向かう。

神社下にある朱塗りの鳥居を潜って拝殿に着く。

左側に立ったトウヤ。

横一列に並んだ要人は年齢順にヒワヒワ、2名のガシャガシャ(ササラ)、締太鼓、2名の横笛、小鼓だ。



「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」と鳴らせばヒワヒワはくにゃくにゃ、ガシャガシャはガチャガチャ鳴らす。

トウヤはそれに合せて大御幣を上下に降る。

次に向う先は神社から下った途中の道沿いだ。



山の方に向かって同じく楽奏をするがヨイミヤと違ってトウヤは大御幣を上下に動かす。

そこは八ケ峰忠魂碑の方向。

カヤの木の石を拝んでいるという遥拝だ。

車に乗り込んでさらに下る。

ドアを開けて降りる渡り衆は忙しく所作をする小川(松尾川)の堤防辺り。



ワショ川(ハセ川とも)と呼ばれる水神さんに向かって楽奏する。

かつてはそこに祠(現在は遠瀛神社の末社)があったそうだ。



ここからは車に乗らず本来の渡りの姿になる。

楽奏しながら数十メートル下って道路手前の辻に着く。

大字桐山の大君垣内との境界であろう。



ここでもかつてあったとされるカシの木のほうに向かって楽奏をする。

またもや車に乗ってのお渡りだ。

大字桐山の大君垣内で車を降りて歩きだす。

お渡りをする場合は笛、太鼓、鼓は音を鳴らす。

ガシャガシャもヒワヒワも所作をする。



大字津越の大橋信号を渡って大橋中央辺りで楽奏する。

ヨイミヤとの違いが判るのはトウヤが持つ大御幣があるか、ないかである。

持っていればマツリの日の在り方である。

このときは何故か車の往来がなかった。

布目川の上流百メートル先の森の中にある水神社に向かってジンパイをする。

松尾の遥拝地は5カ所。

水神さんなどに遥拝されるのは峰寺や的野では見られない。

大橋を渡りきって再び車に搭乗する渡り衆。

しばらく急坂を登って車から降りる。



渡り衆は大御幣を持つトウヤを先頭に六所神社に向けてお渡りだ。

六所神社の鳥居下に着いたら一列に並んで楽奏。



大御幣を鳥居に立てかけて階段を登ることなく一旦はお堂とも呼ばれる参籠所に向かって参進する。

ここからの在り方はヨイミヤの行程とすべてが違う。

渡り衆とともに御供運びもついてきた。

モチを入れた風呂敷に包んだ八寸の重箱は拝殿に供える。

会所の前には村の人たちも迎えに待っていた。

例年と変わらぬ渡り衆を迎える村の姿に若い人は見られない。

温かく迎えられた渡り衆は参籠所に上がる。

渡り衆が所作されるジンパイを一目見ようと集まった村人たち。

トウヤ家が用意されたお菓子やモチ(一戸に2個)などが配られる。

これもまたマツリの楽しみである。

長屋作りの参籠所に登った渡り衆は「みなさまご苦労さんです これよりジンパイ(神拝)をさせていただきます」と口上を述べる。

ヨイミヤと同様に神社総代の歓待を受けて前日と同じ5品盛りの肴とお酒をいただく。

酒や肴はドウゲが準備した。

ドウゲはマツリの下支え。

峰寺の年番である

しばらくは宴の時間。

歓迎された渡り衆は下駄を履いて境内に下りる。



楽奏しながら登ってきた参道を戻って鳥居下に移動する。



手水で清めて立て掛けていた大御幣を持ったトウヤを先頭に石段を登って本殿左側に入る。

そこには小さな石がある。

サザレ石とも呼ばれる石は百度石であろうか。



そこを中心に時計回りでぐるぐる回る渡り衆。

大御幣を上下に振りながら時計回りに楽奏しながら三周する。

そのまま楽奏しながら拝殿に上がる。

所作の場は本殿と拝殿の間である。

横一列に並んで参拝だ。



松尾の遥拝のときと同じように「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」と囃せばトウヤは大御幣を大きく上下する。

