人を殺していないのに「お前がやったんだ」と、裁判で有罪しかも量刑は死刑。一体どうしてこんなことになるのだろうか。その詳細がジョン・グリシャムの手によってノンフィクションとして語られる。
抜群のエンタテイメント性で読者をひきつけたグリシャムも、最近ではその勢いがやや衰えたかに見えた。この本が起死回生の役割を担っているとは思えないが、事実の強みが淡々とした文章にも読み手の熱い感情が緊迫感と感涙を誘う。
とりわけ、犯人とされるロン・ウィリアムソンとデニス・フリッツをサポートする弁護団のDNA鑑定の結果にいたる記述は、適度のインターバルで、読者を少しじらすという小憎らしいところがあるが(わたしはそう思う)、緊張させられそしてほっとする。
題名からして行き先は分かっているが、それでも「どうなるのだろう?」という期待感は抑えがたい。1982年12月8日オクラホマ州オクラホマシティの南東にある小さな町エイダで、二十一歳のデビー・カーターが自宅アパートでレイプされ絞殺される。
捜査は難航して事件発生から五年後の1987年、ロン・ウィリアムソンとデニス・フリッツの二人が逮捕される。これがこの恐るべき冤罪事件の発端だった。デニス・フリッツは終身刑、ロン・ウィリアムソンは死刑で、死刑執行五日前に再審決定で無期限の延期になり、最終的には無罪になる。
証拠の分析にDNA鑑定が決定的な役割を果たした。日本でも1990年代はじめに導入されたDNA鑑定は、二億人の中の一人を識別するという精度を誇る。それにしてもずさんな捜査の行き先は、無実の人間を殺してしまうという悲劇が待ち受ける。
この無罪放免のあとにも興味が尽きない。日本でも冤罪事件で損害賠償を請求するが、アメリカの場合かなり難しいようだ。というのも、この本によれば「冤罪による不当な有罪判決にかかわる民事訴訟は、勝つのが極端に難しく、無罪が確定したもののほとんどが裁判所から締め出されているのが現状だ。不当な判決を下されたからといって、それだけで自動的に訴訟を起こす権利が得られるわけではない。原告として訴訟を起こそうというものは、おのれの人権が侵害され、憲法が認める人権保障が履行されず、その結果として不当な有罪判決が下されたと主張し、かつそれを証明しなければならない。
さらに難関が待っている――不当な有罪判決につながる訴訟手続きにかかわった人間は、そのほぼ全員が免責特権で守られているのだ。公判指揮がどれほどお粗末でも、判事は不当な有罪判決がらみの訴訟から免責される。ただし捜査に深く関与しすぎていれば、責任を問われる可能性がある。
警察官も免責されるが、道理をわきまえた捜査当局者の目から見て憲法違反だと判定されるほど不当な行為だったと示せるのなら話は違ってくる。こうした訴訟の維持には巨額な費用が必要で、原告弁護団は数万ドル――多ければ数十万ドル――の訴訟費用を前払いすることを強いられる。その費用を回収できる見込みもほとんどないため、提訴自体が無視できないリスクを伴っているのだ。不当な有罪判決を受けた大半は、一セントの金も受けとっていない」
これをどう考えればいいのだろうか。判事や検事、警察官、弁護士など免責がなければ嫌がらせの不当判決訴訟で身動きできない事態も予想される。それも困ったことだし善良な市民がいわれのない罪をかぶせられるのも困ったことだ。これをどうすればいいのか、わたしには判らない。
日本では憲法第40条「何人も、拘留または拘禁された後、無罪の判決を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることが出来る」とある。
ふと思ったのは、裁判官や検事、警官にしても犯罪のランク付けをしているのではないかと思わないでもない。残忍な殺人事件、特に幼児が含まれる事件などには、世間の関心も強く気合を入れた捜査が行われるが、こそ泥事件などは日常業務の一環に過ぎないとばかり一丁上がりで済ませているのでは……ということ。それを非難するつもりは毛頭ないが、この事件のように、いい加減な捜査や証言の信憑性を損なうような扱いには心底怒りがこみ上げる。