マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

刺しサバを売る店

2017年03月11日 08時42分11秒 | 民俗あれこれ(売る編)
桜井市瀧倉の取材を終えて食事処を探す。

向かう先は都祁の針テラスだ。

県道を東に向かい旧都祁村へ。

吐山の信号を左折れして北上する。

吐山の信号の次に信号が現われるのは白石の地である。

その信号地にあるお店は入店したことはない。

入店してもないから何を売っているのか存知しない。

ところがだ、ここの商店が作ったパック詰めの御膳をよばれたことがある。

箸袋に書いてあった商店の名は辻村商店。

よばれた大字は忘れもしない。

山添村の的野である。

平成25年の10月14日の宵宮と翌日15日のマツリを取材させてもらった。

その宵宮に当家もてなしの昼の膳をよばれた。

とても美味しかったことを覚えている。

それだけのことだが、よばれた味の印象は今でも記憶に残っている。

その店の表を流し目した。

えっと思った文字が飛び込んできた。

その文字は「刺しさば」。

再び、えっである。

特撰生鮎とか大阪西瓜など、空箱を店前に積んでいた処にあった。

行く人たちに気がつくように貼っていた「刺しさば」の文字。

これまで何度も通っているお店に「刺しさば」を売っていたとは・・。

初めて知った事実に思わずお店に飛び込んだ。

「刺しさば」を売っている店はこれまで民俗取材でお世話になった山添村の北野・津越のOさんが経営する商店がある。

お盆の家の風習にサシサバのイタダキサンがある。

お店で売っているし、家で行われるイタダキサンも撮らせてもらった。

売っていたサシサバを始めて見たのはその商店だった。

売っているのはそこだけと思っていた。

だから、えっというわけだ。

時間は午後2時前。

ぺこぺこに減ったお腹を満たすことが先決だ。

そう思って食事後に立ち寄った。

まずはお店の人に「刺しさば」話を聞け、である。

店主は白石の神社行事に出かけている。

お相手してくださったのは奥さんだ。



「刺しさば」はお店の自家製。作って売るようになって40年。

塩をいっぱい振って梅雨の晴れ間に干す。

売りもんの「刺しさば」は百尾も造る

つい先日から売りに出した「刺しさば」はお盆の季節もん。

前述したサシサバのイタダキサンに捧げて家人が食べる。

以前、私も津越の大矢商店で買って食べたことがある。

とにかく堅いサシサバ。

カチカチに干した身をほぐすのはなかなかのもんである。

堅い身は箸で突いてもほぐれない。

ぐいぐい力を入れてなんとかほぐれだす。

一口食べて・・・。

仰天する味につい口にでたのがしょっぱぁ、である。

奥さんが説明してくださっている間はお客さんもいた。

その男性は3尾も買っていった。

話しを聞けば常連さんでもなく、私と同じように通りがかり。

「刺しさば」の表示に釣られて入店したという。

詳しくは聞けなかったが、かつて食べていたことのあるような雰囲気だった。

サシサバのイタダキサンはしていたかどうかわからないが、「刺しさば」の味を思い出されて買ったようだ。

奥さん曰く、お盆には広げたハスの葉に「刺しさば」を並べる。

両親が揃っておれば供えた「刺しさば」を食べるが、片親なら食べられないと云う。

と、いうことはご近所かどうかわからないがイタダキサンの風習をしているかも知れない。

予約の「刺しさば」に五枚、七枚の纏め買いの注文もある。

梅雨明けのころは屋外で干しているかも知れない。

塩をたっぷり入れて干すところを取材してみたいと思った
のは云うまでもない。

ちなみにお聞きした食べ方である。

一尾を6個に切って焼く。

塩辛くもなくなった刺しサバは茶粥に入れて食べていた。

冷たい茶粥は夏に最適。

サバに身をほぐして食べたら美味しいという。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)