県内各地で見られる、いわゆる奉幣振りの作法と同じように思えた。



奉幣振りを終えた大御幣は本殿に立て掛けるようにして奉られた。



楽奏を一回されて拝殿を降りた渡り衆は、再びお堂こと参籠所に上がる。

トウヤはこれよりジンパイを披露する旨、口上を述べる。

この場で行われたジンパイの作法は横一列に並んで行われる。



ヒワヒワ、ガシャガシャ、小鼓の三役が順繰りに所作されたジンパイは神社総代らに披露する。

ヨイミヤのジンパイは神さんに奉納するが、マツリは神社総代らに、である。



三役が所作する扇を広げて右手で煽ぐのは「埃を払って扇で清める 次の三周は寄せるように扇で煽ぐ。これは福を呼び込む所作である」と話していた松尾の最長老の話しを思い出す。

この年に楽奏する渡り衆の席は椅子である。

前年までは蓆を敷いた座に正座していたが、身体的要望もあって椅子に替えられたのである。

参籠所を下りて横一列。

今度は集まっていた村人たちにも楽奏された。

こうしてすべてのジンパイの奉納を終えた渡り衆は鳥居下の付近に整列する。



前方の山に向かって楽奏する間にトウヤと長老の二人はヒワヒワと呼ぶ竹をくにゃっと曲げて前方に放つ。

その所作は弓をしならせて放つようだ。

これまで拝見した弓打ちの場。

松尾と峰寺は同場所であったが、的野だけは鳥居から神社に向かって放っていた。

大字によって場が異なるのであろう。

弓打ちを終えたトウヤはいち早く参籠所に赴いた。

8人の渡り衆が被っていた烏帽子。

それには赤紙が取り付けられている。



それを揃えて神社総代に手渡される。

奉納儀式を終えた証しに渡すのであるが、外すことが困難であることから実際は予め用意したものを袋に入れて差し出している。

宮総代は袋から取り出して8枚有ることを確認されてマツリを終えた。

渡り衆はようやく安堵。



普段の顔つきに戻ってトウヤ家に戻っていく。

(H26.10.15 EOS40D撮影)

