長崎県長崎市鍛冶屋町にある崇福寺の本堂です。
崇福寺の本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。唐の商人の寄進により、中国で切り組みされ唐船で運ばれ、生保3年(1646)に建立された堂宇です。長崎市に現存する最古の建物で、国宝に指定されています。
当初は単層、平屋建てでした。天和元年(1681)の頃、日本人棟梁の手によって2階建てに重層化されました。1階部分は、軒回りに擬宝珠付き垂花柱があり、全廊部分が黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井になっています。2階部分は和様を基調とし、日中工匠の合作の美しさを表しています。
崇福寺の本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。唐の商人の寄進により、中国で切り組みされ唐船で運ばれ、生保3年(1646)に建立された堂宇です。長崎市に現存する最古の建物で、国宝に指定されています。
当初は単層、平屋建てでした。天和元年(1681)の頃、日本人棟梁の手によって2階建てに重層化されました。1階部分は、軒回りに擬宝珠付き垂花柱があり、全廊部分が黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井になっています。2階部分は和様を基調とし、日中工匠の合作の美しさを表しています。
長崎県長崎市鍛冶屋町にある崇福寺の鐘鼓楼です。
護法堂の隣に鐘鼓楼が建っています。もとは六角円堂で、書院前庭の南隅にあったそうです。享保13年(1728)今ある位置に現在の重層の堂宇が建てられました。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれています。梵鐘や太鼓の音を響かせるために、丸窓、火燈窓など開口部が多くなっています。
鐘鼓楼は軸部の部分は中国人名匠の手により造られたようですが、棟札に「木匠頭荒木治右衛門」との記があることから護法堂と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
護法堂の隣に鐘鼓楼が建っています。もとは六角円堂で、書院前庭の南隅にあったそうです。享保13年(1728)今ある位置に現在の重層の堂宇が建てられました。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれています。梵鐘や太鼓の音を響かせるために、丸窓、火燈窓など開口部が多くなっています。
鐘鼓楼は軸部の部分は中国人名匠の手により造られたようですが、棟札に「木匠頭荒木治右衛門」との記があることから護法堂と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
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長崎県長崎市鍛冶屋町にある崇福寺です。
聖壽山崇福寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数え上げられています。寛永6年(1629)長崎に居留していた中国福建省の人たちが故郷の僧超然を迎えて創建しました。
中華様式の唐寺としては日本最古のお寺で、福建省の出身者が多いため福州寺といわれました。近くの興福寺は南京出身者が多いため南京寺といわれました。
長崎の唐寺の特色は媽祖堂(まそどう)をもっていることです。媽祖は海の神様であり、当時、唐船主たちが航海安全を祈願して祀ったものです。堂内の仏像仏具類は、中国人名匠の手によるもので、明朝末期の貴重な物です。
第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定されています。三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門は国の重要文化財に指定されています。他にも県指定有形文化財が3つ、市指定有形文化財が6つある文化財の宝庫になっています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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聖壽山崇福寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数え上げられています。寛永6年(1629)長崎に居留していた中国福建省の人たちが故郷の僧超然を迎えて創建しました。
中華様式の唐寺としては日本最古のお寺で、福建省の出身者が多いため福州寺といわれました。近くの興福寺は南京出身者が多いため南京寺といわれました。
長崎の唐寺の特色は媽祖堂(まそどう)をもっていることです。媽祖は海の神様であり、当時、唐船主たちが航海安全を祈願して祀ったものです。堂内の仏像仏具類は、中国人名匠の手によるもので、明朝末期の貴重な物です。
第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定されています。三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門は国の重要文化財に指定されています。他にも県指定有形文化財が3つ、市指定有形文化財が6つある文化財の宝庫になっています。
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長崎県長崎市寺町にある興福寺の三江会所門です。
興福寺にある三江会所門(さんこうかいしょもん)は江南、浙江、江西の3省出身者が明治初期に設立した集会所の門です。明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まると、中国の3省出身者が霊を祀る三江祠堂を建て、明治13年)三江会所を設置しました。原爆で大破して、今は門だけが現存しています。
中国の3省出身者にとって興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもありました。三江会所門は中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物です。門扉を中心に左右に丸窓を配しています。肘木(ひじき)、紅梁(こうりょう)、彫刻など細部は純中国式です。
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興福寺にある三江会所門(さんこうかいしょもん)は江南、浙江、江西の3省出身者が明治初期に設立した集会所の門です。明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まると、中国の3省出身者が霊を祀る三江祠堂を建て、明治13年)三江会所を設置しました。原爆で大破して、今は門だけが現存しています。
中国の3省出身者にとって興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもありました。三江会所門は中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物です。門扉を中心に左右に丸窓を配しています。肘木(ひじき)、紅梁(こうりょう)、彫刻など細部は純中国式です。
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長崎県長崎市寺町にある興福寺の鐘鼓楼です。
鐘鼓楼は、寛文3年(1663)の大火の後、元禄4年(1691)に五代悦峰禅師により再建された堂宇です。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれていました。梵鐘は戦時中に供出して今はありません。1階は禅堂として使用されました。