瀧倉瀧ノ蔵神社の華参り

2017年03月10日 08時56分19秒 | 桜井市へ
朔日参りに御供飯を供えた四老を見送ってからのことだ。

しばらくは瀧ノ蔵神社の拝殿前で佇んでいた。

そろそろ昼の食事に行こうと思って腰をあげたときである。

石段を登ってくる音が聞こえる。

どなたなのか、と思って待っていたら顔馴染みのOさんだった。

さきほどに六人衆の顔ぶれに変化があったと四老が話していた。

Oさんはこれまでずっと二老を務めていた。

私が瀧倉の年中行事を取材させてもらってからはずっとそうだった。

今は前一老のⅠさんの後を継いだ現一老だ。

やってきたのはこの日の華参りである。

華参りは一日から始まって7日まで連続する行事である。

朝、昼、夜それぞれに参って拝殿内にある太鼓を三度打つ。

これを7回繰り返す。

そして、ローソクを灯して三巻の心経を唱える。

鳥居を潜ってやってきた一老はサカキの木を持っている。

それは太鼓を打つ拝殿の祭壇に収める。

これを7日までの毎日を繰り返すのであるが、日にちごとに役目する六人衆は入れ替わる。

8月1日は一老、2日は二老、3日は三老・・・で、6日は六老が務める。

かつては7日から14日までは下の六人衆が役目をしていたが、今はない。

7日は再び役目をする一老がお礼参りとして〆るのである。

時間はきっちり決まっているわけでもない。

朝、昼、晩のそれぞれの時間帯はブレがある。



この日を役目する一老の時間は朝が5時、昼は12時、晩は午後8時というが、ときすでに昼時間は若干のブレで12時半だった。

尤も滞在していた私に説明している間に時間が動いていたのでそういう時間になったのだが・・・。

この日の心経は「心願成就」。



一老は座の最長老。

村の願いごとも含めて唱えさせてもらったと云った。

ちなみに前一老のⅠさんは、拝殿で丸一日籠って唱えていたと云う。

その話しは頷ける。

平成26年の8月1日に訪れたときは、まさにその通りだった。

ときおりO家を訪ねてはさまざまな瀧倉のことをお聞きする。

この日もしてくれた話題は・・。

七日トーヤ(頭屋)は「アカイヤ(閼伽井屋)」に参って水垢離をしていた。

瀧ノ蔵の神社下を左に折れていけば岩がある。

そこは「アカイヤ」で水が湧く。

梵字の版がある。

木の版は「もっぱん」と呼んでいた。

蟲が喰ってボロボロの木版。

何を書いているのかさっぱりわからない。

わからんから判読はやめた。

瀧の「ゾウゴン(荘厳か)」。

龍の絵がぐるりにあった。

天保時代なのかわからないが・・・。

版の様相から3カ所立てて水垢離の行をしていたようだ。

故Mさんの家の下に流れる初瀬川の上流に小川がある。

水垢離の行は冬のトーヤ(頭屋)がしていたという。

冬のトーヤはたぶんに今では中断している二月トーヤ(頭屋)のことだと思う。

その件については昭和54年から56年にかけて発刊された『桜井市史下巻』。

特に昭和56年の『民俗編』に、次のような記事があった。

瀧倉の「七月頭屋 正月頭屋をすました者のなかから、毎年兄弟頭屋二名を選出しておく。そして7月14日の早朝に、字西川の初瀬川の上流、大井堰で、現在と受けの兄弟頭屋四名が、ミソギをして、小石三個ずつ拾って帰り、自宅のカマドの上にのせて祀っておく(もとは旧6月14日で、この四名は前の十三日夕刻に神社で参籠したという)。当日、午前9時ごろ、神主および一老、二老の三人が受け頭屋の兄弟二軒の頭屋に集まり、門口にそれぞれに〆縄を張り、お祓いをしてもらう。次に現在の兄頭屋のオカリヤを受け頭屋の兄頭屋へうつす。午後四時に祭典をして、下の宮の石にて、カワラケ一枚を割り、戻って頭屋渡しの式を行い、一老と二老の酌で頭人四名が三々九度の盃事をして、式終了となる。このあと一同直会にうつる。チソウは現頭屋のうけもちだ」とある。

記事の内容は七月頭屋の式典状況であるが、Oさんが話す禊の作法は正月頭屋(七日頭屋)も同じだったと思われるのである。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)

瀧ノ蔵神社の朔日参りの御供飯

2017年03月09日 09時10分00秒 | 桜井市へ
この日は朔日参り。

毎月交替する当番のジソウ(寺僧)が枡に盛ったアカゴハンを供える。

但し、である。

お供えをする時間は特に決まっていない。

ジソウの都合の時間である。

お参りを済ませば供えたアカゴハンは持ち帰る。

神社で待っていてもまだなのか、それともすでに参ったあとなのか、さっぱり掴めない。

当地に着いた時間も忘れてしまうぐらいに惚けていた。

そろそろ12時にもなりそうだ。

これ以上待っていても何事も起こらないと思って諦めかけたときだ。

瀧ノ蔵神社へ向かう参道を歩く音が聞こえてきた。

どなたかが登ってこられる。

鳥居を潜ってこられた男性の顔は記憶にある。

かれこれ10年前のこと。

平成18年9月23日に行われた改名祝の名替え行事の日だった。

名替えは対象者がなくともナスビの味噌汁でもてなすことはしていた。

当時はそうだったが、今はしていない。

その味噌汁を大きな鍋から掬って椀に盛っていた人だった。

ご本人は覚えておられないが、私ははっきりと覚えている。

当時は下の六人衆だった。

今はその組織もなくなったが、上の六人衆のうち一老が引退された。

そうなれば二老が一老に繰り上がる。

三老は二老・・・六老は五老に、である。

空白になった六老には下から繰り上がる。

繰り上がるといっても年齢順でもない。

村入りされた男性は高齢者。

受け入れられて繰り上がったそうで、今年の1月にデビューしたと云う。

そんな状況になったが、朔日参りの御供飯はといえば、ここにある。

風呂敷に包んで持ってきた枡盛り。

詰めていたのはアカゴハンである。

賽銭箱の上に乗せてお供えをする。

神さんに食べてもらうおうと蓋を開ける。

しばらくはそのままである。

話は六人衆に戻されて六老の話し。

瀧倉では6月14日、15日、16日の三日間。

毎日の連続で行われている行事がある。

14日はアマ(雨)ヨロコビ。

15日は毛掛ヨロコビ

16日は〆の虫祈祷である。

いずれも太鼓を打たれる。

その太鼓打ちを役するのが六老。

六老を務める期間はどれぐらいにあるのか。

任期に制限はない。

六老であり続ける期間はずっと太鼓打ちが役目。

1月にデビューした六老は初めての所作になったそうだ。

瀧倉のトーヤ(頭屋)は二人。

本ドーヤのアニキ(兄頭屋)とオトウトトーヤ(弟頭屋)が務める。

サバの一本やオモチの準備をしたり、炊きもんの役目をする。

10月1日はお神酒を供えて新しい注連縄を架ける。

その日の行事名は「お酒の口開け」。

瀧倉の年中行事の始まりの日である。

マツリは10月12日、13日。

そういえば近隣村の萱森や北白木、中白木のマツリは拝見したが、瀧倉は未見。

他の行事はなんども伺っていたが、失念していた。

そんなことを話してくださったこの日の御供飯当番は四老さん。

そうこうしている時間がきた。



神さんに食べてもらったアカゴハン御供を下げて戻っていった。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)