松尾のマツリジンパイ

2015年06月04日 06時07分51秒 | 山添村へ
山添村の大字松尾のマツリを勤める渡り衆。

要人(ようじん)と呼ばれる舞人は予め決められていた祭典控の順番帳に記載された8人である。

9月15日に大字役員総代が集まる遠瀛(おおつ)神社の籠りの日に今年の要人とトウヤ(当家)を正式決定される。

親、兄弟、万が一の不幸ごとに穢れがあれば遠慮してもらって次回に回ってもらうそうだ。

マツリの年のトウヤは10月初めに神さんを家に迎えておく。

座敷の前庭若しくは門前に青竹を立て紙垂れ注連縄を張った家がトウヤ家だ。

宵宮の日の朝に同家へ訪問する要人たちは和服姿。

「本日はおめでとうございます」と挨拶をすれば「お忙しい処、おひま取りしてご苦労さん」と受け入れる。

年長順で決められる要人の役割。

特に笛吹きが肝心であるだけにそれを考慮しながら役割が決められる。

お渡りの先頭は日の丸大御幣を持つトウヤだ。

ヒワヒワと呼ばれる弓役、ガシャガシャと呼ばれるササラ役、締太鼓役、笛吹き役、小鼓役が続く。

「ピ、ピ、ヒゥー、ホー、ヘ」と音階は決まっているが、文字では判り難い音階だ。

音色となる「ピッ、ピッ」は上の穴を開けて吹く。

「ヒゥー」は真ん中の穴を開けて吹く。

全部の穴を塞ぐ「ヘッ」。

逆に全部開ける「ホッ」というわけだ。

これを二人の奏者が呼吸を合わせて吹くのである。

宵宮の日には何度もそれを繰り返してジンパイ(神拝)を奉納された。

笛吹きの音に合わせて太鼓と鼓を打つ二人。

ガシャガシャも手を動かすがそれの音は消されて聞こえない。

ヒワヒワは両手で曲げるように繰るがそれも音は出ない。

この日も練習をされて昼食をよばれた要人(ようじん)と呼ばれる渡り衆。

座敷で談をとる要人たち。そろそろ行く時間になったと言って装束に着替えた。

その衣装を納めている箱には墨書がみられる。

表面が「六所宮祭用装束箱」で、裏面には「干時文政六年(1818)六月吉祥出来 宮年寄・・・云々」とある。

宮年寄りの名は松尾村が二人、的野と峯寺が一人ずつで二人の世話人が記されている。

ヨイミヤ、マツリとも奉納される大字は峰寺・松尾・的野が一年ごとに交替する。

この年は松尾がアタリの村である。

大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば旧東山村のほぼすべての神社において遷宮や祭祀を神宮寺(別當寺)の社僧が司っていたことが判る。山添村・大字峰寺の六所神社は「前項別當寺ノ社僧ト称シ當社年中ノ祭儀ヲ兼職セリト云フ」と書かれている。

大字松尾・遠瀛(おおつ)神社には「社僧ナシト難モ遷宮等ノ場合ハ他ヨリ僧侶ヲ雇入遷宮セシモノナリト云フ」が書かれてあった。

大字的野・八幡神社では「古来常照院ト称シ當社ニ関係アリシモノヽ如シ」、「前項ノ寺院僧侶、社僧ト称シ當社ノ祭祀ヲ兼職セシト云フ」である。

かつては社僧が祭祀していた六所神社のマツリには神職は登場しない。

大字の渡り衆がジンパイを奉納する形式になったのだが、いつの時代に変化があったのか故事には見られない。

出発前によばれた昼の膳の一部。

祝いの膳を断る理由はない。

トウヤ家を表敬訪問したのは一カ月前。

一連の記録を撮って遺しておきたいと伝えられていた。

トウヤ家の記録をする役目を仰せつかったのだ。

2年前にアタリになった峰寺トウヤ家や3年前の松尾トウヤの記録写真を見られた婦人。

同じような状況を撮ってほしいと願われたのだ。

心配していたのは天候状態だ。

3年前の松尾はヨイミヤ・マツリとも雨天だった。

傘をともなう祭礼であった。

撮り直しのつもりで伺った表敬訪問。

逆にカメラマン冥利に尽きるありがたい言葉を受け賜わったのだ。

祝いの紅白まんじゅうに大きなエビにカラアゲ盛り。



つまにミョウガを添えたカツオタタキ刺身椀。

ナスビ・コウコ・ハクサイなどの漬物に祝いのセキハンや紅白まんじゅうを慌ただしくもいただいた。

ゆっくりしている時間もなく渡り衆は出発する。



門の前に一列になった渡り衆の記念写真。

この日も息子さんがシャッターを押していた。

(H26.10.15 EOS40D撮影)

峰寺の萱葺き民家

2015年06月03日 07時31分57秒 | 民俗あれこれ(民家集落編)
ジンパイを奉納される合間に撮らせてもらった萱葺き民家。

積みあげた石垣に堂々と建つ母家に二棟の白壁土蔵に圧倒される峰寺集落。



萱葺き家は他にも数軒で見られる。

電線が見苦しいという非生活者のカメラマンも居るらしいが、そんな言葉は野暮。



葺き替えには萱材が要るが、材もなく、仕方なく瓦屋根に換えたという家は多々ある山村集落。

今後も村で生活し続けるにはどうするか。

数々の課題に立ち向かうしかないと思うのだが、これもまた野暮というものだ。

(H26.10.14 EOS40D撮影)

