私のおばあちゃんは昭和最後の年に、94歳で亡くなった。1895年頃の生まれだから日本では 明治28年 まだ最後の将軍 徳川 慶喜 が生きていた頃。(慶喜没年は 大正2年(1913年)11月22日)
我ら兄弟に於いては、ある意味母親よりも影響を受けた 明治の女 だった。
17歳(たぶん数え)の娘盛りに1度目の ハレー彗星 (公転周期75.3年) を見、1986年に2度目も見たというつわものである。次回の出現は2061年の予定で私は108歳、はたして見られるだろうか ?
1度目に見た時は世界の終りだと大変な騒ぎだったそうだ。実際に1986年に地上で見られたよりもずっと大きく、天空いっぱいに見えたそうだ。
娘の頃、大学の教授の先生宅に行儀見習いを兼ねて務めたこともあったそうだ。当時はそういったことが一般的にあった。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災 の時の話も聞いた。
おばあちゃんは28歳前後か、もう結婚はしていたと思う。立っていられないほどの揺れだったそうな。
私がものごころついた頃にはもうおばあちゃんはおばあちゃんの風貌をしていたと思うが、数えてみると私が7歳のころおばあちゃんは65歳、今ではそんなに年寄りという感じがしない年齢だ。おじいちゃんと町工場を起こし、若い頃には苦労もいろいろしたと思うが、あまり苦労話は聞いたことがなかった。
おばあちゃんは ことわざ や 言い伝え をいっぱい知っていて、事あるごとに孫たちに言って聞かせてくれた。
「朝茶はその日の難を逃れる」
朝一杯のお茶を飲む時間の余裕があれば、その日一日あわてずに事故もなく過ごせる。(という意味だと思う)
「朝の蜘蛛は殺すな」 (朝の蜘蛛は福が来る、夜の蜘蛛は盗人が来る が正確らしい)
蜘蛛は害虫を捕るので、殺してはならないという戒めらしい。
頭隠して尻隠さず
一部しか隠されていないのに全てを隠しているつもりになっている。これは投薬を逃れようと頭だけ隠している 亜美嬢 にいつも言ってる私のセリフです。
暑さ寒さも彼岸まで
時代が変わってもこれは毎年実感します。
慌てる乞食はもらいが少ない
何事もあわててことに当たると失敗する。
牛に引かれて善光寺参り
実際に信心深かったおばあちゃんは 善光寺 にお参りに行って、牛に布を取られてそれを追いかけてお参りするおばあちゃんの柄の手拭いをお土産に買ってきた。
帯に短したすきに長し
何に使用するにも中途半端なこと。
四角い部屋を丸く掃く
何事も几帳面にできず、大雑把な性格をあらわしている。
立っている者は親でも使え
現在実践しています。(笑)
爪の垢を煎じて飲ませたい
できの良い子がいると良く言われてました。
馬鹿とはさみは使いよう
これもなんかで言われた記憶が…。
他にもたくさん言われたけれども、分かりますか ? ほとんど孫の私たちを諌めるようなことわざが多いですね。小さい頃繰り返し言われた事って大人になっても覚えている。おばあちゃんの生きた教育ですね。
こんなのもあった。
一烈らんぱん破裂して 日露戦争始まった~ さっさと逃げるはロシヤの兵~ 死んでも戦う日本の兵~
日露戦争当時子供たちに流行ったお手玉の唄だそうだ。
とても進歩的な考えをする人で、姉は休みの日に家にいたりすると、「外へ行かないのは友達がいないのか」 と言われたことがあったそうだ。女性でもどんどん外に出て活発にしていなさい、ということらしい。
概して明治生まれの人の方が進歩的でしがらみも少ないと感じるのは激動の明治・大正・昭和を駆け抜けた経験からか。戦前・戦中生まれは教育が お国に忠実に で、回り全部そうだから合わせなければならなかっただろうから。何と言っても 1941年(昭和16年)に発布された国民学校の目的は、
「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」
というものだったから。
80歳を超えても煙草をたしなみ、暗算は私より達者で、孫たちの年齢は全て覚えており、頭は最後の最後までしっかりしていた。
90歳を過ぎて足に鉄の棒を入れる手術をして、杖ありではあったが歩けるようになり、94歳で風邪をひいて3日だけ寝付き、家の畳の上で死んだ (現代はほとんど病院で亡くなるでしょう) あっぱれなうちのおばあちゃんを誇りに思うのです。
おばあちゃんが死んだ日は昭和63年12月24日のクリスマスイブの日、あと2週間で平成の世になろうとする昭和最後の年末のことだった。明治・大正・昭和・平成の4代生きられなかったのはちょっと残念な気がする。
我ら兄弟に於いては、ある意味母親よりも影響を受けた 明治の女 だった。
17歳(たぶん数え)の娘盛りに1度目の ハレー彗星 (公転周期75.3年) を見、1986年に2度目も見たというつわものである。次回の出現は2061年の予定で私は108歳、はたして見られるだろうか ?