矢部のカンピョウ干し

2017年03月08日 08時23分28秒 | 民俗あれこれ(干す編)
取材地の御所から戻って帰路につく。

走る道路は京奈和道路。

橿原市の曲川を走っているときに思い出した。

もしかとすればカンピョウ干しがあるかも知れない。

そう思って行先を田原本町の矢部を向けて進路をとる。

矢部も通る京奈和道路。

集落道を抜けて思っていた地を目指す。

ぐるっとカーブをきった処だ。

白い簾模様のカンピョウが風になびいていた。



車を停めて光が当たる西の方角から撮る。

青空に広がるカンピョウ干しの向こう側に見える山並みは三輪の山。

もう少し右に寄れば談山の山。多武峰の御破裂山(ごはれつやま)だ。



風に向かって泳ぐようにひらひら。

気持ちよさそうになびいている。

爽やかな風は気持ちが良い。

疲れもさっぱり消える。

その下にユウガオの実の皮を剥いた欠片があった。



見てもわかるようにユウガオの皮を手つくり道具で剥く前にするのは幅数センチに切った輪切りである。

円盤形にして皮を剥くのである。

薄緑色のものは皮の部分。

剥くと白い肌を見せる。

輪切りにしたカンピョウは中心部を残すところまで皮を剥く。

中心部はタネがある


その部分は使わないのである。



小さく切れたカンピョウも無駄にせず小さなハザ竿にかけて干している。

さまざまな角度から撮らせてもらったカンピョウ干しの主はU家。

お礼に家を訪ねたら、午後5時ぐらいには下ろすと云う。

干している竿を下ろすのは二人がかり。

一人でするときは、例えば右側を若干下ろして調整紐を柱に括る。

括って自然落下しないようにする。

そうしてから今度は左側に移る。

こちらも若干下ろして下げて静止させる。

これの繰り返しは実に面倒。

二人であれば一挙にできるが一人ではそういうわけにはいかないのである。

そんな話を聞いて矢部から離れた。

近隣の村々の情景を探したくて地域を廻る。

そのうちに青空だった空がにわかに曇りだした。

やがて真っ黒な雲が出現してきた。

もしか、と思って急行する矢部のカンピョウ干しの場。

到着した時間は先ほど撮っていた時間より40分後だ。

竿を下ろして干したカンピョウを収穫していた。

もうすぐ雨が降りそうだと思って急ぎの収穫をしていたのだ。

顔を出したら竿を戻してあげようかと云われたが・・・そんな願いをしたら申しわけないことになる。

手を振っていやいやと返した。



下ろした竿から外すカンピョウは切れないように丁寧に扱う。

それでも竿にへばりつくこともある。



藁を巻いた竿にその痕跡があった。

こういう状態になって切れてしまうのだ。



切れなかったカンピョウは輪っかにする。

端っこのカンピョウで括ってばらさないようにして筵に置く。



短いカンピョウも食べ物。

大事にしたいが売り物になるような長さではない。



家人が食べる分量を作っているらしい。

この日は朝の10時に干した。

照りが良くても数日かかる。

この日に干した時間は6時間。

水分がまだありそうだが、だいたいがそうしているらしい。

奥さんが云うには畑で育ったユウガオの実は前日に収穫しておく。

そしてこの日の朝5時から輪切りにした実の皮を剥いていたという。

各地で聞いたカンピョウ干しはどこともそういう感じだった。

今年はこれまで三日に一度はカンピョウ干しをしていた。

三日前は夕立があった。

雨が降ったらさっぱりやと云う。

かつて小麦も作付していたご夫妻。

そのときは麦わらだった。

麦わらは長持ちするし、干したカンピョウもくっつかない。

今では稲わらだからくっつくということだ。

干す竿の芯は枯れた竹。

雨に打たれる場合は下ろして作業小屋に収納している。

麦わらを作っていたからわかるが、わら葺きの家であればもつのは10年。

麦わらであれば倍の20年。

それだけ丈夫であるということだと話してくれた。

ちなみに線香花火には二種類の形態がある。

コヨリのような形態というか、ワラの代用品として用いられた紙漉き和紙に火薬を包んだ東の線香花火の名は「長手牡丹」。

ワラの中心部にある「スボ」と呼ばれる芯を利用していたのが関西。

その名も「スポ手牡丹」どちらも牡丹。

藁の使い方の一つの形態である。

参考のために付記しておく。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)

高鴨神社の茅の輪

2017年03月07日 08時52分34秒 | 御所市へ
西佐味大川の神杉注連縄張りを見届けて足を伸ばす。

伸ばすと云ってもそれほど遠くない。

休憩したく訪れた鴨神の高鴨神社。

鳥居より境内側に茅の輪が設営されていた。

この日の夕方は夏越大祓えが行われる。

神事はこれよりずっと奥にある。

そこへ参るに要する茅の輪潜りがある。

もしかとして潜る人もいるかと思って待っていたが遭遇することはなかった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)

