マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

都祁白石の勧請縄

2015年10月12日 09時15分26秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
この日も立ち寄った旧都祁村の奈良市都祁白石町。

朝9時はたっぷりの雪があったが、それから4時間後はすっかり落ち着いていた。

雪景色の勧請縄も記録のうちと思ってシャッターを切る。

というよりも確認したかったのは縄にあった「印」である。

白いモノがあることは三日前に訪れたときに気づいていた。

今回はそれを見たくて再訪したのだ。

白いモノは3カ所にある。

いちばん判りやすかったこれは何だという感じである。



「結び」のようにも見える「印」は神酒口のようでもある。

何を意味しているのだろうか。

県内事例のカンジョウナワは数々拝見したが、このような形は初見である。

(H27. 1. 3 EOS40D撮影)

榛原山辺三濡れ地蔵さん

2015年10月11日 08時06分06秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
榛原長峯長安院の修正会取材を終えて隣村の山辺三に立ち寄る。

12月中旬ころには室生ダムの水位が上がって濡れ地蔵尊が水没すると聞いていた。

気になっていた室生ダムの水位を確かめたくて立ち寄ったのだ。

室生ダムの水位は例年であれば12月初めころから徐々に上がると聞いていた。

山辺三の区長に尋ねた12月初め。

電話口ではまだまだ変化していないと伝えていた。

この日の朝は前日に雪が降った。

積もった雪は長峯滞在中に溶けていた。

山辺三も同じようだと思って訪れた時間帯は丁度の12時。

濡れ地蔵に向かう参道は溶けていたが、周囲は少しであるが雪が残っていた。

9月に行われた地蔵盆の花立はそのままの形で残っていた。



先端にヘラブナ釣り師が竿を立てていた。

話しによれば早朝には4人ほどのカメラマンが場を占領していたそうだ。



竿の先にある対岸に濡れ地蔵尊がある。

少しばかりの雪が残っている。

濡れ地蔵尊は胸まで水位が上昇していた。

この情景は思い描いていたとおりであった。



横位置、縦位置とも撮らせてもらった風情に佇む濡れ地蔵尊に思わず心のなかでお礼を述べた。

釣り師曰く、毎日10cmぐらい水面が上昇していると云う。



数日後には満水となって地蔵さんは水没することだろう。

そのころには参道も隠れてしまうらしい。

(H27. 1. 3 EOS40D撮影)

榛原長峯長安院の修正会

2015年10月10日 09時04分43秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
昨年は行事が終わったあとに訪問した宇陀市榛原長峯長安院の修正会。

