三島由紀夫の文体になかなか馴染めない。こちらの力不足ももちろんあるが、同類意識や同胞意識を「人種的親和感」なんて言われると「何だって?」と言いたくなる。
この世におおよそ存在しない男女の悲しい物語。石のように無反応な不感症の美しい人妻顕子(あきこ)と若くハンサムで育ちがよく金に不自由しない男城所(きどころ)昇の取り合わせだ。
作家は読者を選べない。読者は作家を選択できる。たまたま、三島由紀夫を選んで読み始めて、「何だ、もって廻った言い方で自己満足のために書いてるのか」と感じても読者を責めることは出来ない。読者自身のレベルはどうすることも出来ないからだ。まあそんな弁解染みた言い訳にぶらさがって、自分のレベルに合う部分を見つめるしかない。
そういう視点で読んでみると、三島由紀夫の自然や街中の描写には独特の観察と視点が見て取れる。
“古い樹々は芽吹き、おそるおそる、しなやかな若枝をさしのべた。樹という樹は、なにか予感に充ちていた。それらの粉っぽい芽が、童心といった感じがするのに比べて、若い枝々には、ふしぎな艶やかさがあった。
南向きの、雪のあらかた消えた斜面に、昇は葉の少しもない枝々から、白い鮮やかな花を一せいに咲かせている辛夷(こぶし)を見た。大きく広げた梢の先々に花をつけたさまは、枝附燭台(えだつきしょくだい)のようである。冬の間黒い幹の中に蓄えられていた燈油が、急に点火されて、白い焔(ほのお)を上げて、一せいに燃え出したように見えるのである”
“昇は午前のK町を歩いた。(このK町というのが気に喰わない。地図を見れば小出町と分かるのに、なぜ小出町としないのか。K町にする理由が分からない)田舎町の女たちは目にしみた。(そりゃ禁欲生活を半年以上続けたからだろう)
赤銅(しゃくどう)に金色の樽をはめ込んだ酒屋の看板を、永いこと立ち止まって眺めた。日あたりのよい裏の空き地には鶏が飼ってある。鶏を追う声がする。時ならぬ鶏鳴(けいめい)。
かたわらを疾駆する自転車のベルの音。道の上のトラックの大きな轍(わだち)。ひっそりとした洋装店の奥で、いつまでもなり続ける電話のベル。……
昇はまたとある仕舞屋(しもたや)の縁先で、ミシンを踏んでいる女を見た。生垣がまだ葉が乏しく、まばらに透いて見えたのである。家の奥深くは暗く、文色(あいろ)がはっきりしない。それで却(かえ)って、女の姿が明瞭に浮かんで見える。
女は小太りしている。若い。けんめいにミシンの上へかがみこんで、何か白い布を、両手で押さえて、ずらしている。ミシンのあらわな金属の部分が光る。女は空色のスウェータアを着、共色のスカアトを穿いている。ミシンの下部に、踏み板を小刻み踏みたてている太い健康な素足が見える。その動きがあまり激しいので、膝の上ではいつも空色のスカアトがはためいているのである。北国の女らしいその白い脚の肉は、たえず動いていたために、昇がそこを離れたのちも、目の中にちかちかする幻覚を残した”昇の立場だったら、白い脚の肉にエロチックな感情を抱いても不思議ではない。
全体に不足しているのはユーモア、それも上質のユーモアだ。日本人のもって生まれた生真面目さは、普段の日常生活においてもこのユーモアがないので、作家といえども付け焼刃のユーモアですら、生み出すことは出来ないのだろう。あの洒落者の三島でも……
あともう一つ。昇が越冬から解放されて顕子を再び抱いたとき、かつての石のような無反応な女ではなかった。そのセックス・シーンは奥床しく美しくしかもみだらな妄想を誘う。
“この髪、この額、この耳、と思いながら、昇の唇は確かめた。それらの物質的な細部はそのままだったが、顕子は少しも似ていなかった。美しい細身の体はつつましくしていたが、昇の項(うなじ)にまわしているその指には、おぼれかけて救われた人の手のような、怖ろしい力があった。
顕子のつぶっていた目がかすかに見ひらくその眼差しが、昇を戦慄させた。その目は決して昇を見ず、彼女自身の中に生まれた歓びをしか見ていなかった。その眼尻(まなじり)の繊細な溝を伝わる涙を昇は飲んだ。顕子は昇の名を呼んだが、こんな深い呼声は、昇の手のとどかない遠方から、呼びかけてくるとしか思われなかった”