前回のゾーク(造営)事業は18年前の平成10年だった。
2年も早めてゾークをするのは本殿建物などの彩色の剥離状態があまりにも無残になってきたことからである。
この際に補修した建物はペンキで塗りを固める。
右にある社殿は蜂の巣もある。
危険な状態では立替工事も困難。
これらも除去しなければならない。
それだけでなく補修する場は拝殿下の境内にもある。
遥拝所の土台がやや斜めになってきた。
いつ倒れるかも知れない状態を放置するわけにはいかない。
空間ができていた地面。
いっそのこと、工事は土台を掘り起こして地面も・・・。
社殿の補修は聚楽殿までも、である。
21日に宮総代のOさんとともに近隣神社の社殿を見て廻った。
参考になったそれぞれの地区の木鼻の紋様色柄。
大工棟梁が補修する高樋の社殿は本社の春日神社を筆頭に四社ある。
本社両側に建つ社殿はどちらも同じ「事代主命」を祀るが、神社名を示す札は「言代主命」。
「事代主命」は“コトシロヌシ”。
「言代主命」も同じく“コトシロヌシ”。
「言い知り」を神の詞を託宣する神さん。
神名に「言」、或は「事」を表記するのは、古来において“言葉”と“出来事”が区別されていなかったそうだ。
ちなみに棟木に書かれた社名は「蛭兒社」である。
“蛭兒”はエビス。
エビスとされる神さんは“コトシロヌシ”の神さんもある。
一段下りたところにも社殿がある。
神社名は「大日霊命神社」。
村の人が松葉に荒神榊(こうじんさかき)を立てていた。
鮮やかに朱塗りされた四社の他、鳥居も塗りで新しくなった。
ただ、三社殿に描かれていた獅子の絵は手を加えなかった。
汚れもなく綺麗なままの状態で次世代に継がれた。
さらに一段下ったところに拝殿がある。
そこは手を入れていない。
そこには塗替えのために一旦は神さんを遷させていただいた仮の社がある。
平成28年の3月24日に行われた仮遷座祭にそちらにおられる。
高樋の仮社は新築したわけでもなく、ずっとこの場にある。
一般的には仮社はあくまで仮社として一時的なもの。
そのまま残すことはない。
あっても高樋と同様に稀な事例であろう。
今夜は本殿御遷座祭。
四つの神さんがそれぞれの社殿に戻られる。
これまでかれこれ何年間に亘って造替事業のたびに遷座された。
それを示すのはそれぞれの年代を示す棟札でわかる。
前回の造替上棟式は昭和55年2月10日。
前々回は昭和33年8月9日。
前々々回は昭和拾年(1935)拾月拾日。
前々々々回は・・・これもまた桟で隠れていて「四月十四日上棟式」の文字しか見えない。
前々々々々回は明治13年(1880)であろうか。
「拾参年」の文字しか見えない。
時代とともに宮司、社掌の変遷がみられる。
それより前は江戸時代の棟札。
一枚は文化十一年(1814)六月。
もう一枚も江戸時代の寛政十戊午年(1798)八月吉日・・・だった。
この日に現認した棟札は文化と寛政時代のものとが並びが不整だった。
後日に並べ替えておきたいと村の人が云っていた。
ここには並べることのできなかった大きな棟札がもう一枚。
一枚というよりも一本である。
拝殿の天井に置かれていた棟札は鳥居を新調しなおしたときに古い鳥居の一本。
「大正参年寅年四月十五日」の日付けがある。
前述した「四月十四日上棟式」はたぶんに前日の日付け。
そう推定する。
神社の歴史を知るにはこうした棟札(木)や灯籠などの刻印である。
春日神社の本殿下に建つ灯籠(左)に「今宮大明神 奉 寛文拾二年(1672)十一月吉日 □□」の刻印がある。
この場にもう一本の石塔に「今宮大明神 常夜燈」の刻印があった。
現在は春日神社の名になっているが、300年前は「今宮大明神」だった。
こういう事例も見逃せない。
この日はこれより本殿御遷座祭が始まる。
時間もなく、記録調査は後日に改めて取材してみることにした。
宮総代以下氏子たちは白いネクタイに礼服姿。
祝いの姿に宮司が作られた御謹製の白いマスクと白手袋をはめて身支度する。
御謹製の白いマスクと白手袋はかつて山添村の桐山の御造営正遷宮においても拝見したことがある。
3月24日の仮遷座祭のときと同じ姿で役割も同じ。
そのときの体験は今回の本殿御遷座祭も同じ。
復習の意味合いを込めて宮司がもう一度役割と動き方を伝える。
心得た氏子らはその通りに動き出して復習する。
そうして始まった本殿遷座祭式次第は開式の儀をはじめに修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上、遷幸準備(白手袋・白マスク着用)、消灯、遷幸、点灯、献饌、本殿遷座祭本殿祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式、退下で終える。