西佐味大川の神杉注連縄張り

2017年03月06日 12時21分22秒 | 御所市へ
お神酒を供えて大祓詞を唱えている。

若いもんも2礼2拍手する。

縄結いは午後。家で昼食を摂った村の人、12~13人が寄って縄結い作業を始めると聞いてやってきた御所市の西佐味。

ここは西佐味の一角にある谷出垣内。

タニデが訛ってタンデ垣内と呼んでいる。

手刈りした稲藁を持ってきた地区の人たち。

作付、刈り取りした稲は粳米もあれば糯米もある。



特に決めてはいない注連縄の材料は2把から3把ぐらいを持ってくる。

集まって作業する場はヤド家の作業場を借りて行われる。

太い注連縄はひと握りの藁束をもつ。

左結いして藁に撚りをつける。

太い藁束が二本。

それ自身も拠っていくが、その際に一握りの藁束を差し込む。

継ぎ足しの藁束である。

そのときからは右に拠る。

力強く拠った二本を左まわしで絡ませる。

結い方を説明するのは実に難しい。



体験して覚えるのが一番だが、撚りの方向は巻く方から見るのか、それとも逆の方からによってかわってくる。

こういう場合はビデオなどで動画を・・と、ついつい思ってしまう。

太い二本撚りの長さを測る。

基準となる紐が用意されていた。

その長さは7m。

大川杉の幹回りに合わせた長さである。

紐はPP紐。

これで尺をとる。

これができたらもう一本の太い藁束を継ぎ足す。

先ほどと同じように継ぎ足して右回りに締める。

それを二本撚りにした縄の下をくぐらせて向こう側にいる相方に手渡す。

交替して同じように継ぎ足して右締め。

そして上から手渡す。

これを交互に結っていく。

太くなった縄は結うごとに捩じれ現象。

後方にある長い縄脚を正常に戻して調整する。

一方、細めの縄を結う人もいる。

これは最後に太い注連縄に取り付けるボンボリを取り付けるための藁結いである。

ボンボリ、或は別名にチンチラの名もある藁の房は三つ作る。

一握りの藁束を結った縄で中央辺りを廻してぐっと締める。

予めにしておくのは先に作っておいた縄を中心部に添えておくことだ。

それがなければボンボリは太い注連縄に取りつけられない。

括った縄の部分から数本ずつ反対側に折る。

向こう寄りに折っていく。

少しずつ、少しずつ折りたたむようにする。



何周かすれば、あら不思議。

奇麗なボンボリの形になったのだ。

その状態であれば戻ってしまうから一本の藁を紐のようにくるっと巻いて締める。

強く締めて結び締め。



藁切り包丁で、ぐさっと不要な部分を切る。

これで完成した房は1m間隔で取り付ける。

一時間余りの作業で太い注連縄が出来上がった。

頭の部分に結った縄を括り付けた注連縄は重たい。

5人がかりで運ぶ。



作業を終えた人たちの出発姿は誇らしげ。

影絵に写った姿はまるで龍のように見えた。

房の間に紙垂れも付けて出発だ。

地区の人たちは全員が長靴姿。

これを見て持ってこなかったことを反省する。

ここよりそれほど遠くない大川杉。



畑内を歩いて運んでいく。

そうして始まった注連縄架け。

先頭に付けていた縄で引っ張って幹回りを通す。

注連縄を架ける位置はやや高め。

架けてから風雨によって若干は垂れさがる。

それを見越してやや高め。



足場が悪い場に踏ん張って背伸びしながら回す。

位置が決まれば頭に取り付けていた縄で縛る。

房や紙垂れが画面に入れば良かったが反対側にある。

とてもじゃないが向こう側には回れない。

さて、お参りをする場である。

前日に拝見した写真家楳生空見さんがとらえた場ではなかった。

その畑から降りた平坦道である。

そこは大川杉の根元から昏々と湧いている豊富な水場である。



祭壇替わりのコンクリート台に乗せたお神酒はワンカップ。

三枚の葉をつけた笹の葉を入れている。

その理由は聞かなかったが、これまで拝見したことのない祭り方に感動するのである。

谷出垣内の命水が湧き出る場に向かって唱える心経は七日心経。



水の神さんに禊の大祓詞も唱えた。

奈良県の天然記念物に指定されている「大川杉」も嬉しかろう。

高鴨神社・県教育委員会・市教育委員会が立てた掲示物に「この杉は、樹齢約六百年幹の周りが約六メートルもあり、地元西佐味の人達によって今日まで大切に育てられてきました。この杉は、井戸杉と称せられ根元から湧き出る水は、古来飲料水として尊ばれ、西佐味の田畑をもうるおしています。七十年ほど前に雷が落ちて、二またの一方が枯れましたが、親木は難をまぬがれました。これも根元に祭られている三体地蔵さんのおかげといわれています。毎年七月三十日には、この杉にしめなわを飾り豊作を祈念して祭られています。高鴨神社に残されている古文書に神社の立ち木は水利のために切(伐)り倒してはならない、と記されていることからも「大川杉」によせられてきた地元の人々の願いを知ることができます」とあった。

水の神さんに参った地区の人たちは慰労会に移る。

クーラーがよく効いている西佐味自治会館に移動していった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)

