平成19年8月13日に取材した安堵町大寶寺六斎講のナナトコ参り。
9年ぶりに拝見いたしたく再訪した。
参られるのは六斎念仏を伝承、唱えている大寶寺六斎講である。
月に一度は大寶寺本堂で念仏の練習をされている。
一度、伺いたく夜に集まって練習されている状況を取材させてもらったことがある。
今でもそうされていると思うが確認はとっていない。
9年前に取材したときと同じ時間帯に居た。
ここで待っておれば六斎講の人たちが自転車に跨ってやってくると思われ佇んでいた。
この場は墓地。
阿土(あど)墓地は郷墓である。
在地は窪田であるが、窪田の他に東安堵や西安堵、岡崎に隣村の大和郡山市額田部南方、椎木町、さらに大和川対岸の南にある川西町の吐田、下永の共同墓地。
地域は融通念仏宗派も多いが浄土宗もある。
待っている時間が惜しい。
それならと思ったのは墓地に供える在り方だ。
阿土(あど)墓地入口に石の鳥居がある。
このような形式の墓地は珍しいが他所にもある。
私が知る範囲内では大和郡山市に2カ所。
一つは野垣内町に。
もう一つは九条墓地である。
調べてみればもっとあるかもしれない。
右手に並ぶ石仏は迎えの六地蔵。
墓地には少なからずある光景である。
夏の日差しはきつい。
燦々と浴びる日差しに汗が止まらない。
墓石前にあったお供え。
シールが見え隠れするからスーパーで買ったものだろう。
昨今はどこの店でも売っているお盆のお供え。
アサガラやコウヤマキまで売るようになった。
習俗文化まで変容していく時代になったものだと感心する。
ナスビにキュウリ、サツマイモ、サトイモ盛りにプラスチック製の花びらが一つ。
もうひとつの赤い色はホオズキだ。
さすがにホウズキは生ものだ。
いずれはこれもプラスチック製になっていくのかもしれないが、それはそれで困ったことになるが予想される。
隣にあった墓石に仏花。
菊花にコウヤマキ。
そこにもホウズキの赤い実がある。
これらのお供えはいつ供えられたのだろうか。
カラカラに乾燥したお供えに短めの箸もある。
家人の優しさを感じる先祖さん参りの御供である。
それにしてもだ。
いつまで待つのか、である。
もしかとすれば、と頭がよぎった。
以前に取材したときに云われた台詞。
夏は暑い、である。
暑さを避けて時間帯を遅くしてのでは、と思った。
念のために急行した極楽寺。
ナナトコ参りは極楽寺本堂でお念仏をしてから阿土(あど)墓地に行く。
平成19年に取材したときはいつもこうしていると話していた。
で、あれば極楽寺におられる可能性が高い。
そう思って車を走らせた。
駐車場に停めて寺に向かう。
門の前に数台の自転車がある。
自転車籠には麦わら帽子がある。
これがあることでわかった六斎講の居場所。
お寺の奥さんと話し込んでいたら長くなってしまったという。
大急ぎで自転車にまたがる講中を車で追っかける。
車よりも早い講中の自転車に追いつくのも難儀する墓地近くの民家道。
狭いので安全に留意しながらノロノロ運転。
慌てることはない。
到着した場は窪田の小字六道に位置する阿土墓である。
かつての阿土墓は地域の火葬場として利用されていた。
火屋と斎場があったが、近年に撤去された。
講中ははじめに入り口にある六斎念仏始祖長治郎の墓の前で「シンバンドー」を唱える。
鉦を叩きながらナムマイダー ユーズーネンブツ ナムマイダーと繰り返す「シンバンドー」である。
「シンバンドー」を充てる漢字は新坂東である。
次は向きを替えて北向き。
鳥居手前横にある六地蔵の前に並んで唱える。
一曲が約三分半の「シンバンドー」の鉦の音。
安土墓一帯に聞こえるように響き渡る。
鳥居を潜って北側に建つお迎え地蔵立像においても一曲。
次は墓地内を少し歩いて山積みしたような処に向かう。
そこは無縁仏。
東に向かって念仏を唱える。
