湿気の少ないからりと晴れたきょう14日。ウォーキング&ジョギングに出かけた。60歳代のあの元気さはもうない。ジョギングの2キロあたりで足が軽くなり調子が出て10キロを気分よく走ったものだ。今は歩いたり走ったりの体たらく。
後半、緩い下り坂をのんびりと走っていくと、若いお母さん二人連れと子供たち。5歳ぐらいの男の子が右手を出してハイタッチの格好をした。私が右手を下ろして応えようとすると男の子は手を引っ込めた。
男の子の後ろには乳母車に乗った三歳ぐらいの女の子が、文字通りモミジの葉っぱのような手のひらで、私のタッチを待っていた。私は軽く触れて「さよなら」と言った。走り去る私のうしろで、チビッ子たちの「さよなら」の大きな声が何度も聞こえた。
その時、ふと思ったのはチビッ子にしても、他人との触れ合いの楽しさを感じたのだろう。私自身も気分のいい一日になった。
人は他人との触れ合いで成長していくものと言ってもいい。新型コロナウィルス禍が早く収束して、巷に人々の触れ合いが戻る姿を見たいものだ。
それにしてもこの哀愁のこもった優しさを感じる「さよなら」の語感の美しさ、これは日本人にしか分からないだろう。
ちなみにさよならの語源は「左様なら」「左様ならば」とされている。
「さようならば手前だけ帰りましょう」
「左様ならばお暇いたす」
「左様ならば失礼致す」などの様な言葉から自然に「さようなら・さよなら」と略されるようになったと考えられる。 とある。
いずれにしても、「さようなら・さよなら」の言葉を大事にしたい。