旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

極楽寺

2009年05月18日 | 旅 歴史
 今日は徳島県鳴門市大麻町にある極楽寺を紹介します。
 日照院極楽寺は高野山真言宗のお寺です。四国八十八箇所霊場の第2番目の札所になっています。日照院のいわれは、本尊の発する光が鳴門の海まで達し、漁業や航海の妨げになったため小山を築いて光を遮ったことから名付けられたそうです。
 行基が開創し、弘法大師が37日間、無量寿の秘法を厳修された時、その結願の日に現れた阿弥陀如来を見ました。それを霊木に刻んで本尊としたそうです。国の重要文化財に指定されています。
 室町末期には三好氏の保護を受け栄えました。天正10年(1582)長曽我部元親の兵火によって焼失しました。万治2年(1659)藩主蜂須賀家によって現存する本堂が再建されました。
 安産子安大師が祀られています。明治の頃、大阪の病弱な婦人が四国遍路して大師のおかげで安産し、それ以来安産のご利益があるお寺として有名です。
 弘法大師がこの地で修法を修めた際、この寺を末永く守護せよとの祈りを込めて大師自らが手植えしたと伝えられています。樹齢約1100年といわれる長命杉です。幹に触れれば長生きできるといわれ、その触れた手で自分の悪い所をさすれば直るといわれています
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地蔵寺

2009年05月18日 | 旅 歴史
 今日は徳島県板野郡板野町羅漢字林東にある地蔵寺を取り上げます。
 無尽山(むじんざん)地蔵寺は真言宗御室派のお寺で四国八十八箇所霊場の5番目の札所になっています。
 弘仁12年(821)嵯峨天皇の勅願を受けた弘法大師は勝軍地蔵菩薩を刻んで本尊としてこの寺を創建しました。

 その後、浄函上人が、権現のお告げと霊木を授かり大師の刻んだ勝軍地蔵菩薩を胎内へ納めた延命地蔵尊を刻んだということです。
 天正10年(1582)長宗我部の兵火により焼失してしまいました。その後江戸時代に再建されました。
 実名、実聞の兄弟二僧が生涯を通じて諸国を行脚し、それによって得た浄財で安永4年(1775)に羅漢像をおさめて堂宇を建立したそうです。
 大正4年(1915)火災で堂宇を焼失してしまいました。その後再建されたのが現在の建物です。
 境内には「たらちね銀杏」と呼ばれる大イチョウがあります。弘法大師が植えたとされる樹齢800年をこえる大木です。
 また境内には水琴窟があります。水滴を利用し「ピーン」という琴のような澄んだ音色が聞こえます。日本庭園の技法の一つです。
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阿波おどり会館

2009年05月17日 | 旅 歴史
徳島と言えば「阿波踊り」と言われるくらい
阿波踊りは全国的に有名ですが踊り期間は夏の
4日間だけ!そこでいつでも阿波踊りが見られる
ようにと建てられたのがここ、阿波踊り会館です
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長尾寺

2009年05月15日 | 旅 歴史
 今日は香川県さぬき市長尾西にある長尾寺を紹介いたします。
 補陀洛山( ふだらくざん )長尾寺は、香川県さぬき市長尾西にある寺院。四国八十八箇所霊場の第八十七番目の札所になっています。本尊は聖観世音菩薩。
古くから門前町として発展してき た長尾町の中心にあるお寺で、町の 人々も気軽に出人りしています。
道路う沿いに建つ単層の仁王門前に は立ちに一対の古い経憧(亡き人の 供養のため、写経を埋めた上に建て た石柱)が建っていますが、二基と も国の重要文化財に指定されていま す。鐘楼を兼ねた山門をくぐると、 広い境内には根まわり6mもある大 楠と枝ぶりの良い松が生い茂っています。
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志度寺