上市六軒町の立山

2017年03月05日 08時24分20秒 | 吉野町へ
吉野町の上市に今もなお立山をしていると知ったのは何時なのか。

覚えてないが、それを知った発端は何かのキーワードでぐぐっていたときだ。

キーワードは何なのか、さっぱり記憶にないが、目に入った「立山」に飛びついた。

その情報は「吉野町上市花火大会」だったと思う。

頁文を精査すれば六軒町商店街主催の「たてやま(立山)」が行われているとある。

平成18年は7月末の土曜日。

平成24年は尾仁山から立野まで周回コースの記事もある。

ここで書いたが半信半疑のことである。

奈良県内で今もなお「立山」をしているのはごく僅か。

平成27年2月4日、拝見した奈良町正月行事の春日講企画展示の古文書から発展した「立山」記事を書いた。

再掲したいが長文になるのでこちらを拝読していただきたい。

要は現存する立山行事は御所市東名柄広陵町三吉橿原市八木町の3カ所である。

文中記事にも書いたが、探しているのは吉野町上市である。

それも六軒町とはどこなのか、である。

その場が考えられるのは旧街道。

川沿いにある県道ではなく少し奥に入った旧街道であった。

近鉄電車の大和上市駅より下ったところが旧街道。

ここら辺りであろうと思って店屋を探す。

商売をしている店屋さんは地域に配達するから事情がわかるはず。

そう思って訪ねたお店は中久保米穀店主。

上市に各大字がある。

ここは尾仁山(おにやま)。

旧街道沿いに東に向かう。

順に六軒町(ろっけんちょう)、本町(ほんまち)、横町(よこちょう)、上ノ町(かみのちょう)。上ノ町の上に轟(とどろき)。

旧街道に戻って立野(たちの)になるという。

店主が云うにはかつて街道沿いの大字それぞれが立山をしていたそうだ。

ここ尾仁山もしていたが、今では六軒町だけがしていると云う。

米穀店より東へ向かう。

ほどよい距離に人だかりがある。

その手前に貼ってあった3枚の観光案内ポスター。



中央がこの日の花火大会。

午後8時から始まるが、今回の目当ては花火ではない。

右側のポスターは花火大会が始まる時間までに行われる吉野川の灯籠流しであるが、六軒町の立山のことはどこにも書いていない。

左側にあるポスターは翌月の8月に行われる大盆踊り大会。

いずれも場所は同じであるが、このポスターに書いてあった催しに炭坑節、河内音頭に続いて「祭文語り」がある。

民俗を取材している私にとっては必見である。

今年は地蔵盆の日と重なっているので取材はできないが、来年の課題としておこう。

人だかりのある場所に話を戻そう。

そこにおられた人たちにお聞きすれば、今まさに最後の調整をしている最中だと云う。

取材の主旨を伝えてこの地にできる限り滞在したい。

この近くに駐車場・・・といえばうちの向かいに若干停められる場所があるからと云われた。

ありがたいご厚意に感謝する六軒町の第一歩はこうして始まった。

今年の立山の出し物は「仮面ライダーゴースト」。



作業場は区の倉庫。

この場を借りて設営する見世物は六体もある。

主役はもちろん仮面ライダーゴースト。

戦う相手は誰だ。

孫でもおればわかるだろうが、我が家の息子たちは未婚。

それ以前であるだけに、これは何々といわれてもピンとこない。

たぶんに左端が仮面ライダーゴースト。

その後ろに立っているのが闘魂ブースト魂。

右の奥に立つ電気眼鏡。

その前は槍剣魔だろう。



さてと。

中央はなんだろうか。

どうやら恐竜をイメージしているらしい。

それがなんと動くのである。

ガォーと叫ぶうなり声は聴けないが・・・ぐぐっと前に迫ってくる。

動きを調製している男性は製作者。

作業場は暑い。

後方に設置してある風起こしの舞台設定は扇風機。

工夫を凝らした舞台は大道具もあれば見えない道具もある。

六軒町の立山は吉野町の花火大会期間に展示される。

製作は何か月も前から始まっている。

立山を造る会は15人。

元々は婦人部もある商工会の青年部だった。

仕事を終えて集まること何日間も。

構想から始まってテーマ決め、デザイン設計、材料調達。

夏休みも返上する毎晩の7時から10時まで作業をしてきた。

最修の完成は花火大会の初日を目指して日夜ガンバッテきた。

動く部分は専門家の出番。

ここが要の立山に苦労があると云う。



迫力ある仮面ライダーゴーストに集まってくる近所の子どもたち。

ずっと見ている子どもおれば、たまたま通りがかった親子連れも。

何かが始まる期待感をもたせる仮面ライダーゴーストに目が点だ。



今回の立山の引き立て役は植物がある。

前面に何もなければ単なるウィンドウディスプレイ。

そこに工夫する恐竜が生存しているかのように繁みをみせるのは茅である。

吉野川に生えている茅を刈り取ってきた。

しなしなに枯れてはなんにもならないので直前までは水を溜めていた廃棄風呂桶に浸けていた。



川にはとにかく多い茅がある。