今回こそは落としてはならぬと思って早めに出かけた。

前夜に降った雪で大和高原は真っ白。

旧都祁吐山から香酔峠を通り抜けたが、道路も真っ白。

ソロソロ運転で辿りついた長安院は屋根も境内も真っ白だった。

昨年にお会いした何人かの人は私を覚えてくださっておられ「お堂に上がってください」と伝えられる。

お堂天満宮観音寺だ。

この日の修正会に勤めるのは天満宮行事を勤める5軒組の頭屋たち。

正式には「天満宮頭屋」であるという。

かつては10軒ほどの家筋であった天満宮頭屋。

いつしか村行事に移ったことで長峯を十数組に分けた年番の当番制にされた。

天満神社の行事が主であるが、この日に行われる長安院の修正会も受け持つ。

お堂に上がって思わず声をあげた。



これほど見事なモチバナ(ハナモチと呼ぶ地域もある)などは見たこともない。

豪華絢爛に思えたモチバナの色彩は白ばかりであるが私にとっては感動的だ。

水平に据えた一本の真竹に括りつけたモチバナは左右両側にある。

芽ぶきのクロモジの木にくっつけたモチバナの正式名称は「舞玉」だ。

「繭玉(マユダマ)」と呼ぶ地域は東日本が多いやに聞くが、当地では「舞玉」の字を充てていた。

モチバナは捻じるようにクロモジの木の枝にくっつけていた。

モチバナの上に置いていた平べったい煎餅のようなモチは「月日モチ」と呼ぶ。

四角い形は木や紙。

木は松で松折敷、紙は紙折敷と呼んでいる。

数本は紙で花の形のように象って嵌めていた。

これを「ユリノハナ」と呼んでいるが、県内各地で見られるオコナイ行事の事例からいえば「ハナ」である。

「ハナ」は12個ある。

充てる漢字は「造花」である。

写真では判り難いが、ぶら下げた「舞玉」や「造花」の内部にそれぞれ柄杓を吊っていた。

さらに内部といえば「カラスのオドシ」と呼ばれる祭具がある。

頭屋の長老が云うには「小鳥のエサ」であると云う。

奥には御供を並べてあった。

これもまた写真では判り難いが、昨年に拝見した五穀成就を願ったお重に盛った小豆、粟、米、麦、青豆の五穀である。

天下泰平・五穀成就・村中安全を願った「花餅」もあるようだが隠れて見えなかった。

これらの御供・祭具を拝見して「オコナイ」行事に違いないと思った。

当地ではこれを正式名称の「修正会」と呼称している。

正月初めに十一面観音立像(藤原時代作であるが台座に貞享四年(1687)の修理銘があるらしい)を前にして村の五穀豊穣を祈念する村行事である。

祈祷される僧侶は玉立(とうだち)の住職<日蓮宗真門派青龍寺>だ。

同寺には昭和55年に榛原町山辺三西方寺・磯田了義氏が写し書き記された『長峯長安院観音寺修正会次第』がある。

当時は融通念仏宗派の西方寺が祈祷していたものと思われる。

『長峯長安院観音寺修正会次第』に記された祈願文は寛永二年(1625)春正月元日のものを文久元年(1861)十一月下春に荻原邑天野寺住職教恵房が61歳のときに書写したとある。