1度目に見た時は世界の終りだと大変な騒ぎだったそうだ。実際に1986年に地上で見られたよりもずっと大きく、天空いっぱいに見えたそうだ。
娘の頃、大学の教授の先生宅に行儀見習いを兼ねて務めたこともあったそうだ。当時はそういったことが一般的にあった。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災 の時の話も聞いた。
おばあちゃんは28歳前後か、もう結婚はしていたと思う。立っていられないほどの揺れだったそうな。
私がものごころついた頃にはもうおばあちゃんはおばあちゃんの風貌をしていたと思うが、数えてみると私が7歳のころおばあちゃんは65歳、今ではそんなに年寄りという感じがしない年齢だ。おじいちゃんと町工場を起こし、若い頃には苦労もいろいろしたと思うが、あまり苦労話は聞いたことがなかった。
おばあちゃんは ことわざ や 言い伝え をいっぱい知っていて、事あるごとに孫たちに言って聞かせてくれた。
「朝茶はその日の難を逃れる」
朝一杯のお茶を飲む時間の余裕があれば、その日一日あわてずに事故もなく過ごせる。(という意味だと思う)
「朝の蜘蛛は殺すな」 (朝の蜘蛛は福が来る、夜の蜘蛛は盗人が来る が正確らしい)
蜘蛛は害虫を捕るので、殺してはならないという戒めらしい。
頭隠して尻隠さず
一部しか隠されていないのに全てを隠しているつもりになっている。これは投薬を逃れようと頭だけ隠している 亜美嬢 にいつも言ってる私のセリフです。
暑さ寒さも彼岸まで
時代が変わってもこれは毎年実感します。
慌てる乞食はもらいが少ない
何事もあわててことに当たると失敗する。
牛に引かれて善光寺参り
実際に信心深かったおばあちゃんは 善光寺 にお参りに行って、牛に布を取られてそれを追いかけてお参りするおばあちゃんの柄の手拭いをお土産に買ってきた。
帯に短したすきに長し
何に使用するにも中途半端なこと。
四角い部屋を丸く掃く
何事も几帳面にできず、大雑把な性格をあらわしている。
立っている者は親でも使え
現在実践しています。(笑)
爪の垢を煎じて飲ませたい
できの良い子がいると良く言われてました。
馬鹿とはさみは使いよう
これもなんかで言われた記憶が…。
他にもたくさん言われたけれども、分かりますか ? ほとんど孫の私たちを諌めるようなことわざが多いですね。小さい頃繰り返し言われた事って大人になっても覚えている。おばあちゃんの生きた教育ですね。
こんなのもあった。
一烈らんぱん破裂して 日露戦争始まった~ さっさと逃げるはロシヤの兵~ 死んでも戦う日本の兵~
日露戦争当時子供たちに流行ったお手玉の唄だそうだ。
とても進歩的な考えをする人で、姉は休みの日に家にいたりすると、「外へ行かないのは友達がいないのか」 と言われたことがあったそうだ。女性でもどんどん外に出て活発にしていなさい、ということらしい。
概して明治生まれの人の方が進歩的でしがらみも少ないと感じるのは激動の明治・大正・昭和を駆け抜けた経験からか。戦前・戦中生まれは教育が お国に忠実に で、回り全部そうだから合わせなければならなかっただろうから。何と言っても 1941年(昭和16年)に発布された国民学校の目的は、
「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」
というものだったから。
80歳を超えても煙草をたしなみ、暗算は私より達者で、孫たちの年齢は全て覚えており、頭は最後の最後までしっかりしていた。
90歳を過ぎて足に鉄の棒を入れる手術をして、杖ありではあったが歩けるようになり、94歳で風邪をひいて3日だけ寝付き、家の畳の上で死んだ (現代はほとんど病院で亡くなるでしょう) あっぱれなうちのおばあちゃんを誇りに思うのです。
おばあちゃんが死んだ日は昭和63年12月24日のクリスマスイブの日、あと2週間で平成の世になろうとする昭和最後の年末のことだった。明治・大正・昭和・平成の4代生きられなかったのはちょっと残念な気がする。