いくら刈っても減ることはないという。

それほど多い茅の葉。

それがなくて茅の輪の設営ができなかった神社がある。

困っていたのは奈良市の大安寺八幡宮(元石清水八幡宮)。

もし良ければもらって帰っても・・。

この日の余りではなく自然に生えている川原の茅(上市の橋の下)を、である。

それならどうぞ、どうぞである。

たくさん刈り取ってもらってくれれば私どもも助かるというのだ。

区長に頂戴したいと連絡いただければ、ということに、その件は後日になるが、存じている大安寺八幡宮の宮司に繋いだ。

ところで毎年の立山。

工夫して製作した前年のものを保管しているという。

ベランダから見下ろす人形たちは、すぐにわかるだろうか。



孫がいない私はピンとこなかったが妖怪ウォッチの三体。

中央の少年は主人公のケーター。

両脇の2体は・・・。

右がジバニャンで左はフユニャン。

こういう機会でもなけりゃ覚えることはないだろうが、たぶんにすぐ忘れてしまう。

ちなみに前々年は北海道丸山動物園だったそうだ。

その年、その年ごとの流行りのものを造る。

その昔はその夜限りの登場であったが、今では花火大会が終わってからでも展示している。

7月21日からは子どもたちが楽しみにしている夏休み。

今年は8月5日まで飾っているという六軒町の立山はかつて他市の人たちに引き取られて、そこで展示していたそうだ。

行先の詳しさは現地に行ったことがないのでわからないが、どうやら橿原市の八木町だったようだ。

引き取りに来た人は六軒町で展示したそのままの状態で運んだようだ。

そのころはと云ってもはっきりした年代はわからないが、毎年に現われては譲ってもらった立山を持ち帰ったそうだ。

向こうで展示した六軒町の立山は八木の愛宕祭に再利用。

展示場は小学校の傍だったか、それとも商店街だったか・・。

祭りが終われば引き取った人が処分していたそうだ。

そういえばいつのまにか来ないようになった。

割合、歳がいった人だったのでやめたかも知れないと話す。

造った立山は壊すのが惜しいが残して保管する場所もない。

引き取り手があった時代は復活しない。

昨年の妖怪ウォッチは今でもベランダにいるが、いつまでもというわけにはいかないのである。

ちなみに立山会場前にはテントを張って写真展を開催していた。



納涼懐古写真展テーマは「たてやまと上市の風景」。

およそ65年前の六軒町の懐かしい風景写真を展示していた。



昭和26年の夏祭りに六軒町商店街仮装行列に羽根つきの様相。



昭和26年といえば私が誕生した年でもある。

そういえば区長さんも同い年。

地域は違うが、育ってきた年代文化は同じだけに話が弾む。

河川敷でしていたとんど行事は昭和32年。



吉野川では納涼なのか、鵜飼いもしている。

先頭に松明を掲げて船を動かす鵜匠の衣装に腰蓑も写っている。

貴重な写真に感動を覚える。その頁には捕鮎もある。

網を投げる子どもはふんどし姿にように思える。

さまざまな懐古写真で回顧する。

ところで翌月8月の盆踊りである。

そこで披露される「祭文踊り」は8月13日、14日、15日のいずれかの午後7時から夜の10時まで。

一夜限りの盆踊りに吉野町の祭文踊り保存会の皆さんが出演するという。

保存会の人たちの大多数は同町の国栖や楢井に住む人たちのようだ。

若い女性の踊り子を引き連れるのは年寄りの男性。

同町の龍門にある体育館で日夜の練習を重ねているらしい。

昔はその地、この地からかってくる踊り子たちが乗用車に乗って駆けつけたようだ。

それほど盛り上がっていたという盆踊りも拝見してみたいと思った。

(H28. 7.30 EOS40D撮影)
(H28. 7.30 SB932SH撮影)

馬佐の干し竿

2017年03月04日 08時52分32秒 | 民俗あれこれ(干す編)
御所市を離れて東へ向かう。

下市を抜けて大淀町に入る。

山側の比曽へと向かう。

その比曽手前にある大字は馬佐(ばさ)。

平成25年の9月15日に訪れた馬佐の牛滝社で牛滝まつりを取材したことがある。

その行事を下見に来た数日前。

吉野川に下っていく旧道にあった竿が気になって再訪した。

ここは馬佐。

下見の際に行事のことを尋ねた家がすぐ近くになる。

その付近にあった竿がどうしても気にかかる。

そう、3年前に拝見したその竿には白いものが簾状に垂れていた。

低い位置から垂らした白いものは皮を剥いて干していたカンピョウである。

もしかとすれば再見できりかもと思って訪れたが竿だけであった。

時間がないから長居はできない。

仕方なくこの日の目的地になる吉野町上市に舵を切った。

(H28. 7.30 EOS40D撮影)

西佐味の大杉調査

2017年03月03日 05時57分54秒 | 御所市へ
御所市の西佐味にそびえるほど高い大杉があると知ったのは何時だったか思い出せないが、場所はここにあると教えてもらったのは西佐味の住民のMさん。