仮社に一時的に遷座した神さんは白い布で覆ったヒトガタで身を隠して遷る。
ヒトガタの白い幕は自治会役員の持ち場である。
遷座の道具に傘もあるが、開くことはない。
これは雨天の場合だけに用いられる。
先ほど照明具合も点検した。
神さんが遷るときには真っ暗にする。
消灯すればこの場は真っ暗。
宮司、役員らが移動する場合も真っ暗。
足を踏み外してはならないから懐中電灯の照明具合も確かめていた。
修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上などはストロボを点けずであれば写しても構わないと許可を得ているが、白手袋や白マスクを着用する遷幸準備以降の神遷し遷御の一切を撮ることならず、である。
移動に聞こえてくるのは宮司が履く靴音だけだ。
高樋の四神。
本社の天児屋根命、右の事代主命、左の事代主命、大日霊命をそれぞれ一神ずつ遷される。
四神は、浄闇の中、美しく輝いたそれぞれの社殿へ戻っていかれた。
厳かな佇まいに戻られたら点灯する。
撮らせてもらった映像は神遷し直前の状態。
白い布で覆ったヒトガタにはまだお入りになっていない状態である。
くれぐれも誤解のないように・・・。
そして、献饌、本殿遷座祭の祝詞を奏上される。
宮総代ら氏子たちの玉串奉奠に撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式で終えた。
次は四社に新たにした御幣を納める。
ここからは明るい照明の下で行われる。
御幣を納めれば、宮総代が予め用意しておいた御簾を垂らす。
そして閉扉となる。
奈良市春日野町に鎮座する春日大社は今年が式年造替。
高樋町の春日神社も同じ年に遷宮することになった。
まことに悦ばしいことであると宮司は述べる。
ご神徳をもって高樋町が栄えんことお祝い申し上げると申された。
こうして新しくなった神さんのお住まいに鍵を締めて直会に移る。
宮総代からあんたの分まで用意していると云われた今夜の直会のパック詰め弁当膳は「若梅」。
市内今市町にある仕出し専門の料理店である。
箸袋に活造り、御弁当、会席、鮨の文字があった。
場を共にしたいが、明日の取材のこともあって遠慮した。
遷座を無事に終えた村人たちはごゆっくりと直会をされるが、私は先に退座させてもらった。
家に帰ってからよばれる直会料理。
自宅の茶の間でいただいた。
ご馳走さまでございます。
(H28. 7.29 EOS40D撮影)
2年も早めてゾークをするのは本殿建物などの彩色の剥離状態があまりにも無残になってきたことからである。
この際に補修した建物はペンキで塗りを固める。
右にある社殿は蜂の巣もある。
危険な状態では立替工事も困難。
これらも除去しなければならない。
それだけでなく補修する場は拝殿下の境内にもある。
遥拝所の土台がやや斜めになってきた。
いつ倒れるかも知れない状態を放置するわけにはいかない。
空間ができていた地面。
いっそのこと、工事は土台を掘り起こして地面も・・・。
社殿の補修は聚楽殿までも、である。
21日に宮総代のOさんとともに近隣神社の社殿を見て廻った。
参考になったそれぞれの地区の木鼻の紋様色柄。
大工棟梁が補修する高樋の社殿は本社の春日神社を筆頭に四社ある。
本社両側に建つ社殿はどちらも同じ「事代主命」を祀るが、神社名を示す札は「言代主命」。
「事代主命」は“コトシロヌシ”。
「言代主命」も同じく“コトシロヌシ”。
「言い知り」を神の詞を託宣する神さん。
神名に「言」、或は「事」を表記するのは、古来において“言葉”と“出来事”が区別されていなかったそうだ。
ちなみに棟木に書かれた社名は「蛭兒社」である。
“蛭兒”はエビス。
エビスとされる神さんは“コトシロヌシ”の神さんもある。
一段下りたところにも社殿がある。
神社名は「大日霊命神社」。
村の人が松葉に荒神榊(こうじんさかき)を立てていた。
鮮やかに朱塗りされた四社の他、鳥居も塗りで新しくなった。
ただ、三社殿に描かれていた獅子の絵は手を加えなかった。
汚れもなく綺麗なままの状態で次世代に継がれた。
さらに一段下ったところに拝殿がある。
そこは手を入れていない。
そこには塗替えのために一旦は神さんを遷させていただいた仮の社がある。
平成28年の3月24日に行われた仮遷座祭にそちらにおられる。
高樋の仮社は新築したわけでもなく、ずっとこの場にある。
一般的には仮社はあくまで仮社として一時的なもの。
そのまま残すことはない。
あっても高樋と同様に稀な事例であろう。
今夜は本殿御遷座祭。
四つの神さんがそれぞれの社殿に戻られる。
これまでかれこれ何年間に亘って造替事業のたびに遷座された。
それを示すのはそれぞれの年代を示す棟札でわかる。
前回の造替上棟式は昭和55年2月10日。