松尾の宵宮奉納ジンパイ

2015年06月02日 09時19分15秒 | 山添村へ
お渡りは歩いていきたいと願っていたトウヤ。

健康上の理由から無理だと判断されて数台の車に相乗りして出発した。

峰寺の六所神社に向かうが、まずは松尾の神社など5カ所を遥拝する。

始めに参った地は松尾の氏神さんを祀る遠瀛(おおつ)神社だ。

かつては弁天さんとも呼ばれていた神社下の鳥居の前に横一列になる。

列の順は決まっていないようだが、「ピ、ピ、ヒゥ」の合図にササラ役、太鼓役、笛吹き役、小鼓役が三回鳴らした。

トウヤと長老はそれに合せてヒワヒワと呼ぶ弓をくにゃくにゃする。

もちろん音はでない。

前回の平成23年は神社拝殿に並ばれたがこの年は鳥居下。

おそらくトウヤの体調を考慮されたようだ。

次に向う先は神社から下った途中の道沿いである。

山の方に向かって同じくジンパイをする。

そこは八ケ峰忠魂碑の方向。

カヤの木の石を拝んでいると云う。

さらに下って流れる小川(松尾川)の堤防辺り。



ワショ川(ハセ川とも)と呼ばれる水神さんに向かってジンパイをする。

かつてはそこに祠(現在は遠瀛神社の末社)があったそうだ。



ここからは車に乗らず本来の渡りの姿になる。

数十メートル下って道路手前の辻に着く。



ここでもかつてあったカシの木のほうに向かってジンパイをする。

またもや車に乗ってのお渡りだ。

大字桐山の大君垣内で車を降りて歩きだす。

お渡りをする場合は笛、太鼓、鼓は音を鳴らす。

ガシャガシャもヒワヒワも所作をするのだ。

「ピーピーホーヘッ」の音色になってきた笛の音。

「ドン ドン ドン」と打つ。

大字桐山もそうであったが、笛がいちばん難しいのである。

そして大字津越の大橋の信号を渡って布目ダムに架かる橋の中央辺りで立ち止まる。



その場に並んで布目川の上流に向かってジンパイをする。

上流数百メートル先の森の中にある水神社だ。

松尾の遥拝地は5カ所。

水神さんなどに遥拝されるのは峰寺や的野では見られない。

大橋を渡りきって再び車に乗り込む渡り衆。

大字峰寺に鎮座する六所神社に向かう。

急坂を登って神社手前数百メートルの場で車を降りる。

そこからは列になって「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」を楽奏しながらお渡りをする。



後続に家族や親戚筋もついてきた。

六所神社に到着すれは朱塗りの鳥居下に並ぶ。

「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」を楽奏してから手水で清める。


再び整列して三回楽奏する。

拝殿の前で拝礼をするとともに楽奏をする。

その拝殿には毎年交替されるトウヤが寄進した鈴に下げる布が垂れさがっていた。

この年にトウヤを勤める松尾の当主の名前もある。

場は移って境内西側に建つ参籠所に上がる。



参進するときも楽奏をする渡り衆だ。

参籠所はかつてお堂とも呼ばれていた長屋である。

その場には三カ大字の氏子総代らが集まっていた。

「ごくろうさまでございます」とねぎらいの言葉をかける総代に対して「お参りさせていただきました」と挨拶し口上を述べるトウヤ。

これより始まるのは渡り衆への摂待である。

カラアゲ、カマボコ、コーヤドーフ、コンブ巻きに大きな豆の五種を盛った肴をつまみに注がれた酒をいただく。

しばらくの時間は渡り衆を慰労する宴である。

宴が終われば一同は立って整列する。

「ご馳走さまでした これよりジンパイ(神拝)をさせていただきます」と述べて披露する。

これもまたヨイミヤ神事における一連の儀式であるが神職は登場しない。



接待が終われば下駄を履いて境内に下りる。



その際にも楽奏をした渡り衆は拝殿に上がってジンパイを奉納される。

上がる前には先ほどと同じように一列に並んで楽奏をする。

拝殿に座る位置は決まっている。

向かって左側にトウヤ、ヒワヒワ、2名のガシャガシャ。

右側は締太鼓、2名の笛、小鼓である。

ジンパイはヒワヒワ、ガシャガシャ、小鼓の3役が順次所作をする。

「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」と鳴らせば拝殿中央にでる。

ヒワヒワと扇を置いて着座する。

一礼されて「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」を鳴らしたら立舞になる。

右手に扇を持って立ちあがる。



左手に持ったヒワヒワは右脇の袂へ挟みこむようにした。

扇を上から下へと右から左へ掻きだすようにして時計回りに三周する。

その際には笛が奏でる「ピロピロピロ」にドンドンドンと連続して打ち鳴らす締太鼓や小鼓の楽奏だ。

一度、着座されてヒワヒワを手前に置く。

再び「ピーピーホーヘッ」、「ドン ドン ドン」で立ちあがる。

次の所作は反時計回りだ。



同じように扇を上から下へと右から左へヒワヒワを中心に入れ込むように三周する。

一回目は邪悪を吐き出す。

二回目は福を招き入れる所作である。

演者はガシャガシャ、小鼓に替るがすべての所作は同じである。

こうして三役が行った奉納ジンパイが終われば拝殿を降りて一列に並ぶ。

一同揃って楽奏し宵宮の奉納を終えた渡り衆はトウヤ家に戻っていく。



役目を終えてほっとする渡り衆はトウヤ家でねぎらいの慰労会。

心を込めてもてなす直会の会食に移る。

酒を配るのは当家の親戚筋。

お酒もはいって歓談は盛り上がる。



もてなす宴は下支えのトウヤ家族や親戚筋。

笑顔が満ち溢れていた。

(H26.10.14 EOS40D撮影)