2009年05月13日 | 旅 歴史
 きょうは香川県さぬき市志度にある志度寺です。
補陀洛山( ふだらくざん )志度寺は、香川県さぬき市志度にある真言宗御室派末寺です。四国八十八箇所霊場の第八十六番目の札所です。
 志度寺は志度湾のほとりに建ち本尊に十一面観音を祀っています。日本三大名門の1つの仁王門と本堂はともに国の重要文化財に指定されています。
 境内にある曲水式庭園は細川勝元が寄贈したものです。昭和21年(1946)の南海地震で被害をうけました。昭和37年(1962)に重森三玲による枯山水「無染庭(むぜんてい)」が造られ復元されています。
 志度寺の起源は推古天皇33年(625)といわれています。観音菩薩の化身といわれる仏師が漂流して来た霊木で十一面観音像を刻み、お堂を建てたのが始まりだそうです。
 天武天皇10年(681)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度(死度)道場」として名づけたそうです。「志度の海辺は極楽浄土へ続く」という信仰でした。持統天皇76年(693)には藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えられています。
 室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄しましたが、そののち戦乱により寺院は荒廃したそうです。
 藤原氏末裔といわれる生駒氏らによる支援をうけ、寛文10年(1671)、高松藩主松平頼重に本堂や仁王門などの寄進をうけ再興したそうです。
 海女だった妻が、不比等の三個の宝珠を竜神から取り戻した物語は、浄瑠璃「花上野誉の石碑」や謡曲になっています。妻の命と引き換えに三個の宝珠を手にした不比等は約束を守って一子房前を跡継ぎにしました。その子が母を供養するために建立したのが志度寺です。境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存しています。

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屋島神社

2009年05月13日 | 旅 歴史
 今日は香川県高松市屋島中町にある屋島神社を紹介します。
 慶安4年(1651)初代高松藩主松平頼重が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し祀りました。
 寛永19年(1642)生駒氏に代わって松平頼重が常陸下館5万石から入封しました。頼重は水戸光圀の実の兄になる人だそうです。頼重以降、松平氏が11代228年間藩主を務め明治を迎えました。
 文化元年(1804)高松藩8代藩主松平頼儀が、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手しました。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠態が、松平家の客分棟梁となり、文化12年(1815)に完成しました。
 明治4年(1871)には冠獄神社と改め、さらに明治7年(1874)には屋島神社と改称ました。同年県社に列せられました。
昭和48年(1973)火災のため、本殿、拝殿等を全焼しましたが、神門は無事でした。左利平忠能が彫上げた鳳凰、両側の柱の上り龍 下り龍の見事な彫刻は生き残ったのです。社殿は翌年再建され現在に至っています。
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高松城

2009年05月12日 | 旅 歴史
 高松城は大分県中津市の中津城、愛媛県今治市の今治城とともに日本三大水城に数え上げられています。別名玉藻城とも呼ばれ、この一帯は玉藻公園になっています。
玉藻(たまも)の由来は万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠みました。そしてこのあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことでつけられたようです。
 天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年(1588)から現在地に築城を着手した平城です。縄張りは、当時築城の名手であった黒田孝高(如水)だったそうです。数年後、瀬戸内の海水を外堀・中堀・内堀に引き込んだ水城として完成し、高松城と名付けられたのでした。
 生駒氏時代の天守閣は、天守台に三層四階の天守閣でした。生駒氏の後に城主となった高松松平藩初代藩主松平頼重が、寛文九年(1669)に三層五階の天守に改築したそうです。この天守は、南蛮造りと呼ばれる珍しい天守だったそうです。明治17年(1884)に腐朽がひどくなったため取り壊されてしまいました。
生駒家は四代目高俊の時に生駒騒動があり4代54年で改易になってしまいました。寛永19年(1642)松平頼重が常陸下館5万石から入封したそうです。この松平頼重は水戸光圀の実の兄になる人だそうです。頼重以降、松平氏が11代228年間居城し明治を迎えました。高松城の城郭の形式は輪郭式平城といわれるものです。本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、三重に堀が廻らされていたそうです。
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屋島寺

