数日前までは毎日が夕立。
3日、4日、5日連続の夕立は県内の至る処、というか局所的にどこかで降っていた夕立の雨。
この日はどうかと心配していたが青空が広がったままだった。
夕立であっても境内で行われるヤマモリには食事を伴う村の行事。
境内がびしょびしょ状態になれば中断せざるを得ない。
2年前は夕立ではなかったものの雨が降り続けたことによってやむなく中止された田原本町佐味の七日盆のヤマモリ。
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に佐味の七日盆のヤマモリの記事があった。
「七日盆にあらんたな(新棚)を祭る。過去一年の間に亡くなった方の御霊は仏壇でなく、部の場に棚を設けて祭る。仏壇、仏具に墓掃除をして墓参りをする。この日には八尾の安養寺のように夜の8時に墓会式をする。七日盆はササギのご飯にズイキのおひたし。コイモやアゲを供えてササギご飯を食べる。盆行事は七日盆から始まっており、井戸替えをする処もある。佐味では8月7日にヤマモリがあって村中が組(垣内)ごとにご馳走を作って夕方からお宮さんに庭に家の提灯を吊って会食をする・・・」とあった。
その記事が気になって訪れたのが平成25年の9月15日だった。
先月、佐味に住む男性から電話があった。
夕方のヤマモリに境内でよばれるハンゴロシオニギリを作ると教えてもらって、この日の午前中に取材させてもらった。
「8月7日の七日盆に、それぞれの垣内の当番は垣内の家からモチ米5合を集めて、それに村から出る米を合わせて、七日の日に握り飯とおかずを作り、お宮さんの境内にむしろを敷いて村中の者が集まって会食する」という記述から佐味のヤマモリは七日盆が絡んでいたと思われたが、墓掃除、墓参りといった動きは聞き及ばない。
ただ、長老たちや一部の人達からも佐味のヤマモリは七日盆のヤマモリと呼ぶのが正しいだろうと話していた。
萱森で行われたラントバさん塔参りの取材を終えて再び現地入りした田原本町の佐味。
着いた時間は夕方の午後6時過ぎ。
境内は賑わっていた。
そうとう広い境内は組の人がそれぞれ座る位置にブルーシートを敷いていた。
オレンジ色のシートもあるが筵やゴザは見られない。
古き時代の敷物は見られないのはどこともである。
旧村佐味は100戸の集落。
大きな村に組分けは6組。
以前は垣内分けであったが、今の呼称は組であるが垣内名を教えてもらった。
1組は北垣内、2組も北垣内。3組、4組とも中垣内。5組、6組とも南垣内である。
つまり、北地区から中地区、そして南地区へと下った垣内名は、終戦後に北から南へ。
1組から6組の組制に名称を替えたのである。
それぞれの組が境内に分かれてシートを敷くが、毎年同じ場でなく一年交代で場を替えていくそうだ。
ハンゴロシオニギリが出来あがったのは昼を越した午後1時半にもなったという。
夕方のヤマモリが始まるまでの午後の部。
スーパーボールにジャンケン大会。
お菓子のつかみ取りに金魚すくいも。
過去は花火もしていたが、危険がともなうということで中断したが午後7時からは境内でビンゴゲームもしているヤマモリ行事は込みこみの村のイベント行事でもある。
佐味はかつてこの位置にあった集落ではなかったと住民が云った。
いつの時代かわからないが、曽我川が大雨で氾濫した。
それを治めるために東から西に移ったという。
村の端に小字西ノ辻がある。
それが端っこにあたる。
東に残った集落がある。
そこも佐味の地。
満田のほうがそれであって佐味の出垣内になるという。
曽我川が氾濫した話は前年の平成27年の9月13日に取材した八王子講行事のときにも聞いた。
八王子講の話しはそのときに流れ着いたハッタサンのヤカタを祭ったことである。
地図で見ればわかる現在の曽我川の流れを佐味と西隣村の百済との境界地。