松尾の宵宮ジンパイ

2015年06月01日 07時26分40秒 | 山添村へ
毎年10月14日はヨイミヤ(故事では夜宮表記)にジンパイを奉納される山添村の大字峰寺・六所神社。

同神社は峰寺・松尾・的野との郷社であった。

乗光廃寺の鎮守社であった六所神社は文禄年間(1592~)に六所権現改め六所大明神を称したと伝わる。

ジンパイはトウヤ(当家)を含めた8人の渡り衆が勤める。

渡り衆は郷村中になる峰寺・松尾・的野が毎年交替する三カ大字のマツリである。

前年は峰寺で今年は松尾。

翌年は的野がアタリの大字で三年に一度の廻りである。

松尾の廻りは前回が平成23年だった。

ヨイミヤに翌日のマツリも雨が降るなかにお渡りをされて六所九神社に奉納された。

この年は最悪の天候状態だったが、度々、雨にあたられたという人も多い。

一か月前の9月13日にトウヤ(当家)家を表敬訪問した。

当主は雨であればお渡りは車で行かざるを得ない、天気であればトウヤ家から歩いて行くと話していた。

トウヤ家から六所神社まではおよそ2km。

昭和9年生まれの当主は80歳。

身体が動ける状態であれば歩いていきたいと話していた。

ヨイミヤが行われる二日前。台風19号が近畿を直撃するであろうと気象庁が予報していた。

「なんとかなる」と力強い言葉で返した当主の信念が通じたのか、台風は前日の13日晩9時ころに大阪岸和田に上陸した。

が、である。

奈良県では風雨もそれほどでなく通り過ぎた。

「襲う」予報に恐れた奈良市東九条八幡神社の神輿巡行は一日繰り上げて12日に行われた。

室生の龍穴神社の祭礼は11日時点でヨイミヤ・マツリとも中断された。

11日に桐山でヨイミヤ神事を祭祀された宮司は「避難指示が発令されば中止せざるを得ない」と話していた。

「当日の状況を判断して決断する」と話していたのは天理市乙木町の住民だ。

判断・決断は地域によってさまざまだった13日は豪雨でもないそれなりの降雨量であった。

台風19号は、14日の朝ともなれば東北南部から太平洋に抜けた。

台風一過になれば晴れ間になることが多いが、この日は曇天だった。

当主が云ったとおり、「なんとかなった」のである。

雨が降りそうな気配も感じる曇天日であったが、御神燈提灯を掲げて注連縄を張ったトウヤ家に集まった7人の渡り衆。

座敷に招かれてまずは酒を一杯飲む。

これを「シモケシ」と呼んでいる酒杯は奉納される渡り衆の神体清めの作法である。

この日に訪れていたトウヤ家の手伝いさん。

親戚筋の一人であるFさんは菅生在住。

トウヤ家婦人の弟にあたる。

シモケシは葬儀の際にも行われると話す。

やはり清めの酒である。

その作法は菅生でもしていると云う。

菅生も行事取材に訪れることが度々あった。

マツリのときに奉納される子供相撲がある。

対象の子は3歳までの男の子。

赤ちゃんは抱かれて登場する。

いつしか男の子が少なくなった。

仕方なく女の子も参加を認めたそうだ。

対戦は2人で1組。

3組の相撲が行われる。

相撲は本殿前の境内で行われる。

今年は雨が降ったために中止したと云う。

マツリにはクシ肴を振る舞っていたが、これも中断してパック詰め料理に替えたそうだ。

中峰山郷村である菅生は神波多神社のお渡りに出仕される。