訪れたのは平成25年の7月24日。

その月の末に大杉に架けてある注連縄を張り替えると云っていた。

張り替えるには相当な人数を要するであろう。

その人たちの在所を訪れておこうと思って大杉の場所を探した。

たぶんにこれだろうと思っていた。

ところが付近には人を見かけない。

商売をしているお家であれば何かの手がかりがみつかるかも知れないと思って入店した梅田商店。

奥からご婦人が出てこられた。

Mさんが話していた注連縄掛けについて尋ねてみる。

婦人がいうには当番のヤド家が注連縄を作って昼前に架け替える、である。

大杉が植生する地は谷。

湧き水が滾々と湧く。

水量は豊富で、ここら辺りの3~4軒の家には井戸があったという。

井戸と云えば盆入りに井戸浚えがあるのではと聞けば、その通りだった。

今では井戸も用をなしていないが、かつては8月盆入りに井戸浚えをしていたというのだ。

盆の在り方も聞いた地は上流もない谷。

そこはタンデ垣内と云っていたのは前述した水野垣内のMさんだ。

タンデを充てる漢字はおそらく谷出。

タニデが訛ってタンデになったのだろう。

その年の月末は仕事があった。

取材するにも仕事があれば無理がある。

来年に持ち越しと思っていたが、その後も日程が合わずにいた。

そして、昨年は7月10日に発症した僧帽弁逸脱による弁膜異常でそれどころではなくなった。

今年こそをと思って当番をされる村人を探してみる。

作業小屋にたまたま居られたご婦人に声をかけた。

尋ねるキーワードは大杉に架ける注連縄だ。

当番になっていないから詳しいことはわからないが、この地が何故に谷出垣内と呼ばれるのか話してくださった。

西佐味の田んぼは「キシ」と呼ばれる段々がある。

石垣で組んだ段々だ。

上下があるから上部は上の「キシ」。

下は下の「キシ」と区分する。

「キシ」を充てる漢字は「岸」。

谷出垣内の「岸」である。

我が家も井戸があった。

それゆえ「谷井」の名がある。

つまり上流は水野垣内。

水が湧き出る「野」である。

水が豊富なここら辺りの垣内の名で物理的な地形がわかる。

なるほどと思った上の「キシ」に下の「キシ」がある段々畑は土地台帳でいえば「ケイハン」である。

つまり「キシ」は「ケイハン」でもあると話してくださるが「ケイハン」を充てる漢字はわからない。

ご婦人に書いてもらった漢字は「畦反」。

決して段々の傾斜の「傾」ではなく「畦反」だった。

こういうことは初めて知る農の田んぼ。

ちなみに婦人が云った「ヒロミの田に「キシ」はない」である。

確かにそうだ。「ヒロミ」とは平坦をさした言葉。

段々もない平坦に「キシ」はあり得ない。

ちなみに帰宅してから「畦反」を調べてみれば、正しくは農業用語の「畦畔」であった。

昭和59年に建てた大杉のことを書いた案内板がある。

正確にいえば大杉は「大川杉」の名がある。

昭和58年3月15日に奈良県が指定された天然記念物であるそうだ。

それによれば「大杉に水湧く稔りの水」とあるようだ。

谷出垣内の「畦反」の田地を潤す、まさに稔りの源泉となる「大川杉」である。

ヤド当番のことなら隣家を訪ねるがよいと云われてその場を離れた。

ここより少し登った家がある。

呼び鈴を押して尋ねる大杉に架ける注連縄。

かつては7月31日にしていたが、今は最終の日曜日。

今年は明日の31日になる。たまたまであるが、今年は昔にしていた日と重なるときに訪ねてくれたのはこれもご縁だと云ってくれた婦人がこれまでの経緯を話してくださる。

注連縄架けが始まったのは大杉を伐るという話があった時代だ。

昭和27~28年のころだと思う。

保育所を建てるに材が要る。

そこでもちあがった大杉を伐って材にするという意見だ。

大杉から湧いている水は7丁の田を養っている。

飲料水は川の水を汲み上げていた生活だった。

荷桶を担いで飲料水を運んでいた。

荷桶を運ぶには苦しい急坂道だった。

我が家はここらで初めて井戸を掘った家だ。

お風呂の水にも井戸の水を使った。

家の前を掘ったら湧いた。

10ケン(2m)ほど掘った。

そこで湧かなかったらやめようと思っていたが、水が湧いた。

それで皆が掘りあった。

そのうち市営の水道水が通った。

今でも現役の4軒の井戸がある。

パイプを引いてモーターポンプで揚げて利用している。

上の山に植林をした。

昔はクヌギの木だった。

木が大きくなったら水湧き量が減った。

吉野川分水が敷かれた。

下市から寺田。

ポンプ揚げなので電気代がかかると云う。

吉野川分水がまだ来ていない時代。

大杉を伐ろうとしたが、念のために所有地はどこにあるか調べたら高鴨神社だった。

明治元年に生まれたお爺さんが云った。

「なんぞ書いたもんがあるやろ」である。

神主を訪ねて古文書を調べたら大杉の地の件の覚書が見つかった。

大杉が植生する地は高鴨神社の領地。

ご神木とわかった大杉である。

かつては2本もあったが、カミナリが落ちて1本が焼け落ちた。

60年以上も前のことのようだ。

区長、氏子どころか、谷出に水利の人たちがいる。

15~16人ぐらいの谷出の人が水利を利用している。

“せんぞ”奔走して文書がでてきた。

大杉を伐って水が枯れたらあかんと云われて伐採はやめた。

山麓線ができて大水になったらあかん。

大杉周りに枠をこしらえたら根元が見えなくなる。

そんなことがきっしょとなって7月31日に注連縄を架けるようになった。

何年もそうしてきたが、今では月末の最終日曜日に15人が集まって注連縄結い。

出来あがれば大杉まで運んで行って架けている。

そんな様子を撮りたいという人が現われた。

撮った写真をもらった。

その写真を拝見したら注連縄を張った向こう「キシ」の処にかたまって手を合している村人の姿を映し込んでいる。

今では大きく育った竹藪で向こうの「キシ」は見えなくなったから、写真家楳生空見さんがとらえた映像は貴重な写真。

しかも撮り方が実に上手い。

寄贈されたお家のご婦人の了解を得て公開することにした。

こうした西佐味大川の神杉注連縄張の経緯を話してくださった同家には金剛山登山のオサの札もあるらしい。

(H28. 7.30  EOS40D撮影)

高樋町春日神社の本殿御遷座祭

2017年03月02日 08時47分38秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
前回のゾーク(造営)事業は18年前の平成10年だった。