「長峰邑頭人中」の文字もあることから、当時からも天満宮頭屋がついていたのであろう。

お堂に参集された村の人。

およそ30人にもおよぶお堂は満席になった。

区長は住職の後ろに座る。

5軒組頭屋は二人、三人に別れて両側端に座る。

机の上にはランジョー作法に叩かれるウルシ棒を置いた。

それぞれ2本のウルシ棒である。

ウルシ被れを防ぐために各自は軍手をはめた。

これより始まる初祈祷は1時間の法会。



修正会の次第に沿って僧侶が唱える神名帳の詠みあげ。

日本国中の神社名に神さんを詠みあげるのである。

大和国十五郡、山城の国、東海道十五国、東山道八国、北陸道七国、山陰道八国、山陽道八国、南海道六国、西海道九国だ。

発願、平等利益の際に発声される「乱声」を合図にウルシ棒で机をガンガン叩く。



「ランジョー」と呼ぶ作法は僅か2秒で終える。

かつては子供が叩く床叩きであったが、現在は頭屋が叩く机叩きになったそうだ。

続いて、仏名教化、三十二相、導師、荘厳目録、発願、祈願詞云、仏名教化、発願、等利益、祈願詞云、仏名教化・・・「乱声」に二回目のランジョー。

これを三度繰り返すが、何時発声されるか判らない。

慣れた長老はそのころともなればウルシの木を持って構える。

突然に行われる作法だけにカメラ・シャッター押しは間に合わない。

構えたとたんに終える作法である。

祈願、教化・・・差帳可讀、教化・・・乱声で三回目のランジョー。

成善願、勧請、四仏、錫杖、廻向、発願、五大願、仏名教化・・で終える長丁場の修正会はオコナイとも呼ばれている。



初祈祷の法会が終わってモチバナをクロモジの枝ごと鋏で切り取る。

「月日モチ」も切り分けて参拝者に配られる。

モチバナをさばいたら内部に隠れていたワラで編んだモノが出てきた。

下部は円系。

4本の竹箸を挿して固定する。

中央にはワラ棒。

そこには竹箸に挿したドロイモがある。

上部半分は皮を剥いているのでまるでクリのように見える。

例年なら12本であるが、新暦の閏年なら13本。

かつては旧暦であったろう。



この祭具を「カラスのオドシ」と呼ぶ。

なぜに柄杓を吊り下げているのか判らない。

ちなみに1m70cmのウルシ棒に挟んでいた祈祷札は「牛王宝印」書。

ありがたくウルシともどもいただいた。

手がかぶれると云われたが私の手はなんともない。



中央の文字は観音寺。

版木で刷る。

大晦日までにこれらの道具を揃える頭屋たちの一年はこうして終えた。

祈祷を終えた「カラスのオドシ」はどうされるのか。

その答えはトンドで燃やすという。

ご本尊に供えて祈祷したウルシ棒に挟んだ祈祷札は特別なものであるが、後日に処分すると昨年に聞いた。

これもまたトンドで燃やすのだろう。

祈祷札は長いウルシ棒に挟んだ状態で奈良県立民俗博物館に寄贈されている。

そのマツリ用具は平成25年4月27日から6月30日の春季企画展の「お米作りと神々への祈り」で出展された。

もしよろしければ県立民俗博物館に寄贈でもとお願いすれば松折敷・紙折敷とともにくださった。

貴重な祭具史料になるであろう。

早朝はマイナス1度。

初祈祷を終えた境内の雪は消えていた。

お堂の屋根に積もっていた雪も流れていた。

照る朝日に気温が上昇して溶けていた。

(H27. 1. 3 EOS40D撮影)

初詣では登弥神社

2015年10月09日 09時35分50秒 | 奈良市へ
我が家の初詣では奈良市石木町に鎮座する登弥(とみ)神社。

自宅から500歩ほどだ。

鳥居前にある大燈籠は文政年間(1818~)であるが、階段を登る途中にある燈籠はそれより古い天明八年(1788)だ。

手すりを使って登るおふくろは88歳。

今までは手をかけることもなかった。



登弥神社の二社殿は檜葺き。

消失した翌年の文政四年(1821)に再建された。

近年は老朽化激しく、昨年2月の大雪で檜葺きは損壊。

応急措置で繋いでいたが200年も経過する社殿は彩色も剥がれていることから平成の再建を決断された。

昨年10月から始まった再建工事は今年の9月に終えて神遷しをされる。

登弥神社は奈良市石木町と大和田町に大和郡山市の城町が氏子圏。

3年間勤める大字総代の一人(石木町)が話してくれた。



社殿周りにある土塀は土を鑑定した結果、平安時代のものだと判ったそうだ。

築造は後年であろう。

総代が話したもう一つの話題。

一の鳥居前にある大燈籠に窪んだ穴があると云う。

いつの時代か判らないが、子供を産みたいと願う人が穴をあけたらしい。

らしいというのはたまたま当地に来られた三重大学の教授が伝えてくれたと云う。

孕みたいと願うのは女性であろう。

どのような道具で穴を掘ったか判らない。

丸みを帯びた穴ははっきりと見える

子供が産まれたらその穴を埋める。



埋めるのは何の材料なのか・・・。

こうした願掛けは他所にもあると教授が云っていたそうだ。

石燈籠の穴あけは「盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ぶそうだ。

盃状穴は硬い石で叩いて擦り合わせる。

一挙に穴があくものでないから相当な時間と労力を費やしたのであろう。

点滴、岩をも穿つである。



大燈籠は文政年間(1818~)の建之。

その時代以降にあけられたと考えられる窪んだ穴。

孕み・安産の願掛けとすれば、穴あけ行為は女性のシンボルに例えた生殖、子孫繁栄を願う民間信仰の一つに挙げられそうだが、未だ明確な答えもなく、謎のようだ。

それから数日後に報道発表された正月三が日における初詣客の人数。

寒さが影響したのか低調ぶりが目立って例年より26万人減数になった。

県警発表によれば県内5社寺合計で219万7千9百40人・・・25万8千60人も減少した。

橿原神宮は昨年より5万人減で91万人。

春日大社は7万人少ない52万人。

大神神社は4万9千人減の49万8千人。

のきなみの低調ぶりであった。

年末年始は冷たい風で気温が低い日が続いた。

元日に雪が降り積もったことも影響したのであろうと伝える。

(H27. 1. 2 SB932SH撮影)

