12日の金曜日。午前8時37分発のJRの最寄り駅から電車に乗った。この日は所用があって荷物も多かった。入り口から右のつり革につかまった。そこは3人掛けのシートだった。
前に座る若者がいきなり立ち上がって、私の顔を見た。私は席を譲ってくれたのが分かって「いいんですか?」と声をかけた。若者は頷いた。席を譲られるのがいやだが、かたくなに辞退しても譲った人の好意を無にすることになるので「ありがとう」と言って腰を下ろした。
座って気づいたのは、席を譲られたのは初めてではないか。 ということだった。ということは私が老人に見えたのかも知れない。
いや、彼はもともと礼儀正しい若者で年長者や荷物の多い人に譲っている行為をいつものようにしたのかもしれないと思いたかった。
私は意外に若く見られるたちで10歳は当たり前、外科の先生なんかは50代に見えると考えられないことまで言われたことがある。
「先生、いくらなんでも50代は若すぎませんか?」と言ってみても、先生はニヤニヤ笑うだけだった。
レントゲンの女性技師も「私の父の年に見える」と言い「お父さんの年は?」「60代です」ふん、まあその辺ならいいか。
電車で席を譲られるというのは、ショックではある。年老いた人に見られたからだ。松葉杖のお世話にもなっていないし、足の骨折もないし、見るからにヨボヨボしていない。それがなぜ?
ウォーキングも早足、週に一度のジョギング。と自信を持つようにしてはいるが、人の目は誤魔化せないのか。
そういうことを考えると、自分の死に様が気になってくる。ガンは間違いないだろうとか、足腰が立たなくてトイレも自分でいけないのはいやだとか、認知症で徘徊もいやだなあと考えていると、やっぱりガンにしょう。自分で選べないのにそんな考えが浮かぶ。
それにやたらにテレビや新聞の訃報が気になるのも年のせいか。しかし、いつもこんなことを考えているわけではない。
若い女性が魅力的だと思ったり、中年女性の色香のある人を見るとよからぬ想像をしてしまったりする。
こういうことは誰も傷つけないし、私自身のエンジンの役割を果たしているようだ。
もっと元気づけられたのは、今読んでいる乙川優三郎の「麗しき花実」の中で胡蝶という女性が「追うものがある人は、八十でもあと十年の夢を見るものよ」のくだりに背中を押されたような気分になった。