そして墓地のほぼ中央に位置する六斎講墓に向かう。
その場は枯木がある処だ。
ここも同じように東に向かって唱える。
いずれも唱える念仏は「シンバンドー」。
六斎念仏始祖長治郎の墓の前から始まってここまでの一曲は四番である。
「シンバンドー」は一番から九番まである。
そのうちの四番を唱えていると講元が話す。
最後の〆は歴代の大寶寺住職を納める集合墓。
ここでは一番から九番まで、すべてを唱えあげる。
数えてみればナナトコでもない六箇所である。
かつては入り口付近にもあった無縁仏をここより移して纏められたことによって一場が減ったということである。
その場数は七つ。
それぞれに参ることからナナトコ参り。
もっと以前は、この阿土墓以外に大和郡山市椎木町、額田部町、今国府町、小林町などの周辺近隣の共同墓地の七カ所を巡っていたそうだ。
私も調査・報告を担当した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』(奈良教育委員会2011~2013調査・報告)に七墓参りの報告がある。
講中が所持する大正11年から昭和44にかけて記帳された「算用覚書」によれば、かつて巡っていた近隣村共同墓地参りのことが記されているそうだ。
昭和恐慌や太平洋戦争の影響に若者が少なくなったことにより現在の参り方に落ち着いたとある。
こうしてナナトコ参りを終えた講中はまたもや自転車に跨って帰路につく。
戻りのコースは行きと同じだ。
先に車を走らせて田園で待つ。
疾走してくる状態をこうして撮らせてもらった。
講中がいうには10日に講中家の墓参りを済ませていたそうだ。
墓地は浄土宗派もある。
先に拝見していた干からびた先祖さんのお供えが残っているのはその名残であるようだ。
また、昔はお店が出ていたという。
タコ焼きにみたらし団子、綿菓子、飴屋もあったというぐらいに賑わいをみせていたようだ。
(H28. 8.13 EOS40D撮影)
9年ぶりに拝見いたしたく再訪した。
参られるのは六斎念仏を伝承、唱えている大寶寺六斎講である。
月に一度は大寶寺本堂で念仏の練習をされている。
一度、伺いたく夜に集まって練習されている状況を取材させてもらったことがある。
今でもそうされていると思うが確認はとっていない。
9年前に取材したときと同じ時間帯に居た。
ここで待っておれば六斎講の人たちが自転車に跨ってやってくると思われ佇んでいた。
この場は墓地。
阿土(あど)墓地は郷墓である。
在地は窪田であるが、窪田の他に東安堵や西安堵、岡崎に隣村の大和郡山市額田部南方、椎木町、さらに大和川対岸の南にある川西町の吐田、下永の共同墓地。
地域は融通念仏宗派も多いが浄土宗もある。
待っている時間が惜しい。
それならと思ったのは墓地に供える在り方だ。
阿土(あど)墓地入口に石の鳥居がある。
このような形式の墓地は珍しいが他所にもある。
私が知る範囲内では大和郡山市に2カ所。
一つは野垣内町に。
もう一つは九条墓地である。
調べてみればもっとあるかもしれない。
右手に並ぶ石仏は迎えの六地蔵。
墓地には少なからずある光景である。
夏の日差しはきつい。
燦々と浴びる日差しに汗が止まらない。
墓石前にあったお供え。
シールが見え隠れするからスーパーで買ったものだろう。
昨今はどこの店でも売っているお盆のお供え。
アサガラやコウヤマキまで売るようになった。
習俗文化まで変容していく時代になったものだと感心する。
ナスビにキュウリ、サツマイモ、サトイモ盛りにプラスチック製の花びらが一つ。
もうひとつの赤い色はホオズキだ。
さすがにホウズキは生ものだ。
いずれはこれもプラスチック製になっていくのかもしれないが、それはそれで困ったことになるが予想される。
隣にあった墓石に仏花。
菊花にコウヤマキ。
そこにもホウズキの赤い実がある。