2階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、花頭窓が四方に開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県の有形文化財に指定されています。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神になっています。
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2階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、花頭窓が四方に開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県の有形文化財に指定されています。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神になっています。
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長崎県長崎市寺町の興福寺にある旧唐人屋敷門です。
旧唐人屋敷門は天明4年(1784)の唐館全焼の大火以降の唐人の住宅門と推定されています。この門には中国特産の広葉杉が使われていて、建築様式も中国式特有のものです。扉は二重で、内門は貴人来臨専用となっています。昭和35年(1960)、唐人屋敷に遺存した門は興福寺に移築されました。
元禄2年(1689)十善寺郷に1万坪の広大な唐人屋敷ができました。来泊唐人の民宿が禁じられ、皆このここで居住するようになりました。 旧唐人屋敷門はこの時代の遺構として国の重要文化財に指定されています。
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元禄2年(1689)十善寺郷に1万坪の広大な唐人屋敷ができました。来泊唐人の民宿が禁じられ、皆このここで居住するようになりました。 旧唐人屋敷門はこの時代の遺構として国の重要文化財に指定されています。
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長崎県長崎市寺町にある興福寺の媽姐堂です。
興福寺の媽姐堂(まそどう)は天海司命堂と呼ばれています。寛文3年(1663)の市中大火で焼失し、寛文10年(1670)頃、再建された興福寺最古の堂宇です。本尊は、天后聖母船神で、脇立は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳です。建築様式は和風を基調とし、内外総朱丹塗り、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根式天井など唐風も見られる建物です。
媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。中国宋代の福建省にあった土俗的信仰でしたが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られたそうです。船が港に在泊中、媽姐像は船から揚げられ媽姐堂に安置され、航海安全を祈りました。長崎における唐寺は最初、媽姐堂として発足したようです。
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媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。中国宋代の福建省にあった土俗的信仰でしたが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られたそうです。船が港に在泊中、媽姐像は船から揚げられ媽姐堂に安置され、航海安全を祈りました。長崎における唐寺は最初、媽姐堂として発足したようです。
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長崎県長崎市寺町にある興福寺の本殿です。
興福寺本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。本堂は寛永9年(1632)黙子如定が建立しましたが、寛文3年(1663)の市中の大火で焼失。再建されましたが、慶応元年(1865)の暴風で大破、明治16年(1883)新築されました。
雄大な重層切妻造りで、国の重要文化財に指定されています。すべて中国技術者の手による純中国建築で、資材も中国より運送して建造されたそうです。柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻されています。氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しく、中国南方建築の代表作とされています。
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雄大な重層切妻造りで、国の重要文化財に指定されています。すべて中国技術者の手による純中国建築で、資材も中国より運送して建造されたそうです。柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻されています。氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しく、中国南方建築の代表作とされています。
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長崎県長崎市寺町の興福寺にある中島聖堂遺構大学門です。
中島聖堂(長崎聖堂)は東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともには、日本三聖堂のひとつに数え上げられています。中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれ、長崎奉行の保護下で隆盛を極めました。昭和34年(1959)杏檀門保存のために興福寺に移築されました。門扉に大学章句の一節が彫ってあるので、大学門と呼ばれています。
中島聖堂は、正保四年(1647)に儒学者・向井元升(げんしょう)が後興善町に孔子廟及び学舎を開いたことに発します。火災などで一時衰退しましたが、元升の子元成が京より帰来し再興させました。宝永7年(1710) 伊勢町の旧鋳銭所跡(中島銭座)に移り、翌年再建されました。
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中島聖堂(長崎聖堂)は東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともには、日本三聖堂のひとつに数え上げられています。中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれ、長崎奉行の保護下で隆盛を極めました。昭和34年(1959)杏檀門保存のために興福寺に移築されました。門扉に大学章句の一節が彫ってあるので、大学門と呼ばれています。
中島聖堂は、正保四年(1647)に儒学者・向井元升(げんしょう)が後興善町に孔子廟及び学舎を開いたことに発します。火災などで一時衰退しましたが、元升の子元成が京より帰来し再興させました。宝永7年(1710) 伊勢町の旧鋳銭所跡(中島銭座)に移り、翌年再建されました。
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