猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

零戦の前で

2006年04月13日 13時30分00秒 | お出かけ・旅・美術・博物館
靖国神社内にある「零戦」の前で、父

 うちの父は、陸軍だったので海軍の三菱重工製、零式戦闘機(れいしきせんとうきと読む)には乗ったことありません。中島飛行機製の「一式・隼」に乗っていました。ちなみにゼロ戦というのはアメリカが言っていた名前で、「ゼロ」と呼んで恐れていたようです。当時は英語読みのゼロとは日本人は言わなかったんですよ。

 父は、「隼」の2期後期型のテストパイロットをしていた時、7~8,000mの高度に行って、方向が分からなくなってジャワの田んぼに突っ込み、歯を6本程折り、口も怪我をしたことがあるそうです。今のジェット機でも高度1万メートルですよね。目の前にある、ちゃっちいおもちゃのような戦闘機と同じようなもので、よくそこまで行ったものだと関心します。
 当時は海軍は秘密主義だったので、一般人の間では海軍の「零戦」より、陸軍の「隼」の方が人気があったのだとか。今と反対ですね。

 「隼」は、オーストラリアかどこかに一機残っているだけで、日本には残っていないそうで、残っていれば父に見せたいと思いましたが、ミュージアムショップのプラモデル模型を買ってあげて我慢しました。父親は自分で組み立てるとか言ってるけど、だいじょうぶかなぁ。

 父は、学士出陣の一期生です。あの、有名な雨の神宮外苑の「出陣学徒壮行会」記録映像の中に居るんだそうで、アレが出ると目を凝らして見るのですが、父親は見つかりません。
 
 一期生は結構大切にされたそうで、半年以上練習飛行機の赤トンボで練習し、飛行技術的にも皆、高かったそうです。父曰く、「かわいそうなのは2期以降の学生で、ちょいと練習させてすぐに特攻へ行かされたから残っていないんだよ。」だって・・・怖い

 父も最期には特攻の命令が下されたそうですが、いざ行く1日か2日前に戦争が終わってしまって中止になったとか言ってます。
 

                 


                特攻勇士之像 靖国神社内


一期生は結構残ってて、流石に最近は戦友会のお誘いも減りましたが、前は毎年いそいそと出かけて行ってました。青春の多感な時期にあのような強烈な体験を共有した友とは、一生忘れがたいものなのでしょう。

 終戦を迎えたボルネオでは、猟師の息子が上手に鉄砲を撃って、ひもじい思いはしなかっただの、ぶっとい蛇を焼いて食べただの、それが結構上手かったとか、引き上げの港にチョコレートをいっぱい積んだ船が泊まってて、腹いっぱい食べただの、父は面白おかしく話しますが、本当に本土に帰り着くまではきっと大変だったのでしょうね。手製のリュックサックを大事に取ってあります。

 後、軍服も憲章は取ってありますが残してあります。子供の時には飛行帽もあって、私、二十歳くらいの時、お洒落だと思って被ってましたよ。父にそれは戦争の時被っていたんだよと言われてびっくりしたけど。あれ、どこに行ったんだろう。

 中国で終戦を迎えた陸軍の人はシベリアへ行かされた人も多かったので、父は中では運が良かった方かも。

 こんな話も、私が子供の頃は父はしませんでした。最近になってぽちぽち話してくれます。

 戦争に行った人々がどんどん年老いていく中、父のような市井の人にNHKでもインタビューして、こんな話でも記録に残したら良いと思うのですが。
コメント (4)
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