我が家の元日

2015年10月08日 09時11分38秒 | だんらん(正月編)
正月元日も取材地巡り。

早朝に出かけていた都祁上深川・下深川に白石より戻ってようやく我が家の正月祝いである。

お正月のメインはおせち料理。

何年間は奈良市東九条町にあった仕出し割烹の「井の上」で頼んでいた。

前年は評判高かった大和郡山市鍛冶町の「樽常」にした。

美味かったがお節料理はできなくなったと風の便りが聞こえてきた。

やむなくと云えば失礼だが、気にいっていた「井の上」に戻すことにした。

例年注文していた「井の上」店舗が移転したのだ。

移転でばたばたしていたのかも知れない。

いつもなら注文願いが入っている封書が届くはずだ。

それが11月になっても届かない。

調べてみれば奈良市秋篠町に移転していたのであった。

あらためて電話で注文することになった我が家のお説料理。

送られてきたメニューから選んで三重の折りにした。



お値段は18000円。

封書には事前予約したら1000円引きのサービス券がついている。

しかもだ。東九条店でもしていた持ち帰りサービス。

これも利用して1000円引き。

なんとお得なサービス。

大晦日の行事取材は忙しい。

その合間に受取に行った秋篠店。

東九条店を知っている私は店構えを拝見してすっかり変わったなと思った。

たしか銀色のパックだと思っていたが、そうではなかった。

「樽常」に頼んでいた時代に替ったようだ。

それはともかく「井の上」のお節料理を開けるのは正月元日。

この日の朝は都祁上深川の正月行事に向かわねばならない。

蓋を開けて三重のお節料理を広げる。

我が家の雑煮とともにいただくお節料理。

お神酒はいただくわけにはいかない車移動。

ゆっくり食べている時間もない。

三品ほど口にして出かけた。

昼過ぎに戻った我が家の元日の再開。

予め買っておいた新潟産のにごり酒(越後屋)を味わう。

さっぱりとした味わいにごり酒は舌が酸味を感じる。

お猪口で何度も注いでいるうちに「ドブ」味のように思えてきた。

お節料理も腰を下ろして味わう。

市販品の黒豆や栗きんとんも買っていた。

当然ながらお節料理にも入っている。



食べ比べをしてみた結果は・・・。

断然にうまい「井の上」の黒豆や栗きんとん。

甘さがまったく違うのだ。

市販品の味はいつでも食べられる無難な味付け。

「井の上」はじっくりコトコト煮た料理なのであろう。

どれもこれも美味しくて箸が止まらないが、一つだけ注文がある。

サワラが美味くないのだ。



美味しさのいちばんは鴨ロース肉だった。

お昼に正月祝いのにごり酒を飲んだら、もう何処へも行くことはない。

元日の午後は目出度くゆったりとした時間を過ごす。

何もしないわけでもなく文章起こしの作業。

少しでも文字化すれば心が落ち着く。



元日の晩はカニのポーション鍋。

ハクサイ、太ネギ、シイタケにクズを入れてぐつぐつ。

煮えるころを見計らってポーションを入れる。



さっと湯どおしのような感じで揚げたポーションはぽん酢でいただいた。

(H27. 1. 1 EOS40D撮影)

都祁白石の勧請縄

2015年10月07日 09時44分14秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁の大字上深川・下深川を離れて東に向かう。

旧都祁村の奈良市都祁白石町である。

探していたカンジョウナワがかかっていた。

房もシデもない一本の藁製ロープは道路を挟んだ樹木に巻きつけていた。

いつかけたのか存知しない。

村人を探したが、この日は元日。

外に出ることもない。

(H27. 1. 1 EOS40D撮影)