2009年05月11日 | 旅 歴史
 今日は香川県高松市屋島東町にある屋島寺を紹介します。
 南面山(なんめんざん)屋島寺は屋島山頂にあり、源平合戦にもゆかりが深い四国八十八箇所霊場の84番目の札所になっています。
 屋島は標高282mの溶岩台地で頂上部が平坦でその形が屋根に似ていることと、元は島で あったところから屋島と名づけられたといいます。
 寿永4年(1185)都を追われた平家と、源義経率いる源氏が戦った屋島の古戦場としても知られています。那須与一が平氏の軍船に掲げられた扇の的を見事に射落としました。
 源頼朝は弟範頼に3万騎を進軍させました。しかし兵糧不足と平家の水軍に悩まされます。義経は奇襲で平家の本拠地であった屋島を攻略します。平家の総大将の平宗盛は安徳天皇とともに海から逃亡したのでした。
 屋島寺は屋島山頂に建てられています。天平勝宝6年(754)に唐から来日した鑑真が屋島の山上に瑞光が見えたので 屋島の北嶺に登り開基したそうです。のちに弟子の恵雲師が堂宇を建て初代の住職となったそうです。
 弘仁6年(815)この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により北嶺にあった伽藍を南嶺に移しました。十一面観音菩薩像を刻んで本尊と したそうです。
 元和4年(1618年)建立された本堂は入母屋造で本瓦葺きです。鎌倉時代の前身堂の部材を用いていて国の重要文化財に指定されています。
 貞応2年(1223)の銘がある梵鐘は鎌倉時代に作られ、これも国の重要文化財に指定されています。別名「平家供養の鐘」とも呼ばれています。
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根来寺

2009年05月09日 | 旅 歴史
青峰山(あおみねざん)根香寺は高松市の西、坂出市と国分寺町にまたがる五色台という山の中にあります。四国八十八箇所霊所第82番札所になっています。
 五色台とは五色の峰にちなむもので、中国古代の陰陽五行説や真言密教の教説から名付けられたそうです。5つの峰々に金剛界曼荼羅の五智如来を感得したのです。
 ここ五色台を密教相応の地として、五智如来の色別によって、青峰、赤峰、黄峰、黒峰、白峰と名付けました。 その青峰に花蔵院を創建し、五大明王を祀ったのでした。
 天長9年(832)智証大師が不思議な香りを放つ霊木で千手観世音菩薩を刻みました。そしてこれを本尊として千手院を創建したのです。両大師が創建した2院を総称して、根香寺となったそうです。
 寺の名に「香」の字を入れたのは香りを放つ霊木からです。香木の芳香が川に流れ香気を漂わせたことから県の名である香川となったともいわれています。
 後白河法皇の勅願所となり、繁栄しましたが度重なる兵火で衰退してしまいました。高松松平初代藩主松平頼重によって再興されたのです。
 仁王門を通り抜け石段を昇りつめたところに本堂があります。本尊である木造千手観音立像は国の重要文化財に指定されています。
 総身漆箔の立像は165cmで桜材の一木造りです。頭上に十一面をいただいています。智証大師が刻んだ本尊が火災で焼失したため末寺の吉水寺から大師が刻んだ本尊を移したものといわれています。藤原時代初期の秘仏で、御開帳は33年に一度行なわれるそうです。
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中津万象園

2009年05月08日 | 旅 歴史

 今日は香川県丸亀市中津町にある中津万象園と丸亀美術館を紹介します。
 ここは京極藩二代目藩主京極高豊によって築かれた池泉回遊式庭園です。
約1万5千坪にもおよぶ敷地内には、琵琶湖にならった八景池があり近江八景を模した島々が浮かんでいます。琵琶湖のある近江国は京極家の出身地でした。
名松百選に選ばれた名園で林立する松が見事です。朱塗りの邀月橋から見る眺めは格別です。
園内には、ミレーやコローなどの巨匠の名画を展示している絵画館、ひな人形を収蔵したひいな館、ペルシャ陶器などを展示した陶器館が併設されています。
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海岸寺

2009年05月07日 | 旅 歴史
香川県多度津町西白方にある海岸寺を紹介します。
 経納山海岸寺は真言宗醍醐派のお寺です。宝亀5年(774)弘法大師の母である玉依御前がこの地に産屋を設けて大師を出産したといわれています。一般的には大師生誕の地は善通寺が通説になっていて論争にもなりました。
 山門には琴ヶ浜、大豪をモデルにした金剛力士ならぬ相撲取りが立っています。
門を入ったところに安政3年(1856)再建の本坊本堂があります。
道路を隔てた西側に奥の院があります。そこには産屋跡や奥の院大師堂があります。
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曼荼羅寺