現在の境界線を辿ってみればその一部に大きく蛇行している処がわかる。
それが元々あったと思える曽我川の流れ。
大和郡山市の額田部町と南に大和川を境にある川西町の吐田である。
現在地図の境界線も蛇行している。
それが元々あった大和川の流れである。
さて、杵で突くように搗いて作ったハンゴロシオニギリは5個入りパックに詰めて配られた。
かつてのおかずのご馳走はクジラのベーコンもあった。
串にさしたコロ肉もあった。
コンニャクにアゲも入れて炊いたカントダキをしていたという。
懐かしい話しをされるのは高齢者。
昭和29年のころだったという。
カントダキは見られないが6組はその場で焼き肉をしていた。
生イカも焼く豪華な馳走に食べてやと云われてよばれた。
これは炭火焼。
当番の人たちがつぎから次へと焼いていた。
もうもうと立ち込める煙は天に昇っていくが、焼き肉の香りは境内いっぱいに広がった。
他の組に人たちはそういうことはしていないが、それぞれの組の場には朝から作っていたハンゴロシオニギリが盛られている
6組は黒ゴマのオニギリもあるが、独自に作った色があるオニギリに焼きイカ、焼き肉でビールもお酒もぐいぐい。
そのうちに日が暮れだした。
天を指さす住民たち。
ジェット機が飛んでいるわけでなくお月さんが昇ってきたのだ。
天から微笑んでいるように見える白く輝くお月さんは下弦の月。
その下ではビンゴゲームに行列ができた。
子どもたちが楽しみにしていたビンゴゲームに群がる。
それとは関係なく組の飲食に時が過ぎていく。
解散は夜の8時ごろ。
会場に残っていた子供たちはボール蹴りをして夏休みを楽しんでいた。
今夜の籠りに嫌な蚊は飛んでいない。
そうなった理由は下支えしている役員の人たちのおかげだ。
この日の清掃前に処置をしていたのは雑草に住み着いている夏の虫退治。
村人の身体に影響のないように抑え気味の殺虫剤を撒いていたと云う。
(H28. 8. 7 EOS40D撮影)
3日、4日、5日連続の夕立は県内の至る処、というか局所的にどこかで降っていた夕立の雨。
この日はどうかと心配していたが青空が広がったままだった。
夕立であっても境内で行われるヤマモリには食事を伴う村の行事。
境内がびしょびしょ状態になれば中断せざるを得ない。
2年前は夕立ではなかったものの雨が降り続けたことによってやむなく中止された田原本町佐味の七日盆のヤマモリ。
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に佐味の七日盆のヤマモリの記事があった。
「七日盆にあらんたな(新棚)を祭る。過去一年の間に亡くなった方の御霊は仏壇でなく、部の場に棚を設けて祭る。仏壇、仏具に墓掃除をして墓参りをする。この日には八尾の安養寺のように夜の8時に墓会式をする。七日盆はササギのご飯にズイキのおひたし。コイモやアゲを供えてササギご飯を食べる。盆行事は七日盆から始まっており、井戸替えをする処もある。佐味では8月7日にヤマモリがあって村中が組(垣内)ごとにご馳走を作って夕方からお宮さんに庭に家の提灯を吊って会食をする・・・」とあった。
その記事が気になって訪れたのが平成25年の9月15日だった。
先月、佐味に住む男性から電話があった。
夕方のヤマモリに境内でよばれるハンゴロシオニギリを作ると教えてもらって、この日の午前中に取材させてもらった。
「8月7日の七日盆に、それぞれの垣内の当番は垣内の家からモチ米5合を集めて、それに村から出る米を合わせて、七日の日に握り飯とおかずを作り、お宮さんの境内にむしろを敷いて村中の者が集まって会食する」という記述から佐味のヤマモリは七日盆が絡んでいたと思われたが、墓掃除、墓参りといった動きは聞き及ばない。
ただ、長老たちや一部の人達からも佐味のヤマモリは七日盆のヤマモリと呼ぶのが正しいだろうと話していた。