下深川の元旦

2015年10月06日 09時19分41秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁の大字上深川の歳旦祭を見届けて北へ向かう。

ここは大字下深川。

平成17年2月10日に行われた正月初めの寺行事を取材させてもらった。

帝釈寺の柳のオコナイだった。

当地には春日神社がある。

神社行事は存知していないから訪れることもなかった。

春日神社にはかつて能が行われていた。

今では見ることはないが入母屋造りの草葺屋根能舞台が現存している。

正月飾りはどのような形態になっているのか知りたくて訪れた。

能舞台は昭和45年3月7日に旧都祁村文化財に指定された。



古代建造物の構造は桁行が十七尺、深行は十五尺と書かれてある。

柱は七寸角、床高は二尺四寸、床面積が七坪余。江戸時代末期まで神事能楽が奉納されていたそうだ。

「朱の橋懸の彼方から翁舞を演ずる人影が現われて語りかけて来るようです。幽玄の境地に引きずり込まれるような幻想にひたりつつ、瞑目するとき 只、風音のみが古き建物にすい込まれていきます」とある。

草葺きでは現存しないだろう。

茅葺であると思われる風情を醸し出す能舞台。

ふわっと正月の風が通り抜ける。

門松は松・竹・梅に赤い実をつけたナンテン。

土台は砂を盛ったところにクマザサをあしらっていた。

参籠所には氏子たちが寄り合っていた元旦の朝。

冷たい風が吹き抜ける。



声は掛けず終いで神社を後にして集落を遠景に落ち柿の色を撮っていた。

(H27. 1. 1 EOS40D撮影)

上深川八柱神社歳旦祭

2015年10月05日 08時45分13秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
県内各地域の神社では年の始めに元旦祭(歳旦祭或いは正月祭と呼ぶ地域もある)が行われている。

この日訪れたのは旧都祁村の奈良市上深川だ。

一年の始まりに歳旦祭が行われる。

神社拝殿前に供えた御供がある。

一升びんのお神酒奉納もあれば、重箱に詰めた家の餅も供えている。

風呂敷の柄はまちまちであるから各戸が供えた餅である。

村神主によって歳旦祭が営まれたころは大勢の村人が八柱神社にやってくる。

特に多いと思ったのは若者たちだ。

上深川では幾度となく村行事を取材してきたが、若者の姿を見るのはユネスコ世界遺産に指定された題目立か造営奉祝祭とときぐらいだ。

大学・就職など遠く離れて暮らす若者たちは正月ともなれば帰省する。

我が家の息子もそうだ。

八柱神社に参って氏神さんに手を合わせる。

私にとっても年初の初詣。

上深川の神さんに家内安全や無病息災を願って2礼、2拍手、1礼をする。

参拝したら顔馴染みの村人に「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と新年の挨拶を交わす。

あちらこちらで「おめでとうございます」である。

神さんに奉納した餅は供えた人がゴクマキ(御供撒き)をする。

昨年の4月に造営式典を終えた八柱神社は石垣が真新しい。

いつもならもっと多いと云っていた餅御供家。



石垣に並んでゴクマキをする。

朝から冷たい風が通り抜ける神社境内。



ゴクマキはあっという間に終わったら、あっという間に境内から人がいなくなった。

奈良市内の最高気温は5度だった元日の日。

上深川など大和高原はそれより3度から5度の気温差がある。

冷たい風を避けて自宅に戻った参拝者であるが、旦那たちは参籠所で直会に移る。



家で作った正月のおせちをいただいて新年を迎える直会はお神酒も入って盛り上がる。

「上がって食べていき」と云われるが村の新年会は遠慮すべきもの。

辞退申し上げて神社を下る。

お日さんが当たらない地は大晦日の夜に降った雪がうっすらと残っていた。



用事で神社にやってきた婦人は村神主の奥さん。

我が家にも積もった雪がまだ残っていると云う。



小さなビーズ玉のような雪だった。

同家では玄関土間にも鏡餅を供えていた。



半紙を敷いて餅を置く。

ウラジロを乗せてミカンも2個。

上はおそらくコウジミカンであろう。

クシガキも添えて小注連縄も供えていた。

今夜はさらに雪が積もっているだろう。

(H27. 1. 1 EOS40D撮影)