前々回は昭和33年8月9日。
前々々回は昭和拾年(1935)拾月拾日。
前々々々回は・・・これもまた桟で隠れていて「四月十四日上棟式」の文字しか見えない。
前々々々々回は明治13年(1880)であろうか。
「拾参年」の文字しか見えない。
時代とともに宮司、社掌の変遷がみられる。
それより前は江戸時代の棟札。
一枚は文化十一年(1814)六月。
もう一枚も江戸時代の寛政十戊午年(1798)八月吉日・・・だった。
この日に現認した棟札は文化と寛政時代のものとが並びが不整だった。
後日に並べ替えておきたいと村の人が云っていた。
ここには並べることのできなかった大きな棟札がもう一枚。
一枚というよりも一本である。
拝殿の天井に置かれていた棟札は鳥居を新調しなおしたときに古い鳥居の一本。
「大正参年寅年四月十五日」の日付けがある。
前述した「四月十四日上棟式」はたぶんに前日の日付け。
そう推定する。
神社の歴史を知るにはこうした棟札(木)や灯籠などの刻印である。
春日神社の本殿下に建つ灯籠(左)に「今宮大明神 奉 寛文拾二年(1672)十一月吉日 □□」の刻印がある。
この場にもう一本の石塔に「今宮大明神 常夜燈」の刻印があった。
現在は春日神社の名になっているが、300年前は「今宮大明神」だった。
こういう事例も見逃せない。
この日はこれより本殿御遷座祭が始まる。
時間もなく、記録調査は後日に改めて取材してみることにした。
宮総代以下氏子たちは白いネクタイに礼服姿。
祝いの姿に宮司が作られた御謹製の白いマスクと白手袋をはめて身支度する。
御謹製の白いマスクと白手袋はかつて山添村の桐山の御造営正遷宮においても拝見したことがある。
3月24日の仮遷座祭のときと同じ姿で役割も同じ。
そのときの体験は今回の本殿御遷座祭も同じ。
復習の意味合いを込めて宮司がもう一度役割と動き方を伝える。
心得た氏子らはその通りに動き出して復習する。
そうして始まった本殿遷座祭式次第は開式の儀をはじめに修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上、遷幸準備(白手袋・白マスク着用)、消灯、遷幸、点灯、献饌、本殿遷座祭本殿祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式、退下で終える。
仮社に一時的に遷座した神さんは白い布で覆ったヒトガタで身を隠して遷る。
ヒトガタの白い幕は自治会役員の持ち場である。
遷座の道具に傘もあるが、開くことはない。
これは雨天の場合だけに用いられる。
先ほど照明具合も点検した。
神さんが遷るときには真っ暗にする。
消灯すればこの場は真っ暗。
宮司、役員らが移動する場合も真っ暗。
足を踏み外してはならないから懐中電灯の照明具合も確かめていた。
修祓、参進、斎主一拝、御扉開扉、本殿遷座祭仮殿祝詞奏上などはストロボを点けずであれば写しても構わないと許可を得ているが、白手袋や白マスクを着用する遷幸準備以降の神遷し遷御の一切を撮ることならず、である。
移動に聞こえてくるのは宮司が履く靴音だけだ。
高樋の四神。
本社の天児屋根命、右の事代主命、左の事代主命、大日霊命をそれぞれ一神ずつ遷される。
四神は、浄闇の中、美しく輝いたそれぞれの社殿へ戻っていかれた。
厳かな佇まいに戻られたら点灯する。
撮らせてもらった映像は神遷し直前の状態。
白い布で覆ったヒトガタにはまだお入りになっていない状態である。
くれぐれも誤解のないように・・・。
そして、献饌、本殿遷座祭の祝詞を奏上される。
宮総代ら氏子たちの玉串奉奠に撤饌、御扉閉扉(式典後に御幣納めがあるため開扉のままにしておく)、斎主一拝、閉式で終えた。
次は四社に新たにした御幣を納める。
ここからは明るい照明の下で行われる。
御幣を納めれば、宮総代が予め用意しておいた御簾を垂らす。
そして閉扉となる。
奈良市春日野町に鎮座する春日大社は今年が式年造替。
高樋町の春日神社も同じ年に遷宮することになった。
まことに悦ばしいことであると宮司は述べる。
ご神徳をもって高樋町が栄えんことお祝い申し上げると申された。
こうして新しくなった神さんのお住まいに鍵を締めて直会に移る。
宮総代からあんたの分まで用意していると云われた今夜の直会のパック詰め弁当膳は「若梅」。
市内今市町にある仕出し専門の料理店である。
箸袋に活造り、御弁当、会席、鮨の文字があった。
場を共にしたいが、明日の取材のこともあって遠慮した。
遷座を無事に終えた村人たちはごゆっくりと直会をされるが、私は先に退座させてもらった。
家に帰ってからよばれる直会料理。
自宅の茶の間でいただいた。
ご馳走さまでございます。
(H28. 7.29 EOS40D撮影)