萱森で行われたラントバさん塔参りの取材を終えて再び現地入りした田原本町の佐味。
着いた時間は夕方の午後6時過ぎ。
境内は賑わっていた。
そうとう広い境内は組の人がそれぞれ座る位置にブルーシートを敷いていた。
オレンジ色のシートもあるが筵やゴザは見られない。
古き時代の敷物は見られないのはどこともである。
旧村佐味は100戸の集落。
大きな村に組分けは6組。
以前は垣内分けであったが、今の呼称は組であるが垣内名を教えてもらった。
1組は北垣内、2組も北垣内。3組、4組とも中垣内。5組、6組とも南垣内である。
つまり、北地区から中地区、そして南地区へと下った垣内名は、終戦後に北から南へ。
1組から6組の組制に名称を替えたのである。
それぞれの組が境内に分かれてシートを敷くが、毎年同じ場でなく一年交代で場を替えていくそうだ。
ハンゴロシオニギリが出来あがったのは昼を越した午後1時半にもなったという。
夕方のヤマモリが始まるまでの午後の部。
スーパーボールにジャンケン大会。
お菓子のつかみ取りに金魚すくいも。
過去は花火もしていたが、危険がともなうということで中断したが午後7時からは境内でビンゴゲームもしているヤマモリ行事は込みこみの村のイベント行事でもある。
佐味はかつてこの位置にあった集落ではなかったと住民が云った。
いつの時代かわからないが、曽我川が大雨で氾濫した。
それを治めるために東から西に移ったという。
村の端に小字西ノ辻がある。
それが端っこにあたる。
東に残った集落がある。
そこも佐味の地。
満田のほうがそれであって佐味の出垣内になるという。
曽我川が氾濫した話は前年の平成27年の9月13日に取材した八王子講行事のときにも聞いた。
八王子講の話しはそのときに流れ着いたハッタサンのヤカタを祭ったことである。
地図で見ればわかる現在の曽我川の流れを佐味と西隣村の百済との境界地。
現在の境界線を辿ってみればその一部に大きく蛇行している処がわかる。
それが元々あったと思える曽我川の流れ。
大和郡山市の額田部町と南に大和川を境にある川西町の吐田である。
現在地図の境界線も蛇行している。
それが元々あった大和川の流れである。
さて、杵で突くように搗いて作ったハンゴロシオニギリは5個入りパックに詰めて配られた。
かつてのおかずのご馳走はクジラのベーコンもあった。
串にさしたコロ肉もあった。
コンニャクにアゲも入れて炊いたカントダキをしていたという。
懐かしい話しをされるのは高齢者。
昭和29年のころだったという。
カントダキは見られないが6組はその場で焼き肉をしていた。
生イカも焼く豪華な馳走に食べてやと云われてよばれた。
これは炭火焼。
当番の人たちがつぎから次へと焼いていた。
もうもうと立ち込める煙は天に昇っていくが、焼き肉の香りは境内いっぱいに広がった。
他の組に人たちはそういうことはしていないが、それぞれの組の場には朝から作っていたハンゴロシオニギリが盛られている
6組は黒ゴマのオニギリもあるが、独自に作った色があるオニギリに焼きイカ、焼き肉でビールもお酒もぐいぐい。
そのうちに日が暮れだした。
天を指さす住民たち。
ジェット機が飛んでいるわけでなくお月さんが昇ってきたのだ。
天から微笑んでいるように見える白く輝くお月さんは下弦の月。
その下ではビンゴゲームに行列ができた。
子どもたちが楽しみにしていたビンゴゲームに群がる。
それとは関係なく組の飲食に時が過ぎていく。
解散は夜の8時ごろ。
会場に残っていた子供たちはボール蹴りをして夏休みを楽しんでいた。
今夜の籠りに嫌な蚊は飛んでいない。
そうなった理由は下支えしている役員の人たちのおかげだ。
この日の清掃前に処置をしていたのは雑草に住み着いている夏の虫退治。
村人の身体に影響のないように抑え気味の殺虫剤を撒いていたと云う。
(H28. 8. 7 EOS40D撮影)