2年も早めてゾークをするのは本殿建物などの彩色の剥離状態があまりにも無残になってきたことからである。

この際に補修した建物はペンキで塗りを固める。

右にある社殿は蜂の巣もある。

危険な状態では立替工事も困難。

これらも除去しなければならない。

それだけでなく補修する場は拝殿下の境内にもある。

遥拝所の土台がやや斜めになってきた。

いつ倒れるかも知れない状態を放置するわけにはいかない。

空間ができていた地面。

いっそのこと、工事は土台を掘り起こして地面も・・・。

社殿の補修は聚楽殿までも、である。

21日に宮総代のOさんとともに近隣神社の社殿を見て廻った。

参考になったそれぞれの地区の木鼻の紋様色柄

大工棟梁が補修する高樋の社殿は本社の春日神社を筆頭に四社ある。

本社両側に建つ社殿はどちらも同じ「事代主命」を祀るが、神社名を示す札は「言代主命」。



「事代主命」は“コトシロヌシ”。

「言代主命」も同じく“コトシロヌシ”。

「言い知り」を神の詞を託宣する神さん。

神名に「言」、或は「事」を表記するのは、古来において“言葉”と“出来事”が区別されていなかったそうだ。

ちなみに棟木に書かれた社名は「蛭兒社」である。

“蛭兒”はエビス。

エビスとされる神さんは“コトシロヌシ”の神さんもある。

一段下りたところにも社殿がある。

神社名は「大日霊命神社」。

村の人が松葉に荒神榊(こうじんさかき)を立てていた。

鮮やかに朱塗りされた四社の他、鳥居も塗りで新しくなった。

ただ、三社殿に描かれていた獅子の絵は手を加えなかった。

汚れもなく綺麗なままの状態で次世代に継がれた。

さらに一段下ったところに拝殿がある。

そこは手を入れていない。



そこには塗替えのために一旦は神さんを遷させていただいた仮の社がある。

平成28年の3月24日に行われた仮遷座祭にそちらにおられる。

高樋の仮社は新築したわけでもなく、ずっとこの場にある。

一般的には仮社はあくまで仮社として一時的なもの。

そのまま残すことはない。

あっても高樋と同様に稀な事例であろう。

今夜は本殿御遷座祭。

四つの神さんがそれぞれの社殿に戻られる。

これまでかれこれ何年間に亘って造替事業のたびに遷座された。

それを示すのはそれぞれの年代を示す棟札でわかる。



前回の造替上棟式は昭和55年2月10日。

前々回は昭和33年8月9日。

前々々回は昭和拾年(1935)拾月拾日。

前々々々回は・・・これもまた桟で隠れていて「四月十四日上棟式」の文字しか見えない。

前々々々々回は明治13年(1880)であろうか。

「拾参年」の文字しか見えない。

時代とともに宮司、社掌の変遷がみられる。

それより前は江戸時代の棟札。

一枚は文化十一年(1814)六月。

もう一枚も江戸時代の寛政十戊午年(1798)八月吉日・・・だった。

この日に現認した棟札は文化と寛政時代のものとが並びが不整だった。

後日に並べ替えておきたいと村の人が云っていた。

ここには並べることのできなかった大きな棟札がもう一枚。

一枚というよりも一本である。

拝殿の天井に置かれていた棟札は鳥居を新調しなおしたときに古い鳥居の一本。

「大正参年寅年四月十五日」の日付けがある。

前述した「四月十四日上棟式」はたぶんに前日の日付け。

そう推定する。

神社の歴史を知るにはこうした棟札(木)や灯籠などの刻印である。

春日神社の本殿下に建つ灯籠(左)に「今宮大明神 奉 寛文拾二年(1672)十一月吉日 □□」の刻印がある。

この場にもう一本の石塔に「今宮大明神 常夜燈」の刻印があった。

現在は春日神社の名になっているが、300年前は「今宮大明神」だった。

こういう事例も見逃せない。

この日はこれより本殿御遷座祭が始まる。

時間もなく、記録調査は後日に改めて取材してみることにした。

宮総代以下氏子たちは白いネクタイに礼服姿。



祝いの姿に宮司が作られた御謹製の白いマスクと白手袋をはめて身支度する。

御謹製の白いマスクと白手袋はかつて山添村の桐山の御造営正遷宮においても拝見したことがある。

3月24日の仮遷座祭のときと同じ姿で役割も同じ。

そのときの体験は今回の本殿御遷座祭も同じ。

復習の意味合いを込めて宮司がもう一度役割と動き方を伝える。

心得た氏子らはその通りに動き出して復習する。

そうして始まった本殿遷座祭式次第は開式の儀をはじめに修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上、遷幸準備(白手袋・白マスク着用)、消灯、遷幸、点灯、献饌、本殿遷座祭本殿祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式、退下で終える。



仮社に一時的に遷座した神さんは白い布で覆ったヒトガタで身を隠して遷る。

ヒトガタの白い幕は自治会役員の持ち場である。

遷座の道具に傘もあるが、開くことはない。

これは雨天の場合だけに用いられる。



先ほど照明具合も点検した。

神さんが遷るときには真っ暗にする。

消灯すればこの場は真っ暗。

宮司、役員らが移動する場合も真っ暗。

足を踏み外してはならないから懐中電灯の照明具合も確かめていた。



修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上などはストロボを点けずであれば写しても構わないと許可を得ているが、白手袋や白マスクを着用する遷幸準備以降の神遷し遷御の一切を撮ることならず、である。



移動に聞こえてくるのは宮司が履く靴音だけだ。

高樋の四神。

本社の天児屋根命、右の事代主命、左の事代主命、大日霊命をそれぞれ一神ずつ遷される。

四神は、浄闇の中、美しく輝いたそれぞれの社殿へ戻っていかれた。

厳かな佇まいに戻られたら点灯する。



撮らせてもらった映像は神遷し直前の状態。

白い布で覆ったヒトガタにはまだお入りになっていない状態である。

くれぐれも誤解のないように・・・。



そして、献饌、本殿遷座祭の祝詞を奏上される。



宮総代ら氏子たちの玉串奉奠に撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式で終えた。

次は四社に新たにした御幣を納める。



ここからは明るい照明の下で行われる。

御幣を納めれば、宮総代が予め用意しておいた御簾を垂らす。

そして閉扉となる。

奈良市春日野町に鎮座する春日大社は今年が式年造替。

高樋町の春日神社も同じ年に遷宮することになった。

まことに悦ばしいことであると宮司は述べる。

ご神徳をもって高樋町が栄えんことお祝い申し上げると申された。

こうして新しくなった神さんのお住まいに鍵を締めて直会に移る。

宮総代からあんたの分まで用意していると云われた今夜の直会のパック詰め弁当膳は「若梅」。

市内今市町にある仕出し専門の料理店である。

箸袋に活造り、御弁当、会席、鮨の文字があった。

場を共にしたいが、明日の取材のこともあって遠慮した。

遷座を無事に終えた村人たちはごゆっくりと直会をされるが、私は先に退座させてもらった。



家に帰ってからよばれる直会料理。

自宅の茶の間でいただいた。

ご馳走さまでございます。

(H28. 7.29 EOS40D撮影)