これまで10月15日であったが後半の日曜日に移したようだと話す。

話題はつきないので松尾の行事に戻そう。

トウヤ家では大御幣や楽奏される横笛やヒワヒワと呼ぶ竹の弓を作っていく。

道具を揃えてジンパイの練習をする。

昼はトウヤ家がふるまう仕出し食をよばれて午後も練習をする。

到着したことは和装姿だった。

何度か練習をされて装束に着替えたトウヤと渡り衆。

松尾ではその人たちのことを要人(ようじん)と呼んでいる。

装束は紺地に鶴の文様がはいった素襖で、頭に烏帽子を被る。

ヒワヒワを持つトウヤ以下の要人は年長順に並ぶ。

以下、ヒワヒワ、2名のガシャガシャ(ササラ)、締太鼓、2名の笛、小鼓の順である。

始めに座敷の中央に現れたる要人はヒワヒワを持つ長老である。

ピロピロピロ・・・の音のように聞こえた笛吹きの合図。

松尾の史料文字では「ピ、ピ、ヒゥ」である。

それが出番の合図。

扇は右手、左手にヒワヒワを持って神さん側に向かって座る。

座前にヒワヒワを置いて拝礼。

ヒワヒワを手にして三役の音色でそれを緩く曲げる所作。

太鼓、鼓を三打ちして曲げ所作を終える。

ヒワヒワを衣装に仕舞って演者は立つ。

「ピ、ピ、ヒゥ」の合図に扇を広げて時計回りに丸く回る。

その際には笛が奏でる「ピロピロピロ」にドンドンドンと打ち鳴らす締太鼓や小鼓もある。

ガシャガシャの音色は消されてしまうほどの太鼓・鼓の音は大きい。

その所作は三回繰り返す。

扇は円の中心部を煽ぐように回る。

二回目の回りの太鼓は「トントントン」で三回目は「ドン」。

これは周回の数を演者に教えているのだ。

一旦拝礼してヒワヒワを座前に置く。

今度は反時計回りに三周する。

そしてヒワヒワを手に持って曲げる所作をする。

これで一連の作法を終える。

次に登場するのはガシャガシャのササラ役。

ヒワヒワと同じ所作をするが、倒れやすいガシャガシャは倒れないように立てることが肝心だという。

いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。

最後に鼓役が登場する。

小鼓を立ててこの所作をする。

披露するのはこの三役たちである。

こうして本番さながら出発前の練習を終えた。

予め決まっていたトウヤおよび渡り衆は9月15日の籠りの際に正式決定される。

トウヤを勤める資格をもつ家は16戸。

3年に一度の廻りだから計算上は48年に一度となるが、選出の基準は親と早く死に別れた順であると云う。

いわば、家督を継いで当主になった順番である。

渡り衆はおよそ6年に一度の廻りとなるようだ。

前々回はトウヤ家の息子が勤めたと云う。

当時の当主は健康がすぐれずやむなく長男が代役で勤めたのであった。



要人の演技を見守っていたのはトウヤ家の家族やお手伝いをする親戚筋の人たちだ。

一人の男性は同村菅生の人。マツリ行事の取材でもお世話になったことがある。

12日は十二社神社で行われただんな祭りがあった。

幼児が登場する子供の泣き相撲があるがやむを得ない事情で中断された。

また、コンニャク・サトイモ・カキ・カマボコの串肴は簡略化されたようである。



出発する前には記念写真を撮られた。

トウヤの晴れ姿を記念にシャッターを押していたのは息子さんだ。

(H26.10.14 EOS40D撮影)