これらのお供えはいつ供えられたのだろうか。
カラカラに乾燥したお供えに短めの箸もある。
家人の優しさを感じる先祖さん参りの御供である。
それにしてもだ。
いつまで待つのか、である。
もしかとすれば、と頭がよぎった。
以前に取材したときに云われた台詞。
夏は暑い、である。
暑さを避けて時間帯を遅くしてのでは、と思った。
念のために急行した極楽寺。
ナナトコ参りは極楽寺本堂でお念仏をしてから阿土(あど)墓地に行く。
平成19年に取材したときはいつもこうしていると話していた。
で、あれば極楽寺におられる可能性が高い。
そう思って車を走らせた。
駐車場に停めて寺に向かう。
門の前に数台の自転車がある。
自転車籠には麦わら帽子がある。
これがあることでわかった六斎講の居場所。
お寺の奥さんと話し込んでいたら長くなってしまったという。
大急ぎで自転車にまたがる講中を車で追っかける。
車よりも早い講中の自転車に追いつくのも難儀する墓地近くの民家道。
狭いので安全に留意しながらノロノロ運転。
慌てることはない。
到着した場は窪田の小字六道に位置する阿土墓である。
かつての阿土墓は地域の火葬場として利用されていた。
火屋と斎場があったが、近年に撤去された。
講中ははじめに入り口にある六斎念仏始祖長治郎の墓の前で「シンバンドー」を唱える。
鉦を叩きながらナムマイダー ユーズーネンブツ ナムマイダーと繰り返す「シンバンドー」である。
「シンバンドー」を充てる漢字は新坂東である。
次は向きを替えて北向き。
鳥居手前横にある六地蔵の前に並んで唱える。
一曲が約三分半の「シンバンドー」の鉦の音。
安土墓一帯に聞こえるように響き渡る。
鳥居を潜って北側に建つお迎え地蔵立像においても一曲。
次は墓地内を少し歩いて山積みしたような処に向かう。
そこは無縁仏。
東に向かって念仏を唱える。
そして墓地のほぼ中央に位置する六斎講墓に向かう。
その場は枯木がある処だ。
ここも同じように東に向かって唱える。
いずれも唱える念仏は「シンバンドー」。
六斎念仏始祖長治郎の墓の前から始まってここまでの一曲は四番である。
「シンバンドー」は一番から九番まである。
そのうちの四番を唱えていると講元が話す。
最後の〆は歴代の大寶寺住職を納める集合墓。
ここでは一番から九番まで、すべてを唱えあげる。
数えてみればナナトコでもない六箇所である。
かつては入り口付近にもあった無縁仏をここより移して纏められたことによって一場が減ったということである。
その場数は七つ。
それぞれに参ることからナナトコ参り。
もっと以前は、この阿土墓以外に大和郡山市椎木町、額田部町、今国府町、小林町などの周辺近隣の共同墓地の七カ所を巡っていたそうだ。
私も調査・報告を担当した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』(奈良教育委員会2011~2013調査・報告)に七墓参りの報告がある。
講中が所持する大正11年から昭和44にかけて記帳された「算用覚書」によれば、かつて巡っていた近隣村共同墓地参りのことが記されているそうだ。
昭和恐慌や太平洋戦争の影響に若者が少なくなったことにより現在の参り方に落ち着いたとある。
こうしてナナトコ参りを終えた講中はまたもや自転車に跨って帰路につく。
戻りのコースは行きと同じだ。
先に車を走らせて田園で待つ。
疾走してくる状態をこうして撮らせてもらった。
講中がいうには10日に講中家の墓参りを済ませていたそうだ。
墓地は浄土宗派もある。
先に拝見していた干からびた先祖さんのお供えが残っているのはその名残であるようだ。
また、昔はお店が出ていたという。
タコ焼きにみたらし団子、綿菓子、飴屋もあったというぐらいに賑わいをみせていたようだ。
(H28. 8.13 EOS40D撮影)