大江町民家のシメナワサン

2015年10月04日 08時23分42秒 | 大和郡山市へ
毎年の大晦日。

門屋にオシメサンを飾っている大和郡山市大江町の婦人は昭和10年生まれ。

モチワラで結ったオシメサンは一人で作る。

数枚葉をつけたユズリハ・ウラジロは3カ所。

中央にダイダイとクシガキを飾る。

輪っかの小注連縄は納屋・作業場・・にも掛ける。

すべて一人で作って掲げている。

大和郡山市内で民家が簾型の注連縄掛けをしている地域は大江町以外に伊豆七条町、番条町、井戸野町、今国府町で見られる。

かつては本庄町もされていたが旦那さんが亡くなって途絶えた。

極、極僅かになった簾型の注連縄。

何年も経てばすべてが消えるかもしれない貴重な在り方。

民俗をとらえていたときである。

元日の朝9時頃だ。



そこにやってきた郵便屋さん。

新年の挨拶を伝えた年賀状は早くも配達していた。

(H27. 1. 1 EOS40D撮影)

菅生大垣内のフクマル迎え

2015年10月03日 09時09分08秒 | 山添村へ
冷たい風が吹くからと云って例年よりも1時間早めてフクマル迎えをされた山添村菅生のU家。

長男・次男の子どもとともに「今年もありがとうございました。来年も健康でいられるようよろしくお願いします」と手を合せた大垣内の家族だ。

ご飯を中に納めたユズリハを里道に供えて立ち去る。

ワラ火で焚いたフクマル迎えの火はオヒカリ。

家に持ち帰る。

戻る途中に垣内の共同井戸がある。



蓋を開けて柄杓で「若水」を汲んでバケツに入れて持ち帰る。

昔は手動の手押しポンプで「若水」を汲みあげたそうだ。

「若水は」玄関前のカドに置いた。

共同井戸には注連縄が置いてあった。

玄関や納屋などに注連縄を飾るとともに共同井戸にも飾っているのだ。

「若水」は雑煮を作る水に使う。

元日の朝には当主が「若水」で顔を洗う。

洗って東の方角に向かって「今年も良き年でありますように」と手を合せる。

フクマルは正月神。

歳神を家に招きいれるしきたりは昔も今もそうしていると云う。

フクマル迎えの火はハンドコに供えた鏡餅横のローソクに移す。

フクマルに供えたユズリハ挟みのご飯も添えていた。



火が消えても正月三が日はそのままにしておく。

フクマル迎えの火は鏡餅だけでなく、神棚の神さんや仏さん、ダイコクさん、オイナリさんにも火を移す。

竃があった時代は雑木にも火を移し、火種にしていたという。

こうして当主は「今年もありがとうございます。来年も健康でありますように、よろしくお願いします」と手を合わせて祈念する。

ご飯を挟んだユズリハは供えてすぐに引き上げるが、鏡餅は正月の三日間はこうしてハンドコに置いておく。

かつては竃の蓋にもそうしていたと話す当主に「良きお年をお迎えください」と伝えて退出したら雨が降っていた。

明日は雪にかわるであろう。

本来ならば除夜の鐘が鳴るころにフクマル迎えをされるのだが、昨今は日が暮れるとともにする家も増えつつある。

U家家族のフクマル迎えの際にであった男性はフクマルの松明が強風で煽れたら枯れ草に燃え移るであろうと断念されてご飯を詰めたユズリハだけを供えた。

火はなくとも腰あたりにフクマルさんが居る。

振り向いてはならないと先代から伝えられてそうしていると云う。



その後にやってきた男性は雨がやまないゆえ、松明火を残して足早に立ち去った。

菅生の各戸はこうしてフク(歳神さん)を迎えた。

(H26.12.31 EOS40D撮影)