2009年05月07日 | 旅 歴史
 今日は香川県善通寺市にある曼荼羅寺を紹介します。
 曼荼羅寺は、真言宗善通寺派の寺院で本尊は大日如来、四国八十八箇所霊場の第七十二番札所になっています。
 弘法大師の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古4年596創建されたそうです。当初は世坂寺というお寺の名前だったそうです。
 弘法大師が唐より帰国後、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興しました。母である玉依御前の菩提寺とし、山号は我拝師山、寺号は延命院曼荼羅寺と改名したそうです。
 弘法大師が植えたといわれる「不老松」がありましたが、2002年に枯れてしまったそうです
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金倉寺

2009年05月07日 | 旅 歴史
 今日は香川県善通寺市金蔵寺町にある金倉寺を紹介します。
 鶏足山(けいそくざん)金倉寺は善通寺市にある天台宗寺門派の古刹です。弘法大師の甥にあたる円珍こと智証大師が生まれた寺として有名です。
 寺を開いたのは智証大師の祖父の和気道善という人で宝亀5年(774)道善寺という名前でした。唐から帰朝した円珍が、堂宇を整備して、延長6年(928)、地名の金倉郷にちなんで今の名前になったそうです。
 戦国時代、兵火にあい衰退しましたが、江戸時代になってから高松藩によって再興されています。
 明治時代に、日露戦争で有名な乃木希典が師団長として善通寺に赴任した時、3年間金倉寺の客殿に滞在したそうです。妻が訪ねて来ましたが、女人禁制のため会えずに帰ったそうです。本堂の前には「妻返しの松」と呼ばれる松があります。
 四国八十八ヶ所霊場の第76番札所になっています。
乃木将軍ゆかりの品々も展示されています。
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善通寺

2009年05月06日 | 旅 歴史
 善通寺は、香川県善通寺市にある寺院で真言宗善通寺派総本山です。高野山金剛峯寺、京都東寺とならび三大霊跡のひとつに数えられています。
 四国八十八箇所霊場の第七十五番札所になっています。
 善通寺は、弘法大師の父で地元の豪族であった佐伯善通から土地の寄進を受け、 大同2年(807)佐伯一族の氏寺として、弘法大師(空海)の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれています。
 寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通からつけられ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓(ふもと)にあることから命名されたそうです。
 大師の生家佐伯家は代々讃岐の国造(くにのみやつこ)で、父は佐伯善通卿、母は伊予親王の侍講、阿刀大足卿の妹の玉寄御前です。

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松山城

2009年05月05日 | 旅 歴史
 今日は愛媛県松山市丸之内にある松山城を紹介いたします。http://ogino.sitemix.jp/shikoku/menu_shikoku/にも載っています。
 松山城は加藤嘉明が築きました。嘉明は羽柴秀吉の家臣で、20才の時に賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として名をはせました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により徳川家康より伊予の半国の20万石の所領を与えられました。
 嘉明は慶長7年(1602)勝山に城郭を築くため、足立重信を普請奉行に任じて地割を行ない築城に取り掛かりました。翌慶長8年(1603)に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名前を使いました。
 松山城は、勝山山頂部分に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた広大な城です。姫路城、和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城です。
 加藤嘉明は松山城が完成させた寛永4年(1627)に会津に転封されてしまいます。 そのあとは、蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入封しました。しかし在城7年目で京都で病没し、嗣子がいなかったために断絶してしまいました。
 その後寛永12年(1635)7月伊勢国桑名11万石城主松平定行が松山藩主15万石に入部しました。以来、明治維新まで15代にわたって松平家が松山を治めました。
 松平家はもともと久松姓を名乗っていましたが、松平定行の父定勝が徳川家康の異母弟であったので松平姓と葵の紋を与えられたそうです。
 天明4年(1784)落雷のため天守をはじめ多くの建物が焼失しました。藩の財政難のためなかなか再建されず、文政3年(1820)再建工事に着手し、安政元年(1854)にようやく再建されました。
 天主をはじめ、門、櫓など21の建造物が国の重要文化財に指定されています。この時に再建されたものが中心になっています。
 乾櫓、野原櫓、隠門、隠門続櫓は慶長年間頃のものだそうです。昭和に入り小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのために焼失してしまいました。
 しかし天守をはじめとする櫓や門は威風堂々立ち並び、昭和41年(1966)からの総木造による復元工事も進み、本丸一帯の小天守、太鼓櫓などの建物も復元されました。
 
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