豆まきという行事があるのです。
そして思いしてみると実は結構ずっとやっているのです。
忌なことに反応をずっとしているのですね。
昔買った本を何年か前にかなりの数、処分しました。その時の価値感で処分しましたから今となって、なぜあの人の本を売ってしまったかと残念に思うものがあります。
新聞の書評を見ていたら、「したくないこてはしない 植草甚一の青春 / 津野海太郎 著」
があり、懐かしくなりました。
中年になってJAZZに目覚めた植草甚一が、スイングジャーナルに書く文に魅せられて大ファンになりました。
その当時の編集者が植草の生い立ちを思いをこめてつずった人物評伝です。
序章“買い物をするファンキー老人”が素晴らしい。植草甚一があの時代(1960年代終わりから70年初期)にいかなる存在であったかを、的確に、愛情をこめて語っています。
植草甚一は大好きでしたが、その時期は短く、しかしその時代を実は今、取り返したくなっています。
処分してしまった本の一部が植草甚一のもので、この評伝の著者が編集したのがまさにその本たちでした。
植草甚一をご存知ない方も多いとおもいますが、この記事は植草甚一へのトリビュート、素晴らしい第1章の素敵な部分を書き抜いても、著者である津野氏は許してくれるのではないでしょうか。氏の文は『』カッコにしました。私の文とごちゃ混ぜになります。
編集者として津野氏が関わった植草甚一の本は“ぼくは散歩と雑学がすき”“ワンダー
植草・甚一ランド”“雨降りだからミステリーでも勉強しよう』”“映画だけしか頭になかった』”などなど、それらをすべて持っていたのに、今は一冊もありません。
『植草甚一の人気が一気に高まったのは1960年代の後半である。きっかけとなったのは、しばらくまえから植草さんが書きついでいたジャズ・エッセイだった。』これがスイングジャーナルでの出会いだったのです。
『実は同じ連載から生まれたものがもう一つある。植草さんのトレードマークともいうべき、目的があるのか、ただあちこちフラフラ散歩しているだけみたいなモダン連綿対とも言うべき文体がそれである。』この文体をとても気に入ったわけですが、人様に書いたものを読んでもらえるようになって、あの文体もう一度しっかりと把握したくなったのです。手元に“僕は散歩と雑学がすき”のようなバイブルもないのですから、今のところどうしようもありませんが、どこかで見つけてあの感じ、取り込みたいのです。
『昭和の日本に、どうしてああいう人が生まれたのだろう。もしふしぎというなら、そのことこそが第一ふしぎでないか。』
『植草さんは何も変わっていない。だからこそ、それなのになぜ、と友人たちがあっけにとられているのだ。』
『とつぜん変わったのは植草さんではなく社会の側だった。』
という事で、僕がJAZZを聞き始めた頃に、とても自由な心で、ジャズや映画や美術、などを山のように仕入れては排出していた老人がいたのです。
年譜を見ると私が入れ込んだのは1968年から1974年の6年ぐらいですが、でも青春でした。
溜まった本を処分するときに、福永武彦とか辻邦生とか田村隆一、開高健、村上春樹、山田太一、倉本聡、山藤章二の本を残して植草甚一は本をすべて処分してしまいました。
今blogなどを書くようになって、ふらふらした散歩の途中で、いろいろなことを考えているような文体のそれが、なんとも懐かしく、また見習いたく急激に思っています。
どのようにしてあの、植草甚一ができあがったか、とても近い人がその甚一の文体もふまえて語ってくれると、甚一が書いてるような雰囲気が重なってくるです。